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324話:(1884年・冬)久信の技術外交―父と将軍の約束

秋の気配が濃くなり、官邸の庭で銀杏が淡い黄を帯びはじめていた。

 執務室では地図と仕様書が机いっぱいに広がり、ボイラーの唸りのような低いざわめきが閣僚の声を包む。


 藤村晴人は赤鉛筆を置き、正面の閣僚たちを見渡した。

 「鉄道の延伸も、電信の拡充も、農地に入れる新しいくすりも――どれもが欧州で磨かれた技術の上に成り立つ。こちらからも等価の知を差し出し、対等に交換する。これは“買い物”ではない、“交わり”だ。」


 陸奥宗光が手元の書類を軽く持ち上げる。

 「英国は車両と軌条の最新規格、ドイツは電信機と肥料製造の工程、仏国は農業機械の改良法に関心を示しています。見返りには、我が国の工芸技法、稲作の体系、芸術教育の設計――このあたりを提示したい。」


 「よし。」藤村が短くうなずく。

 「交渉の場では言葉の齟齬が命取りになる。久信、通訳兼随行で陸奥を助けよ。」


 隣席の少年が、背筋を伸ばした。

 まだ十五の頬に、光が一筋走る。

 「承知しました。」


 その瞬間、障子が控えめに鳴り、使者が膝をついた。

 「……水戸の徳川斉昭公、御容態よろしくございませぬ。」


 空気が一段、低く沈む。

 藤村は一拍置き、静かに頷いた。

 「わかった。こちらの段取りを急ぐ。――久信。」


 少年が目を上げる。

 「はい。」


 「成果を持って、お見舞いに参ろう。あの方に“日本がどう変わったか”を、言葉ではなく証文で見せるのだ。」


 会議が散じると、夕刻の光が障子の桟を長く引き延ばした。

 陸奥は廊下で久信と歩調を合わせる。

 「君の舌は三十三の国で通じる、と聞く。だが交渉の場では、言葉は舟にすぎない。川筋を読むのは胆力だ。」


 「肝に銘じます。」

 口ではそう応えながら、少年の掌には汗がにじんでいた。

 (本当に、務まるだろうか。)

