335話:(1886年・冬)理をもって血を鎮めよ
冬の空は、鉛を溶かして刷いたように重かった。
京城の城壁の上を、北からの乾いた風が鳴いて渡る。烽火台の旗は裂け、薄い雪が石畳の継ぎ目に白い筋を残している。官庁街の通りは夜明け前の静けさに包まれていたが、その静けさは眠りではなく、何かが膨らみ切る直前の張り詰めた沈黙だった。
総督府の執務室では、油灯が低く揺れていた。
西郷隆盛は地図台に身を乗り出し、赤鉛筆で印をつけた地点をひとつずつ確かめる。印の多くは日本人居留地、日本語学校、親日派官吏の宿舎、そして鉄道工事の資材集積所に重なっている。部屋に入ってきた藤村義信が、その赤点の密度に目を細めた。
「……動きが、濃いですね」
「二週間、忍んで見ておったがの。」
隆盛は短くうなずく。「夜毎に密会の報、地方で銃の火。清からの金は細ったが、根っこが残っとる。いまは根切りの機会じゃ。」
義信の隣に立つ秋山好古は、無駄のない筆致で紙片に要点を写し取り、袖口から覗く腕時計に目を落とした。外の空気の変化を、彼は風の匂いで読む。廊下の先で、衛兵の靴音が微かに増えた。
「今夜か、明け方か。」
秋山の言葉に、隆盛は地図台から顔を上げた。
「どちらでもよか。こちらは、腹を据えた。」
義信は一歩前に出た。
「総督、こちらの訓練生は、まだ基礎課程の半ばです。戦闘投入は避け、後方支援と通訳に限ります。住民へ投降勧告を朝鮮語で流す準備はできています。」
「理に適う。」
隆盛は頷き、目を細めた。「無用の血を、極力流すな。じゃが、刃を抜いた以上、収めるまで迷うな。」
窓格子の向こうで、遠い太鼓が低く連なるように響いた。義信と秋山の視線が、同時に窓へ向かう。夜の底を裂くように、どこかで銃声が一つ、乾いた音を置いた。
「始まった。」
秋山は手短に号令を出す。「連絡班、持ち場へ。伝令は電信室を支援。各小隊、警固対象へ移動開始。」
義信は軍用地図を畳むと、電信室へ向かう廊下を速歩で進んだ。廊下の梁が低く、油灯の炎が足元の影を長く引く。電信室の扉を押し開けると、モールスの点滅音が既に混み合い、空気は熱で薄くなっていた。
「送信順をまとめろ。」
義信は受信紙に走る点線を読みながら、短く指示を飛ばす。「第一報、各駐屯地へ同報。――『蜂起確認。標的は居留地・学校・官吏宿舎・総督府。各所防御、無差別射撃を禁ず。指導者拘束を最優先。住民の避難誘導は朝鮮語勧告を用いよ』」
「了解!」
鍵を打つ音が乱打のように続く。釜山局から「受領」、平壌局から「受領」の返電がほぼ同時に重なった。義信は息を吐き、次の文面をしたためる。「救護班配置、火災延焼防止を最優先――」
その時、総督府の外庭で叫声が上がった。
電信室の床が一瞬震え、窓硝子がかすかに鳴る。扉を蹴破る音、刃物が鞘を離れる鈍い響き、そして混ざり合う怒号。義信は秋山を振り返った。
「外へ。」
秋山は頷き、抜き打ちで剣帯を確かめる。「総督の近衛は?」
「第三分隊が回した。私は内庭の避難導線を開く。」
二人は短く目を合わせ、互いの動きの先を読み合った。言葉は要らなかった。
回廊を駆け抜けると、夜気の冷たさが肺を刺した。総督府の正門側で爆ぜる音、続いて火の匂い。門扉に殺到する黒い影の群れ、その一部は松明を掲げ、別の一部は粗造な銃を構える。見張り台からの警笛が重なり、石段の上で守備兵が散開した。
「弾幕は薄く、狙いを定めて打て!」
秋山の声が荒れた空気を切り裂く。至近距離の射撃を嫌って、彼は兵を半身に開かせ、射線を交差させた。初撃で数人が倒れ、先頭の勢いが一瞬鈍る。その刹那、裏庭側から別動の気配。義信は内庭の角を切り、影が回り込む細い通路に飛び込んだ。
「そこは通さない!」
廊の陰に潜んでいた衛兵が叫び、槍の石突きで先頭の足を払う。義信は退路の障子を蹴り倒し、避難路の戸板を持ち上げた。そこへ、背後から火の粉が吹き込む。屋根伝いに火矢が刺さり、藁の棟が小さく悲鳴を上げた。
「消火桶! 人員を三名回せ!」
命令が通る。訓練生の若者が二人、青ざめた顔で桶を担いで駆け込んできた。義信は一瞬だけ彼らの目を見る。「最前線へは出るな。ここを守れ。――朝鮮語の勧告文は?」
