327話:(1885年・冬)ハワイ王国との絆—太平洋に架かる約束—
秋雨が上がった翌朝、官邸の庭に薄い靄がかかっていた。銀杏の葉が一枚ずつ風に舞い落ち、敷石の上で静かに湿っている。
藤村晴人は、書類の束を胸に抱えながら、廊下をゆっくりと歩いていた。夜通し灯されたランプの光がまだ残っており、障子の向こうには誰もいない会議室の影が長く伸びていた。
――太平洋の向こうから届いた報。
それは、ハワイ王国からの緊急の書簡だった。
執務室に入ると、すでに陸奥宗光が待っていた。彼は新しい地図を机の上に広げ、海の中央に赤い丸を描いていた。
「ここです、ホノルル。近年、合衆国の商人が港を実質支配しています。」
指先が海図の上を滑る。太平洋の青が、墨のように沈んで見えた。
「国王は存亡の危機にあります。」
陸奥の声は低く、しかし確かな響きを持っていた。
「ハワイ王国の経済は、すでにアメリカ系住民の手に渡りつつあります。砂糖の輸出も、金融も、彼らが牛耳っている。国王カラカウア陛下は、我が国に助力を求めています。」
藤村は顎に手を当て、海図を見つめた。
ハワイ――太平洋の中央に浮かぶ小さな島国。だが、通商と航海の時代において、その一点が世界の針路を決める。
「……もし、ここがアメリカの手に落ちれば、太平洋は一方的な海になる。」
藤村の声は静かだったが、部屋の空気がひときわ重くなった。
陸奥は別の資料を開いた。
「現在、ハワイに在留する日本人は一万二千名。総人口の一割を超えています。多くはサトウキビ農園で働く労働者ですが、最近では商人や教師も増えております。」
藤村は眉をわずかに動かした。
「一割……それほどか。もはや他国の問題ではない。」
窓の外から、風に乗って金木犀の香りが流れ込んだ。
藤村は椅子に腰を下ろし、ペン先で海図のハワイを軽く叩いた。
「この国を守ることは、我が国の未来を守ることでもある。」
そう呟くと、陸奥が封筒を差し出した。
厚い和紙の表に、丁寧な筆跡で書かれた文字――「日本国孝明天皇陛下へ」。
「カラカウア陛下の親書です。」
藤村は慎重に封を切り、数枚の書簡を取り出した。
最初の一文に目を通した瞬間、彼の表情がわずかに揺らぐ。
「……再び、縁談の申し入れか。」
陸奥がうなずいた。
「四年前にも、同様の話がございました。カラカウア国王は、当時も日本との王室間の縁組を望まれた。ですが、当時の保守派が強く反対し、孝明陛下もご判断を留保されました。」
藤村は、手紙を膝の上に置いたまま目を閉じた。
「1881年――まだ我が国が世界の中で歩き始めたばかりの頃だ。海軍も整備途上、財政も不安定。遠い南洋の小国を支援するなど、夢物語と笑われた時代だった。」
目を開けると、光が薄く差し込み、机上の地図の上で白く揺れていた。
「だが今は違う。」
彼の声が、部屋の隅にまで響いた。
「鉄道が走り、電信が繋がり、化学肥料で穀倉が満ちた。……我々は、もはや“届かない国”ではない。」
陸奥は頷きながら、一歩近づいた。
「国王は、再び日本に信頼を寄せておられます。孝明陛下へ縁談の再申請――王女カイウラニ殿下を、日本の名門に嫁がせたいと。」
「カイウラニ王女……」藤村が呟く。「まだ幼いのではないか?」
「九歳です。しかし、象徴としての意味は大きい。アメリカの影を退け、太平洋に日章を掲げる――その一歩になります。」
藤村は机に両手を置いた。
「なるほど……だが、皇室ではなく、他の家で受ける形が自然だろう。」
「徳川家を、お考えですか。」
陸奥の問いに、藤村はゆっくりとうなずいた。
「慶喜公は、既に政の表から退いて久しいが、徳川の名は今も重い。もし彼が承諾すれば、日本とハワイの結びつきは、単なる外交以上の意味を持つ。」
