表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

361/470

327話:(1885年・冬)ハワイ王国との絆—太平洋に架かる約束—

秋雨が上がった翌朝、官邸の庭に薄い靄がかかっていた。銀杏の葉が一枚ずつ風に舞い落ち、敷石の上で静かに湿っている。

 藤村晴人は、書類の束を胸に抱えながら、廊下をゆっくりと歩いていた。夜通し灯されたランプの光がまだ残っており、障子の向こうには誰もいない会議室の影が長く伸びていた。


 ――太平洋の向こうから届いた報。

 それは、ハワイ王国からの緊急の書簡だった。


 執務室に入ると、すでに陸奥宗光が待っていた。彼は新しい地図を机の上に広げ、海の中央に赤い丸を描いていた。

 「ここです、ホノルル。近年、合衆国の商人が港を実質支配しています。」

 指先が海図の上を滑る。太平洋の青が、墨のように沈んで見えた。


 「国王は存亡の危機にあります。」

 陸奥の声は低く、しかし確かな響きを持っていた。

 「ハワイ王国の経済は、すでにアメリカ系住民の手に渡りつつあります。砂糖の輸出も、金融も、彼らが牛耳っている。国王カラカウア陛下は、我が国に助力を求めています。」


 藤村は顎に手を当て、海図を見つめた。

 ハワイ――太平洋の中央に浮かぶ小さな島国。だが、通商と航海の時代において、その一点が世界の針路を決める。

 「……もし、ここがアメリカの手に落ちれば、太平洋は一方的な海になる。」

 藤村の声は静かだったが、部屋の空気がひときわ重くなった。


 陸奥は別の資料を開いた。

 「現在、ハワイに在留する日本人は一万二千名。総人口の一割を超えています。多くはサトウキビ農園で働く労働者ですが、最近では商人や教師も増えております。」

 藤村は眉をわずかに動かした。

 「一割……それほどか。もはや他国の問題ではない。」


 窓の外から、風に乗って金木犀の香りが流れ込んだ。

 藤村は椅子に腰を下ろし、ペン先で海図のハワイを軽く叩いた。

 「この国を守ることは、我が国の未来を守ることでもある。」

 そう呟くと、陸奥が封筒を差し出した。

 厚い和紙の表に、丁寧な筆跡で書かれた文字――「日本国孝明天皇陛下へ」。


 「カラカウア陛下の親書です。」

 藤村は慎重に封を切り、数枚の書簡を取り出した。

 最初の一文に目を通した瞬間、彼の表情がわずかに揺らぐ。

 「……再び、縁談の申し入れか。」


 陸奥がうなずいた。

 「四年前にも、同様の話がございました。カラカウア国王は、当時も日本との王室間の縁組を望まれた。ですが、当時の保守派が強く反対し、孝明陛下もご判断を留保されました。」