 胸の奥で小さく鳴った不安を、彼は歩幅で押しつぶすようにして前へ進んだ。


 夜、官邸の書斎。

 藤村は墨痕新たな交換案の骨子をしたため、封を蝋で閉じた。

 窓の外、鴉がひと声。

 机の端には、かつて斉昭が贈った短い手紙が置かれている。

 「国は学ぶ器であれ。」――それだけが、端正な筆で書かれていた。


 「器は、満たさねば価値を持たぬ。」藤村は独り言のように呟く。

 扉の影から、末子の義親が顔をのぞかせた。

 「父さん、斉昭さま、具合が悪いの?」

 「うむ。だが、会いに行くときは良い知らせを手にしていたい。」

 「じゃあ、僕も手伝う。染め物の本、貸すよ。外国の人、きっと好き。」

 小さな両手で抱えた分厚い化学書が、ぱさりと机に落ちた。藍、紅、紫――草木の色がページの間から香りのように立ちのぼる。


 藤村は微笑み、子の頭を軽く叩いた。

 「役に立つ場が来るかもしれん。眠れ、夜更けは学問に悪い。」


 翌朝、英国公使館行きの馬車が石畳を叩いた。

 曇天の下、旗竿が金具を鳴らし、鹿鳴館通りのプラタナスがかすかに揺れる。

 久信は膝上の手帳を開き、英語・ドイツ語・フランス語で書いた定型句を、心の中で丁寧に磨き直した。

 「言語は扉」――父の言葉が、脳裏のどこかで何度も反芻される。

 扉の向こうに立つ相手は、国益を背負った老練な男たちだ。

 その前に、少年の声をどう通すか。舟の舵を握る指先が、かすかに震えた。


 「大丈夫だ。」隣から陸奥が低く言った。

 「恐れるのは、誠実さを欠いたときだけだ。こちらの誠実を言葉に載せよ。それが最初の鍵になる。」


 馬車が止まり、重い扉が開く。

 洋墨の香りと真鍮の光沢、砂糖を焦がしたような異国の茶の匂い――。

 少年の喉は乾いていたが、発音は澄んでいた。

 扉の蝶番が音もなく回るように、最初の挨拶が滑り出す。


 「日本政府の意向を、お伝えいたします――。」

英国公使館は赤煉瓦の外壁が朝の湿り気を吸い、微かに黒ずんで見えた。

 入口の鉄門が開かれると、磨き上げられた真鍮の取っ手が鈍く光り、来客の影を長く引きずった。

 陸奥宗光と久信を出迎えたのは、年配の書記官だった。白い手袋を外すと、流暢な日本語で言う。


 「陸奥閣下、ようこそお越しくださいました。公使はすぐに参ります。」


 長い廊下を歩く。壁には、テムズ川を描いた油絵が並び、重いカーペットが足音を吸い取っていく。

 久信は胸の内で繰り返し発音を確認していた。

 ――鉄道、規格、補償金。

 わずかな母音の揺れが、相手の感情を変える。それを十五歳の頭脳はよく知っていた。


 会議室には、英国公使グレイヴス卿と副公使、それに通訳が待っていた。

 壁際には香炉が置かれ、薄く漂う煙の香りが異国の空気を和らげている。

 陸奥が一歩進み、深く礼をした。


 「日本政府を代表し、鉄道および車両技術の導入についてお話に参りました。」


 久信がその英語を、丁寧に、しかし迷いなく口にする。

 若い声が響くと、公使の眉がわずかに上がった。


 「ふむ……少年が通訳を?」


 陸奥が微笑んだ。「学識と熱意を兼ね備えた者です。」


 グレイヴス卿は頷き、テーブルに指を置いた。

 「では早速、本題に入りましょう。日本は何を求め、我々に何を与える?」


 陸奥が書類を広げた。

 「我々が望むのは、最新の軌条規格と蒸気機関車の設計図。それに対し、日本の七宝焼・陶芸・蒔絵の技術を提供し、さらに補償金として三十万円を支払います。」


 久信が正確に訳し終えると、グレイヴス卿は軽く首を傾げた。

 「三十万……悪くはない。だが、“技術”と“芸術”では釣り合わぬな。」


 重苦しい沈黙。

 久信は父の言葉を思い出す――「言葉は舟。誠実を載せて運べ」。

 深呼吸し、少し声を落とした。


 「日本の工芸は、単なる装飾ではございません。高温焼成の温度管理、顔料の調合、金属表面の酸化を防ぐ技術。いずれも精密工学に通じる要素を持っています。」


 グレイヴス卿の表情がわずかに動いた。