「できています!」
若者は震える手で紙片を掲げる。義信は受け取り、門外へ向けて声を張り上げた。
「――武器を捨てろ! 今すぐなら命は助かる。家族を思え、退け!」
朝鮮語の言葉が、炎と血の匂いの中を渡っていく。刹那、ためらう影が三つ四つ、足を止めた。後ろから怒号が飛び、ためらった者たちが押し戻される。諫めを殺すのは、いつも怒りだ。義信は歯を食いしばり、もう一度声を張る。
「お前たちの主君は来ない。清からの援けはない。生きろ――退け!」
門外の喧噪が一瞬だけ沈み、すぐまた荒れた。交互に鳴る銃声の合間、秋山の短い号令が何度も重なる。彼は敵の輪の継ぎ目を見抜き、瞬時に小隊を角へ送って楔を打つ。攻勢の波が分断され、押し寄せる力が散る。
その刻、内庭の脇戸が開き、土埃にまみれた従者が転がり込んだ。
「総督府が――襲撃されています!」
言葉の続きは、庭石に砕けた火縄銃の残骸の音に飲まれた。背筋に冷たいものが走る。義信は秋山と視線を合わせ、一瞬で判断を分け合った。秋山は正門の圧を削り、義信は内側の導線を確保する――それが最善の分業だった。
十分、二十分――時間の感覚が擦り切れる。
ようやく正門側の怒号が引いていく。外塀際の影が少しずつ薄れ、火の粉だけが空へ舞った。秋山の部隊が前へ出て、残敵の腕をひとりずつ捻じ上げる。義信は消火と避難の確認を終えると、血の匂いの濃い廊下を抜け、執務棟へ戻った。
廊の角で、隆盛が立っていた。
大きな体が、さっきより一回り小さく見えた。胸元の袷に赤い筋が二本、乾き始めている。目は静かで、底に暗い火が沈んでいた。
「……やることは、分かっとる。」
短い声だった。「夜が明けたら、指を指す者らから、ひとりも逃がすな。じゃが、無闇に斬るな。――わしも、取り乱さん。」
義信は黙ってうなずいた。すぐに振り返り、電信室へ戻る。送信文は簡潔だった――蜂起確認、各駐屯地即応、標的は指導者と武装拠点、住民避難と火災抑止最優先。鍵の打音がまた重なり、点と線が光の筋のように紙上を走る。
夜が割れ、東の空が白む。
氷のように凍りついた路面に、陽が細く刺す。総督府の門の前には、折れた槍、焦げた松明、血で黒ずんだ雪が残った。生者だけが立ち、息を白く吐く。風が変わった――冬の匂いが、鉄よりも土の匂いに近づく。
義信は拳を握り、掌に感じた小さな痛みで自分を現実へ引き戻した。
「通信は生きている。各地も動き始めた。――ここからは、刻で決める。」
秋山が横に立つ。いつもの無駄のない調子で言う。
「まず、城下の四角を押さえる。指導者の逃げ道を潰す。住民への勧告は継続。最終判断は総督と貴殿で。」
義信は頷き、短く言葉を返した。
「理を貫く。刃は、必要な場所にだけ。」
凍てついた空気の中で、鐘が静かに三度、城内へ響いた。
蜂起の朝が来た。
血と火と理性とが、同じ場所に立たされる朝が。
夜が明けると同時に、煙の匂いが街を包んだ。
ソウルの城下では、焼け焦げた屋根から細い煙が立ち上り、街路の石畳には黒い煤が線を引いていた。
鉄砲の音は、もう散発的にしか聞こえない。だが、油断はできなかった。蜂起の火は一度鎮まっても、どこかで再び燃え上がる。
西郷隆盛は、総督府の庭で指揮所を設けた。
昨夜の戦闘で次弟・吉二郎と四男・小兵衛を失ったと報告を受けたが、彼は一言も発さなかった。
ただ、火傷の跡が残る拳を膝に押しつけ、じっと地図を見下ろしていた。
「……義信殿。」
低い声で呼ばれ、義信が一歩進み出た。
「ここを生かすか、殺すかは、今朝の動きで決まる。」
秋山好古が進み出る。
「敵は三方向に分かれました。北の両班屋敷、南の市場、そして城外の河岸です。規模は合わせて五百ほど。」
「主導者は李東仁。昨夜、居留地を襲ったのも奴の指示です。」
隆盛は無言で地図に指を走らせ、印を三つ打った。
「南は焼ける。民の避難が最優先じゃ。北は切れ。東は……逃がすな。」
義信は深く頷き、すぐに通信士へ命じた。
「第一、第二、第三分隊に伝えろ。各区域の包囲を開始。住民保護優先、無差別射撃を禁ず。」
「了解!」
モールスの鍵が、再び鋭い音を刻む。
紙上を走る点と線が、命令の血管のように国の隅々へ広がっていく。
