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325話:(1885年・春)鉄道と地域経済

春の湿り気を含んだ風が大阪駅の新しいプラットフォームを吹き抜け、磨き上げられた鋼レールの上を光が走った。蒸機の吐く白煙は、真新しい上屋うわやの梁に沿ってゆっくりと流れ、祝賀の旗がかすかに鳴る。鼓笛が高らかに前奏を響かせると、人波の前列で藤村晴人が一歩進み出た。


 「この線路は、街と街をつなぐだけではない。人の時間を縮め、機会を広げ、暮らしを変える道だ。」


 短い言葉に、集まった商人や職工、遠路はるばる視察に来た農民たちがうなずく。背後で黒光りする機関車が低く唸り、真鍮の鐘が一度鳴った。かつて四日かかった江戸—大阪の道程は、今日から一日に縮む。時刻表を手にした鉄道局の役人が新ダイヤを掲げると、どよめきが波のようにホームの端まで広がった。


 工部大臣が続く。「この区間の最後の二百五十キロは、設計の見直しと部材の規格統一で工期を短縮した。鋼材は国産を主に、一部は貿易で補った。保線隊の育成も間に合っている。」


 プレスの鉛版に刻まれる音がする。欧州の視察団がメモを取り、新聞記者が鉛筆を走らせる。汽缶の熱で揺らぐ空気の向こう、貨物ホームには木箱と俵が積み上がり、荷役人足が黙々とロープを操っている。柑橘や野菜の入った木箱には、地方の駅名と出荷印が鮮やかに押されていた。


 「今日の一番列車は、北からの穀と南からの綿を満載して江戸へ向かう。」藤村は人々に向けて右手を広げる。「ここに集った諸君の汗が、この国の骨格を形にした。機関士、保線夫、信号手、駅逓員、設計者、そして軌道の下に土地を譲った人々の覚悟に、敬意を表する。」


 ホームの隅に、煤にまみれた制服の機関士たちが直立し、帽を胸に当てた。彼らの目元に、一瞬だけ誇りの火がともる。先頭の機関車は、艶のある黒。ピストン棒は潤滑油で濡れ、クロスヘッドが規則正しく呼吸している。運転台に立つ若い機関士が、計器を確かめながら握り棒をさすった。


 開通記念の特別切符が配られ、子どもたちが小さな手で受け取って跳ねる。肩に手拭いをかけた魚屋が、荷札を見上げてぼそりと漏らす。「夜のうちに江戸へ出せるのか……」隣の青物問屋が応じた。「鮮度で負けない。値も張れる。」二人の会話の向こうで、写真師が黒い布を被り、三脚の上の箱に目を落とした。


 鉄路の脇では、政庁からの随員が立ち会い、線路際の標杭に白布を結ぶ儀。鋲の打ち込まれた枕木が黒々と並び、砂利道床は固く締められて足裏に小さな痛みを返す。信号扱所の窓にはテレグラフの電鍵が据えられ、係員が指先で軽く触れては、音の具合を試していた。列車の速度だけでなく、情報の速度も、この日から一段上がる。


 やがて、出発の到来。駅長が懐から懐中時計を出し、銀の蓋を静かに弾いた。秒針が定刻を指すや、白手袋の腕が高く上がる。合図旗が振られ、汽笛が鋭く空を切った。重い連結器が一つ、また一つと鳴り、列車はわずかに身をしならせて動き出す。初速は慎重だが、すぐに滑らかなリズムがレールに乗り移り、車輪の音は一定の韻律に変わっていく。


 プラットフォームの端で、年老いた農夫が帽子を胸に当て、ゆっくりと頭を下げた。その横顔には、誇らしさと同じくらいの翳りがあった。列車が伸び、光沢のある客車が流れていく。窓越しに、若い職工が手を振り返し、見送りの少女の赤い帯がひるがえる。最後尾の緩急車が通り過ぎると、ホームに残った風だけが、しばらく人々の頬を撫でていった。


 式が終わっても、場はすぐには解けなかった。取引帳を開いて列車ダイヤと睨み合う商人、明日からの荷の積み方を早口で確認し合う人足、遠くから見に来た村の若者たちが、レールの継ぎ目を指でなぞっては顔を見合わせる。藤村は袖口を軽く直し、工部大臣とともにホームの端をゆっくり歩いた。足元に続く二本の線は、南北へ伸び、都市と村を、港と内陸を、これから容赦なく結び直すだろう。