 藤村は、手紙を膝の上に置いたまま目を閉じた。

 「1881年――まだ我が国が世界の中で歩き始めたばかりの頃だ。海軍も整備途上、財政も不安定。遠い南洋の小国を支援するなど、夢物語と笑われた時代だった。」

 目を開けると、光が薄く差し込み、机上の地図の上で白く揺れていた。


 「だが今は違う。」

 彼の声が、部屋の隅にまで響いた。

 「鉄道が走り、電信が繋がり、化学肥料で穀倉が満ちた。……我々は、もはや“届かない国”ではない。」


 陸奥は頷きながら、一歩近づいた。

 「国王は、再び日本に信頼を寄せておられます。孝明陛下へ縁談の再申請――王女カイウラニ殿下を、日本の名門に嫁がせたいと。」

 「カイウラニ王女……」藤村が呟く。「まだ幼いのではないか?」

 「九歳です。しかし、象徴としての意味は大きい。アメリカの影を退け、太平洋に日章を掲げる――その一歩になります。」


 藤村は机に両手を置いた。

 「なるほど……だが、皇室ではなく、他の家で受ける形が自然だろう。」

 「徳川家を、お考えですか。」

 陸奥の問いに、藤村はゆっくりとうなずいた。

 「慶喜公は、既に政の表から退いて久しいが、徳川の名は今も重い。もし彼が承諾すれば、日本とハワイの結びつきは、単なる外交以上の意味を持つ。」


 沈黙。

 ランプの芯が小さくはぜた。

 「……まずは、慶喜公に話を通そう。」

 藤村が立ち上がると、陸奥はすぐに一礼した。

 「準備をいたします。ハワイの使節には、返答を明朝までお待ち願うよう伝えてあります。」


 藤村は頷き、窓の外を見た。

 曇天の切れ間から、わずかに青が覗く。遠い南洋の空も、今はこんな色をしているのだろうか。

 彼はふと、手にした親書の末尾に視線を戻した。


 ――〈日本こそ、真の友邦なり〉


 その言葉が胸の奥で静かに響いた。

 「この小さな書簡が、太平洋を変えることになるかもしれないな……。」


 机の上のインク壺にペンを浸し、藤村は新たな指示書を書き始めた。

 “至急:徳川慶喜公へ拝謁の件”。

 筆先が走るたびに、紙の上に未来の鼓動のような音がした。


 部屋を出ると、庭の銀杏がさらさらと鳴った。

 その音がまるで、海の波音のように聞こえた。

東京・本郷の丘に立つ徳川邸は、秋の光に包まれていた。

 銀杏の葉が風に鳴り、石畳に金の影を落とす。

 馬車が静かに止まり、藤村晴人が降り立った。

 門をくぐると、砂利道の向こうに白壁の母屋。

 水音と風の音だけが響く。東京の喧噪から切り離された空間だった。


 「藤村晴人、参上仕ります。」

 声をかけると、奥から「通せ」との声。

 障子の向こうには、徳川慶喜――四十八歳。

 端然とした姿勢のまま文机に向かい、硯に筆を立てていた。

 黒の羽織に金糸の葵紋。

 その姿に、かつての将軍の風格が残っていた。


 「ご無沙汰しております、慶喜様。」

 「うむ、藤村殿。君を見ると、時代の移ろいを思うな。」

 慶喜は筆を置き、穏やかに微笑した。

 「今日はどのような要件で?」


 藤村は懐から一通の封筒を取り出した。

 「ハワイ王国からの書簡でございます。

  カラカウア国王より、再び縁談の申し入れがありました。」


 慶喜の目が細くなる。

 「再び――あの時以来か。」


 藤村が静かに頷く。

 「1881年、陛下が来日された折の話でございます。

  当時は保守派が強く、国際結婚など到底受け入れられませんでした。

  しかし今、状況は違います。」


 慶喜は書簡を手に取り、目を通す。

 柔らかい英語の筆跡。その文面から、王国の切実な思いが伝わった。

 「アメリカの影が濃いな……。

  これはもう、外交ではなく生存の問題だ。」


 藤村は頷く。

 「はい。ハワイの独立が危うい。

  しかし日本が手を差し伸べれば、守ることができます。

  陛下は“太平洋の時代を拓くため”と仰せです。」


 慶喜はしばし沈黙した後、静かに言った。

 「で、私に何を求める?」


 藤村は一歩進み、深く頭を下げる。

 「――慶明様を、縁談のお相手に。」


 部屋の空気が一瞬凍った。

 庭の竹が鳴り、遠くで鳥が飛び立つ音。


 「……そう来たか。」

 慶喜は唇をわずかに動かし、やがて微笑した。

 「実は、同じことを考えていた。」


 藤村が顔を上げる。

