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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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329話:(1886年・春)軍事通信網の構築

初春の東京は、薄い雲に陽がにじみ、まだ冷えの残る風が官邸の杉戸を鳴らしていた。磨き込まれた床に、地図台の影が長く伸びる。

 藤村晴人は、夜のうちに運ばれてきた報告書の束を閉じ、机の前で背筋を伸ばした。扉の外で足音が止まり、控えの者が襖を引く。


 「失礼いたします」


 入ってきたのは義信。まだ十七の面差しに、凛とした気配をまとっている。肩に掛けた外套から、冷えた空気がひと筋流れ込んだ。


 「父上、分析がまとまりました」


 「聞こう」


 義信は卓上の地図に近寄り、江戸、大阪、九州、蝦夷を朱で結ぶ。指先が線をなぞるたび、紙の下で木の台がかすかに軋んだ。


 「市中の火災で、電信による一斉指揮が効果を上げました。だが一点、致命的な脆さが見つかりました。民間と消防、そして官庁の連絡が同一の線上にあり、負荷が集中すると遅延と混信が生じます。戦時であれば、これだけで指揮は崩れます」


 「混在は、平時の節約にはなるが……有事には毒になる、か」


 「はい。敵は線を切らずとも、民間の流量を増やすだけで妨害できます。偽報の流布、傍受、局舎の占拠――いずれも現行網では防ぎ切れません」


 藤村は頷き、椅子の背へ静かにもたれた。義信は間を置かず、革表紙の冊子を差し出す。


 「軍専用の通信網を別に敷きます。四項目で骨組みを示しました。第一に、専用回線の敷設。民間網から物理的に分離し、主要幹線は二重化。第二に、軍事電信技師の育成。工部大学校に科を設け、暗号と保全を習得させます。第三に、暗号運用。固定鍵ではなく、日替わり、場合によっては時刻替わりの表を用い、平文混交の文型で傍受を攪乱します。第四に、指揮系統の統一。江戸を総司令、東西の軍管区を節点とし、九州と蝦夷を前衛拠点に据える」


 「期間と費えは」


 「五年で五百万円。初年度は基幹のみ、江戸―大阪―九州―蝦夷。二年目以降は支線と予備線、局舎の堅牢化、訓練体系の整備に充てます」


 額に落ちる春の斜光が、冊子の数表を白く照らした。藤村は紙面を矯めつ眇めつし、やがて顔を上げる。


 「財政は窮屈だ。鉄路、電信、肥料工場――いずれも腹を決めて投じた。いま、さらに五百と問われれば、反発は避けられぬ」


 義信は一瞬だけ息を吸い、言葉を選ぶように続けた。


 「承知しています。それでも、専用網は必要です。父上は先の火災で、市民の列に立たれましたね。電信が間に合い、炎の帯が食い止められた。その仕組みを、いま度胸だけで運用しています。軍が同じ無理をすれば、最初の一撃で折れます」


 藤村の眼差しがわずかに険しくなる。問いではない、先を促す沈黙。義信は地図の端を指で押さえ、低く言い添えた。


 「敵がいない間は、線はただの線です。けれど一度、銃声が響けば、通信は武器になります。こちらが十で届くところを、三十で押さえられる。十と三十の差は、戦では勝敗そのものです」


 「具体の絵を」


 「たとえば――蝦夷沿岸で不審艦を発見した場合。現状の網なら、第一報から全軍への展開命令まで二、三十分。専用網なら十分で可能です。十分あれば、港の封鎖、砲台の射角修正、鉄路の優先切替まで到達します」


 「暗号はどうする」


 「弟達の助力を仰ぎます。各国語の断片を規則的に混在させ、単語の境界を揺らす多層構造に。鍵表は日替わり、戦時は時刻単位で運用。訓練が要りますが、慣れれば送受も遅れません」


