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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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328話:(1885年・冬)義親と農業革命

晩秋の東京、霞ヶ関の空は薄く霞み、冷たい風が頬を撫でていた。首相官邸の執務室では、薪ストーブの赤い炎が静かに揺れ、机上の地図の影をわずかに震わせている。

 その前に立つ藤村晴人は、農商務大臣の報告書を一読して、静かに眉を寄せた。


「……やはり、そう来たか」


 農商務大臣が深く頭を下げた。


「導入した化学肥料ですが、各地で誤用が相次いでおります。過剰施肥による酸性化、適用時期の誤り、配合比の混乱……。収穫どころか、田畑が枯れる例もございます」


 藤村は短く息を吐いた。書面には、被害のあった村名と、土壌pHの記録、農民の嘆願書が並んでいる。そこには、科学という新たな恩恵を扱いきれずにいる人々の苦悩が、ありありと刻まれていた。


「普及率は?」


「全国平均で、ようやく五%。進歩はしているものの、停滞が続いております」


 大臣の声に、藤村は目を閉じた。自らが推し進めた“科学的農政”の柱である化学肥料。理論は確かでも、現場の理解が追いついていない。知識の橋を架ける人間が、決定的に足りない。


 藤村は静かに椅子の背にもたれ、そして呟いた。


「――義親を呼べ」


 大臣は驚いたように顔を上げた。


「義親様を、ですか?」


「ああ。あの子ならば、理論も実地も分かっている。数字で語り、土で証明できる」


 農商務大臣が頷いて去ると、藤村は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。そこには幼い筆致で書かれた文字がある。

 〈硫酸アンモニウムは酸性化を起こすため、石灰を併用すべし〉――義親が七歳のとき、遊び半分に書いた覚え書きだ。紙片を見つめながら、藤村は静かに笑みを浮かべた。


 やがて、ノックの音。


「失礼いたします」


 扉を開けて入ってきたのは、小柄な少年――藤村義親。わずか十歳とは思えぬ落ち着きをまとい、深緑の学生服をきちんと着こなしている。髪はきれいに分けられ、眼差しは曇りなく澄んでいた。


「父上、呼ばれましたか」


「来てくれて助かる。全国で肥料の誤用が多発している。報告を見て、どう思う?」


 藤村が資料を差し出すと、義親は手を伸ばし、無言で読みはじめた。ページを繰る指先の動きは正確で、まるで成人の研究者のようだった。数分の沈黙ののち、少年は顔を上げ、淡々と告げる。


