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323話:(1884年・秋)義親と化学肥料

春の陽が射し込む官邸の執務室。机の上には、全国の農業統計が広げられていた。

 藤村晴人は眉を寄せながら報告書に目を通している。


 「米の収穫量、十年前と変わらず――」

 農商務大臣が低い声で告げた。「人口は増えています。このままでは数年内に食料不足が懸念されます」


 「原因は?」

 「土壌の栄養が限界です。農民は堆肥を使っていますが、量も質も足りません」


 そのとき、障子の向こうから小さな声がした。

 「父さん、化学肥料を使えばいいよ」


 義親、九歳。前掛け姿で試験管を手にしている。


 「化学肥料?」農商務大臣が目を丸くした。

 「うん。植物は“窒素・リン・カリウム”がないと育たないんだ。硫酸アンモニウム――“硫安”で窒素、過リン酸石灰でリン、塩化カリウムでカリウムを補えるよ。堆肥より栄養が濃いの」


 藤村が微笑する。「説明してみろ、義親」


 少年は紙を広げ、指で成分をなぞった。

 「これが硫安。こっちが過リン酸石灰。で、これが塩化カリウム」


 農商務大臣が思わず息を呑む。「九歳でそこまで……」

 藤村は穏やかに言った。「観察も計算も確かだ。試す価値はある」


 義親の瞳がまっすぐに光る。

 「便利なものが増えても、最後は“食べること”が大事でしょ。畑そのものを強くしないと」


 部屋の空気が少し動いた。


 藤村は立ち上がり、地図に視線を落とす。

 「常陰州で始めよう。土地は広く、勤勉な農家が多い」


 久信が頷く。「ドイツから最新の肥料と製法の資料を取り寄せます。サンプルも入手しましょう」

 「頼む」藤村は答え、再び義親を見た。

 「お前の考えが国を変えるかもしれない。ただし、結果がすべてだ。覚悟して挑め」


 義親は真剣に頷いた。「はい、父さん」


 夜、藤村は独りで統計表を閉じ、窓を開け放った。

 春の風が紙の端をめくる。往来のざわめきの奥に、遠い雷鳴がかすかに響いた。


 「経済も通信も、人が食べてこそ動く……」


 筆を取り、地図の上に新たな印をつける。

 ――常陰州、実験開始。


 その静かな一筆を、春の夜気がやさしく撫でていった。

常陰州の大地は、まだ冬の名残を抱いていた。

 霞がかった丘の上では、農民たちが鋤を手に、次の季節の準備を進めている。泥にまみれた指先から湯気のような息が立ち上る。その一人ひとりが、家族の明日を背負っていた。


 そこへ、藤村晴人と義親、そして農商務大臣の一行が馬車でやって来た。風に乗って肥の匂いが鼻を突く。義親は身を乗り出して田畑を見つめた。

 「父さん、あの田んぼ、土が白っぽいよ。きっと栄養が抜けてる」

 藤村が頷いた。「その通りだ。長年、堆肥だけで耕すと、窒素やカリが流れ出してしまう」


 一行を迎えたのは、州知事の徳川篤敬。三十代半ばの若き政治家で、藤村の教え子でもある。

 「総理、お待ちしておりました。民の関心は高いですが、化学肥料という言葉に警戒も強く……」

 藤村は穏やかに笑った。「知識を恐れるのは、知らぬがゆえだ。だが、それを越えねば未来は作れぬ」


 篤敬は頷き、隣に立つ義親へ視線を向けた。

 「この少年が、例の発案者ですか」

 「そうだ。お前たちの未来を思っての提案だ」

 義親は少し照れながらも、持参した試料瓶を差し出した。中には白い結晶が光っている。

 「これが硫安です。稲の葉を青々とさせます」