 「速さはしを問わず、すべてを運びます。」藤村は小声で言い、視線を遠くの車止めに投げた。「繁栄も、格差も。」


 工部大臣は頷いた。「だからこそ、配分の設計が肝要です。」


 午後の光が、ポイントの刃先はさきに細い稲妻を描いた。新しい国の鼓動が、レールの下から微かに伝わってくる。大阪駅の喧騒は、ただの祝祭ではない。動き出した巨大な仕組みの、最初の呼吸だった。

常陰州の春は、風がやわらかく、田の畦に菜の花が揺れていた。

 黒い機関車が白い蒸気を噴き上げて通り過ぎるたび、村人たちは手を止めてその姿を見送る。

 汽笛の響きが山の端へと消えていく。

 線路のある村とない村――その違いが、日ごとに目に見えるようになっていた。


 駅近くの集落では、荷車が朝から行き交い、農夫たちの顔には活気があった。

 「ほら見ろ、朝に積んだ大根が、今夜には江戸の市場だ。」

 「前は三日もかかって、着くころには萎れてたもんな。」

 笑い声があがり、子どもたちが車輪の跡を追いかける。

 乾いた土の匂いと油煙が混ざり、村全体が新しい息づかいを覚えたかのようだった。


 収穫を積み込む馬車の列が、駅の坂道に延びていく。

 貨車の中では木箱が隙間なく並び、札には「常陰州産」の朱文字が踊る。

 青物の色艶がそのまま届き、値も倍に跳ね上がった。

 「化学肥料を使った畑も、よく実るようになった」と農夫が誇らしげに語る。

 かつて湿気を恐れて夜明け前に荷を出した日々は、もう遠い昔のようだった。


 一方で、山沿いの村は静まり返っていた。

 ぬかるむ道を、牛車がきしみながら進む。

 積み荷の大根を覆うむしろは乾き、手綱を握る老人の顔に深い皺が刻まれている。

 「駅まで三日かかる。途中でしなびちまう。値なんか、つきゃしねえ。」

 その隣で若者が、泥のついた足袋を見下ろした。

 「駅のある村は笑ってる。こっちは、昔のままだ。」

 誰も返さなかった。風が吹き抜け、道端の草が伏せた。


 同じ常陰州の空の下でも、笑う者と沈む者がいた。

 機関車の汽笛は遠く、村の上を越えていく。

 その音を聞くたびに、彼らは胸の奥に小さな棘のようなものを感じていた。

 ――それが「繁栄」という名の音であることを、まだ誰も言葉にはできなかった。

海からの風が塩を運び、畦に積まれた藁がぱりぱりと乾いていた。

 九州の村は、陽射しの強さとは裏腹に静かだった。道はまだ土のまま、荷車の轍が深く刻まれている。


 年配の百姓が、藁縄で結わえた俵に手を置いた。

 「江戸まで十日。船を待ち、潮を待ち、風を待つ。着くころには値が落ちる。」

 若者が俵を押し上げ、首に流れる汗を拭った。

 「向こうじゃ、線路で一日だってよ。新しい米が、昨日の顔のまま並ぶんだと。」

 誰も笑わない。牛の鼻輪がかすかに鳴った。


 浜の小さな蔵で、商人が算盤を弾く。

 「運賃二円、保管に小銭、船頭への祝儀。手元に残るのは……ふむ、三円。」

 紙に書かれた数字が、潮気を含んだ空気の中でじっとりと重く見えた。

 窓から見える沖には、帆柱が林のように並び、出港の合図を待っている。

 潮が満ちるまでに荷を積み切れなければ、また一日が失われた。


 夜、村の集会小屋にランプが灯った。

 「江戸の相場が見えぬから、言い値で手放すほかない。」

 「電信があればと聞いた。だが、ここには線がない。」

 ざわめきは低く、長かった。板の間に落ちる光が、男たちの顔を斜めに切り分ける。

 やがて一人が立ち上がった。濃い眉の下の眼に火が宿っている。

 「行こう。江戸へ。陳情だ。九州にも線路を通せと、正面から言おう。」


 冬を越えた海路と陸路をつないで、代表団は江戸へ入った。

 霞ヶ関の並木はまだ裸枝のままだが、石畳は新しく、車輪が乾いた音を返した。

