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322話:(1884年・春)電信が結ぶ思考

霞が関の朝は、薄い霧に包まれていた。石畳を渡る馬車の車輪が、湿り気を帯びた音を残す。首相官邸の執務室では、墨の香りと紙の匂いが混じり合い、壁の時計が静かに時を刻んでいた。


 扉が二度、控えめに叩かれた。陸奥宗光が分厚い書類束を抱えて入ってくる。顔色は冴えない。


 「――常陰で大火です。報が江戸に届いたのは三日後。その間に、隣村へ延焼しました。」


 藤村晴人は手を止め、視線だけで続きを促した。


 「飛脚を最大限に走らせても、山ひとつ越えるごとに足は鈍り、雨で道が泥に変われば日取りはさらに延びます。江戸から常陰、片道三日。江戸から大阪、片道五日。しかも、一通につき五円。」


 執務室の空気がわずかに冷えた。藤村は机上の地図に指を置く。火の手が上がった村の名に、墨で小さな点が加えられる。そこから延びる想像上の炎が、白地図の上を舐めていくように見えた。


 「三日は、遅すぎる。」


 短い言葉だったが、部屋の木肌に、刃物で刻んだように残った。


 陸奥は頷く。「電信網の整備が急務です。」


 窓外、冬明けの光が庭の砂利にこぼれ、雀が二羽、刈り込まれた生垣を跳ね渡る。藤村は深く息を吸い込み、机の端に立つ地球儀を軽く回した。細い経線が連なり、世界が音もなく旋回する。


 「ならば、言葉の速度を変えよう。」


 午後、工部大臣が呼ばれ、黒い木箱を抱えた技師が随いてきた。木箱の蓋が外され、真鍮のツマミと黒檀のつまみ、磨かれた鍵のようなレバーが現れる。机上に並べられた瞬間、部屋はさながら小さな実験室へ変わった。


 「電信装置でございます。」大臣の声は、どこか誇らしい。「文字をそのまま走らせるのではなく、音の短長――点と線で現した符号に置き換えます。これがモールスです。」


 控えていた義親が、椅子から半身を乗り出した。九歳の眼が、研ぎ澄まされた刃のように明るい。


 「トン、ツーの長さで、言葉になるの?」


 技師が微笑み、指先でレバーを叩く。トン、ツー、ツー、トン。金属板がわずかに震え、乾いた小鳥のような音が部屋に散った。


 「たとえば、これは『ヒ』。熟練者なら一分間に五十文字送れます。距離は関係ありません。線が届く限り、同時に伝わる。」


 藤村は、音の余韻に耳を澄ませる。点と線が、音の水脈となって目に見えぬ地下を走り、山を貫き、川を跨ぎ、人と人の思考を直接つなぐ光景が、脳裏に浮かんだ。


 「江戸で決めた方針が、同じ時刻に常陰の机に届く。常陰で起こった災が、その呼吸のうちに江戸へ跳ね返ってくる。往復十日の議論が、往復一時間の議論になる。」


 彼の声に、室内の男たちの表情がわずかに変わった。遠いものが、突然手の届く場所へ引き寄せられるとき、人はいつも似た顔をする――期待と畏れが混じった顔だ。


 「現状は?」藤村が問う。


 工部大臣が手帳を繰る。「江戸―横浜、江戸―大阪は既に開通。その他の地方都市は未整備。線路沿いに電信線を這わせれば、保守は一本化できます。鉄と銅を、同じ道に通す。」


 「線路は骨、電信は神経だ。」藤村は呟いた。「骨が立った。つぎは神経を通す。」


 義信が口を開く。「軍の観点からも、不可欠です。命令が早く届けば、部隊の展開も変わる。偵察の報も、遅れずに還る。」


 藤村は頷き、視線を義親へやる。「お前はどう見る。」


 「線の材質が気になる。」少年は間髪入れずに答えた。「銅は高いから、鉄に薄く銅を被せて使えば、全体の銅の量を減らせる。外は銅だから伝わるし、中は鉄で強い。あと、湿気で漏電するから、碍子の形と材質も工夫した方がいい。」