 「幕府はもう名ばかりになった。だが、徳川の名は生きている。

  血を絶やすのではなく、次の時代に橋を架ける――

  その役目を果たすべきだ。」


 その時、襖の外から軽やかな声がした。

 「父上、藤村先生がお見えと聞きました。」


 障子が開き、浅葱の羽織をまとった少年が入ってくる。

 徳川慶明――十六歳。

 整った面立ちに知性の光を宿した瞳。

 藤村は思わず微笑した。


 「久しいな、慶明君。」

 「藤村先生!」

 慶明の顔が明るくなる。

 「義信と久信が、いつもお世話になっています。

  僕も何度か一緒に勉強させてもらいました。」


 慶喜が笑う。

 「息子たちが学問で繋がっておるとは、愉快なことだな。」

 藤村も頷く。

 「はい。慶明様は文武両道で、特に語学は群を抜いておられます。

  英語も、私より正確です。」


 慶明が少し照れたように言った。

 「父上に言われて、外国書を読むようにしているだけです。

  “時代を知るには他国を読め”と。」


 慶喜は微笑しながら、息子を見つめた。

 「藤村殿、これが私の息子だ。

  まだ若いが、己の使命を見つけるだけの眼を持っている。」


 藤村は頷き、真剣な声で言った。

 「慶明様。突然ですが、あなたに一つの提案があります。

  ハワイ王国のカイウラニ王女との縁談です。」


 慶明の瞳が揺れた。

 だが驚きよりも、好奇の色が勝っていた。

 「……ハワイ。太平洋の向こうの王国ですね。」

 「そうです。」藤村はうなずく。

 「今、ハワイはアメリカに呑まれようとしています。

  この婚約は、ただの儀礼ではありません。

  島国同士が助け合う“契り”です。」


 慶明は少し考え、静かに言った。

 「義信にも久信にも、いつも言っていました。

  “日本が変わるなら、外を見なきゃいけない”と。

  もしそれがこの道なら――僕は受けます。」


 慶喜は目を細め、深く息を吐いた。

 「藤村殿、聞いたな。」

 「はい。若き徳川に、未来を託せます。」


 部屋の外では、風が木々を揺らしていた。

 夕陽が障子の縁に滲み、室内の空気を淡い橙に染めていく。

 慶喜は立ち上がり、文机の横に置かれた古い地球儀に手を置いた。


 「この球の上で、我らが立つのはほんの一点だ。

  だがその一点が、海を越えて灯をともす日が来る。

  ――それを、お前たちの世代に託そう。」


 藤村と慶明は同時に頭を垂れた。

 その姿を、秋風が包む。


 東京の空はすでに夕闇に沈みかけていた。

 遠くで汽笛が鳴り、文明の鼓動が街に響く。

 その音を聞きながら、藤村は胸の奥で静かに誓った。


 ――この縁組は、日本の未来を変える。

  かつて江戸を守った家が、今度は海を守るのだ。

冬の空は低く垂れ、東京の街を灰色に包んでいた。

 皇居の堀に映る雲は鈍く揺れ、北風が水面を走る。

 藤村晴人は、外套の襟を整えながらゆっくりと石畳を歩いた。

 今日は、国家の未来を左右する一日になる――そう直感していた。


 重い扉を抜け、玉砂利を踏みしめる。

 彼の歩く先には、天皇陛下が待っている。

 あの1881年――カラカウア国王が来日し、ハワイ王国からの縁談が持ちかけられたあの日の決断が、今日再び問われようとしていた。


 あの時、藤村はすでに首相の座にあった。

 それでも、国内の保守派に押し切られ、縁談を見送るしかなかった。

 「時期尚早」「国力不足」「アメリカを刺激する」――その三つの言葉が、耳に焼き付いている。

 結果、日本は太平洋の要衝を見過ごした。

 それが、四年経った今も藤村の胸に刺さっていた。


 冬の冷気を割るように、警備兵の報告の声が響く。

 「藤村首相、御前へ。」

 彼は軽く頷き、扉を開けた。


 謁見の間は静まり返っていた。

 香の煙が細く立ちのぼり、金の屏風には松と鶴。

 孝明天皇が御座の前にあり、穏やかな眼差しを藤村に向けた。


 「……藤村、参れ。」


 藤村は深く一礼し、言葉を整えた。

 「陛下、ハワイ王国のカラカウア国王より、再び縁談の要請がございました。」

 「相手はカイウラニ王女。お年は九つ。

  そして、日本側からは徳川慶喜公のご子息、慶明殿下を推挙申し上げます。」


 天皇の表情がわずかに動いた。

 「……四年前のことを、覚えておるか。」


