321話:(1884年・春)鉄道国家の骨格
霞ヶ関の朝は、白い息が立つほど冷えていた。
常陸政府の庁舎群に冬の陽が差しはじめ、ガス灯の硝子に薄金色の縁がつく。首相官邸の執務室では、石炭ストーブが静かな唸りを立て、壁の大地図のうえで黒い路線が途切れたまま凍りついていた。
「――鉄道の現況、まとまりました。」
陸奥宗光が厚い綴りを抱えて入ってくる。藤村晴人は万年筆を置き、椅子を半ば回して地図へ視線を移した。
「江戸—横浜、二十九粁は既設。江戸—大阪の幹線は約五百粁中、半ばが開通。残りは山脈の切通しと橋梁待ちで停滞しています。」
陸奥は頁を繰り、乾いた指で数字を示した。
「現在、江戸から大阪まで人と荷を送るに三、四日。線がつながれば一日に短縮可能です。遅延による経済損失は年五百万円相当。港で眠る荷、内陸で値崩れする穀、間に合わぬ部材――すべてが利を食い潰している。」
窓外では、冬木立の枝が細く震えた。藤村は立ち上がり、地図の未完の線を人差し指でなぞる。関東の平野から、中山道の山稜へ、さらに西の大都市へ。指先の冷たさが、そのまま国の血流の冷えに思えた。
「鉄道は、国の骨だ。」
低い声がストーブの熱に揺れた。
「骨が繋がらねば、手足は動かぬ。市場も、学問も、兵も、すべてが遅れる。」
陸奥が頷く。
「十年計画を。江戸—大阪の完通を最優先、江戸—常陰、近畿—九州の幹を順次延伸。総工費は試算で五千万円。国家歳入は潤沢になりましたが、数字としては小さくありません。」
藤村は苦笑を一筋だけ浮かべた。
「金は血と同じだ。流す先を誤らねば、必ず肉になる。」
机上には、地方から届いた嘆願書が束になっていた。
〈駅を誘致したい〉〈貨車を増やしてほしい〉〈橋脚の位置で村が二分される〉――熱と不安が同居する文字の群れ。藤村は一枚をつまみ上げ、紙の重みを確かめるように戻した。
「人を集めねば。」
「工部から技師の一覧を取りました。」と陸奥。
「現有は二百名弱、必要は千。大学校の増員、地方の技術学校、欧州の短期招聘、徒弟の活用で補う案を。」
ストーブの奥で石炭がぱちりと弾けた。藤村は窓辺に歩み、曇った硝子に指で小さな円を描く。滲む冬陽の向こう、江戸の街がまだ徒歩と馬車の速度で息づいているのが見えた。
「宗光。数字は冷たいが、線路は温かい。」
振り返って微笑む。
「山を割り、川に鉄を架け、人の暮らしに時間を贈る。――やろう。十年で、骨格を組み上げる。」
扉が軽く叩かれた。義信が分厚い図面筒を抱えて入ってくる。背丈は伸びたが、目の輝きは少年のまま鋭い。
「父上、布陣案を。動員と兵站の観点からも、幹線の完成は急務です。」
広げられた紙に、駅と補給拠点、擬似的な旅団輸送の時刻表が細密に打たれていた。藤村はその几帳面な線を眺め、ゆっくり頷く。
「経済のためだけではない。国防の脈でもある、ということだな。」
義信は短く「はい」と答えた。
執務室の空気が、決意を吸い込んで重くなる。陸奥が最後の頁を閉じると、紙の擦れる音がやけに大きく響いた。
「では、総理。十年計画を閣議に。」
藤村はペンを取り、綴りの表紙に一行を記す。
――全国鉄道網整備十年計画。骨を組む。血を流す。心を運ぶ。
墨の黒が冬の光を吸い、静かに乾いた。
春を目前にした一月下旬。霞が関の空は薄曇りで、雪解けの湿り気を孕んだ風が国会前の並木を揺らしていた。
首相官邸の執務室では、鉄道計画の地図が机いっぱいに広げられている。朱の線、黒の線、破線。それらがまるで血管のように国土を走り、途中で途切れては、まだ結ばれていない未来を示していた。
「総理、技術者の数が圧倒的に足りません。」
工部大臣が言った。
「現場で動かせる鉄道技師はわずか二百。必要なのは千です。測量士、機関士、橋梁設計者、溶接工……どれも人材が足りない。」
藤村は黙って地図を見つめた。
「それほどの差があるのか。」
「はい。」
「欧州の鉄道は、百年かけて築いた人材層が支えています。だが我々は、十年で追いつかねばならない。」
静寂。時計の針がひとつ音を刻む。
「――増やそう。」
藤村の声は静かだったが、鋼の響きを持っていた。
「工部大学校の定員を倍にする。地方にも技術学校を設ける。欧州から短期技師を招く。徒弟制度も活かそう。現場で学び、現場で育てる。」
陸奥が頷く。
「まるで戦時の動員のようですね。」
「戦だ。」藤村は淡く笑う。
「鉄と石の戦だ。だが、敵は人ではない。時間だ。」