 藤村は小さく笑った。


 「その顔は、すでに戦略参謀だな」


 「いくさを望んではいません。けれど、望まぬうちに試されるのが国です」


 障子の外で風が変わり、庭の若竹がさらさらと鳴った。藤村は立ち上がり、机角に置いていた鐘をひとつ鳴らす。控えの侍従がすぐに現れた。


 「閣僚を招集。正午」


 「はっ」


 使いが走り去る音が遠ざかる。二人きりになると、藤村は少しだけ声を和らげた。


 「お前は十七で、こういう策を持ってくる。数字も線も、人も見ている。それは頼もしい。だが会議は戦場だ。財の番人は必ず立つ。理は通す、されど耳は硬い」


 義信は頷く。


 「反論は覚悟しています。妥協案も用意しました。期間を延ばし、初年度の投資を絞る案。ただし、分離は崩しません。優先使用権だけでは、平時の癖が取れない。いざという時、人は“いつもの”手を選びます」


 「言葉を選べ。正しさは、刃が立ちすぎれば弾かれる」


 「承ります」


 藤村はふと、義信の外套の肩に落ちた白い埃を指で払った。冬の名残のような小さな粉雪――ではない、工部省の局舎ですすを被ったのだろう。


 「線を握る者の顔は見たか」


 「はい。夜半の局で、寒さに震えながら鍵を打っていました。指先の皮が硬くなっていました」


 「彼らに守らせる線だ。紙上の線で終わらせるな」


 「はい」


 義信が深く一礼しかけたとき、控えの者が再び膝をついた。


 「総理、財務卿より使者。直ちに伺うとのこと」


 藤村はわずかに目を細め、軽く頷いた。


 「来てもらおう。――義信、地図をそのままに」


 「はっ」


 机上の朱と墨が交錯する線は、ただの線にすぎない。だが、国の骨と神経を描くものでもあった。藤村は襖の向こうに気配を感じながら、心中でひとつだけ言葉を置く。


 ――守るために、繋ぐ。


 それは政治の言葉であり、家長の言葉でもあった。庭の白梅が、ようやくひとつほころんだ。春は浅く、しかし確かに来ている。

正午、閣議の間。

 障子越しに差し込む光は白く、冬の名残を思わせる。中央の漆塗りの机には各省の印が押された資料が並び、空気には紙と墨の匂いが混じっていた。


 「議題、軍専用通信網の新設について」


 書記官の声が響いた瞬間、ざわめきが走る。藤村が席を立ち、静かに手を上げた。


 「では、まず概要を説明する。提案者は陸軍省義信参事。概要はすでに配布済みの通り、五年計画・総予算五百万円――」


 そこで、机の端から低い声が割り込んだ。


 「また五百か。」


 声の主は財務卿・松平春嶽。

 白髪混じりの髷をきちんと結い、鋭い眼光で藤村を見据えている。

 その視線には、かつて藩政改革を指揮した男の確信と、今の国政を支える者の疲労とが同居していた。


 「総理。鉄道五千、電信千、化学肥料五百、これでまた五百。八千の歳入に対し、余剰は一千五百しかない。国防は理解する。だが、財布は無限ではない。」


 春嶽の声は穏やかだが、机上の紙が微かに震えるほどの圧があった。

 藤村は沈黙し、代わりに義信が一歩前へ進み出た。


 「春嶽卿。平時の余剰は一千五百。しかし戦になれば、千五百など一刻で消えます。線を失えば、軍も政府も盲となる。通信は、戦場の眼です。」


 若い声に会議の視線が集まった。

 だが春嶽は眉を動かさず、むしろわずかに口角を上げた。


 「理想は美しい。だが理想を積み上げれば、財政は崩れる。福井の失敗を忘れたか。」


 その言葉に、部屋の空気がぴんと張った。

 春嶽がかつて自らの藩を改革し、教育と産業に投資して破綻寸前に追い込んだことを知らぬ者はいない。