 室内の空気が、ひとつざわめいた。工部大臣が驚きの目で少年を見る。「鉄線への銅被覆……確かに、費用と耐久の折り合いがつきます。」


 藤村は、わずかに笑んだ。「紙に書いておけ。数式も添えてな。」


 彼は椅子から立ち、窓辺に歩み寄る。庭の松の枝が、春の風にわずかに揺れた。


 「十年で、国を一本の細い線で縫い合わせる。予算は――千万円。鉄道沿いに這わせ、保守を一体で回す。技師は短期で育てる。三か月の塾を各州にひらけ。ここから先は、時間との戦だ。」


 陸奥が短く息を呑む。「承知しました。」


 「ただし――」藤村は振り返り、机上の電鍵を指で弾いた。「速度は、光にも刃にもなる。伝えるべきを選び、守るべきを隠す術を、同時に用意する。暗号だ。軍と政府は、今日からそれを学べ。」


 乾いたトンという音が、再び部屋に広がる。小さな点の音は、どこか鐘の最初の一打にも似ていた。これから鳴り渡る大合奏の、予告の一打だ。


 藤村はその音に背を押されるように、決裁印を取った。朱が紙に落ち、鮮やかな円がひとつ、生まれる。国家の神経を国土に通すための、最初の赤い印だった。

春を告げる南風が江戸の街を通り抜け、官邸の障子をわずかに鳴らした。

 藤村晴人は地図の前に立ち、赤鉛筆で新たな線を引いていた。昨日、閣議で承認された「全国電信網計画」。それは、鉄道の次に日本の血管となる構想だった。


 背後から陸奥宗光が書類を携えて入ってくる。

 「電信線の第一期敷設、候補地が出揃いました。鉄道沿いを優先します。」

 「経済線と思想線を重ねるわけだな。」

 藤村は頷き、地図を見つめた。赤い線が鉄道、青い線が電信。交わるところに、未来の街が生まれる。


 そこへ、工部大臣が入室する。手には試作の電線があった。

 「総理、銅線の価格が高騰しております。義親君の提案通り、鉄線に銅を被覆した試作を行いました。」

 藤村が手に取ると、冷たく光る線が指先に重みを伝える。

 「軽いな。」

 「ええ、銅の使用量を四割減らせました。耐久試験でも問題なし。」

 「……九歳の発想が国家を救うとはな。」


 義親がその場に駆け込んできた。

 「父さん! 線をね、もう少し細くしてもいいと思う!」

 工部大臣が笑いながら答える。「これ以上細くすると折れますぞ。」

 「じゃあ、真ん中を中空にしてみたら? 風に揺れても軽いから折れにくいよ。」

 「中空線……! 面白い。風の抵抗が減るかもしれません。」

 藤村は目を細め、息子の頭を撫でた。

 「発想とは、知識の上に咲く花だ。よく学び、よく考えろ。」


 陸奥が別の資料を開いた。

 「次に、電信局の設置について。十年で全国四十か所。第一期は江戸・大阪・名古屋・常陰の四拠点。総経費は千万円。」

 閣僚の一人が眉をひそめる。「電信にそこまでの予算を?」

 藤村は静かに答えた。

 「鉄道が貨物を運ぶ。電信は意志を運ぶ。貨物が止まれば商人が困る。だが、意志が止まれば国が死ぬ。」


 部屋に沈黙が落ちた。外では燕が軒をかすめて飛ぶ。

「思考の速度を、人間の歩みに合わせていては、文明は育たない。」藤村は続けた。「鉄道が骨なら、電信は神経。心臓の鼓動を末端まで伝えるための線だ。」


 「ただし——」彼は机上の電鍵を指で叩いた。

 トン、ツー。短い音が空気を切る。

 「速さは、正確さを奪うこともある。伝わる速度が上がれば、誤報もまた速くなる。便利さは、必ず影を伴う。」

 陸奥がうなずく。「暗号化を同時に進めましょう。義信君が提案していました。」