窓外では、石炭を積んだ馬車が通り過ぎる。道端の子供たちが、煤にまみれたその馬車を見上げて歓声をあげていた。
藤村はその光景に視線を移した。
「この国の子供たちが、大人になる頃には――」
「江戸から大阪まで、一日で行ける。」
「九州から常陰州まで、夜行で往復できる。」
彼の声には、未来の光があった。
だがその光は、長い影も落とした。
「土地はどうします?」陸奥が問う。
「買収の見通しは、容易ではありません。」
「地権者交渉……か。」
藤村の目が少し曇る。
「国が道を通すために、土地を奪う。理屈では公共の利益だが、感情では違う。」
そのとき、扉が開き、久信が入ってきた。
手には分厚い報告書。
「父上、常陰州の地権者名簿です。農民が大半で、年寄りが多い。土地を離れるのを恐れています。」
藤村は受け取り、紙をめくる。墨のにおいが立つ。
「……十五円で提示したな。」
「はい。市場より高めですが、情は複雑です。」
藤村は目を細めた。
「金だけの問題ではない。土地とは、記憶だ。」
久信が一瞬、父の横顔を見た。
そこにあったのは、指導者というよりも一人の人間としての憂いだった。
「久信、交渉の現場を見に行け。」
「現場に?」
「ああ。机上の数字だけで判断するな。人の顔を見ろ。」
「……承知しました。」
その背を見送りながら、藤村は深く息を吐いた。
窓の外で雪がちらつく。
「鉄道は国家の骨格になる。」
「だが、その骨を組むとき、肉が裂けることもある。」
彼の掌の中で、地図の紙が微かに震えた。
常陰州の冬は、鉄のように冷たかった。
久信は厚手の外套を羽織り、雪混じりの風を受けながら現地視察の列に加わっていた。線路予定地には赤い旗が立ち並び、測量士たちがコンパスと三脚を携えて、雪を踏みしめて歩く。遠くでは、まだ稲刈りを終えたばかりの農地が凍りついている。
「この道に、鉄の線を通すのか……」
久信は思わずつぶやいた。
同行していた交渉担当官が、寒風の中で煙草に火を点ける。
「若いのに、よくこんな所まで来たな。」
「父の命令です。現場を見ろと。」
「立派な話だ。だがな、現場は数字通りにはいかん。」
数百人の農民が、村の公会堂に集まっていた。
「一坪十五円」――交渉官が最初に提示したとき、ざわめきが起きた。
「悪くねぇ金額だな」「十五円なら、まぁ……」
希望が、わずかに空気を和らげた。
しかし二週間後、再び集まった会議ではその空気が凍りつく。
「十二円に減額だと?」
「前の約束はどうなった!」
怒号が飛び交う。交渉官は表情を崩さず、「予算の再計算による変更です」と繰り返した。
久信は傍らでノートに書きながら、その光景を見つめていた。
「この人たちは、国のために犠牲を払う覚悟など持っていない――そう思っていた。でも違う。国を想ってこそ、怒っている。」
三度目の交渉。提示額はさらに「十円」へと下がった。
老人の声が震えた。
「先祖の墓を見ながら生きてきた土地だ。十円で売れと言うのか。」
「公共のためです。」
「公共のためなら、人の心を踏みにじっていいのか!」
その叫びに、久信の胸が刺さった。
彼は一歩前に出ようとしたが、交渉官に袖をつかまれた。
「若様、口を出してはなりません。政治は情ではなく理です。」
「……理だけでは国は動かせません。」
思わず返したその声に、農民たちの視線が集まった。
若い眼差し、藤村総理の息子――その名を知る者もいた。
老人のひとりが近づき、震える手で彼の手を握った。
「坊ちゃん……お前さんのお父上を信じたい。けどな……人間の心が分かる総理でいてくれ。」
久信は何も言えなかった。ただその手の温度だけが、胸に焼きついた。
夜、宿に戻ると、交渉官は冷えた湯をすするように言った。
「十円でも売る者は出ます。待てば待つほど、弱い者から折れる。それが現実です。」
「それでも、正しい方法とは思えません。」
「若いな。正しいだけでは国は動かん。」
「なら、父がそれを知っているとして……それでも続けるなら、父は何を信じているんだろう。」
その夜、久信は眠れなかった。
雪の窓越しに、遠くで汽笛が鳴ったような気がした。まだ繋がっていない線路の向こうから、未来が呼んでいるように思えた。
彼は日記にこう書いた。
> 「正義と必要は、時に別の顔をして現れる。だが、人の涙の上に築く鉄道が、ほんとうの未来を運ぶことができるのだろうか。」
翌朝、彼は汽車で江戸へ戻った。
駅のホームで立ち尽くす老人たちが、白い息を吐きながら線路の方角を見つめていた。