 扉の向こう、広間は磨き上げられ、硝子窓から淡い光が射し込んでいる。


 先頭の男が深く一礼した。

 「総理。九州にも線路を。今のままでは、土地がやせても心だけが燃え、やがては灰になります。」

 隣の壮年が言葉を継いだ。

 「海は時に味方、時に敵。風待ちの一日が、子どもの口を一つ塞ぎます。どうか、道を――鉄の道を。」


 しばしの沈黙。

 藤村晴人は、机上の地図に視線を落とし、その上で鉛筆を静かに回した。

 「わかった。話を聞かせてくれ。」

 九州の男たちの声は、潮鳴りのように途切れず続いた。運賃の重さ、相場の不透明、若者の流出、そして国境に近いという不安。

 「朝鮮半島の向こう岸で火の手が上がれば、最初に煙を吸うのは我らです。」

 言い終えて、彼らは深く頭を垂れた。


 閣議の間に地図が広がる。列島を縫う赤い線は、江戸から大阪までは太く、そこから先は糸のように細い。

 工部大臣が資料束を開いた。

 「大阪から九州へ伸ばす幹線、資材と人足の手当ては可能。ただし、他の地域の支線は遅れます。」

 大蔵卿が唇を結ぶ。

 「財の袋は一つ。どこかを締めれば、どこかが痩せる。」

 長い卓の端で、若い将校が口を開いた。

 「九州を結べば、兵站が変わります。海に頼らず軍要地へ人馬を送れる。」

 室内の空気が、少しだけ動いた。


 藤村は、窓外の空を一瞥してから言った。

 「九州を先にやる。他は――」

 そこで言葉を切り、指先で地図の支線をそっと撫でた。

 「常陰の支線、北陸、四国。順次に。約束は生きている。ただ、順が入れ替わる。」

 その声は低く、決して強くはなかったが、揺れはなかった。


 決まれば早い。

 陸奥宗光が手配に走り、工部省は資材の割り振りをやり直した。

 ただ、その知らせが常陰へ届いたとき、役所の戸口に集まった農民たちの顔には、影が差した。

 「先に土地を明け渡したのは、俺たちだ。」

 「肥も入れた。電信も受け入れた。なのに、線はあと回し。」

 言葉は淡く、しかし深く沈んだ水のように重かった。


 その夜、藤村の机上にも同じ影が落ちていた。

 支線の延期を告げる文面を、丁寧に、ゆっくりとしたため直す。言い訳を並べるかわりに、順序の理由と、次に動かす期日と、約束の印を記す。

 封蝋が冷えるのを待つ間、窓の外を列車の響きが過ぎた。

 遠い九州へ向かう音ではない。だが、いつかあの音が海を越える風の向きを変える――そう信じるしかなかった。


 翌朝。

 常陰の役所で、知事が書状を読み上げる。

 「九州、前倒し。常陰支線、日程入れ替え。期日は改めて示す――」

 読み終えた声が掠れた。

 「嘘じゃねえのか」と誰かが小さく呟く。

 その場にいた若者が、俯いたまま拳を握った。

 「駅の汽笛は、毎日こっちを素通りだ。」


 九州では、海霧の晴れ間に杭が打ち込まれた。

 最初の鋲が火花を散らし、黒い土が鋼の匂いを覚える。

 老いた百姓が、帽子を脱いで額の汗を拭った。

 「ここから、変わるのか。」

 側にいた少年が、遠くの海を振り返った。

 「変えるんだよ、父ちゃん。」


 江戸へ戻る代表団を、玄関先で藤村が見送った。

 握手の手は固く、長かった。

 「線は、必ず伸ばす。」

 その言葉は誓いであり、重しでもあった。

 扉が閉まると、机の上の地図にまた一つ、鉛筆の印が増えた。

 赤い線は、海鳴りのように静かに広がっていく。

 列島の骨に、新しい血が通う日は、まだ道半ばにある。

春の終わり、九州の海風はまだ塩の匂いを残していた。着工式の壇上で藤村が鍬を入れると、集まった人々の歓声が一度だけ高く波を立て、やがて潮の引くように静まった。太鼓の音、銅鑼の響き、旗のはためき。目の前で始まったのは線路の未来だが、その音の背後で、別の土地の沈黙が確かに重くなった。