 「はい、陛下。」

 藤村は静かに頷いた。

 「当時、わたくしは首相として国の責任を負っておりました。

  しかし、保守派の反対に抗しきれず、縁談を退けるほかありませんでした。」


 天皇は目を閉じ、低く言葉を紡ぐ。

 「理由は三つあった。

  一つ、アメリカとの関係悪化を懸念した。

  二つ、国の力がまだ足りぬと見た。

  三つ、あまりに遠すぎた。」


 「承知しております。」

 藤村は深く頭を垂れた。

 「しかし今、状況はまったく異なります。

  我が国は電信と鉄道によって結ばれ、港は整備され、海軍も発展しました。

  蒸気船を使えば、東京からハワイまでは十日。

  もう、遠くはありません。」


 天皇は、障子の向こうに広がる冬空を見つめた。

 「……四年で、そこまで変わったか。」


 「はい。

  そして、現在ハワイには一万二千人の日本人が暮らしております。

  彼らは、厳しい環境の中で労働し、国の誇りを守っております。

  その命を守る責任が、我らにはございます。」


 藤村の声が静かに響いた。

 冷たい空気の中に、言葉だけが確かな熱を帯びている。


 「さらに、慶喜公は幕府の名をもって新たな道を開こうとしておられます。

  『幕府は過去の象徴ではなく、未来の柱である』――そう申されました。

  徳川慶明殿下とカイウラニ王女の婚約は、

  日本とハワイ、両国の未来を結ぶ証となりましょう。」


 天皇は長い沈黙ののち、深く息をついた。

 「徳川の名が、再び海を越えるか……」

 「はい、陛下。

  幕府と皇室、そして政府が一つになってこそ、この国は真に独立できます。」


 天皇の眉が、わずかに和らいだ。

 「おぬしの言葉は、わしの思いと重なる。

  ――よかろう。」


 その瞬間、部屋の空気が変わった。

 冷たかった冬の光が、どこか温もりを帯びて感じられる。


 「藤村、伝えよ。

  徳川慶明とカイウラニ王女の婚約を、正式に承認する。」


 藤村は深く一礼した。

 胸の奥に、長く凍っていた痛みが溶けていくのを感じた。

 「あの時の迷いを、今日で終わらせよう――」


 夜。

 官邸の執務室には、地球儀と地図が広げられていた。

 ホノルルの位置に小さな赤い印がつけられ、その横に細い線で「航路十日」と書かれている。

 暖炉の火がパチパチと音を立て、窓の外では雪が静かに舞っていた。


 藤村は一枚の手紙を取り上げ、署名をしたためる。

 宛先は「徳川慶喜公」。

 内容は簡潔だった。


 ――「天皇陛下の御裁可を賜りました。

  慶明殿下とカイウラニ王女の婚約、正式に発表の準備を進めます。」


 封を閉じたあと、藤村は暖炉の炎を見つめながら、ひとり呟いた。

 「1881年、我らは恐れに縛られた。

  1885年、ようやく未来を選べる。」


 机上の地図に指を伸ばす。

 東京からハワイへ――その線は細く、けれどもまっすぐだった。


 「この線を、未来に変える。」


 藤村は立ち上がり、夜空を見上げた。

 雪の向こうに見える星が、静かに輝いている。

 その光は、太平洋の彼方から届いているようにも思えた。

冬の終わり、東京・霞が関。

 空は鉛のように重く、海からの風が街を冷たく撫でていた。

 官邸の前庭には報道官や外国使節が集まり、緊張と興奮が入り混じったざわめきが広がる。

 この日――日本とハワイの婚約条約が、正式に発表される。


 壇上に立つ藤村晴人首相は、静かに視線を巡らせた。

 慶喜公、孝明天皇の勅使、そして列席する各国の公使たち。

 空気が一瞬、凍りつく。


 「本日ここに、日本政府はハワイ王国との婚約条約を締結いたします。」

 声は穏やかだったが、会場の奥までしっかりと響いた。

 「これは単なる婚姻ではありません。

  太平洋を結ぶ、友誼と信頼の証であります。」


 その瞬間、列席者の間にざわめきが走る。

 アメリカ公使が眉をひそめ、英国の代表が小声で通訳に何事かを囁く。

 藤村は動じなかった。

 むしろ、胸の奥には静かな確信があった。

 ――四年前に逃した好機を、今度こそ掴んだのだ。


 発表のあと、記者たちが詰めかける。

 「総理、アメリカ政府の反応は?」

 藤村は一拍置いて、微笑んだ。

 「我々は、いかなる国の属国でもありません。

  独立国家として、対等な友好関係を築くだけです。」