 「ほう……少年、君は工芸を科学と見なすのか?」


 「はい。美は技術の末に咲くものです。」


 副公使が笑いを漏らした。「なるほど、“アート・イズ・サイエンス”か。」


 陸奥がすかさず言葉を重ねる。

 「ですからこそ、対等の交換を求めるのです。我々は“学ぶ国”であり、“作る国”でもある。」


 グレイヴス卿は一枚の紙を取り出した。

 「いいでしょう。技術資料の一部提供を承諾します。ただし――補償金三十万に加え、線路材の一割は英国製を優先的に輸入していただきたい。」


 陸奥が久信に視線を送る。

 通訳を終えた少年は、微かに唇を引き結んだ。


 「……つまり、我々の鉄道の上を、英国の鉄が走る、ということですね。」


 公使は頷いた。「そう理解していただいて結構。」


 ――対等ではない。

 胸の奥に、熱いものがこみ上げる。

 それでも久信は、父の言葉を裏切らぬよう、落ち着いた声で答えた。


 「我々は、それを“始まり”と考えます。いつか、日本の鉄がこの島の海を越え、あなた方の大地に届く日が来るでしょう。」


 その言葉に、公使はしばし沈黙し、口元に笑みを浮かべた。

 「その志、気に入りました。では契約書を。」


 調印の瞬間、陸奥は少年の肩に軽く手を置いた。

 「よくやった。だが交渉はまだ始まったばかりだ。」


 公使館を出ると、午後の陽が霞を透かして街を照らしていた。

 通りには洋装の商人が行き交い、女学生たちが笑いながら通りを渡る。

 文明と伝統が、まだぎこちなく肩を並べて歩いていた。


 久信は懐から小さな紙片を取り出した。

 そこには父の筆跡で、こう記されていた。

 ――「誠実とは、言葉の速さより深さにある。」


 彼はそれを胸にしまい、次の交渉地――ドイツ公使館の方向へと歩き出した。

 秋風が灰色の帽子を揺らし、街の鐘が午後三時を告げた。

ドイツ公使館は、煉瓦造りの英国館とは対照的に、灰色の石造建築だった。

 鋭い屋根の尖塔が曇天を貫き、正門前には鷲の紋章が刻まれている。

 冬を告げる風が通り抜け、冷たい鉄の匂いが辺りに漂っていた。


 久信は襟を正し、陸奥宗光の後ろを静かに歩いた。

 通された応接室は質実な造りで、壁に掛けられた時計の針の音だけが響いている。

 応対に現れたのは、ドイツ帝国公使フォン・ヴァイツェン。目の奥に冷ややかな光を宿した男である。


 「電信技術と化学肥料の製造工程、その両方を求めるとは――随分と欲張りではありませんか。」

 ドイツ語で発せられた言葉を、久信は正確に訳した。

 陸奥は眉一つ動かさず、答える。

 「我々の国は、いま“基礎”を求めているのです。鉄道、通信、農業――そのどれもが、国を成す骨格となる。」


 公使は短く笑い、椅子の肘掛けを叩いた。

 「骨格を作るには、血が要る。我が国の技術は血で育まれたものです。あなた方が提示する“美術教育の資料”や“和洋折衷の芸術法”では、到底釣り合わぬ。」


 部屋の空気が冷え込む。

 久信の通訳が終わると、陸奥は短くため息をついた。

 「それでも、我々は諦めません。」


 しかし、公使は首を横に振った。

 「この話は、ここまでです。」


 その一言に、久信の胸が強く締め付けられた。

 失敗――という言葉が、脳裏をよぎる。

 それでも彼は諦めず、深く一礼した。

 「再び、訪問の機会をいただけますか。」


 ヴァイツェン公使は少年の毅然とした態度に、ほんのわずか眉を上げた。

 「……二日後なら。」


 交渉は一旦中断された。

 馬車に戻ると、陸奥は無言のまま書類を閉じた。

 久信は俯いたまま、小さく言った。

 「……僕の言葉が、足りなかったのでしょうか。」


 「いや、違う。」陸奥が静かに言う。

 「相手は誇りを試している。君が“何を差し出せる国の子”かを。」


 外は霙まじりの雨だった。

 街路樹の葉が落ち、濡れた石畳に褐色の影をつくる。

 久信は窓の外を見ながら、思った。

 (ドイツが求めるもの……彼らが価値を感じる“知”とはなんだ?)


