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33.5話炎の器、静かなる継承

夜が明けきる前――まだ、朝靄が城下を包んでいる頃だった。


 製糸舎の奥で、晴人は立ったまま帳面を見ていた。女子らが繰る糸の張り具合、回転数、湿度。ひとつひとつ目を通す。冬へ向けての量産体制、早めに整えておく必要があった。


 「おはようございます、晴人様。……あの、昨夜は帰られたので?」


 「……三日前かな。仮眠室で、少しだけ」


 返された声に、女工たちが顔を見合わせた。晴人は笑って誤魔化すが、目の下の隈は隠せない。


 次に向かったのは銃工房。


 「引き金の動き、鈍ってるな。油が冷えすぎてる。炉の火、三割強くしよう」


 「はい、旦那!」


 若い職人たちはすぐ動いた。彼らの視線には敬意が宿る。晴人は言葉少なく、それでいて確かに“仕事を知っている”男だった。


 「あと……来月から製鉄所の基礎工事を始めたい。炉の規模と、鉄鉱の供給計画、再度まとめてくれ」


 「製鉄所……いよいよ、ですか?」


 「水戸式銃を量産するなら、鋼の自給は避けて通れない」


 そう言い残し、晴人は次の場所へと足を向けた。


 午前八時、啓学館。


 晴人は黒板の前に立ち、冶金の基礎構造を子どもたちに説いていた。鉄が赤くなる温度、柔らかさと硬さの違い、そして――何より“火の扱い方”。


 「覚えておくんだ。火は便利だが、恐ろしい。だが恐れすぎると、道具は手に入らない」


 「はい、先生!」


 その声に応える笑顔はあったが、どこか疲れが混じっていた。


 午後、商会の帳簿確認。月末の支払い、藩札流通の調整、木綿と銅の相場の再確認。米焼酎の商いは好調だが、醤油は供給過剰で価格が落ち始めていた。


 「……こっちは夜に回すか」


 小声で呟いたあと、晴人はそっと足を引きずるようにして立ち上がった。


 その帰り道――


 「晴人様! この猫車、ほんに助かってます。背負子よりずっと楽だ」


 田畑帰りの農民が、笑って手を振る。


 「この前の石鹸、母に持っていったら、とても喜んで……いい香りです。晴人様の、おかげで……」


 町娘がぺこりと頭を下げた。


 晴人はその一人一人に、静かに笑顔を返す。


 だが、誰も見ていない道の角――彼は、短く息を吐いて、足をさすった。


 その夜。


 火鉢の前で、晴人は湯呑を手にしていた。向かいには、警護役の河上が座っていた。


 「警護の務めを果たしながらも、こうして主と酒を酌み交わせる時があるとは……不思議なものです」


 「剣を持つも、生きるも……道を選ぶのは自分です」


 二人の間にあったのは、米焼酎だった。辛口で、米の旨みが深く、舌に残る。


 肴は、焦げ目をつけた焼き味噌。香ばしい匂いが部屋を包む。


 「で、村田が言ってたが――製鉄所を建てるって?」


 「ええ。水戸で鉄を焼く……それが、未来を変える鍵になります」


 「無理をなさるな。今の晴人様のお顔は、今にも崩れてしまいそうに見えます」


 「……あと少しだけ、です」


 笑ってみせたが、手はわずかに震えていた。


 火鉢の火が静かに揺れる中、ふたりはしばし無言で酒を酌み交わした。晴人は、明かりに照らされた帳面を開くと、黙って何かを書き始めた。


 ――その手が、止まる。


 眠気が限界を超え、重力に引かれるように机に突っ伏した。


 「……まったく」


 河上は、呆れたように笑いながらも、そっと布団をかけた。晴人の背に掛けた布を直しながら、ぽつりと呟いた。


 「お前の手が、守ったものだ……忘れるなよ」


 夜の帳が、静かに、水戸の空を包んでいた。

午後の陽が傾きかける頃、晴人は町役所の帳場にいた。


 小口取引の明細、酒造からの収支報告、藩札流通に関わる交換比率──並ぶ紙束に目を通し、朱を入れていく。


 「こちら、今年の新酒分です。猫印の蔵元、米焼酎の出来がよいとか」


 「……では、木綿の仕入れも一段階上げて。香りを引き立てる包装にしたい」


 指示を出す声は落ち着いているが、瞼が重く、瞬きをするたび焦点がずれた。


 「晴人様、大丈夫で?」