 「理想だけでは、藩も国も持たぬ。あの時、私は学んだ。『守るための改革』には、限度が要る。」


 義信は息をのみ、しかし退かなかった。


 「ですが、守るものが焼かれてからでは遅い。

  線が途切れれば、国の声は届かない。五百万円は、守るための沈黙の費です。」


 その瞬間、対面の席から柔らかな声が挟まった。


 「――両者の言が、いずれも一理。」


 声の主は小栗忠順。

 深い藍の羽織をまとい、目元にかすかな笑みを浮かべている。幕臣出身の彼は、藤村内閣で財務副卿として辣腕を振るう人物だった。


 「春嶽様。もし十年計画とし、年五十万に割ればどうか。民間網の一部を優先使用とし、完全分離を後期に回す。これならば、初期費用は三百に抑えられましょう。」


 春嶽が目を細める。


 「また妥協か、小栗殿。

  そなたは幕臣の時から、常に“理想の形を崩して現実に合わせる”男だ。」


 「現実は、理想の土台です。土台がなければ塔は立たぬ。ですが、塔がなければ人は空を見上げぬ。両方あって、国は伸びます。」


 春嶽の唇がわずかに動いた。笑いとも溜息ともつかぬ息。

 藤村はそのやり取りを見つめながら、机上の筆を指で転がす。重みのある静寂が広がった。


 「……小栗案、悪くはない。」

 春嶽が言葉を継ぐ。「だが、それでも三百は重い。戦も起きぬうちから、兵糧を減らすようなものだ。」


 「兵糧を減らせば、兵は戦えません。」

 義信がすぐさま応じた。


 春嶽はちらりと少年の方を見やり、その冷静な口調に目を細めた。

 「十七にして、もう官僚の舌だな。だが、数字は情熱では動かぬ。」


 藤村が立ち上がり、両手を机の端に置いた。

 「春嶽殿。三百を惜しんで国を失うなら、帳簿を抱いて沈む船となりましょう。

  戦を望まずとも、備えねばならぬ。ハワイを我が影に置いた以上、外はもう我らを見ている。」


 「ハワイ……」


 春嶽の表情に影が落ちる。

 それは昨年、慶明がハワイ王女と婚約し、太平洋に新しい航路を開いた日の記憶だった。国が外へ手を伸ばした以上、内の守りもまた変わらねばならない。


 「……外に伸びれば、内を固めねばならぬ。

  だが、固めすぎれば息が詰まる。難しいところよ。」


 春嶽は目を閉じ、机の上の筆をそっと置いた。

 「わかった。採決までは異を唱えるが、決まれば従う。

  ただし――財務の監督は譲らぬ。」


 「当然です。」

 藤村が軽く頭を下げる。「この国を形にするためには、反対の声も必要です。」


 小栗が口元に笑みを浮かべた。


 「では、実務の組み方を調えましょう。

  初年度は江戸と大阪の接続、次に九州と蝦夷。技師の養成を並行させ、暗号の訓練を……」


 春嶽が小栗の言葉を遮るように、ゆっくりと立ち上がった。


 「その暗号とやらは、信頼できるのか?」


 義信が答える。


 「兄・久信が設計します。三十三の言語を組み合わせた多層式。各文の語順と発音表記が日替わりです。

  人の耳には意味を持たず、解読はほぼ不可能です。」


 「……十七の少年が、そこまで考えるとは。」


 春嶽は小さく息を吐き、机上の資料をまとめた。

 「この席の若者は、年を越えておる。――ならば、年老いた我らが鈍らぬよう務めねばなるまいな。」


 会議の空気が緩み、幾人かが微笑を交わした。

 だが藤村はまだ沈黙していた。

 視線の先には、義信の書いた通信網の線がある。朱の線は四方に伸び、まるで国の血脈のようだった。


 (この線が、未来をつなぐか。それとも、財を喰う蛇となるか)