 式典を終えた藤村は、その日の夕刻、丘の上から入り江と臨時の作業宿を見下ろした。濃い影を落とすクスノキの下に、痩せた男がひとり、麦藁帽を握りしめて立っている。常陰の農民、杉本である。遠路はるばる、九州の着工を見に来たという。


 「わざわざ来たのか」と藤村が声をかけると、杉本は帽子の縁をぎゅっと握り込んだ。

 「……総理さま。あの音が、うちの村にも届くと思っていた。だが順番は延びたと、知事から聞かされました。」


 藤村は言い訳を持たなかった。潮騒だけが、ゆっくりと二人の間を往復する。杉本は麦藁帽を胸に当て、言葉を探すように視線を彷徨わせた。


 「恨んでばかりもいられません。村では電信が役に立ちました。江戸の相場が朝に分かる。商人に“今日は高い”と突っぱねられる。……それでも、足がないんです。」


 藤村は頷いた。足――すなわち線路、馬車道、舟運の接続だ。杉本は続けた。


 「駅まで三里。米は乾いた穀物です、三日では駄目になりません。けれど、俵を背負わせた馬が石畳を行くうち、袋が擦れて粉が出る。雨に降られりゃ外側が湿って、乾かす手間が増える。粒が割れりゃ、商人は“等級が下がった”と値を叩く。……足がない分だけ、毎度、こっちが損をする」


 藤村は杉本の指先を見た。俵縄を捻り続けて硬くなった指の節。その節々に、彼のいう“損”の年輪が刻まれている。


 「分かっている」と藤村は静かに言った。「だから今日は、線路だけの話をしに来たのではない」


 彼は側近から巻き紙を受け取り、杉本に広げて見せた。薄い紙面に記されたのは、線路の外側を埋める“細い策”である。


 ――等級制度の改定:粒の欠けに対する減額幅を緩和し、雨濡れは一定の乾燥手当で補う。

 ――規格俵と麻袋の更新補助:擦れに強い二重布の採用、縄の新規格化。

 ――簡易馬車道の先行整備:支線が来るまでの仮道。砂利と木道で雨期のぬかるみを避ける。

 ――共同倉と荷揚げ場:村落単位での乾燥・保管を助成し、等級落ちを防ぐ。

 ――軽便鉄道の実証:安価な軌条と小型機で、先に細いレールを敷く。


 「大きな線は、順番をずらした。しかし――」藤村は言葉を区切った。「細い線なら、今からでも引ける。足の裏に石が入ったままでは、長い道は歩けない」


 杉本は巻き紙の文字を追い、やがて小さく息を吐いた。「約束の紙ですね」


 「紙で終わらせぬ」と藤村。「監督は私がする。工部も大蔵も、ここに署名を入れる」


 そこへ、少年の呼ぶ声が丘の下から届いた。杉本の息子だ。木箱を抱え、息を切らして坂を登ってくる。箱の中で、白い粉末が小袋に分けられて揺れた。


 「父ちゃん、これ――村の共同倉で分けてもらった新しい乾燥石灰。袋の内側に塗ると湿りにくいって、義親さまが教えてくれたやつ」


 藤村は目を細め、少年の手から小袋を受け取った。袋の口から、石灰特有の乾いた匂いが立ち上がる。


 「うちの田は、今年は収穫が少なかった」と少年が続ける。「でも、化学のこやしを使った田の土、父ちゃんが触って“軽い”って言ってた。来年は、こっちもやってみる」


 杉本はきまり悪そうに笑い、麦藁帽で後頭部をかいた。「……ああ。わしが頑なだった。土地を失った腹立ちで、全部に背中を向けていた」


 藤村は、父子の間に漂うわずかな温度の差を、そのまま受け止めた。恨みを消すことはできない。だが、未来のために握り直す手があるなら、その手に道具を渡すことはできる。


 日が落ちかけ、港の方角から汽笛が短く二度、鳴った。臨時の資材船が出る合図だ。藤村は丘を降り、現地監督の技師と打ち合わせをはじめた。材木の運搬、橋脚の基礎、山肌を回り込む曲線――技師の指が空中で弧を描くたび、未舗装の地面に仮想のレールが一本ずつ現れるように思えた。


