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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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334話:(1886年・冬)理を掲げて海を渡る

冬の空は鉛色だった。

 江戸港には冷たい風が吹きつけ、波止場の旗が音を立てて翻っていた。

 吐く息が白く立ちのぼり、海面には薄氷が光を返している。


 藤村義信は軍服の襟を正し、港の中央に停泊する軍艦「常陸丸」を見上げた。

 その艦は、彼を異国へ運ぶ鋼鉄の道であり、同時に若き理想を試す試練の船でもあった。


 「義信。」


 背後から声がかかった。

 振り向くと、父・藤村晴人が立っていた。黒い外套の襟を立て、厳しい冬の陽を背にしている。


 「お前一人では荷が重い。」


 晴人は静かに言葉を続けた。

 「秋山好古を補佐に付ける。彼はまだ二十六歳だが、実戦と組織、両方を知る男だ。」


 その名を聞いた瞬間、港の空気が少しだけ張りつめた。

 秋山好古――のちに“日本騎兵の父”と呼ばれる人物。

 日露戦争で世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵隊を撃破し、日本騎兵史にその名を刻むことになる。

 だがこの時は、まだ無名の青年将校にすぎなかった。

 冷静沈着で、己を誇らず、ただ任務を遂行する職人のような軍人である。


 秋山は静かに一歩進み出た。

 鋭い眼光と無駄のない所作。軍人というより、静かな熱を秘めた策士のようだった。


 「義信様、実務は私にお任せください。」


 「秋山殿、お願いします。」


 義信の声はまだ少年の響きを残していたが、その瞳には恐れの色はなかった。


 藤村はふたりを見渡し、わずかに目を細めた。

 「計画は義信が、実務は秋山が担え。だが――理性を失うな。戦は力で終わらせず、理で鎮めるものだ。」


 その一言が、潮風の中で鋭く響いた。


 出発前、官邸で最後の打ち合わせが行われた。

 書斎の机の上には、朝鮮半島の地図と通信線の設計図が広げられている。


 「今回の目的は、軍事力の誇示ではない。」

 晴人が指先で地図をなぞる。

 「西郷隆盛総督の方針に沿って、理性の統治を支える“仕組み”を作ることだ。」


 義信は頷いた。

 「通信網と訓練制度を確立します。」


 「うむ。」

 晴人は軽く息を吐き、机の上の一枚の紙を取り上げた。

 それは秋山が提出した、軍事通信計画の概要だった。


 第一区間――京城から釜山まで。六ヶ月で完成見込み。

 第二区間――京城から平壌へ。

 第三区間――全域の統合運用。


 晴人は紙を折り、義信に手渡した。

 「人を信じ、仕組みを信じよ。だが、その仕組みの上に“血”を流させてはならん。」


 義信は深く一礼した。

 「……はい。」


 出発の朝、港の空気は張りつめていた。

 艦の汽笛が響き、白い煙が立ちのぼる。

 岸壁には西郷従道の姿もあった。

 朝鮮副総督として兄・隆盛の現地統治を補佐しており、この日は一時帰国の合間に、義信と秋山を見送りに来ていた。


 「若いな。」

 従道は穏やかに笑み、義信の肩を軽く叩いた。

 「だが若さは剣だ。恐れるな、理を貫け。」


 「はい。」


 「兄は京城に留まり、職務に当たっている。私もすぐ戻る。君らの到着を伝えておこう。」


 そのやりとりを見ていた秋山が、低い声で告げた。

 「義信様、乗艦の準備が整いました。」


 晴人は二人を見つめ、わずかに眉を下げた。

 「お前たちに任せる。……だが、命だけは置いてくるな。」


 「承知しました。」

 義信は敬礼した。


 その瞬間、空が鳴った。