 藤村は胸の内でその問いを繰り返した。

 そしてゆっくりと息を吸い、口を開く。


 「――この計画、明日、正式に閣議採決に付す。」


 その声が響くと同時に、会議室の空気が変わった。

 静けさの奥で、誰もが理解した。

 これは、国の形を決める一戦であると。

翌朝、霞のような霧が東京の街を包んでいた。

 藤村邸の書斎には、まだ蝋燭の光が灯っている。義信は机に向かい、図面の最終確認をしていた。

 紙の上には、江戸から大阪、九州、蝦夷州へと伸びる細い赤線。前夜の会議で春嶽から指摘された費用削減策に基づき、経路を最短に修正している。


 「兄上、遅くまで起きていたんですね」


 障子の向こうから声がした。久信だ。肩には外套を掛け、手には数枚の暗号表を持っていた。


 「もう少しで完成する。春嶽卿は財を守ろうとした。父上は国を守ろうとした。

  どちらも正しい。……だからこそ、形で見せねばならない。」


 「そのための“線”か」


 義信は頷いた。


 「鉄も電も、信頼の線だ。これを通して、戦も命令も、すべての意思が伝わる。」


 久信は机の上に暗号表を広げた。

 「文字、数字、各国語の断片を組み合わせる。発信者と受信者だけが、日替わりの符号表を持つ。――盗聴しても、意味は読めない。」


 「軍事機密としては十分だな。よく考えた。」


 「義親も手伝ってくれた。線の改良を。」


 その名に、義信の目が少し柔らかくなった。

 「十歳にして、工部大学校の教授を黙らせるほどの知恵か。……弟たちがいなければ、私は言葉ばかりで終わっていた。」


 久信が微笑む。

 「父上が言ってた。“お前たちは、理想と現実をつなぐ三本の線だ”って。」


 「……ならば、切らしてはならんな。」


 夜明けが近づくにつれ、空が淡い青に染まっていく。

 その静寂の中で、義信は一度深く息を吸い、筆を取った。

 「――この国の命を、途切れさせぬために。」


     *


 閣議室。

 春嶽をはじめとする閣僚たちが揃い、机上には金箔押しの採決札が整然と並んでいた。

 藤村は席に着く前、義信の資料を最後まで読み返した。

 紙の端には、義信の筆で書かれた一行がある。


 〈戦を望まずして備える。これ、国の義なり。〉


 藤村は唇の端に笑みを浮かべた。――あの少年は、すでに一国の将である。


 「議題、軍事通信網構築案。採決を行う。」


 書記官の声が静かに響く。

 藤村は立ち上がり、全員に視線を巡らせた。


 「各位。

  この国は、鉄道で陸を、電信で民をつなぎました。

  だが――国を守る“声”はいまだ一本の線に頼っています。

  戦場で指揮が届かぬなら、軍は散る。

  民を守れぬ政府は、存在の価値を失う。」


 その言葉に、誰かの喉が鳴った。

 春嶽は静かに腕を組み、視線だけで藤村を促した。


 「財政の不安は、私も承知しています。

  だが、費用を恐れて備えを削れば、戦が来たときに払う代償は、金ではなく人命となる。

  私は、理想のためではなく――生き残るために、この線を敷くのです。」


 沈黙。

 春嶽の指が机を叩く音が、小さく響いた。


 「……採決に入れ。」


 書記官が木槌を打つ。

 「賛成の者は白札、反対の者は黒札を投じよ。」


 机の上で札が滑る音が続いた。

 やがて、書記官が数を読み上げる。


 「賛成――十三。反対――十二。」


 その瞬間、空気が弾けた。

 藤村の胸に走ったのは、勝利の安堵ではなく、責任の重みだった。


 春嶽は目を閉じ、しばらく黙していた。