「……多くの地域で、pHが四・五前後まで下がっています。強酸性域です。これでは根のカルシウム吸収が阻害され、稲が黄化して当然です」


 農商務大臣が驚嘆の息を漏らす。義親は表情ひとつ変えずに続けた。


「過剰使用、時期の誤り、配合の不適切――三つの要因が重なっています。理論を知らずに“量を増やせば効く”と考えれば、薬も毒に変わります」


「では、どうすれば良い」


「教育です。科学を知らぬままでは、改革は進みません」


 義親の声は、子供離れした落ち着きを帯びていた。


「私は全国を巡り、農民たちに正しい化学の知識を教えます。久信兄上を、同行させてください」


 同席していた久信が目を丸くした。


「またお前か。今度は何を発明した?」


「発明ではなく、教育です。兄上、共に行きましょう。農民に、化学の真を伝えるために」


「……お前の説明、難しすぎるぞ」


「ですから、兄上に“通訳”をお願いするのです。私の理論を、平易な言葉に移し替えてください」


 久信は肩をすくめ、笑った。


「やれやれ。俺が弟の通訳とはな」


「科学は共有されて初めて力を持ちます」


 淡々と返す義親の横顔に、藤村は一瞬、言葉を失った。兄弟のあいだに流れる静かな緊張と信頼――その光景に、胸の奥で何かが温かく灯るのを感じる。


「ただし、条件がある」


 藤村は机上の地図に手を置いた。赤いピンが各地に刺さっている。導入地、成功例、失敗例――今の日本は丸ごと実験場だ。


「数字だけではなく、“人”を見ろ。農民の顔を見て、言葉を聞け。科学は人を救うためのものだ。それを忘れるな」


 義親は静かに頭を下げた。


「了解しました、父上」


 やがて、廊下の向こうから軽い足音が響く。久信が書類を抱えて戻ってきた。


「日程は俺が押さえる。常陰州、東京近郊、大阪の順でいいな?」


「最適です。基礎講義、土壌分析の実演、配合計算の三段で進めます」


 藤村は二人を見つめ、胸の奥に湧く誇らしさを抑えきれなかった。――長男は外交、次男は科学。彼らが背負うのは、もはや一家の未来ではない。日本そのものの未来だ。


 窓の外では、薄い雲の向こうに冬の陽が沈もうとしていた。藤村は立ち上がり、静かに告げる。


「行け、義親。お前の知識で、この国の土を救え」


 義親は深く一礼した。


「はい。科学が、必ず証明してみせます」


 その声は静かだが、確信に満ちていた。十歳の肉体に、研ぎ澄まされた理性。その小さな背中に、農業革命の風が吹いていた。

東京を発つ朝、霞はまだ晴れず、馬車の車輪が石畳を湿らせていた。

 藤村邸の門前には、旅装束の二人が並んでいる。兄の久信はまだ眠そうに目をこすり、義親は小型の分析器と硝子瓶を丁寧に鞄に収めていた。


「……どう見ても、旅の支度をしているのは子供じゃなくて学者だな」

 久信が呟くと、義親は振り向きもせずに答えた。

「現場を軽んじる研究は、空論に終わります。兄上も記録係をお願いします」


「はいはい、学者先生。言葉は難しくしないでくれよ。農民が寝てしまう」

「ですから兄上の“通訳”が必要なのです」


 久信は肩をすくめ、苦笑をこぼした。

「やれやれ。俺が弟の通訳とはな」


 馬車が動き出すと、窓の外には東京の街並みが流れた。

 義親は窓越しに陽の光を測るように目を細め、静かに言った。

「土の中も、国の中も同じです。偏りすぎれば、どちらも枯れる」


 久信は隣であくびをしながら、そんな弟を横目に見た。

 十歳のはずの少年が語る言葉に、どこか背筋が伸びるような思いがした。


 常陰州に着く頃には、昼を少し過ぎていた。丘を越える風が冷たく、田畑の稲株はすでに刈り取られている。

 村の中央にある集会所の前には、農民たちが数十人集まっていた。鍬を手にしたまま、見慣れぬ来客を訝しげに見ている。


 義親は一歩前に出て、静かに頭を下げた。

「本日は、化学肥料の使い方をお話しに参りました」


 ざわつく群衆。少年の声とは思えぬ落ち着きに、誰も笑わなかった。

 義親は木箱を開き、携帯用の分析器を取り出す。ガラス棒を差し込み、目盛を読む。


「この土の酸度は五・八。少し酸性に傾いています。窒素とリンが不足していますね」


「……な、なんだって?」

 農民の一人が首をかしげる。


 久信が笑って前に出た。

「つまり、この土地は肥料を減らしすぎてるってことだ。窒素とリンを少し足せばいい」

「そうそう、そういうことです」義親が頷く。


 農民たちの表情が変わった。難しい言葉は分からずとも、兄弟のやり取りに実感があった。