 夜、官邸に戻ると、書斎の灯がまだともっていた。

 扉を開けると、義親が机に頬杖をつき、分厚い化学書を眺めている。

 「またそんな時間まで起きて……」久信が笑うと、少年は顔を上げた。

 「兄さん、これ見て。ドイツの染料の作り方が載ってるよ。すごく難しいけど。」


 その言葉に、久信ははっとした。

 「染料……?」


 義親は嬉しそうに本を開き、色見本を指さした。

 「彼らは“化学染料”を研究してる。でも、僕たちには“天然の色”がある。藍、紅花、紫根、べにばな……日本の染料は、化学では真似できないって先生が言ってたよ。」


 久信の胸に、ひとすじの光が走った。

 「なるほど……“科学が求める自然”を、こちらが持っている。」


 「うん。もし“色”で交渉できるなら、きっと喜ぶと思う。」


 久信は弟の頭を撫でた。

 「ありがとう、義親。君の言葉が、国を動かすかもしれない。」


 その夜、彼は再び資料を開き、藍の抽出法や紅花の染め方を整理した。

 そして翌朝、ドイツ公使館へと向かう。


 門の前に立つと、空はまだ灰色だった。

 扉を叩くと、公使自らが姿を見せる。

 「また少年が来たのか。」


 久信は深く頭を下げ、丁寧なドイツ語で話し始めた。

 「閣下、再提案を申し上げます。

  日本は、化学肥料と電信技術の代価として、“天然染料技術”を提供いたします。」


 公使は片眉を上げる。

 「染料……天然の?」


 「はい。藍は百年経っても色褪せず、紅花は湿度に反応して色調を変えます。

  これらの性質は、貴国が追求する化学染料の研究において、重要な参考となるはずです。」


 沈黙。

 公使は椅子に深く座り、指を組んだ。

 「……なるほど。自然の中に化学を見出すか。」


 久信はさらに言葉を続けた。

 「加えて、少額の補償金二十万円をお支払いします。

  日本は、貴国の科学を敬い、共に未来を築きたいのです。」


 公使はゆっくりと立ち上がった。

 「興味深い。少年、君の語る言葉には“誇り”がある。日本の誠意を感じる。」


 彼は机上のベルを鳴らし、書記官に一言告げた。

 「契約書を用意せよ。」


 陸奥が深く頭を下げる。

 「感謝いたします。」


 調印が終わると、公使は窓の外を見ながら呟いた。

 「我々は化学を信じる。だが君たちは“人”を信じているようだ。――その違いを、大切にしなさい。」


 館を出ると、雨が上がっていた。

 空の端から淡い光が差し込み、石畳が銀のように輝く。

 久信は息を吐き、帽子を押さえた。

 (兄弟の知恵が、国を救ったんだな……)


 馬車の中、陸奥が静かに言った。

 「君の弟は、将来偉大な科学者になるかもしれん。」


 「ええ。僕は、そう信じています。」


 車輪が回るたびに、濡れた路面が光を散らす。

 その光は、まるで新しい時代の黎明を告げるようだった。

晩秋の霞が江戸の街を覆っていた。

 風は乾き、銀杏の葉が一枚ずつ、音もなく地に落ちる。

 久信の交渉成功の報は、夜更けの官邸に届いた。


 「電信と化学肥料の製造技術、双方の提供に合意。」

 報告を読み上げた陸奥の声に、部屋の空気がわずかに震えた。

 藤村は静かに眼鏡を外し、机の上の書簡に視線を落とす。

 「よくやったな、久信。――十五歳にして、この国の未来を一歩、動かした。」


 少年は深く頭を下げた。

 「父上、弟の義親の助言がなければ、成り立ちませんでした。」

 「学問は独りの力で育つものではない。」藤村は微笑む。「兄弟が支え合う、その姿こそ国の礎だ。」


 その翌朝、フランス公使館への訪問が行われた。

 パリの空を思わせる柔らかな光が差し込む広間で、久信は再び通訳の席に着いた。

 対面したのは、長い口髭をたくわえたフランス公使デュプレー。

 彼はワインの香りを纏いながら、開口一番に言った。

 「日本の農業技術には興味がある。しかし、我々の国土は水が乏しい。湿田の知識は役に立たぬのでは?」


 陸奥が軽く視線を送る。

 久信は間髪を入れずに応じた。

 「閣下、我が国の稲作は、水の管理にこそ知恵がございます。

  その技法は、貴国の植民地――インドシナやカンボジアの水田開発にも応用できるはずです。」


 公使の目が細くなった。

 「……なるほど、統治の道具として使えると?」


 「民を飢えから救う技術です。」久信の声は、澄んでいた。

 「飢えを防ぐことは、安定をもたらす。貴国にも利益となりましょう。」


 数分の沈黙。

 やがて公使は小さく頷いた。

 「受け入れましょう。――農業技術の交換を。」


 調印の瞬間、室内の空気が一気に和らいだ。

 これで三国との技術交換がすべて整った。

 鉄道、電信、化学肥料、そして農業。

 日本という若い国の骨格が、ようやく形を成し始めた。


 しかし、その喜びを伝えようとした矢先――。

 官邸に戻った藤村のもとへ、再び使者が駆け込む。


 「徳川斉昭公、危篤にございます。」


 藤村の指先から、ペンが転がり落ちた。

 椅子を離れる音が、やけに遠くに聞こえる。

 (間に合うだろうか……)