釜山、平壌、仁川、すべてが一斉に応答。軍事通信網の威力は、もはや戦の形を変えていた。
――
義信と秋山は、南の市場通りへ向かった。
瓦礫の上を越え、焦げた旗を踏みながら前へ進む。
「敵、百五十。市街地に籠もっています!」と先頭の士官が報告した。
「射撃は控えろ。」義信が即座に返す。「民家を盾にしている。――秋山殿、裏手から包めますか。」
秋山は煙の向こうを一瞥した。
「路地が三本、川に抜けます。突入口を封じれば、あとは時間の問題。」
「頼みます。」
秋山の部隊が側面を回り、静かに路地へ入り込んだ。
訓練で鍛えた歩調は乱れず、銃口の向きが揃う。
狭い路地に足音が響くたび、敵の動きが読めた。
「三時の方向、十人――撃て!」
短い号令。轟音。壁が崩れ、塵が舞う。
義信はすぐに民家側へ走り、朝鮮語で叫んだ。
「民家の者はその場を離れろ! 安全区は南門外だ!」
老婆が泣きながら走り出る。子供を抱えた男が後ろを振り向く。
その視線の先で、親清派の若者が銃を構えていた。
秋山が一瞬早く引き金を引いた。
「……理性を持て」
その言葉は、自分に言い聞かせたものだった。
――
一方、北の両班屋敷では西郷隆盛が自ら指揮を執っていた。
弟を殺された怒りはまだ冷めていない。
だが、彼の声は静かだった。
「首謀者のみを討て。民に刃を向けるな。」
士兵たちが突入し、屋敷の奥に潜んでいた李東仁を引きずり出した。
男の顔は煤で汚れ、目だけが異様に光っていた。
「清国が来る! 日本は滅びる!」
西郷は何も言わず、ただその言葉を聞いていた。
そして、ゆっくりと背を向けた。
「牢に入れろ。」
――
正午、義信の報告が届いた。
「市場鎮圧完了。市民の避難率八割。火災鎮火中。」
西郷は地図から目を離し、低く言った。
「……これで、城は持った。」
秋山が帽子を脱ぎ、深く礼をした。
「犠牲は出ましたが、最小限に抑えました。戦死三十、負傷六十。敵方の死者五十、捕縛百八十。」
義信は目を伏せた。
「……それでも、多すぎます。」
隆盛は頷き、静かに言った。
「そう思う心を、失うな。
この戦は勝っても、心を失えば国を滅ぼす。」
その言葉に、秋山も義信も、深く頭を垂れた。
外では鐘が鳴っていた。
その音は、ようやく訪れた静寂の始まりを告げていた。
翌朝。
京城の空は澄み、昨夜の煙が嘘のように晴れていた。
だが、総督府の中庭には、鎮火したばかりの焦げた匂いがまだ残っている。
義信は報告書を手に、歩みを止めた。
焼け落ちた倉庫の前に、秋山が立っていた。
その横には、捕縛された親清派の指導者・李東仁が膝をついている。
「朝まで抵抗していた。」秋山が言った。
「最後まで、自分が正しいと信じていたようです。」
義信はその男の前にしゃがみ、静かに問いかけた。
「……何のために戦った。」
李は唇を吊り上げた。
「国を売る者を殺すためだ。貴様らは我らの誇りを奪った。」
義信は目を閉じた。
その声には、怒りではなく、燃え尽きた者の空虚があった。
「……誇りを守るために、子を失った女を見たことがあるか。」
李は何も答えなかった。
背後で、秋山が短く言う。「そろそろ時間です。」
義信は立ち上がり、静かに命じた。
「この者は、拘置の上、軍律会議に回せ。拷問も見せしめも不要だ。」
秋山が頷く。「了解。」
――
義信が執務棟に戻ると、西郷隆盛が椅子に腰を掛けていた。
昨夜の負傷は包帯で覆われているが、瞳は澄んでいた。
「済んだか。」
「はい。首謀者は拘束。主要拠点も鎮圧。通信線、生きています。」
「そうか。」
隆盛は深く息を吐いた。「……ならば、これでよか。」
義信は黙って立ったまま、窓の外を見た。
そこには、兵士たちが静かに行進する姿と、瓦礫を片付ける市民の姿があった。
日本の旗が朝日に揺れ、瓦の破片に光が反射している。
その光景は、どこか取り返しのつかない静けさを孕んでいた。
「総督。」
義信は低く問う。「この街を、どうされますか。」
隆盛はしばらく沈黙し、答えた。
「焼け跡の下にも、人の暮らしは残っとる。わしらはそれを壊した。……ならば、立て直す責は、わしらが負う。」
義信はその言葉に深く頭を下げた。