「では実際にやってみましょう」

 義親は持参した袋から白い粉を取り出した。

「この割合で混ぜて、約二十三キロを一反に撒きます。これ以上はいけません」


「たったそれだけか?」と老人が言う。

「はい。肥料は薬と同じ。多ければ毒になります」


 風が吹き、義親の髪を揺らした。少年の声は小さいが、誰よりも確かだった。

 久信が腕を組み、周囲を見回す。

「分かったな? この子が言う通りにやってみよう。嘘は言わん」


 午後の陽が傾くころには、農民たちの顔に笑みが戻っていた。

「試しにやってみるか」「確かに理屈は通ってる」

 そんな声があちこちから聞こえる。


 義親は満足げに頷くと、空を見上げた。

「兄上、夕方までにもう一箇所回れます。次は川沿いの田んぼを」


「……ほんとに十歳か、お前」

「年齢は偶然です。科学に年齢はありません」


 久信は苦笑を洩らし、肩を叩いた。

「その台詞、父上そっくりだな」


 二人の笑い声が、夕暮れの田野に広がっていった。

 刈り取られた稲の匂いとともに、確かに新しい季節の風が吹いていた。

夜の常陰州。

 宿の二階、行灯の光が木机を淡く照らしていた。

 義親は湯気を立てる茶を横に置き、無言で筆を走らせている。白い原稿用紙に、整然と並ぶ化学記号と数式。


 久信は向かいの布団に寝転がり、腕枕をして天井を見上げた。

「……なあ、少しは休めよ。お前、朝からずっと計算してるぞ」


「計算ではありません。観察です」

 義親は紙に視線を落としたまま答える。

「農民たちの田んぼを十箇所見て、共通の傾向が分かりました。河川近くの土壌は酸性化が早い。おそらく、上流の鉱泉由来の鉄分が原因です」


「……また難しいことを」

「要するに、地域ごとに肥料の配合を変える必要があります」


 義親は筆を止め、淡く笑った。

「兄上、明日は村ごとに“異なる処方”を提案します。全て同じでは効果が出ません」


「処方、ねぇ。まるで医者だな」

「土は生き物です。病めば治療が要る」


 義親は筆を置き、机の上の顕微鏡を覗き込んだ。

 灯りの下に並ぶ小瓶の中には、農民が差し出した土の標本が詰まっている。

 どの瓶にも、微かに異なる色があった。灰、赤、黒――。


「この違いが、土地の“声”です」

 義親は静かに呟いた。

「人間も同じ。見かけは似ていても、内に抱える性質は違う。だから、一つの答えで全てを救うことはできません」


 久信はその言葉に目を細めた。

「……弟に説教されるとは思わなかった」

「これは説教ではありません。父上が、いつもおっしゃっていたことです」

「なるほどな」


 外では虫の声が絶え間なく響いていた。

 秋が終わり、冬が近い。

 明け方には霜が降りるだろう。


 やがて、久信が小さく笑った。

「そういえば、あの農民の子。お前に質問してたな。『どうすれば科学を学べますか』って」


「覚えています」義親は頷いた。

「あの子には、入門書を三冊渡しました。すぐに理解するとは思いません。でも、“知りたい”という気持ちは、どんな才能にも勝ります」


 少年の声は穏やかで、どこか遠くを見ていた。

 十歳の子供が、まるで教育者のように語る。


「お前、本気でこの国を変えるつもりか」

「はい。父上が築いた制度を、私たちが動かす。兄上は言葉で、私は科学で。義信兄上は軍で守る」


 久信は静かに息を吐いた。

「……そう言い切るところが、お前らしいな」


 義親は少しだけ笑い、また筆を取った。

「私はただ、“効率”を求めているだけです。人も、土地も、無駄を減らせばもっと幸福になれる」


 その夜、義親は三時間眠り、再び机に向かった。

 翌朝、白んだ霧の中で、紙束を鞄に詰めながら言った。

「兄上、出発します。次は江戸近郊です」


 久信が大きく伸びをして答える。

「……ほんとに休まないな、お前。どこにそんな力があるんだ」

「興味こそが、最大の燃料です」


 馬車は再び北を目指した。

 常陰州の丘陵を越えると、遠くに富士の頂が霞んで見える。

 秋の陽射しの中、義親は風に髪をなびかせながら、小さなノートを取り出していた。


「何をしてる?」

「昨日の講演の記録です。農民たちの反応を分析します」

「反応?」

「はい。理解が早い地域と遅い地域には、言葉の響き方に差があります。科学用語より、“手の感覚”を伝える比喩の方が通じやすい」


「つまり?」