 軍艦の汽笛が港じゅうに響き渡る。潮風に混じって、鐘の音が微かに重なった。

 藤村は目を細め、静かに呟いた。


 「行け。――理を持って、血を止めろ。」


 常陸丸が港を離れる。

 波が船腹に打ち寄せ、泡が音を立てて消えていく。

 甲板の上、義信は振り返り、父の姿を探した。


 岸壁の向こう、藤村はただ一人、帽子を脱いで立っていた。

 冬の陽が彼の肩を照らし、その影が長く伸びていた。


 「……父上。」


 義信は呟き、拳を胸に当てた。

 秋山が隣で軽く頷く。

 「行きましょう。波が荒くなる前に。」


 「秋山殿。」


 「はい。」


 「あなたは戦を知り、私は理を学びました。この二つを合わせて、誰も傷つかぬ戦を作りたい。」


 秋山の目が少しだけ驚きに見開かれ、すぐに穏やかに細まった。

 「……そういう言葉は、戦場では滅多に聞けませんな。だが――嫌いではない。」


 二人の視線が交わった。

 船はゆっくりと沖へ向かい、やがて江戸の港が遠ざかっていく。

 その背後で、白い波がひとつ、ふたつ、音もなく砕けて消えた。


 船内の士官室。

 義信は机に地図を広げ、秋山と共に作業を進めていた。


 「まずは通信線の敷設地点を確定します。」

 秋山が指で地図上の線をなぞる。

 「地形と資材輸送を考えると、京城―釜山が最優先。地中線と露出線の併用で、コストを抑えつつ復旧性も確保できます。」


 「……通信網は戦だけでなく、農業にも役立つ。情報が早ければ、飢饉も防げる。」


 「なるほど。父上の教えを踏襲しておられる。」

 秋山が静かに頷く。

 「理屈を通すには、まず線を通さねばなりません。」


 義信は小さく笑った。

 「“理屈を通すには線を通せ”――いい言葉ですね。」


 秋山は肩をすくめた。

 「軍人は理屈より線が得意でして。」


 二人の間に、わずかな笑いが生まれた。

 だがその直後、外から突風が吹き込み、窓が激しく揺れた。

 黒い雲が海の彼方に渦を巻いている。


 秋山が窓の外を見やり、呟いた。

 「嵐が来ますな。」


 義信はその言葉を聞きながら、静かに窓の外を見つめた。

 「……嵐は、いつも理を試す。」


 その声は低く、しかし確かに響いた。

 嵐の先には、朝鮮の大地が待っている。

 理を掲げ、血を止めるための戦いが、今始まろうとしていた。

海を渡ること四日。

 冬の朝鮮海峡は、氷の刃のように冷たかった。

 荒れた波が船腹を叩き、甲板には霜が張りつく。

 常陸丸が釜山港へ入るころには、朝霧が薄く立ちこめ、港の屋根は白く凍っていた。


 「……これが、朝鮮ですか。」

 義信は船縁から身を乗り出し、港の街を見渡した。

 瓦屋根の上に煤が積もり、人影はまばらだった。

 木造の家々の隙間を、煙のような寒気が流れていく。


 秋山が無言で頷いた。

 「厳しい土地ですな。だが、人の営みは日本と変わらぬ。」


 岸壁には西郷隆盛が立っていた。

 黒い外套の裾を風に揺らし、その姿は嵐の前の山のように動かない。

 六年に及ぶ朝鮮統治。その重圧を全て背負う男の顔には、深い皺と静かな光があった。


 「よう来たな。」

 西郷の声は低く、地の底から響くようだった。

 「藤村殿の息子どんか。――そして秋山殿。」


 「お久しぶりです、総督。」

 秋山が敬礼し、義信もそれに倣う。


 西郷は笑みを浮かべたが、その瞳に疲労が宿っていた。

 「この地は、まだ安らいどらん。親清派が残っと。暴動も、暗殺も、まだ絶えん。」


 義信は短く息をのんだ。

 「……報告で聞いています。」


 西郷は歩きながら、城下へ続く坂道を指さした。

 「ほれ、あれが京城けいじょうじゃ。」

 灰色の空の下に、瓦屋根が連なり、遠く王宮の塔が霞んで見える。

 「この六年、ようやっと“秩序”だけは作れた。だが心はまだしんに縛られとる。」


 義信はその言葉に沈黙した。

 秋山が横で小声で言う。