 若い役人が心配そうに訊ねる。


 「うん……ありがとう。少し、目が乾いてるだけだ」


 そう言って笑ったが、机の陰では手がわずかに震えていた。


 陽が沈む頃、晴人は城下の材木問屋に立ち寄った。製鉄所の炉心に使う耐火煉瓦と、鋼を冷却するための水槽設計を確認するためだ。


 「この木材、伐ったのは二年前の冬です。芯までよく乾いてる。炉台に使えば、五年は持ちます」


 「助かる。鉄の命は、熱と水と、そして“材”で決まるからな……」


 職人が感心したように笑う。


 「晴人様は、ほんに何でも知っておいでだ」


 「いや、皆が支えてくれるからだよ。……本当に」


 そう答える声に、微かに疲労が滲んでいた。


 やがて夜の帳が降り始める。城下は提灯の灯りがともり、風が冷え始めていた。


 晴人は帰路に就く。


 道すがら、商店の娘が声をかけてきた。


 「この前の石鹸、母がとても喜んでました。晴人様の香りがするって……ふふ」


 「それは光栄だな。香りだけでも残せたなら」


 「はい。母、あんなに笑ったの久しぶりでした」


 晴人は微笑みを返し、軽く頭を下げる。


 その直後、道の陰で彼は足を止め、膝に手をついた。


 「……ふぅ」


 短く息を吐き、額の汗を袖で拭う。


 だが、誰にもその姿を見せはしなかった。


 その夜──


 家の囲炉裏に火が灯ると、河上が湯を沸かし、米焼酎を二つの湯呑みに分けた。


 「今夜は、あまり冷えませんね」


 「……そうだな。だが、骨の節々が冷えているように感じるよ」


 晴人は湯呑を受け取り、一口すすった。


 芳醇な香りと、米の旨みが口内に広がり、心なしか、肩の力が抜けていく。


 肴は焼き味噌。軽く炙ったそれを箸でつまみ、少しだけ焼酎に浸す。


 「製鉄所の図面……炉心と排熱溝の部分、気になりますか?」


 「うん。今日、材木問屋で相談してきた。良い材を確保できそうだ」


 「それは安心いたしました」


 二人の間に、しばし静寂が流れる。


 薪の爆ぜる音が、部屋を優しく包む。


 やがて河上が、静かに言った。


 「晴人様。……お身体をお労わりくださいませ。警護の務めを果たしながらも、こうして主と酒を酌み交わせる時があるとは……不思議なものです」


 晴人はわずかに目を細めた。


 「河上がいてくれて、俺は安心して前を向けている。……そのことを、忘れたことはないよ」


 「恐縮です」


 そう言って、河上はそっと湯を注ぎ足した。蒸気が立ちのぼり、囲炉裏の灯りに揺れる。


 晴人は、手元の帳面を開き、鉛筆を取った。だが、数文字も書かぬうちに、筆先が宙を泳ぎはじめた。


 思考がついてこない。目が霞む。背筋が鈍く痛む。


 晴人はそれでも、無理やり筆を進めようとした。だがその手が止まり、やがて力を失って、帳面の上に置かれたまま動かなくなった。


 湯呑のぬくもりが残る掌を膝の上に置いたまま、晴人はそのまま前へと倒れ込むように、静かに眠りに落ちた。


 河上は何も言わず、黙って立ち上がった。


 そっと湯呑を片づけ、火鉢に手を伸ばして炭を調整する。音を立てぬように、布団を押入れから取り出し、晴人の背に優しくかけた。


 その手が、ほんの一瞬だけ止まる。


 河上は晴人の指先を見下ろした。鉛筆の跡が残る痕、夜遅くまで記された計算の列、そのひとつひとつが、静かに河上の胸に沁みた。


 「……晴人様の歩みが、誰かの明日を照らすのなら」


 誰に聞かせるでもなく、火のように小さな声で呟く。


 「この手が、何度でもお守りいたします」


 囲炉裏の火はなお赤く、揺らめいていた。


 その夜、部屋の片隅には、まだ閉じられていない帳面と、晴人の静かな寝息だけが、確かにあった。

火鉢の炭が、ぱちりと音を立てた。

 その響きが静けさを裂くように、部屋の空気が少し動いた。


 晴人は帳面を閉じた。もう、数字も図面も、頭に入ってこなかった。


 「……ちょっと、歩いてくるよ」

 そう言って立ち上がると、膝が一瞬、かすかに笑った。


 河上は立ち上がりかけて、だがすぐ座り直す。

 「お気をつけて。遠くまでは行かれませぬよう」

 その声は穏やかだが、やや硬い。たぶん、晴人の疲れを察しているのだろう。