「“肥料を足す”ではなく、“土に薬を与える”と伝える方が理解が早い。人は、身近な体験で世界を理解します」


 久信はその言葉に、はっとした。

「……外交も同じだな。理屈より感情、理念より信頼」

「そうです。科学も外交も、人が動かす以上、根は同じです」


 二人はしばし沈黙した。

 道端では農夫たちが籾殻を焼き、白い煙が秋空に立ち上っている。

 その光景を見ながら、義親がぽつりと言った。

「火は怖いですが、使い方を誤らなければ、寒さを防ぎます。肥料も同じです。扱いを誤れば毒になりますが、理解すれば命を支えます」


 久信は馬車の窓を開け、冷たい風を受けた。

「……お前の言葉、父上が聞いたら喜ぶだろうな」

「父上は、すでにご存じです」

「はは、言うねぇ」


 やがて、夕刻。

 江戸近郊の村に着いた頃には、赤く染まった夕日が田を黄金色に照らしていた。

 村人たちが集まる前で、義親は再び木箱を開けた。

 今日も同じように、土を採り、瓶に詰め、目盛を読み上げる。


「この土地は、前回よりもリン酸が多いです。ですから、窒素を中心に補いましょう」


 農民の一人が手を挙げた。

「坊っちゃん、うちは金がないんで、肥料を半分にしてもいいですか?」


 義親は少し考え、やがて穏やかに頷いた。

「構いません。その代わり、刈り取り後に堆肥を増やしてください。足りない分を、土が自分で作り出します」


 農民が驚いたように顔を上げる。

「……土が、自分で?」

「はい。自然には“回復力”があります。人はそれを助けるだけでいい」


 講演が終わる頃、日が落ち、提灯の灯りが並んだ。

 村人たちは名残惜しそうに義親の手を握った。

「こんな小さい先生は初めてだ」「ありがとう、坊っちゃん」


 義親は微笑み、頭を下げた。

「こちらこそ、学ばせていただきました」


 夜、宿に戻ると、久信が酒を一口あおりながら言った。

「……すごいな。お前、十歳なのに、人の心を掴む方法を知ってる」

「心を掴むつもりはありません。理解してもらいたいだけです」

「だが結果的に掴んでる」

「それなら、幸いです」


 行灯の光が二人の顔を照らす。

 窓の外では、遠くに汽笛が聞こえた。

 日本の夜は、確かに少しずつ変わっている。

 義親はその音に耳を傾けながら、小さく呟いた。


「この国は、きっと強くなります。理論ではなく、知恵と情で」


 久信は盃を置き、弟の方を見た。

「お前がいるなら、そうなるだろう」


 義親は静かに頷いた。

 その眼差しの奥には、燃えるような知性と、わずかな孤独の影が宿っていた。

 天才と呼ばれる者の背には、常に孤独がついて回る。

 だがその孤独こそが、国を動かす力になる――藤村家の血を受け継いだ者たちは、それを知っていた。

冬の訪れを告げる冷たい風が、霞ヶ関の官邸前を抜けていった。

 東京の街は急速に近代化の歩みを進めていたが、その土の下では、依然として多くの農民たちが自然と格闘している。

 その現実を、藤村晴人は誰よりも理解していた。


 「……義親たちの巡業は、どのくらいになる」


 執務室で問うと、農商務大臣が分厚い報告書を差し出した。

 紙には、巡業先の地図と各地の収穫量の記録が、細かな数字で記されている。


 「常陰州、江戸近郊、大阪周辺――三地域すべてで、化学肥料の誤用が激減いたしました」

 「成功率は?」

 「義親様の直接指導を受けた地域では、九十五パーセントです。誤用による被害はほとんどございません」


 藤村は静かに頷いた。

 報告書を開けば、農民たちの手による簡素な手紙も添えられていた。

 墨の滲んだ字で、「坊っちゃんに感謝」「土の病が治った」「息子が勉強を始めた」と書かれている。


 その字を見たとき、彼の胸に淡い熱が灯った。

 ――知識は、言葉を越えて届く。

 十歳の息子が、それを証明してみせたのだ。


 その頃、義親と久信は大阪の郊外にいた。

 朝の空は澄みわたり、畦道には霜が白く輝いている。

 義親は厚手の外套に身を包み、田んぼの土を手のひらで転がしていた。


 「見てください、兄上。この土、前回より柔らかい。微生物が戻っています」

 「分かるのか、そんなことで」

 「匂いが違います。生きている土は、わずかに甘い匂いがします」


 久信はしゃがみ込み、弟の手のひらを覗き込んだ。

 その小さな掌に、国の未来が詰まっているように見えた。


 「……お前、本当に十歳か?」

 「体は、です。精神は、もう少し上です」

 「はは、言うなあ」