沈黙。
ランプの芯が小さくはぜた。
「……まずは、慶喜公に話を通そう。」
藤村が立ち上がると、陸奥はすぐに一礼した。
「準備をいたします。ハワイの使節には、返答を明朝までお待ち願うよう伝えてあります。」
藤村は頷き、窓の外を見た。
曇天の切れ間から、わずかに青が覗く。遠い南洋の空も、今はこんな色をしているのだろうか。
彼はふと、手にした親書の末尾に視線を戻した。
――〈日本こそ、真の友邦なり〉
その言葉が胸の奥で静かに響いた。
「この小さな書簡が、太平洋を変えることになるかもしれないな……。」
机の上のインク壺にペンを浸し、藤村は新たな指示書を書き始めた。
“至急:徳川慶喜公へ拝謁の件”。
筆先が走るたびに、紙の上に未来の鼓動のような音がした。
部屋を出ると、庭の銀杏がさらさらと鳴った。
その音がまるで、海の波音のように聞こえた。
東京・本郷の丘に立つ徳川邸は、秋の光に包まれていた。
銀杏の葉が風に鳴り、石畳に金の影を落とす。
馬車が静かに止まり、藤村晴人が降り立った。
門をくぐると、砂利道の向こうに白壁の母屋。
水音と風の音だけが響く。東京の喧噪から切り離された空間だった。
「藤村晴人、参上仕ります。」
声をかけると、奥から「通せ」との声。
障子の向こうには、徳川慶喜――四十八歳。
端然とした姿勢のまま文机に向かい、硯に筆を立てていた。
黒の羽織に金糸の葵紋。
その姿に、かつての将軍の風格が残っていた。
「ご無沙汰しております、慶喜様。」
「うむ、藤村殿。君を見ると、時代の移ろいを思うな。」
慶喜は筆を置き、穏やかに微笑した。
「今日はどのような要件で?」
藤村は懐から一通の封筒を取り出した。
「ハワイ王国からの書簡でございます。
カラカウア国王より、再び縁談の申し入れがありました。」
慶喜の目が細くなる。
「再び――あの時以来か。」
藤村が静かに頷く。
「1881年、陛下が来日された折の話でございます。
当時は保守派が強く、国際結婚など到底受け入れられませんでした。
しかし今、状況は違います。」
慶喜は書簡を手に取り、目を通す。
柔らかい英語の筆跡。その文面から、王国の切実な思いが伝わった。
「アメリカの影が濃いな……。
これはもう、外交ではなく生存の問題だ。」
藤村は頷く。
「はい。ハワイの独立が危うい。
しかし日本が手を差し伸べれば、守ることができます。
陛下は“太平洋の時代を拓くため”と仰せです。」
慶喜はしばし沈黙した後、静かに言った。
「で、私に何を求める?」
藤村は一歩進み、深く頭を下げる。
「――慶明様を、縁談のお相手に。」
部屋の空気が一瞬凍った。
庭の竹が鳴り、遠くで鳥が飛び立つ音。
「……そう来たか。」
慶喜は唇をわずかに動かし、やがて微笑した。
「実は、同じことを考えていた。」
藤村が顔を上げる。
「幕府はもう名ばかりになった。だが、徳川の名は生きている。
血を絶やすのではなく、次の時代に橋を架ける――
その役目を果たすべきだ。」
その時、襖の外から軽やかな声がした。
「父上、藤村先生がお見えと聞きました。」
障子が開き、浅葱の羽織をまとった少年が入ってくる。
徳川慶明――十六歳。
整った面立ちに知性の光を宿した瞳。
藤村は思わず微笑した。
「久しいな、慶明君。」
「藤村先生!」
慶明の顔が明るくなる。
「義信と久信が、いつもお世話になっています。
僕も何度か一緒に勉強させてもらいました。」
慶喜が笑う。
「息子たちが学問で繋がっておるとは、愉快なことだな。」
藤村も頷く。
「はい。慶明様は文武両道で、特に語学は群を抜いておられます。
英語も、私より正確です。」
慶明が少し照れたように言った。
「父上に言われて、外国書を読むようにしているだけです。