 晴人は頷き、上着を羽織ると、静かに戸を開けた。


 外は、薄く霧が立っていた。

 水戸の夜は、秋の深まりとともに湿気を孕む。城下の屋根はどれも眠ったように沈黙し、遠くの寺の鐘が、ひとつ、遅れて鳴る。


 晴人は手に提灯を持ち、ゆっくりと坂を下りていった。


 目指す先は、工事中の製鉄所だった。


 月の光を受けた足場が、まるで白骨のように組まれている。

 この骨が、鉄という命を支える。そう思うと、どこか背筋が伸びるようだった。


 ――この土地に、鋼を産む炉を築く。


 それは、経済の要でもあり、民の未来への橋でもある。


 「……俺が病んでも、止めてはいけない。誰かが続けられる仕組みにしなくては……」


 誰にも聞かれぬよう、晴人はつぶやいた。


 仮設の木橋を渡りながら、彼は炉心の位置に立った。周囲にはすでに地鎮が進められ、基礎の下地が露出していた。地面は粘土質で、工事のために整えた赤土が、湿っている。


 懐から一枚の紙を取り出す。

 現代で写した、炉構造の図面。耐火煉瓦の積層法、水冷機構、排熱設計――数百年後の知識が、手の中にあった。


 「再現できるかどうかじゃない。……やるしかないんだ」


 呟く声は、自分に言い聞かせるようでもあった。


 思えば、この数ヶ月、走り続けていた。


 鉄の商流、水運の整備、藩札と通貨の信用、農地改革、石鹸と医薬品の普及――どれも中途だ。それでも進めなければならなかった。なぜなら、止まれば誰かの生活が壊れるからだ。


 「……でも、正直なところ、少し……息が切れてきたな」


 そのとき、足音がした。


 後ろを振り返ると、河上がいた。

 羽織のまま、何も言わずに立っていた。


 「来たのか」


 「……はい。主君の足音が、いつもより重かったので」


 「……そっか」


 晴人は、視線を炉の中心に戻す。


 「ここが……俺たちの“のろし”になる。江戸でも、京でも、長州でもない。“ここ”で、鋼を焼くんだ。戦のためじゃない、民の暮らしのために」


 河上は黙って頷いた。

 ふだんは余計な言葉を持たない男だ。だが今は、その沈黙が晴人を支えていた。


 「この国が、剣の時代から次に進むには……火と土の時代を通らなきゃいけない。土を掘り、火を扱い、鉄を鍛えて、人を守る武器を“道具”に変えるんだ」


 その声には、静かな熱があった。


 だが、次の瞬間――


 足元の石に躓いた拍子に、晴人は体のバランスを崩した。


 「……くっ」


 膝をついた。息が、荒くなる。寒さのせいだけではなかった。


 「晴人様!」


 河上が駆け寄り、支える。


 「大丈夫。……ちょっと、足が動かなかっただけだ」


 そう言いながら、晴人は肩で息をしていた。


 「お背を、お貸しします。無理を、なさらぬよう」


 「……ありがとな」


 河上の肩を借りながら、晴人はゆっくりと坂を上った。


 夜空の星が、静かに彼らを照らしていた。


 焚き火のように灯った二人の歩みが、やがて闇に消えていく――

 その足跡が、未来へと繋がっていることを、誰が知っていただろう。

夜が明ける頃、晴人はまだ目を覚ましていなかった。


 河上は主の寝室にそっと目をやり、布団の端を整える。晴人の額には薄く汗が滲んでいたが、呼吸は静かで安定していた。


 「……もう少し、お休みください」


 呟くような声でそう言い残し、河上は襖を静かに閉める。


 彼は囲炉裏端に戻ると、火を熾した。

 朝餉の支度はすでに終わっていたが、晴人の体が冷えぬよう、室内の温度を保つための焚き火だ。


 薪がくすぶり、やがて小さく炎が立ち上る。

 橙色の光が木目に染み込み、まだ薄暗い部屋をじわじわと温めていく。


 河上は、背筋を伸ばして座り直す。

 ――主が倒れぬようにする。自分の務めは、それに尽きる。そう、何度も自分に言い聞かせていた。


     ※


 朝の刻限が近づく頃、晴人は目を覚ました。


 「……少し、寝過ごしたか」


 その声に、かすかな掠れがあった。

 起き上がろうとして、体の節々に痛みが走る。膝、腰、そして肩――まるで全身が鉛でできているような重さだった。


 (やれやれ……)