 義親は立ち上がり、土のデータをノートに書き込んだ。

 ペンの動きは正確で、無駄がない。

 風に乗って、焼いた藁の匂いが漂う。農民たちは麦の種を撒き、土を慣らしていた。


 「義親様!」

 呼びかける声に振り向くと、初老の農民が走ってきた。

 「前に教わった配合、あれでやったら稲が強くなりましてな! 来年も、ぜひお願いしたい!」


 義親は穏やかに微笑んだ。

 「それは良かったです。来年は堆肥を一割増やしてください。自然の力を借りれば、さらに良くなります」


 農民は何度も頭を下げた。

 久信がその様子を見ながら、ぽつりと言った。

 「なあ義親。お前の話は、数字なのに、なぜか人を安心させる」

 「数字は、人を支える言葉です。感情ではなく、結果で示す。それが信頼になります」


 その言葉に、久信は少し目を細めた。

 「……やっぱり、お前は父上の子だな」

 義親は静かに笑った。

 「父上を超えたいと思っています」


 その日の午後、二人は農民たちと共に講演を行った。

 村の広場に集まった百人近い人々の前で、義親は黒板にチョークを走らせた。

 「これが土壌の栄養分の循環です。窒素は大気に、リンは土に、カリウムは根に――」

 ざわめく聴衆の中で、久信が柔らかく言葉を補った。

 「つまり、肥料を撒いた分だけじゃなく、空気や太陽も働いてるってことだ。自然と人が、協力してるんだ」


 農民たちは頷き、ざわざわと声を上げた。

 「そういうことか!」「空気も働くんだなあ」


 義親は微かに笑みを浮かべた。

 彼にとって、理解の瞬間ほど美しいものはない。

 人が“分かった”とき、目の光が変わる。その変化を、彼は何よりも喜びとしていた。


 講演が終わる頃、空は薄紅に染まりはじめていた。

 義親はノートを閉じ、久信に言った。

 「次は、電信網の村ですね」

 「おいおい、もう少し休ませてくれ。昨日も移動して今日も講演だぞ」

 「休息は移動の間で取れます」

 「……やれやれ。父上が聞いたら笑うぞ」


 夜、宿に戻ると、義親は机に向かっていた。

 久信は酒を飲みながら、窓際でぼんやりと外を見ていた。

 街の遠くでは、鉄道の汽笛が鳴り響き、文明の夜が広がっていた。


 「兄上」

 「ん?」

 「この論文、完成しました」


 義親は一枚の紙束を差し出した。

 『日本における化学肥料の最適配合と地域変数に関する研究』

 ――題名の端正な筆跡が、灯の下で白く光っている。


 久信は手に取り、ぱらぱらとめくった。

 「……漢字も数式も多すぎて、俺にはさっぱりだ」

 「工部大学校の紀要に投稿します。きっと採用されるでしょう」

 「十歳で論文、か。もう敵わんな」


 義親は微笑し、窓の外を見た。

 夜空には、雲間から月がのぞいていた。

 その光は淡く、だが確かに地上を照らしている。


 「兄上、人は知識を持つと孤独になります。けれど、その孤独を受け入れれば、誰かを照らせます」

 久信は盃を置き、静かに言った。

 「……それでも、人の温かさは捨てるなよ」

 「もちろんです。理論だけでは国は動きません」


 その言葉に、二人は同時に笑った。

 やがて、遠くの線路を走る列車の音が、夜の静けさを破った。


 ――東京。

 藤村晴人は、官邸の窓辺でその汽笛を聞いていた。

 報告書を閉じ、目を細める。


 「……義親。よくやった」


 机の上には、三本の電信報が並んでいた。

 一つは常陰州からの成功報告、二つ目は大阪の農民たちの感謝状、そして三つ目は――工部大学校からの封書だった。


 《紀要掲載決定》


 その一行を見た瞬間、藤村は小さく息を漏らした。

 十歳の息子が、ついに学術の門を叩いた。


 火鉢の炭がぱち、と音を立てる。

 炎の揺らめきの中で、藤村は静かに天井を見上げた。

 ――この国は、確かに変わっている。


 外では、雪が舞いはじめていた。

 霞む灯の中、藤村は独り言のように呟いた。


 「科学が、人を救う日が来る。

  その第一歩を、あの子が踏み出した」


 やがて、紙を手に取り、机の隅に丁寧に置く。

 そこには、まだ幼い義親の筆で書かれた一文が残されていた。


 〈土は生きている。学ぶべきは、人ではなく、土の声〉


 藤村は微笑み、その文字にそっと手を重ねた。

 父としてではなく、一人の政治家として。

 そして、科学という新しい時代の証人として。

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