 農民たちはざわめいた。「薬みたいだな」「そんなもん、土に入れて平気なのか」


 藤村が手を上げて静めた。

 「百聞は一見に如かず。今日は実際に試してもらおう」


 丘の麓にある実験田では、三反のうち一つを“堆肥のみ”、一つを“化学肥料のみ”、そしてもう一つを“併用”とし、比較実験が行われることになった。

 義親が水桶に溶かした肥料を柄杓で撒くと、農民たちは息をのんだ。

 「ほんのひとすくいで、畝が全部濡れるのか」「匂いがない……不思議だ」


 その中に、顔をしかめる老人がいた。庄屋の田島源蔵である。

 「総理様、わしらのやり方は間違っとりゃせん。先祖代々、堆肥でここまで稲を育ててきたんです」

 藤村は真摯な眼差しで応えた。

 「源蔵殿、その努力を否定するつもりはない。だが、土は生き物だ。長く生きれば、時に新しい栄養を求める。子を育てるように、変化を恐れてはいけない」


 源蔵は黙したまま田を見つめた。

 「だが、子供の言うことを信じろというのは……」

 藤村は穏やかに笑う。

 「子供は未来そのものだ。わたしたちの知らぬ風を感じ取る」


 その夜、州庁の宿舎では、藤村と徳川兄弟が火鉢を囲んでいた。

 「人々の抵抗は根強いですね」と篤守が言う。

 「当然だ」と藤村。「土地は誇りだ。農民にとっては命そのもの。そこに新しい理屈を持ち込むのだから」

 「しかし、成功すれば……」と篤敬が続ける。

 「成功すれば国が救われる。だが失敗すれば、人心が離れる」


 沈黙が落ちた。火鉢の炭がぱちりと弾ける音だけが、部屋の隅に響いた。

 「それでも、やるのですか?」と篤敬。

 藤村はゆっくりと頷いた。

 「民は“今”しか見られぬ。だが政治は“十年後”を見なければならん。誰かが痛みを負わねば、進歩は生まれぬ」


 夜更け、藤村は宿を出て、月明かりの中を歩いた。田畑の上では、撒かれた白い肥料がかすかに光を返している。風が通るたび、湿った土が小さく鳴った。

 背後から小さな足音。義親が上着を羽織って追いかけてきた。

 「父さん、寝ないの?」

 「眠れんのだ。明日、どんな芽が出るかが気になってな」

 義親は笑い、父の隣に並んだ。

 「僕ね、今日の田んぼを見てて思ったんだ。土って、呼吸してるみたいだった」

 「呼吸……?」

 「うん。触ると、あったかかった。だから栄養をあげたら喜ぶと思う」


 藤村は、ふと息を呑んだ。

 「……そうか。お前の目は、科学者よりも詩人だな」

 「詩人ってなに?」

 「見えないものを感じ取る人さ」

 「じゃあ、父さんも詩人だね」

 「いや、私はまだ、土の声を聞こうとしているだけだ」


 ふたりの足元を、夜露がやわらかく濡らした。


 翌朝、篤敬の手配で近隣の農民たちが再び集まり、田を見守った。春の光が水面に反射し、青い影が波紋のように広がっていく。

 田の隅では、土地を失った農民・杉本が黙って立っていた。藤村が彼に歩み寄る。

 「杉本殿、来てくれたのか」

 「……あんたが何をしても、わしの土地は戻らん」

 「承知している」

 「だが、子供がここまで考えるとは思わなんだ。……見届けてやる」


 その言葉に、藤村は深く頭を下げた。


 昼過ぎ、義親が肥料を混ぜた新しい水を田に流す。風がふっと吹き、白い粉が舞い上がって陽光にきらめいた。

 義親が両手を空にかざす。

 「ほら、父さん。土が笑ってるみたい!」

 農民たちはその姿を目を細めて見つめた。


 だがその中で、源蔵が低く呟いた。

 「……土が笑うか、泣くかは、秋にならんと分からん」


 藤村は黙ってその言葉を受け止め、風の中に立ち尽くした。