 江戸城の奥御殿。

 障子の向こうには、かつて水戸学を興した巨人の姿があった。

白髪を枕に散らし、浅い呼吸を繰り返す。

 傍らには、征夷大将軍・徳川慶喜が静かに座していた。


 「斉昭様。」

 藤村が膝をつくと、老公の瞳がゆっくりと開いた。

 「……晴人か。」

 声は細く、それでも意識は明瞭だった。

 「日本は、どうなっておる。」


 藤村は震える声を抑え、報告した。

 「英国、ドイツ、フランス――三国との技術交換が成立しました。

  我が国は、いまや欧州と肩を並べます。」


 斉昭の唇に、かすかな笑みが浮かぶ。

 「そうか……ようやった。

  お前に政を託した日を、忘れたことはない。

  あの決断は、間違っておらなんだ。」


 藤村は深く頭を下げた。

 「すべて、殿の御志があったればこそです。」


 そのとき、慶喜がそっと父の手を握った。

 「父上、どうか――。」


 斉昭は、静かに息を吸い込み、薄く笑った。

 「慶喜……これからは、藤村と共に歩め。

  お前は将軍として国を守り、彼は学問でそれを支えよ。」


 その言葉を最後に、老公の胸が静止した。

 部屋の中に、ひと筋の風が通り抜ける。

 障子が揺れ、庭の銀杏がぱらぱらと舞い込んだ。


 ――徳川斉昭、享年八十四。大往生であった。


 数日後、国葬が執り行われた。

 冬の到来を告げる空の下、江戸の街路は黒衣の人々で埋まった。

 旧幕府の武士たちが涙を流し、藤村政権の閣僚たちが頭を垂れる。

 西洋諸国の公使たちも参列し、国旗が半旗として掲げられた。


 棺の前で、藤村はゆっくりと歩み出た。

 「徳川斉昭様は、この国の“学”の礎を築かれた方。

  旧きを護り、新しきを恐れぬ勇気を示された。

  殿の教えは、いまこの国の隅々に息づいております。」


 言葉を終えたあと、長い沈黙があった。

 風が銀杏を舞い上げ、陽光が雲間から射す。

 それは、まるで老公の魂が空へ昇っていくかのようだった。


 葬儀後、慶喜と藤村は控室で静かに語り合った。

 「藤村殿、父の志を、よくここまで継いでくれた。」

 「将軍。」藤村は深く頭を垂れた。

 「殿下の信任がなければ、ここまで来られませんでした。」


 慶喜は頷き、まっすぐ彼を見た。

 「政はお前に委ねている。だが、幕府はまだ健在だ。

  民の安寧を守る責務は、我らにある。」

 「はっ。」


 慶喜は少しだけ柔らかく微笑んだ。

 「父上は、時代を渡したのだ。私とお前に。

  この国を、次の光へと導け。」


 その言葉に、藤村は深く胸を打たれた。


 夜、藤村は静かに墓地を訪れた。

 冬の星が淡く瞬き、冷たい風が木々の間を抜ける。

 灯を掲げ、墓前に立つと、白い息が夜気に溶けていった。

 「斉昭様。ご覧ください――日本は、変わりました。」


 背後で、三人の息子たちが並ぶ。

 久信、義信、義親。

 「父上、僕たちも、斉昭様の教えを守ります。」

 「お前たちが次の日本を作るのだ。」


 墓前に捧げられた花が、静かに揺れた。

 遠くで、寺の鐘が鳴る。

 その音は長く尾を引き、夜の空に消えていった。

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