“時代を知るには他国を読め”と。」
慶喜は微笑しながら、息子を見つめた。
「藤村殿、これが私の息子だ。
まだ若いが、己の使命を見つけるだけの眼を持っている。」
藤村は頷き、真剣な声で言った。
「慶明様。突然ですが、あなたに一つの提案があります。
ハワイ王国のカイウラニ王女との縁談です。」
慶明の瞳が揺れた。
だが驚きよりも、好奇の色が勝っていた。
「……ハワイ。太平洋の向こうの王国ですね。」
「そうです。」藤村はうなずく。
「今、ハワイはアメリカに呑まれようとしています。
この婚約は、ただの儀礼ではありません。
島国同士が助け合う“契り”です。」
慶明は少し考え、静かに言った。
「義信にも久信にも、いつも言っていました。
“日本が変わるなら、外を見なきゃいけない”と。
もしそれがこの道なら――僕は受けます。」
慶喜は目を細め、深く息を吐いた。
「藤村殿、聞いたな。」
「はい。若き徳川に、未来を託せます。」
部屋の外では、風が木々を揺らしていた。
夕陽が障子の縁に滲み、室内の空気を淡い橙に染めていく。
慶喜は立ち上がり、文机の横に置かれた古い地球儀に手を置いた。
「この球の上で、我らが立つのはほんの一点だ。
だがその一点が、海を越えて灯をともす日が来る。
――それを、お前たちの世代に託そう。」
藤村と慶明は同時に頭を垂れた。
その姿を、秋風が包む。
東京の空はすでに夕闇に沈みかけていた。
遠くで汽笛が鳴り、文明の鼓動が街に響く。
その音を聞きながら、藤村は胸の奥で静かに誓った。
――この縁組は、日本の未来を変える。
かつて江戸を守った家が、今度は海を守るのだ。
冬の空は低く垂れ、東京の街を灰色に包んでいた。
皇居の堀に映る雲は鈍く揺れ、北風が水面を走る。
藤村晴人は、外套の襟を整えながらゆっくりと石畳を歩いた。
今日は、国家の未来を左右する一日になる――そう直感していた。
重い扉を抜け、玉砂利を踏みしめる。
彼の歩く先には、天皇陛下が待っている。
あの1881年――カラカウア国王が来日し、ハワイ王国からの縁談が持ちかけられたあの日の決断が、今日再び問われようとしていた。
あの時、藤村はすでに首相の座にあった。
それでも、国内の保守派に押し切られ、縁談を見送るしかなかった。
「時期尚早」「国力不足」「アメリカを刺激する」――その三つの言葉が、耳に焼き付いている。
結果、日本は太平洋の要衝を見過ごした。
それが、四年経った今も藤村の胸に刺さっていた。
冬の冷気を割るように、警備兵の報告の声が響く。
「藤村首相、御前へ。」
彼は軽く頷き、扉を開けた。
謁見の間は静まり返っていた。
香の煙が細く立ちのぼり、金の屏風には松と鶴。
孝明天皇が御座の前にあり、穏やかな眼差しを藤村に向けた。
「……藤村、参れ。」
藤村は深く一礼し、言葉を整えた。
「陛下、ハワイ王国のカラカウア国王より、再び縁談の要請がございました。」
「相手はカイウラニ王女。お年は九つ。
そして、日本側からは徳川慶喜公のご子息、慶明殿下を推挙申し上げます。」
天皇の表情がわずかに動いた。
「……四年前のことを、覚えておるか。」
「はい、陛下。」
藤村は静かに頷いた。
「当時、わたくしは首相として国の責任を負っておりました。
しかし、保守派の反対に抗しきれず、縁談を退けるほかありませんでした。」
天皇は目を閉じ、低く言葉を紡ぐ。
「理由は三つあった。
一つ、アメリカとの関係悪化を懸念した。
二つ、国の力がまだ足りぬと見た。
三つ、あまりに遠すぎた。」
「承知しております。」
藤村は深く頭を垂れた。
「しかし今、状況はまったく異なります。
我が国は電信と鉄道によって結ばれ、港は整備され、海軍も発展しました。
蒸気船を使えば、東京からハワイまでは十日。