 その背に、国家の重みが静かにのしかかっていた。

五月。常陰州の風はまだ冷たさを残していたが、田の上では早くも若緑がそよぎ始めていた。

 あの日に撒かれた白い肥料は、目に見えぬ力となって土の奥へと沈み、稲の根を押し上げている。


 ある朝、畦道に人が集まった。

 「おい、あの田んぼを見ろ。葉の色が濃い……」

 「新しい肥料を入れた方だな」

 庄屋の田島源蔵も眉をひそめ、水面を覗き込む。風にそよぐ緑は、明らかに他よりも深い。


 「早すぎる……不自然だ」

 その声に、藤村は静かに答えた。

 「自然は誰の味方もしない。結果のほうにだけ、正直だ」


 義親は畔にしゃがみ、掌で水を掬った。

 「父さん、冷たいけど……なんだか元気そう」

 「人の目で判断するより、土に聞くほうが早いのかもしれん」

 藤村がそう言うと、周りの男たちが顔を見合わせた。

 「……正直、か。耳が痛いな」


 日が高くなるほどに、肥料を施した田の稲はぐんぐん伸びた。

 しかしその速さが、別の不安を呼ぶ。

 「これでは倒れてしまうぞ」

「薬が強すぎるのではないか」

 源蔵の渋い声に、義親は真剣な顔で首を振る。

 「入れすぎると土が酸っぱくなって、かえって育たなくなります。少しずつが大事です」


 幼い口から落ち着いた理屈がこぼれるたび、農民たちは息をのんだ。

 藤村は黙ってその背中を見つめ、微笑をひとすじ浮かべる。


 数日後、義親は朝から田に出て、堆肥と化学肥料を混ぜる新しいやり方を試していた。

 桶の中で混ざり合う茶と白の粒。指先にまとわりつく土のぬくもり。

 「父さん、混ぜたら匂いが少し柔らかくなった」

 「そうか。土のほうが、喜んでいるのかもしれん」


 周りに集まった人々は、黙って見つめていた。

 田の匂いの中に、かすかに新しい香り――希望のようなものが混じり始めている。


 昼過ぎ、州庁に戻った藤村は、机に並ぶ報告書へ目を落とした。

 「第一地区、稲の成長率一・三倍。第二地区、一・五倍……」

 遠地の試験田から届いた電報も同じ調子だ。

 彼は紙束を伏せ、椅子に背を預けた。胸の奥で、重い歯車がひとつ回った気がした。


 夜。義親は宿舎の机に広げたノートへ、幼い字で観察を書きつけている。

 〈土は呼吸をしている。風のあと、ほんの少し音がする〉

 背後から覗き込んだ藤村が、わずかに笑った。

 「詩のようだな」

 「日記だよ。ぼく、いつか“土の先生”になる」

 「土の先生、か。いい名だ」

 「父さんは?」

 「私は……この国の土を守る先生でいたい」


 戸口に小さな影が立った。

 去年の用地買収で田地を手放した杉本の息子である。

 「……話を聞いてもいいですか」

 義親が振り向くと、少年は真剣な目で続けた。

 「父ちゃんは、この肥料が嫌いだ。でも、僕は試してみたい」

 藤村が頷く。

 「恐れずに試すこと、それが学びだ」

 「もし失敗したら?」

 「失敗したぶんだけ、次に正しく近づく」

 少年は拳を握りしめた。

 「……やってみます」


 義親が小さく呟く。

 「父さん、少しわかった。化学って、怖いけど優しい」

 「使う者の心で変わる。刀と同じだ。守るために使えば、人を救う」


 六月。稲はさらに育ち、青い葉が風に踊った。

 肥料を施した田は、どこか誇らしげに陽を受けている。

 源蔵が静かに呟いた。

 「……あの葉の色は、悪くない。けど、秋まで見んと分からん」

 その目に、悔しさと興味が入り混じる。

 藤村は帽子を取り、ひとつだけ深く頷いた。