 藤村は口元をほころばせた。「あいつは軍人のくせに、学者じみている。」

 「良いことです。鉄道で国を結び、電信で心を結ぶ。その中心に、あの三兄弟がいる。」


 その夜、官邸の灯は遅くまで消えなかった。

 藤村は報告書の束を閉じ、窓を開け放つ。春の夜風が紙の端をめくる。

 遠い空で雷鳴が小さく転がり、彼はふと笑みを浮かべた。

 「……あれが、未来の音だな。」


 やがて、電線が山を越え、川を渡り、国を貫く日が来る。

 そのとき、この夜の決意が一本の線となって、すべてを繋ぐのだ。

梅雨を思わせる湿気を帯びた風が江戸の官邸に流れ込む午後、藤村晴人は書斎で電信線の敷設報告を読んでいた。

 紙の上に細かく記された数字の羅列。線の総延長、柱の設置本数、費用の増減。どれも進捗を示すだけの事務的な記録に見えるが、彼にはそれが国の鼓動のように思えた。


 そこへ陸奥宗光が入ってきた。

 「総理、常陰州の開局準備が整いました。」

 「そうか。あの地は鉄道に続いて、今度は電信でも先陣を切るわけだな。」

 藤村は椅子を立ち、窓の外を見た。灰色の雲の切れ間から光が差し、遠くの街並みを照らしている。


 「常陰は、十年前は寒村だった。だが今では鉄道も通り、学校もある。あの地で電信が開くなら、日本の地方は一歩、文明へと近づく。」

 陸奥は頷いた。「山間部には難所も多く、作業員が倒木のたびに作業を止めています。しかし、住民が自発的に協力しているとか。」

 「……そうか。あの地の民が、自ら線を立ててくれるとはな。」

 藤村は地図に目を落とした。鉄道の赤線の脇に、細い青線が重なっている。


 そこへ義信が入室する。

 「父上、通信実験の報告をお持ちしました。」

 彼は一枚の紙を差し出す。

 「大阪と江戸間での通信、誤差三秒以内。応答までの遅延は二十秒を切りました。」

 藤村は驚きの息を漏らした。「二十秒……まるで声を交わすようだ。」


 義信は続けた。「ただし、問題もあります。強風による電線の振動が、時折信号の乱れを生んでいるようです。」

 「中空線の試験はどうだ?」

 「義親が考案したものですか? あれは安定しています。むしろ風に強い。工部省が正式採用を検討中です。」

 藤村の表情が柔らぐ。「あいつは本当に、風を読むのが上手い。」


 義信は少し口を引き結び、「父上、ひとつ提案がございます。」と声を落とした。

 「電信線の信号を暗号化する仕組みを導入すべきです。軍部では、信号傍受の危険がすでに議論されています。」

 藤村は頷いた。「文明が広がれば、悪意もまた広がる。……必要なことだ。」


 陸奥が付け加える。「地方電信局には、暗号講習を義務づけましょう。」

 「よし、それでいこう。」藤村は地図を丸め、机に置いた。「電信の速さは国を変える。だが、速さには慎重さが要る。」


 そのとき、部屋の隅にいた書記官が一枚の電報を差し出した。

 「常陰州より発信です。『開局準備、完了。明日、試験通信を行う』と。」

 藤村はそれを受け取り、短く息を吐いた。

 「よし……始まるな。」


 夜。官邸の庭を歩きながら、彼は空に張り巡らされた見えない線を想像していた。

 その線が、国の果てから果てへと人の思いを運ぶ——。

 だが同時に、彼の脳裏には別の光景も浮かんでいた。鉄道の建設で土地を失った農民たち、無言のまま見送る老人の姿。


 「線とは、人と人を結ぶものだ。」藤村は静かに呟く。

 「だが、結ばれるには、必ず誰かが“引き裂かれる”。」


 遠く、雷鳴が空を震わせた。

 藤村はその音を聞きながら、胸の奥に重い確信を抱いた。