もう、遠くはありません。」
天皇は、障子の向こうに広がる冬空を見つめた。
「……四年で、そこまで変わったか。」
「はい。
そして、現在ハワイには一万二千人の日本人が暮らしております。
彼らは、厳しい環境の中で労働し、国の誇りを守っております。
その命を守る責任が、我らにはございます。」
藤村の声が静かに響いた。
冷たい空気の中に、言葉だけが確かな熱を帯びている。
「さらに、慶喜公は幕府の名をもって新たな道を開こうとしておられます。
『幕府は過去の象徴ではなく、未来の柱である』――そう申されました。
徳川慶明殿下とカイウラニ王女の婚約は、
日本とハワイ、両国の未来を結ぶ証となりましょう。」
天皇は長い沈黙ののち、深く息をついた。
「徳川の名が、再び海を越えるか……」
「はい、陛下。
幕府と皇室、そして政府が一つになってこそ、この国は真に独立できます。」
天皇の眉が、わずかに和らいだ。
「おぬしの言葉は、わしの思いと重なる。
――よかろう。」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
冷たかった冬の光が、どこか温もりを帯びて感じられる。
「藤村、伝えよ。
徳川慶明とカイウラニ王女の婚約を、正式に承認する。」
藤村は深く一礼した。
胸の奥に、長く凍っていた痛みが溶けていくのを感じた。
「あの時の迷いを、今日で終わらせよう――」
夜。
官邸の執務室には、地球儀と地図が広げられていた。
ホノルルの位置に小さな赤い印がつけられ、その横に細い線で「航路十日」と書かれている。
暖炉の火がパチパチと音を立て、窓の外では雪が静かに舞っていた。
藤村は一枚の手紙を取り上げ、署名をしたためる。
宛先は「徳川慶喜公」。
内容は簡潔だった。
――「天皇陛下の御裁可を賜りました。
慶明殿下とカイウラニ王女の婚約、正式に発表の準備を進めます。」
封を閉じたあと、藤村は暖炉の炎を見つめながら、ひとり呟いた。
「1881年、我らは恐れに縛られた。
1885年、ようやく未来を選べる。」
机上の地図に指を伸ばす。
東京からハワイへ――その線は細く、けれどもまっすぐだった。
「この線を、未来に変える。」
藤村は立ち上がり、夜空を見上げた。
雪の向こうに見える星が、静かに輝いている。
その光は、太平洋の彼方から届いているようにも思えた。
冬の終わり、東京・霞が関。
空は鉛のように重く、海からの風が街を冷たく撫でていた。
官邸の前庭には報道官や外国使節が集まり、緊張と興奮が入り混じったざわめきが広がる。
この日――日本とハワイの婚約条約が、正式に発表される。
壇上に立つ藤村晴人首相は、静かに視線を巡らせた。
慶喜公、孝明天皇の勅使、そして列席する各国の公使たち。
空気が一瞬、凍りつく。
「本日ここに、日本政府はハワイ王国との婚約条約を締結いたします。」
声は穏やかだったが、会場の奥までしっかりと響いた。
「これは単なる婚姻ではありません。
太平洋を結ぶ、友誼と信頼の証であります。」
その瞬間、列席者の間にざわめきが走る。
アメリカ公使が眉をひそめ、英国の代表が小声で通訳に何事かを囁く。
藤村は動じなかった。
むしろ、胸の奥には静かな確信があった。
――四年前に逃した好機を、今度こそ掴んだのだ。
発表のあと、記者たちが詰めかける。
「総理、アメリカ政府の反応は?」
藤村は一拍置いて、微笑んだ。
「我々は、いかなる国の属国でもありません。
独立国家として、対等な友好関係を築くだけです。」
その一言が、列席者たちの胸を打った。
夜、記者会見が終わると、官邸の執務室には静けさが戻った。
書類の山の向こうに、藤村は湯気の立つ紅茶を置いた。