「……その視線の重さを、父に伝えなければ。」
汽車が動き出す。蒸気の音が冬空に響く。
車窓の外で、雪の野を黒い旗が流れていく。
久信は拳を握り、決意した。
「この鉄道が誰のためにあるのか。父に問うてみせる。」
蒸気の向こうで、遠くの山が白く光っていた。
それは、これから築かれる“鉄の骨格”の未来――そしてその下に眠る、人々の悲しみの影を、静かに映していた。
春の光がまだ冷たさを帯びている朝、江戸駅の構内は人と蒸気で霞んでいた。
白い煙の中に、鍬を持った藤村の姿があった。全国鉄道網計画――その着工式の日である。
「鉄道は、国家の骨格である」
演壇に立った藤村の声は、冬を抜けた空に響いた。
「この鉄の道が、人を、物を、そして思想を結ぶ」
拍手が起き、軍楽隊が「君が代」を奏でる。
しかしその音の下で、彼は一瞬だけ群衆の奥を見た。そこに、怒りと諦めの混ざった農民の目があった。
黒い羽織をまとった老人が一歩前に出る。
「お上は偉いな。わしらの土地を取り上げて、こうして式を挙げるんだ」
警備の兵が止めに入るが、藤村は手で制した。
「その声を、聞こう」
会場がざわつく。
老人の声は震えていた。
「わしは、あんたの国のために恥じぬよう生きてきた。だが、あんたのために泣く日が来るとは思わなかった。」
藤村は黙って聞いていた。言葉を返すことはできなかった。
――後日。
首相官邸の応接室に、久信が戻ってきた。
「父さん、あの土地の人々は、まだ納得していません。」
「……知っている。」
「それでも、鉄道を続けるんですか。」
藤村は、机の上の地図に目を落とした。赤い線が、まるで血管のように全国を走っている。
「久信、国家とは身体だ。鉄道はその血脈。流れを止めれば、国は死ぬ。」
「でも、血を流しているのは国民です。」
沈黙が落ちた。
藤村は静かに椅子から立ち上がった。
「お前の言う通りだ。だが、理想だけで国は動かせぬ。」
彼は窓を開け、春風を吸い込んだ。
「私は、清い政治をしたいと思っていた。だが現実は違った。正義だけでは鉄道一本も敷けない。」
久信は俯いた。
「父さん……それでも、俺は正義を諦めたくない。」
藤村は、その言葉に微笑んだ。
「ならば、それでいい。お前が正義を語り続ける限り、この国の未来は死なない。」
――同じ頃、常陰州。
農民たちの間では、新しい線路が地を割るように伸びていた。
牛車の通る道は閉ざされ、代わりに黒い鉄が大地を貫く。
「見ろよ、あれが列車だ」
少年が指差す。遠くで汽笛が鳴り、煙が上がる。
老人はその横顔を見て、ゆっくりとうなずいた。
「もう止まらんのだな。国も、人の運命も。」
春の終わり、藤村は鉄道省の視察に赴いた。
機関士たちが試運転の蒸気機関車を整備している。
「総理、これが新型の国産車両です」
技師が胸を張る。
車輪が回転し、蒸気が白く吹き上がった。
藤村の顔に、その熱風がかかる。
その瞬間――彼は、あの老人の涙を思い出した。
「この音の下に、人の泣き声がある」
誰にも聞こえないように、彼は小さく呟いた。
だが次の瞬間には、毅然と背筋を伸ばし、周囲に向けて言った。
「この鉄の道は、日本を未来へ運ぶ。犠牲を無にしてはならぬ。必ず成功させる。」
夜。官邸の書斎。
机の上に広げられた地図を前に、藤村はランプの光に照らされて立っていた。
「鉄道は骨格だ。だが、骨格だけでは国は立たない。」
窓の外、汽笛の音が微かに聞こえる。
「血を流さずに進む道は、まだ見えない……」
藤村の眼は、遠くを見据えていた。
その頃、常陰州では一番列車の建設区間が完成していた。
夜明け前、工夫たちが線路の上で万歳を叫ぶ。
その声が空へ昇ると同時に、黒煙が立ちのぼり、汽車が走り出す。
車輪が回るたびに、大地が震え、鳥が飛び立つ。
見送る農民たちの中に、かつて土地を失った老人の姿もあった。
彼は静かに帽子を脱ぎ、胸の前で手を合わせた。
「先祖よ……どうか、この道が、子や孫を幸せにしてくれますように。」
その祈りが届いたかのように、朝日が線路を黄金色に染めた。
遠くで汽笛が鳴り響き、煙が空に伸びていく。
藤村はその報告を受け、静かに頷いた。
「骨格が、動き出したか……」
彼は筆を取り、日記に一行だけ書き残した。
> 「この国は今、鉄の血を通わせた。
> だが、痛みを忘れた骨は、いつか折れる。」
夜明けの霞の中を、最初の列車が走り抜けた。
その音は、近代日本の心臓の鼓動のように、長く、深く、国中へと響いていった。