 それでも、この線を張らねばならない。——未来のために。

翌朝、江戸と常陰州の電信局を結ぶ初の試験通信が行われた。

 春霞の向こうに朝日が差し込み、常陰州の局舎では新しい電鍵が据えられていた。

 小さな部屋の中、電信技師が緊張した面持ちでスイッチを握る。

 「常陰州より江戸へ――こちら、準備完了」

 トン・ツー・トン、短く高い音が鳴り、銅線を伝って江戸へと走る。


 数秒後、江戸の中央局で受信音が響いた。

 報告を聞いた藤村は、ただ一言、

 「返電せよ」

 と命じた。

 「江戸より常陰州へ――開局を祝す」

 再びトン・ツーの音。まるで遠くの友と会話するように、国が呼吸を始めた瞬間だった。


 報告が届くと、常陰州の町は拍手に包まれた。

 農民も、商人も、子どもたちも。

 誰もが、目には見えない線が世界を変えることを感じていた。

 だが、その群衆の外れで、ひとりの老人が黙って空を見上げていた。

 かつて鉄道敷設で土地を失った農民・加兵衛である。

 「父ちゃん、これが電信か?」

 息子が尋ねた。

 「そうだ。……わしらの田の上を通る線じゃ」

 少年は純粋な眼で線を見上げる。

 「すごいな。遠くの人と話せるなんて。」

 加兵衛は頷き、しかしその瞳はどこか濁っていた。

 「便利なもんだ。だが、わしには用はない。」

 「どうして?」

 「わしの声は、あの線には届かん。届くのは、偉い人たちの声だけだ。」

 そう言って、彼は草むらに腰を下ろした。


 一方その頃、江戸の官邸。

 藤村は受信記録を手にしながら、義信、久信、義親の三人を呼んでいた。

 義親が目を輝かせる。「父さん! ちゃんと届いたね!」

 久信が笑う。「すごいな。これで災害が起きてもすぐ連絡できる。」

 義信が冷静に言った。「ただ、守るべきものも増えました。情報は武器です。取り扱いを誤れば、国を傷つける刃にもなる。」

 藤村は静かに頷いた。

 「そうだ。速さは力だが、同時に責任でもある。」


 夜。藤村は書斎に戻り、地図の上に視線を落とした。

 鉄道と電信――赤と青の線が幾重にも交わる。

 「これが、日本の血管と神経か……」

 彼は独り言のように呟く。

 「鉄道は物を運び、電信は思考を運ぶ。だが――どちらも、人の涙を越えて敷かれている。」


 机の上の窓から外を見ると、遠くで稲光が走った。

 まるで空そのものが信号を打っているかのようだ。

 その光景に、藤村は微かな笑みを浮かべた。

 「いつか、この線が世界をも結ぶ日が来るだろう。そのとき、日本は――孤独ではなくなる。」


 翌朝、常陰州から新しい電報が届いた。

 「昨夜、洪水発生。被害五村。住民五百名孤立。」

 藤村は即座に指示を出した。

 「鉄道を使い、救援隊を六時間以内に現地へ!」

 やがて報告が返る。

 「到着、全員救助完了。」


 陸奥が息を呑んで言った。

 「……もし電信がなければ、三日はかかっていました。」

 藤村は窓の外の青い空を見つめ、静かに答えた。

 「速さは、人を救う。」

 そしてわずかに目を伏せ、心の奥で呟く。

 「だが、それを築くために泣いた者たちを、決して忘れてはならぬ。」


 春風が再び官邸を抜け、障子を鳴らした。

 江戸と常陰州を結ぶ一本の線が、国を、そして人の思考を結び始めていた。

 それは光速に近い速さで走る、新しい時代の脈動だった。

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