 やがてゆっくりと立ち上がり、藤村の前に歩み寄る。


 「私は反対票を入れた。だが――決まった以上は従う。」


 「感謝します、春嶽殿。」


 「勘違いするな。信じたのは、君ではない。君の“理屈”だ。

  ……理屈が現実に勝ったとき、人は初めて進化する。

  その責を、君が負え。」


 春嶽の背が去っていく。

 その後ろ姿に、藤村は深く頭を下げた。


     *


 その夜。

 藤村邸では三兄弟が集まっていた。

 父の机の上には、閣議で使用された資料が置かれ、蝋燭の火が淡く揺れている。


 「可決だ。」

 藤村が静かに言うと、三人の顔が明るくなった。


 「兄上の言葉が届いたんですね。」

 久信が言い、義信は小さく頷いた。


 「春嶽卿は、最後まで国を案じておられた。

  だが、あの人が財を守るのなら、俺たちは“血”を守る番だ。」


 「血?」

 義親が首をかしげる。


 「通信線は、国の血脈だ。命令も救助も、情報も、そこを通って流れる。

  それを止めないことが、戦わずして勝つ第一歩なんだ。」


 義親は静かにうなずき、手元の模型線を取り出した。

 「導線の素材、試作品ができました。銀を薄く膜状にして、銅線に重ねています。抵抗値が三割下がりました。」


 「お前……十歳でそれを思いつくか。」

 久信が目を丸くする。


 「兄上の“速さが命”という言葉が、頭から離れませんでしたから。」


 義信は思わず笑った。

 「さすがだ。俺たちは同じ方向を見ている。」


 父・藤村は三人のやり取りを静かに見守りながら、心の奥に熱いものを感じていた。

 かつて、自分一人で担っていた理想が、今は家族の中で確かな形となって受け継がれている。


 「よいか。」

 藤村は三人に向けて言った。

 「通信は国の声だ。だが、声を届ける者の心が歪めば、言葉は毒になる。

  お前たちは、力と共に“信義”を学べ。」


 三人は同時に頭を下げた。

 その姿を見つめながら、藤村は静かに杯を置いた。


 「――これで、ようやく“戦わずして守る国”の基礎ができた。」


 外では春の風が吹き、遠くで電信塔の建設準備の音が響いていた。

 時代が、確かに動き始めていた。

春の雨が上がり、東京の空に薄い光が差し込み始めた。

 その朝、霞ヶ関の屋上からは、工部省の構内に立ち並ぶ木柱がはっきりと見えた。

 そこには、電信線を張る技師たちが黙々と作業を続けている。

 雨に濡れた土の匂いの中で、鉄塔が一本ずつ立ち上がる音が響いた。


 「……始まったか」


 藤村晴人は濡れた手摺に手を置き、微かに笑った。

 視線の先では、作業員が新設された「軍事通信専用線」の基礎杭を打ち込んでいる。

 江戸から大阪へ、そして九州、蝦夷州へ――。

 列島を貫くその線は、戦うためではなく、守るための“血脈”となるはずだった。


 「父上、導線の初期通電、成功しました!」


 背後から駆け寄ってきた義親の声に、藤村は振り返った。

 義親の手には通電記録表。まだ幼い指先に墨がついている。

 「銀膜を被せた新線で、抵抗が従来の三分の二に。通信速度が一〇分の三短縮されています」


 「よくやった、義親。十歳の成果としては……いや、誰の目から見ても見事だ」


 「ありがとうございます。兄上たちにも伝えます!」


 義親は弾む声で走り去っていった。その背中を見送りながら、藤村は目を細めた。

 (この国の未来を託すには、まだ若い。だが、若いということは、まだ限界を知らぬということだ)