 その一言が、列席者たちの胸を打った。


 夜、記者会見が終わると、官邸の執務室には静けさが戻った。

 書類の山の向こうに、藤村は湯気の立つ紅茶を置いた。

 そこへ、若い久信が入ってくる。

 「父さん、今夜の演説……すごかった。」

 「演説ではない。」藤村はゆっくりと答えた。

 「約束だ。命を懸けて守ると、世界に告げたんだ。」


 久信は黙って頷いた。

 その横顔に、父のかつての若さを見たようで、藤村の心が微かに揺れた。


 ――同じ夜、静岡の徳川邸。

 慶喜は障子を閉め、文机の前に座っていた。

 畳の上に置かれた一通の手紙。

 差出人は「藤村晴人」。

 封を開くと、そこには達筆な筆跡でこう記されていた。


 「陛下の御裁可、正式に賜りました。

  慶明殿下とカイウラニ王女の婚約を発表します。

  この国の未来を、どうか共に導いてください。」


 慶喜は筆を取り、短く返した。

 「幕府もまた、新しき海を往く覚悟にございます。」


 その横で、十六歳の慶明が立っていた。

 薄く笑みを浮かべながらも、その目はまっすぐだった。

 「父上……僕、怖いです。」

 「何が怖い。」

 「国を背負うことが。 でも、逃げたくありません。」


 慶喜は、静かに息を吐いた。

 「徳川の名は、重い。だがな、慶明――」

 「はい。」

 「それを軽くするのは、お前たちの時代だ。

  誇りを背負うのではなく、誇りを築け。」


 慶明は深く頭を下げた。

 障子の向こうで、風が竹林を揺らす。

 冬の夜が、春を待つように静かだった。


 ――数日後、ハワイ・ホノルル。

 青い海に囲まれた王宮の庭では、椰子の木の影が揺れていた。

 カラカウア国王が王座に座り、隣に小さな少女が立っている。

 カイウラニ王女――まだ九歳のその瞳は、大人のように澄んでいた。


 「日本の徳川家から、慶明殿下が来られる。」

 父の言葉に、少女は小さく頷いた。

 「……海の向こうの国の人?」

 「ああ。だが、やがてその海は、お前たちを隔てるものではなく、結ぶものになる。」


 カラカウア王は、空を見上げた。

 太陽が傾き、雲が赤く染まる。

 ハワイの空に、遠く日本の風が重なって見えた。


 翌朝、港に日本の船が着く。

 白い軍服に身を包んだ青年が、甲板から降り立った。

 徳川慶明――その姿を見た瞬間、王女は息を呑んだ。

 まだ少年の面影を残していたが、背筋は伸び、目には迷いがなかった。


 「初めまして、カイウラニ様。」

 慶明は片膝をつき、礼をした。

 王女は小さな手でスカートを摘み、ぎこちなくお辞儀を返した。

 「……ようこそ、ハワイへ。」


 その声はか細かったが、はっきりと届いた。

 ふたりの間を潮風が通り抜け、白い花が舞った。


 庭園の奥では、ホノルルの日本人移民たちが手を合わせて祈っていた。

 「これで、わしらも守られる……」

 皺だらけの手の間に、涙が光る。


 やがて夕刻。

 波間に夕陽が沈むころ、慶明は船に戻る前にカイウラニに言った。

 「七年後、必ず戻ってきます。」

 「ほんとう?」

 「ええ。そのとき、約束を果たしましょう。」


 少女は首にかけていた貝殻のペンダントを外し、彼の掌に乗せた。

 「これを持っていてください。海がふたりを結んでくれるように。」


 慶明は胸に手を当て、微笑んだ。

 「必ず、大切にします。」


 その夜、ハワイの港では灯がともり、人々が歌を歌った。

 波間に響くその歌は、遠く日本まで届くかのようだった。


 ――東京。

 官邸の窓から見える星空を見上げながら、藤村は呟いた。

 「1881年、我らは機を逃した。

  だが1885年、子どもたちがそれを取り戻した。」


 机の上の地図。

 東京からホノルルを結ぶ赤い線が、今はまるで命脈のように見えた。

 「この線が、やがて太平洋を越える橋となる。」


 暖炉の火が静かに燃える。

 藤村は書簡に最後の一文を書き入れた。


 ――「史実では、カイウラニは23歳で死んだ。

  だが、この世界では、生きる。」


 ペン先が止まる。

 外では夜明け前の風が吹き抜けた。

 新しい太陽が、太平洋の彼方から昇ろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