そこへ、若い久信が入ってくる。
「父さん、今夜の演説……すごかった。」
「演説ではない。」藤村はゆっくりと答えた。
「約束だ。命を懸けて守ると、世界に告げたんだ。」
久信は黙って頷いた。
その横顔に、父のかつての若さを見たようで、藤村の心が微かに揺れた。
――同じ夜、静岡の徳川邸。
慶喜は障子を閉め、文机の前に座っていた。
畳の上に置かれた一通の手紙。
差出人は「藤村晴人」。
封を開くと、そこには達筆な筆跡でこう記されていた。
「陛下の御裁可、正式に賜りました。
慶明殿下とカイウラニ王女の婚約を発表します。
この国の未来を、どうか共に導いてください。」
慶喜は筆を取り、短く返した。
「幕府もまた、新しき海を往く覚悟にございます。」
その横で、十六歳の慶明が立っていた。
薄く笑みを浮かべながらも、その目はまっすぐだった。
「父上……僕、怖いです。」
「何が怖い。」
「国を背負うことが。 でも、逃げたくありません。」
慶喜は、静かに息を吐いた。
「徳川の名は、重い。だがな、慶明――」
「はい。」
「それを軽くするのは、お前たちの時代だ。
誇りを背負うのではなく、誇りを築け。」
慶明は深く頭を下げた。
障子の向こうで、風が竹林を揺らす。
冬の夜が、春を待つように静かだった。
――数日後、ハワイ・ホノルル。
青い海に囲まれた王宮の庭では、椰子の木の影が揺れていた。
カラカウア国王が王座に座り、隣に小さな少女が立っている。
カイウラニ王女――まだ九歳のその瞳は、大人のように澄んでいた。
「日本の徳川家から、慶明殿下が来られる。」
父の言葉に、少女は小さく頷いた。
「……海の向こうの国の人?」
「ああ。だが、やがてその海は、お前たちを隔てるものではなく、結ぶものになる。」
カラカウア王は、空を見上げた。
太陽が傾き、雲が赤く染まる。
ハワイの空に、遠く日本の風が重なって見えた。
翌朝、港に日本の船が着く。
白い軍服に身を包んだ青年が、甲板から降り立った。
徳川慶明――その姿を見た瞬間、王女は息を呑んだ。
まだ少年の面影を残していたが、背筋は伸び、目には迷いがなかった。
「初めまして、カイウラニ様。」
慶明は片膝をつき、礼をした。
王女は小さな手でスカートを摘み、ぎこちなくお辞儀を返した。
「……ようこそ、ハワイへ。」
その声はか細かったが、はっきりと届いた。
ふたりの間を潮風が通り抜け、白い花が舞った。
庭園の奥では、ホノルルの日本人移民たちが手を合わせて祈っていた。
「これで、わしらも守られる……」
皺だらけの手の間に、涙が光る。
やがて夕刻。
波間に夕陽が沈むころ、慶明は船に戻る前にカイウラニに言った。
「七年後、必ず戻ってきます。」
「ほんとう?」
「ええ。そのとき、約束を果たしましょう。」
少女は首にかけていた貝殻のペンダントを外し、彼の掌に乗せた。
「これを持っていてください。海がふたりを結んでくれるように。」
慶明は胸に手を当て、微笑んだ。
「必ず、大切にします。」
その夜、ハワイの港では灯がともり、人々が歌を歌った。
波間に響くその歌は、遠く日本まで届くかのようだった。
――東京。
官邸の窓から見える星空を見上げながら、藤村は呟いた。
「1881年、我らは機を逃した。
だが1885年、子どもたちがそれを取り戻した。」
机の上の地図。
東京からホノルルを結ぶ赤い線が、今はまるで命脈のように見えた。
「この線が、やがて太平洋を越える橋となる。」
暖炉の火が静かに燃える。
藤村は書簡に最後の一文を書き入れた。
――「史実では、カイウラニは23歳で死んだ。
だが、この世界では、生きる。」
ペン先が止まる。
外では夜明け前の風が吹き抜けた。
新しい太陽が、太平洋の彼方から昇ろうとしていた。