     *


 五月。

 東京陸軍司令部の中庭に、緊張した空気が張り詰めていた。

 今まさに、軍事通信網の“初演習”が始まろうとしている。


 想定――蝦夷州沿岸に敵艦隊が接近。

 これを暗号電信で本部へ伝え、全国に指令を出す。


 「発信地点、蝦夷支局――準備完了」

 「受信地点、東京司令部――準備完了」


 義信は腕時計を見て、低く命じた。

 「九時〇〇分、送信開始。」


 通信室の中に、電鍵を叩く音が乾いたリズムを刻む。

 「――敵艦隊発見。北緯四三度、東経一四一度。」


 それから五分も経たぬうちに、東京本部の指令員が叫んだ。

 「受信! 完全一致!」


 「よし、至急転送! 大阪、九州へ!」


 次の瞬間、全線に電流が走り、各地の通信塔に電信音が鳴り響いた。

 「九州司令部、受信確認!」「大阪司令部、受信完了!」


 記録係が報告する。

 「総伝達時間――一〇分〇七秒!」


 その言葉を聞いた義信は、深く息を吐いた。

 「民間線では三〇分を要していた……これで、三倍の速さだ」


 後方で見守っていた久信が、胸の前で手を組んだ。

 「暗号も解読不能。符号の混成方式が功を奏しています。軍の命令は、もう誰にも盗めません」


 通信室に拍手が湧き起こった。

 だが、義信は浮かれた様子を見せず、ただ小さく呟いた。

 「速さは力だ。しかし、使う者の心が鈍れば、それも暴力に変わる。……父上の言葉を、忘れぬようにしなければ」


     *


 その日の午後、財務省執務室。

 春嶽は机に広げた予算書の上に視線を落とし、静かに羽織を整えた。

 壁際の時計が、時を刻むたびに、部屋の中の緊張が深まる。

 そこへ、小栗忠順が入ってきた。帳簿を抱え、丁寧に頭を下げる。


 「春嶽様、予算配分、確定しました。初年度支出――百二十万円、補正分を除き、残りは軍備更新費から転用しております」


 「……本当に、やり遂げたのだな」


 「はい。技術面は藤村家三兄弟が担い、工部省の調整も完了。工期は予定通りです」


 春嶽は静かに頷き、机の端に置かれた小さな書簡を手に取った。

 封を切ると、中から一枚の短い報告書が現れた。

 『通信試験 成功ス。 全線 一〇分ニテ伝達完了。 指令 完全一致。』


 しばし黙読したのち、春嶽は深く目を閉じた。

 「……十七歳の少年が、国家の血脈を走らせたか。年齢は関係ないというのは、本当だったな」


 小栗は微かに笑みを浮かべた。

 「理想なき現実は衰退すると、私が申したでしょう。ですが、現実を踏まえねば理想は実らない――春嶽様のお言葉も、間違いではありませんでした」


 春嶽は顔を上げ、しわだらけの手で小栗の肩を叩いた。

 「お前は、昔から融通が利かぬ男だった。だが……それが、幕府を支え、今は国を動かしている。」


 「恐れ入ります。」


 「藤村殿のような者が、あと十人おれば、この国は世界と肩を並べるかもしれん。

  だが、財は限られている。理想を守るために、私はそれを数える役を続けよう」


 「それでこそ春嶽様です」


 ふたりはしばらく黙り、窓の外を見た。

 霞がかった空の下、遠くで電信柱がまっすぐに連なり、技師たちが新しい線を張っていた。

 風が吹くたび、銀の導線がかすかに光を返す。


 春嶽は目を細めた。

 「見ろ、小栗。あれが未来だ。……だが、決して“金では買えぬ未来”だな。」


 小栗は深く頭を下げた。

 「はい。あれは人の信念でしか、築けません。」


     *


 夜、藤村邸。

 書斎に戻った藤村は、義信、久信、義親の報告を静かに聞いていた。

 暖炉の火が穏やかに燃え、書棚の背表紙を照らしている。


 「演習、成功です。伝達時間は一〇分〇七秒。暗号、完全保護。技師の訓練も軌道に乗りました。」


 「よくやった。」

 藤村は静かに頷いた。

 「春嶽卿も満足だろう。……だが、この成功を“平時のまま”に留めてはならん。」


 義信が問う。

 「戦を予期して、さらに拡張を?」


 「いや、違う。」

 藤村は立ち上がり、窓の外を見た。

 「戦を起こさせぬために、通信を敷くのだ。

  言葉が届く限り、人は無駄に血を流さずに済む。

  この線は、国の剣ではない――国の声だ。」


 静寂が落ちる。

 久信がそっと言葉を添えた。

 「父上、その声を守るのが、俺たちの役目ですね。」


 「そうだ。」

 藤村は三人に向かって微笑んだ。

 「この国の“知”と“信”が繋がる限り、日本は滅びぬ。」


 やがて、義親が窓の外を見上げて言った。

 「……父上、夜空の星が、まるで電信の光のようです。」


 「ふふ、あの光も通信しているのだ。

  宇宙のどこかで、同じ理を信じている者がいるかもしれん。」


 外では風が強まり、電線がわずかに鳴った。

 その響きはまるで、未来から届いた応答のように優しく広がっていった。


     *


 ――1886年。

 日本列島を貫く軍事通信網が完成。

 電流は、ただの信号ではなく、国家の意志として脈打ち始めた。


 そして、誰もが知らぬうちに、

 その瞬間――「戦わずして守る日本」という理想が、静かに形を得たのだった。

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