それは命令ではなく、贖いのような響きを持っていた。
――
午後。
秋山好古は、部下を率いて市街の警備に当たっていた。
空には薄雲がかかり、冷たい風が吹き抜ける。
彼は立ち止まり、遠くに見える鐘楼を眺めた。
鐘の音が、昨日の銃声と重なるように響いた。
「……この国にも、いつか騎兵の音が響く日が来る。」
呟きは誰にも聞こえなかった。
それは、ロシア最強の騎兵を破った男の、未来への予感でもあった。
そして、義信が後に語ることになる。
――「あの朝、私たちは勝った。だが、心は一歩も進まなかった」と。
勝利とは、国を守ることではない。
人を救う理を、最後まで手放さぬこと。
その信念だけが、義信をこの地獄の中で支えていた。
翌日、総督府の議事堂には、朝の光が静かに差し込んでいた。
夜通しの査問が終わり、親清派の指導層はすべて拘束された。
西郷隆盛は軍律会議の席に座ったまま、長く動かずにいた。
判決文には「死刑」「流刑」「保釈」と並ぶ文字が並び、墨の香がまだ新しい。
「総督、最終確認をお願いします。」
書記官の声に、西郷はゆっくりと筆を取った。
「……血で国を繋げば、いずれまた血で裂ける。」
その言葉とともに、彼は判を押した。
死刑五名、終身刑十二名、赦免三名――それが隆盛の下した、ぎりぎりの“理性の裁き”だった。
義信はその光景を黙って見つめていた。
秋山好古は扉のそばに立ち、帽を胸に抱いていた。
「情と理、両立させるのは難しいですな。」
秋山がぼそりと呟く。
義信は静かに答えた。
「それでも、人が国を動かす以上、どちらかを捨てれば国が壊れる。」
隆盛が顔を上げた。
「……藤村、秋山。おぬしたちの働き、わしは忘れん。」
そう言って立ち上がると、二人の肩に手を置いた。
「この戦は、勝ったとは言えん。じゃが、これ以上の敗北もない。――それでよか。」
義信は深く頭を下げ、秋山も無言で敬礼を送る。
それは軍礼ではなく、人としての敬意だった。
――
午後、義信は通信室に戻り、電信文をまとめていた。
宛先は東京――外務省・内務省、そして明治政府中枢。
文面は短く、簡潔だった。
『京城鎮定、蜂起終息。指導者拘束、住民保護完了。被害甚大。
然れど、日本人・朝鮮人ともに、報復行為なし。
総督、理を以て処断す。』
送信キーを押すと、モールスの音が淡く響いた。
それは戦いの終わりを告げる音ではなく、責任の始まりを知らせる音だった。
外に出ると、風が冷たかった。
焦げ跡の残る街の向こうで、子どもたちが瓦礫を片付けている。
その横で、日本の兵士が一緒に手を貸していた。
義信はその姿を見つめ、胸の奥が少しだけ温かくなった。
――
日が傾く頃、秋山が馬にまたがっていた。
部下が敬礼を送る。
「大尉、次は釜山駐留とのことですが――」
「行くさ。」
秋山は淡く笑った。
「戦が終わっても、馬は走る。人の愚かさも、希望も、どちらもな。」
義信が歩み寄った。
「秋山大尉。あなたの助力がなければ、私はこの戦を乗り越えられなかった。」
「……いや、助けられたのはこちらだ。」
秋山は手綱を軽く引きながら言った。
「おぬしのような者が、将来この国を変える。
騎兵よりも速く、強く、理で動く者が。」
馬蹄の音が、夕陽の中に溶けていった。
それはやがて、歴史の彼方に響く――
ロシア最強の騎兵を破る“日本騎兵の父”の足音へと繋がっていく。
――
夜。
隆盛は書斎にひとり残り、義信からの報告書を読んでいた。
ふと、机の上の蝋燭が揺れ、炎の向こうに亡き弟たちの顔が浮かぶ。
「……これが、維新の続きなら、わしはまだ生きねばならんの。」
その呟きは誰にも届かず、ただ静かに夜に沈んでいった。
義信は遠く離れた宿舎の窓辺で、同じ空を見上げていた。
手の中には、一枚の紙が握られている。
――「理は血を越え、人を救うためにある。」
それは、彼自身が書き記した決意の言葉だった。
京城の空に、冬の星が滲んでいた。
戦の煙が消え、静けさだけが残る。
その静けさの中で、日本と朝鮮の未来が、かすかに息をしていた。
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