 無理をしている自覚は、あった。

 だが、止まれば崩れる。ならば歩き続けるしかない。


 立ち上がった晴人の足取りは、昨日までよりもわずかに遅い。

 河上は朝餉の膳を並べながら、気づかぬふりをしていた。


 「おはよう、河上」


 「お目覚めで何よりです。少し、顔色がすぐれませぬが……」


 「……鏡を見たら、自分でも驚きそうだ」


 軽く笑って誤魔化す。

 膳には焼いた鰯、沢庵、粥、そして薄い味噌汁。すべて、消化に良く、身体を温めるものだ。


 晴人は少し箸をつけた後、味噌汁をすすった。

 その味に、どこか懐かしさを感じる。

 ――そうだ、あの冬も、体調を崩してこの味噌汁に助けられた。


 「今日の予定は?」


 「午前は鋼材の検査、午後からは藩札の流通会議。夜に、藩校での講義がございます」


 「……一つ、減らそうか。さすがに今日は……」


 言いかけたその時。


 戸を叩く音がした。

 訪問者の気配は、柔らかく、だがどこか急いていた。


 「おいでください」


 入ってきたのは、藩校の生徒の一人だった。

 まだ十五、六の少年。顔色は青ざめ、手には紙束を持っていた。


 「晴人様……これを。藩校の炉が、崩れかけています」


 「何?」


 受け取った紙には、炉の設計と実測の差異が細かく記されていた。

 炉の底面に沈下が生じており、熱圧で変形している可能性があると。


 「講義どころではないな……現場に行こう」


 「しかし、晴人様。今朝はまだ――」


 「このまま放置すれば、誰かが怪我をする」


 晴人は立ち上がり、羽織を手に取った。

 膝が痛んだが、それでも歩き出す。


 「河上、同行を」


 「はっ」


     ※


 藩校の敷地に着くと、すでに数人の若者が集まっていた。


 火の気は消えていたが、炉の壁面には亀裂が走っていた。

 晴人は慎重に歩を進め、炉の縁に手を添えた。


 「……土台が脆い。もっと粘土質を混ぜるべきだった」


 その場でスケッチを描き、補強材の構造を即座に指示する。

 若者たちが一斉に走り出し、手分けして資材を集め始めた。


 晴人は、その様子を見ながら、自身の左手の震えに気づいた。


 「……くそ」


 震えは、止まらない。


 河上が隣に立つ。


 「お戻りください、晴人様。これ以上は……」


 「まだ終わっていない。火を扱う以上、最後の確認は俺がやる」


 その声に、河上は押し黙る。

 晴人が下した決断を、彼は知っていた。自分の身を削ってでも、誰かを守ろうとする姿を、これまで何度も見てきた。


     ※


 午後になり、炉の応急補修が完了した。


 晴人は最後の点検を終えると、ようやくその場にしゃがみ込んだ。

 額には汗、呼吸は浅く、口元は青い。


 「河上……悪い、肩を……」


 「はい」


 支えられて立ち上がりながら、晴人は静かに言った。


 「この炉は、ただ鉄を焼く道具じゃない。……未来を鍛える器なんだ。俺たちが倒れても、残せるものにしないと」


 河上は頷いた。

 その言葉が、決して虚言ではないことを、この地で生きる者たちは知っている。


 秋の風が吹いた。

 晴人の羽織がふわりと揺れ、その下に包帯の白がちらりと覗いた。


 疲弊の兆候は、誰にも見えないように隠されていた。


 それでも彼は、炉のそばに立ち続けていた。

 炎が絶えぬ限り――この国の心が、消えない限り。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


もし本作を楽しんでいただけましたら、

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引き続き、よろしくお願いいたします。

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