 「清国が敗れた今こそ、変化の時です。」


 西郷は首を振った。

 「変化は早ければ壊れる。理で治めるのは、血よりも骨が折れるものじゃ。」


 城門をくぐると、衛兵たちが一斉に敬礼した。

 日本人と朝鮮人が混ざり、制服の色もまちまちだ。

 西郷が目をやると、兵たちは姿勢を正したが、どこかに不安の影があった。


 「親清派が混じっとる。」

 西郷は低く言った。

 「そげん者らは、表では従順にしとるが、夜は誰と会うかわからん。」


 「その統制を――我々で引き継ぎます。」

 義信がまっすぐに答えた。


 「おう。若かが、目がええ。」

 西郷は笑みを浮かべた。

 「戦うんじゃなか。育てるんじゃ。こげな地では、理と忍がなければ持たん。」


 義信は深く頭を下げた。

 「承知しました。父も同じ言葉を申しておりました。」


 「藤村殿らしか。」

 西郷の表情がわずかに和らいだ。

 「わしが若か頃、あの人のような役人が薩摩におったら、西南の乱は違うたかもしれん。」


 沈黙が落ちた。

 遠くで凍った鐘が鳴り、音が乾いた風にちぎれて消えた。


 西郷は歩を進めながら言った。

 「この地では“言葉”もまた武器になる。通訳を介せば、心が半分しか伝わらん。

  秋山殿、訓練生には日本語を徹底させてくれ。」


 「了解しました。」

 秋山の声には、いつもの抑揚のない冷静さがあった。

 「理屈を通すには、まず言葉を通さねばなりません。」


 西郷はその言葉に一瞬目を細め、笑った。

 「ほう……あんたも、藤村殿と同じことを言うのか。」


 義信は二人のやり取りを見つめながら、小さく拳を握った。

 理で治める――その言葉の意味を、今ようやく肌で感じていた。

 力ではなく、理性で。恐怖ではなく、信頼で。

 それは簡単な道ではない。だが、選ぶ価値のある道だった。


 夕刻。

 京城の総督府に到着すると、雪がちらつき始めた。

 瓦の上に積もる雪が音もなく落ち、街の灯が淡く滲んでいる。


 西郷は窓辺に立ち、外を見ながら言った。

 「この雪が溶ける頃、親清派はまた動く。清国の残り火が、まだ消えとらん。」


 義信は頷いた。

 「通信網の敷設を、すぐに始めます。情報の遅れが、混乱を招いています。」


 「それができれば、血を流さずに済むかもしれん。」

 西郷の声にはわずかな希望があった。

 「秋山殿、兵の訓練は頼むぞ。」


 「承知しました。」

 秋山の返答は短く、しかし確信に満ちていた。


 その夜、義信は執務室の片隅で日誌を開いた。

 《京城着任。西郷総督、健在。統治未安。親清派活動継続。通信網計画、明日より着工。》

 筆先が震えていた。寒さのせいではない。

 書きながら、義信は思った。


 ――理を貫くというのは、戦うことよりも難しい。

 だがそれこそが、父と西郷が託した“文明”の形なのだ。


 灯の明かりが静かに揺れた。

 外では雪が降り続き、夜の京城を白く包み込んでいった。

翌朝。

 雪が溶けぬまま凍りつき、総督府の庭に白い筋を描いていた。

 義信は外套を羽織り、秋山と共に軍事通信局の仮設事務所へ向かった。


 京城の街はまだ眠っている。

 早朝の寒気が肺を刺し、吐く息が霧のように漂った。

 路地裏には薪を焚く煙が立ちのぼり、子どもたちの笑い声も聞こえない。


 「ここが、通信網の起点になります。」

 秋山が手に持った地図を広げた。

 「京城から釜山まで、およそ五百キロ。平野部はいいですが、山岳地帯が厄介です。」


 義信は地図の上に指を走らせ、険しい等高線の部分で止めた。

 「山を避けては線が遅れます。だが、通さなければ意味がない。」


 「……戦場の地形選定と同じですな。」

 秋山は口元に微笑を浮かべた。

 「障害が多いほど、通した後の価値は高くなる。」


 義信は頷いた。

 「“理屈を通すには線を通せ”。あなたの言葉、胸に刻んでいます。」