 「人は、見ることで信じる。信じるには、時間が要る」


 やがて空に夏雲が湧き、田の緑は一面へと広がった。

 風が渡るたび、波のようにうねる。

 義親はその真ん中で、陽を浴びながら微笑んだ。

 「父さん……土が笑ってるよ」

 遠くで藤村が目を細める。

 その風景は、確かに未来の予告だった。夕映えの中で、土は静かに息をしている。新しい時代を受け入れるように。

九月の風が、黄金の波を揺らしていた。

 常陰州の田は、夏の強い陽射しを越え、今まさに穂が頭を垂れている。実験田の周りには、村人たちが集まっていた。老いも若きも、息をひそめてその瞬間を見つめていた。


 刈り取られた稲を、農商務官が秤にかける。

 「こちらが、堆肥だけの田。……例年どおりです」

 ざわめきが走る。

 「次に、化学肥料と堆肥を併用した田。……一俵半、多い」

 息をのむ音が一斉に重なった。


 田島源蔵がゆっくりと前へ進み、稲の束を手に取る。穂を撫で、米粒を一つ摘まんで噛む。

 「……重い。詰まっておる」

 彼は目を細めた。「香りも悪くない。……見事なもんだ」


 藤村が静かに口を開いた。

 「結果が語った。だがこれは始まりにすぎない。自然の恵みと人の知恵、その両方を尊ぶことで、土地は蘇る」


 源蔵は黙って頷き、ゆっくりと頭を下げた。

 「子供の言うことと思って、笑ったわしが愚かだった。坊や……いや、義親殿。わしに肥料のやり方を教えてくれんか」

 義親は真っ赤な顔で頷いた。「はい!」


 周囲から笑いと拍手が起こる。だが一歩離れた場所に、無言の男が立っていた。土地を失った杉本である。

 藤村が近づき、そっと声をかけた。

 「……見に来てくれたか」

 「ええ。あんたの言うとおり、作物は見事です。でも、わしには田がない。肥料がどんなに良くても、耕す土がない人間には関係ない」

 藤村は言葉を失った。

 「だが……子供が笑ってるのを見たら、少しだけ……悔しくなくなった気がします」

 「杉本殿、もしよければ、来年はこの実験田を一緒に見てくれ」

 男は少しの間黙り、やがて頷いた。「……考えときます」


 夕方、金色の空の下で、義親が穂を手に取った。

 「父さん、ほら。粒が光ってる」

 藤村は息を吐き、空を見上げた。

 「努力の光だな。だが、土の声を忘れてはいけない。便利なものほど、土を疲れさせる」

 義親は真剣にうなずいた。

 「僕、もっと勉強する。次は土を元気にする方法を考える」

 藤村の口元に微笑が浮かんだ。

 「それでこそ、未来の学者だ」


 夜。宿舎の窓から田の灯が遠くに見えた。

 徳川篤敬が報告書を差し出す。

 「州内十地区で同様の成果が出ました。来年は導入を倍に拡大できます」

 「工場の建設も始める。石灰と石炭の産地が近い常陰で生産すれば、輸入に頼らず済む」

 「資金は?」

 「国家の未来に払う借金だ。だが、民の暮らしが豊かになれば、必ず返ってくる」


 夜更け、藤村はひとり外に出た。風が稲穂を渡る。

 その音は波のようであり、人々の祈りのようでもあった。

 月明かりに照らされた義親の姿が、遠くの畦道に見える。小さな背が、風に揺れる稲の海の中でひときわ輝いていた。

 ――あの少年が見た夢こそ、この国の未来なのかもしれない。


 藤村は静かに手を合わせた。

 「この大地が、人の知恵と共に生きますように」


 稲の香りが夜気に溶け、常陰州の秋が、ゆっくりと深まっていった。

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