 「支出は増えます」と工部大臣が低く言う。「本線の工期を守りながら、仮道と軽便まで手当をするのは……」


 「数字は私が負う」と藤村。「ただし条件がある。無駄を出さぬために、現場の決裁を速くする。電信で申請を上げ、翌日には返す。“待ち”で止まる工事は罪だ」


 工部大臣は頷いた。「電信局の増設を、沿線の作業宿に合わせましょう。現場長に電鍵を持たせます」


 夜が落ちきると、現場の灯が点々とともった。松脂の匂い。濡れた縄、石槌の鈍い音。ひと息ごとに、目に見えない網の目が地面の下に張られていく。大きな線路が通る前に、生活をつなぐ細い線を。藤村はその火点を数え、作業帳に赤い丸印をつけた。


 翌朝、常陰へ戻る巡察の途上、藤村は途中駅で市場をのぞいた。掲示板には電信で届いた相場が黒墨で書き換えられ、商人と農民が同じ紙面を覗き込んでいる。杉本のような村から来た男が、値踏みのときに黙って指を一本立てた。昨日より一厘高い。商人は肩をすくめつつ、その値で俵に札を挟んだ。


 「足が生まれたのは線路だけじゃない」と藤村は思う。数字にも足がついた。価格が時間を歩く速さで、誰の手にも落ちる。その足取りは、ゆっくりだが確かに、山の向こうの納屋まで伸びていく。


 常陰の村に戻ると、道端には新しい杭が並び始めていた。仮道の目印だ。青年会が組を作り、砂利を運び、雨水の逃げ道を切る。共同倉の壁には、新調の麻袋が積まれ、その口には二重の紐が通っている。庄屋の源蔵が、袋の縫い目を指で弾いてみせた。


 「これなら擦れに強い。俵縄も新しい結び方に変えると、荷のゆれが減る」


 「等級の見直しも決まった」と役人が帳面を掲げる。「粒欠けが一定以内なら、減額幅は小さくなる」


 源蔵は短く笑った。「“紙で終わらせぬ”という言葉、確かに受け取ったぞ」


 夕刻、村外れの畦道で、杉本と藤村はふたたび顔を合わせた。遠くで雷鳴が小さく転がり、雲が田の上をゆっくり影に染める。少年が軽い駆け足で戻ってきて、父の手に小袋を押しつける。


 「父ちゃん、明日、袋の内側に塗ろう。それと、倉の床に板を足して、風の通り道を作る。義親さまが“湿りは敵だけど、風は味方だ”って」


 杉本は息子の頭をくしゃりと撫で、藤村に向き直った。

 「恨みは消えません。ですが――恨むだけでは、腹は膨れません」


 「分かっている」と藤村。「だから道具を渡す。線路が来るまでの、確かな道具を」


 風が強くなり、遠くの山の向こうで、たしかに鉄の音が鳴った。九州の工区で始まった試掘の音だ。少年は音の方向へ身を乗り出したが、杉本は畦に視線を落とした。畦には、新しい杭、乾いた麻袋、淡く白い石灰の跡。そして――まだ見えないが、細いレールの影が重なっているように見えた。


 その夜、藤村は行在所で墨をすり、工部宛の電文をしたためた。「仮道の予算、前倒し。等級規程、明朝布告。規格袋・二重紐、共同倉へ優先配当。軽便の試設線、常陰で一本。現場長に即日決裁権、付与。」

 電鍵が鳴り、短い音と長い音が闇を渡る。思考が線で結ばれ、紙が約束に変わり、約束が道具へ、道具が明日の手つきへと変わっていく。


 翌朝、藤村は常陰を発った。駅へ向かう馬車の車輪が、前夜に固めた砂利の上を軽く弾む。振り返ると、村の端で杉本と息子が新しい麻袋を肩に担ぎ、共同倉へと歩き出しているのが見えた。二人の歩幅は違う。だが向かう先は同じだった。


 汽車がゆるゆると動き始める。窓の外で、仮道の杭が一本、また一本と後ろへ流れていく。やがて視界の向こう、遠い山の際を、細い白煙が横切った。九州の工区の煙だ。藤村は胸の内で、目に見えぬ地図にもう一本、細い線を引いた。大きな線が追いつくまでの、生活を支える線。誰かの喜びが誰かの悲しみになるとしても、その間をつなぐために引ける線が、確かにここにある。

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