 秋山が軽く肩をすくめた。

 「私は線を通すだけです。理を通すのは――あなたの役目です。」


 その会話の背後で、工兵たちが凍てつく地面を掘り起こし始めた。

 つるはしの音が乾いた空気を裂き、鉄線が巻き取られていく。

 わずかに立ちのぼる湯気の向こうで、朝日が街を照らし始めていた。


 やがて、現地の朝鮮人労働者が数十名、訓練服を着て並んだ。

 西郷の指示で徴募された者たちだ。

 彼らの顔には警戒と不信が入り混じっていた。


 「彼らは、まだ“日本”を信用していません。」

 秋山が低く言った。

 「だが、彼らを敵と見るべきではない。」


 義信は静かに歩み出て、一人ひとりの顔を見渡した。

 「この工事は、誰のためでもない。

  ここで働く人々が、遠く離れた家族と声を交わせるようにするためのものです。」


 通訳を通して言葉が伝えられると、列の中にざわめきが走った。

 ひとりの若者が前に出て、帽子を取りながら言った。

 「……清国の線ではなく、日本の線ですか?」


 「そうです。」

 義信ははっきりと答えた。

 「清国の線は、王だけに繋がっている。

  日本の線は、民に繋がる。――その違いを、見せてください。」


 若者は一瞬目を伏せ、やがて深く頭を下げた。

 「わかりました。」


 その短いやり取りに、秋山はわずかに目を細めた。

 「見事ですな。理屈より、誠意が通った。」


 義信は息を吐いた。

 「……理屈は、心が通っていなければ届かないんです。」


――


 数日後、総督府の訓練場では、新たな人材育成の準備が始まっていた。

 西郷の提案によって、親日派の若者を軍人として育てる方針が立てられたのだ。


 「五百名の志願者から百名を選抜します。」

 秋山が名簿を手に報告した。

 「基礎体力、日本語能力、そして――覚悟。

  家族の思想は問わないと閣下が仰ったそうで。」


 「差別を生む選抜は、国家を腐らせます。」

 義信は静かに答えた。

 「我々は清国とは違う。理で治める国です。」


 秋山がうなずき、木製の扉を押し開けた。

 訓練場では、若者たちが整列し、凍てつく風の中で姿勢を正していた。

 雪を踏みしめる音が一斉に響き、義信の心臓の鼓動と重なった。


 「これより選抜を始めます。」

 秋山の声が空に響いた。

 実技、行軍、射撃、そして面接。

 秋山は技を見、義信は目を見た。


 「なぜ日本軍に入りたい?」

 義信が問うと、一人の青年が答えた。

 「清国は我らを見捨てた。日本は村に学校を作ってくれた。

  ならば、私は日本の兵として戦います。」


 義信は短くうなずいた。

 「合格です。」


 選抜は二日間続いた。

 五百名のうち、合格者は百名。

 その顔には疲労と、それ以上の覚悟が宿っていた。


 秋山が報告書を差し出す。

 「訓練生、百名。平均年齢二十一歳。半数が農家出身。

  軍事通信の補助訓練も並行して実施します。」


 義信は頷き、遠くで見守る西郷に視線を向けた。

 総督は腕を組み、黙って訓練生たちを見つめている。

 その瞳には、深い慈しみと、抑えがたい不安が同居していた。


 やがて西郷が歩み寄り、義信の肩に手を置いた。

 「お前たちは、血で支配する国を変えようとしとる。

  その道は、わしが歩いたどの戦よりも険しいぞ。」


 「それでも進みます。」

 義信は迷いなく答えた。

 「父も言いました。理性は刀より重い。だが、それを握らねば人は争い続ける。」


 西郷は静かに目を閉じた。

 「――ほんなら、頼んだぞ。」


 雪が再び舞い始めた。

 凍てつく空気の中で、工事の音と号令が混ざり合い、京城の街に新しい鼓動が響き始めていた。


 通信線はまだ短い。

 だが、その一本の線が国を繋ぎ、人を変える――

 藤村義信は、確かにそう信じていた。

雪が溶け、泥と血の色が混じる季節になった。

 京城の街には、春を告げる風が吹きはじめていたが、その風の中には焦げた煙の匂いが混じっていた。


 通信線の第一区間、京城―水原の敷設が完了した翌日。

 義信と秋山が現場視察を終え、戻ろうとしたその時だった。


 ――銃声。


 空気が裂け、背後の木柱に弾丸がめり込む。

 労働者たちの悲鳴が上がり、馬が嘶いた。

 秋山が即座に義信の肩を押し倒す。


 「伏せろ!」


 乾いた音が二度、三度。

 訓練生の一人が倒れ、血が雪解けの泥に滲んだ。


 「親清派です!」

 伝令が駆け寄る。

 「山側から十数名、銃を携えて!」


 「迎撃を禁止!」

 義信の声が響いた。

 「こちらから撃つな! 捕縛を優先しろ!」


 秋山が眉をひそめた。

 「……藤村様、命令を訂正します。彼らは撤退ではなく、殲滅を意図している。」


 「それでもだ!」

 義信は立ち上がり、前に出た。

 「理で治めると言ったはずだ! 初めに血を流せば、ここは永遠に戦場になる!」


 その言葉が風に消えた瞬間、再び銃声が鳴った。

 義信の頬をかすめ、白い息が凍る。

 秋山が剣を抜き、低く唸った。


 「理では弾を止められません。」


 次の瞬間、秋山が駆けた。

 雪煙の中、彼の動きは獣のように鋭く、無駄がなかった。

 敵の一人を蹴り倒し、銃床を打ち払う。

 続く者を逆手で制圧し、三人目の銃を奪い取る。


 「捕らえろ! 殺すな!」

 秋山の声が響く。

 訓練生たちが一斉に動き、襲撃者を取り押さえた。

 その間、義信はただ一人、倒れた少年の傍に膝をついていた。


 「名前は?」

 「……パク・ヒョンジン、十七歳です。」


 義信は凍える手で彼の頬を支えた。

 「すぐに医務室へ!」


 少年はかすかに笑みを浮かべた。

 「……ニホン、好き……です。」


 そのまま息が途絶えた。

 雪が静かに降りはじめ、血の色を薄く覆っていった。


 秋山がゆっくりと近づき、帽子を取った。

 「――これが現実です。」


 義信は拳を握りしめ、沈黙したまま空を見上げた。

 白い雪が頬を打ち、溶けて冷たく流れる。

 その冷たさが、涙のようにも感じられた。


 ――


 その夜、西郷総督の執務室。

 蝋燭の炎が揺れ、報告書が机の上に広げられていた。

 秋山が淡々と読み上げる。


 「襲撃者十五名、うち死亡七、拘束八。

  被害者四名、うち一名死亡。通信線は損傷軽微。」


 西郷は目を閉じた。

 「またか……血を止めたいと願うほど、血は流れる。」


 義信は沈痛な面持ちで立っていた。

 「責任は、私にあります。武装解除を徹底しすぎました。」


 「いや。」

 西郷は首を振った。

 「お前は正しか。理を通すとは、こういうことじゃ。血を見ても、剣を抜かぬ覚悟や。」


 秋山が静かに言葉を添える。

 「ですが、敵は我々の“理”を試しています。次はもっと巧妙に来るでしょう。」


 西郷はしばらく沈黙し、やがて決断を下した。

 「……秋山殿、義信を守れ。

  この国を理で動かすなら、まず理を守る者を残さねばならん。」


 「承知しました。」

 秋山が敬礼する。


 「義信。」

 西郷が立ち上がった。

 「お前が歩いとるのは、儂らが歩けなんだ道じゃ。

  だが、その道を選んだ者にしか見えん景色もある。」


 義信は深く頭を下げた。

 「……はい。必ず、父の理をこの地に根付かせます。」


 その夜更け。

 義信は書簡をしたためた。

 宛先は、江戸にいる父・晴人。

 《理を信じ、人を信じることの難しさを知りました。

  ですが、私はまだ理を捨てません。》


 外では、春の雪が音もなく降り続いていた。

 その白の中に、義信は確かに――父と同じ光を見た。

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