320話:(1883年・冬)世界が日本を見る日
十二月の東京は、澄み切った冬の光に包まれていた。
首相官邸の応接室に、陸奥宗光が一通の電報を携えて入ってくる。
「総理、英国紙の記者が来日します。」
藤村は書類から顔を上げた。
「タイムズ……あの世界で最も権威のある新聞か。」
「はい。先の国際文化会議が欧州で話題となり、日本の文化政策を特集したいそうです。
新年号で“文明国・日本”を取り上げたいと。」
藤村は一瞬黙し、窓の外に目をやった。
庭の松の枝が風に揺れ、雪がちらついている。
「……世界が、日本を見に来るのか。」
低くつぶやく声に、時代の変化が滲んでいた。
来日するのはジョン・ハリソン――英国の外信部長。
四十五歳の老記者で、欧州の政変や新大陸の戦争を数多く取材してきた男である。
彼は長らく「アジアは文明の外縁にある」と信じていた。
だが、船上で東京湾に向かう途中、薄明の中に浮かぶ煉瓦造りの建物群を見たとき、
その確信がわずかに揺らいだ。
桟橋に降り立った瞬間、冷たい海風がコートをはためかせた。
汽笛が鳴り響き、街路には洋装の学生や女学生の姿。
通りを行く人々は整然とし、石畳の上を馬車が滑るように進む。
――これが、東洋の都なのか。
ハリソンは思わず立ち止まり、白い息を吐いた。
「英国の写しではない……日本は、もう独自の道を歩いている。」
そう呟くと、彼は懐中時計を確かめ、予定表を開いた。
その最初の取材先にはこう記されていた。
「京都・並河靖之七宝工房」。
異国の記者が、日本の“魂”を探す旅が、いま始まろうとしていた。
工房の奥で、若い弟子が火箸を操り、熔けた釉の表面に浮いた微かな泡を針で潰していく。
泡が弾ける音はほとんど無音に近く、ただ熱だけが頬を撫でた。
ハリソンは身をかがめ、銀線の継ぎ目がどこかを確かめるように目を凝らす。
「線は、どこで途切れる?」
「途切れさせません。」と並河。
「一本の呼吸で曲げ続けます。ここで手が震れれば、作品は最初からやり直しです。」
並河は、炉の温度記録を示した。
日付と時刻、昇温・降温の曲線が細かな数字で埋まっている。
「同じ色でも、温度が一度違えば、別の表情になります。
職人は勘で焼く、と言われますが、勘とは蓄積された記録と記憶の別名です。」
ハリソンは頷いた。
「技術の宗教だ……。」
彼は手帳の余白に、その言葉を小さく書き込んだ。
戸口の影から、小柄な少年が顔をのぞかせる。
義親が釉薬の瓶を覗き込み、銅粉の色味を光に透かして比べていた。
並河が苦笑する。
「この若君は、色の理由を訊ねてやみません。金属と温度の機嫌を、数で語れと言う。」
ハリソンは少年の横顔を見つめ、無邪気と好奇心の混じった眼に、未来の職人たちの姿を重ねた。
昼下がり、取材一行は京を発ち、長い鉄路を南西へと走った。
車窓に移る茶畑の列は規則正しく、冬枯れの土は乾いて、光を白く跳ね返す。
ハリソンは流れる景色を眺めながら、英国の工場を思い浮かべた。
煤けた煉瓦壁、油に濡れた床、どこまでも続く騒音――。
浜松の工場に入った瞬間、嗅いだのは木の匂いだった。
風琴製作所の床は、樟の屑でやわらかく、踏むたびに微かな香りが立つ。
壁際の乾燥室には温湿度計が並び、窓越しに見える木材は、年輪の向きごとに仕分けられていた。
「同じ板でも、心と辺、柾と板目で癖が違う。」と山葉。
「音は、木の履歴書を隠しません。」
組立台の前で、職人が革袋の継ぎ目に膠を流し込み、指の腹で押さえる。
別の台では、真鍮のリードが薄紙のように削られ、天秤で重さが量られていく。
刃を当てるたび、音が半音ずつ変わる。
ハリソンは、耳をすませた。
低い唸りが、やがて澄んだ息に変わる瞬間――木と金属が合意に至る音が、確かにあった。
「この工程、何人で?」
「今は三十名です。」
山葉は指先の傷跡を眺め、微笑をうかべる。
「独りで始めましたが、音は独りでは増えません。人を得て、ようやく合奏になります。」
試演室で、足踏みペダルが静かに上下した。
空気が風箱を満たし、鍵盤の下でハンマーが跳ねる。
最初の和音が放たれた瞬間、ハリソンは肩をわずかに震わせた。
――柔らかい。英国の礼拝堂で聴いたあの音より、どこか人肌に近い。
「湿度処理とニスの配合を見直しました。」と山葉。
「木が呼吸をしすぎぬように、しかし息を止めすぎないように。」
工場の片隅に、銅版の試作台があった。
細かな譜面の点と線が、銅面に刻まれ、黒いインクが刷り込まれる。
紙を圧に通すと、五線がくっきりと姿を現し、音符が澄んだ黒で並んだ。
「楽器だけでなく、楽譜も自国で。」と山葉は言う。
「音の文字を輸入に頼っていては、歌は広がりません。」
夕刻、工場の笛が一日の終わりを告げる。
職人たちは手を洗い、木屑を払って、整然と礼をして退出していった。
残された沈黙の中で、風琴がひとりごとのように短い和音を零す。
ハリソンは、その余韻に耳を澄ませた。
――武器の国力ではなく、音の国力。
紙の端に、その言葉を走り書く手が、いつになく震えているのを自分で感じた。
外に出ると、遠州の風が頬に冷たく、空は群青から濃紺へと沈みつつあった。
工場の窓に灯った橙色の明かりが、田の向こうにいくつも並ぶ。
久信が静かに言う。
「ここで灯った火は、やがて学校へ、町へ、国中へ渡っていきます。」
ハリソンは帽子の庇を指で整え、短く答えた。
「それを、私は書きます。」
帰りの列車、揺れに身を任せながら、彼は取材ノートの冒頭を書き換えた。
――“極東の辺境”という単語に二本線を引き、余白に新しい見出しを置く。
“New Dawn from the East.”
窓の外、駅の小さなプラットホームに、子どもたちが手を振っている。
風琴の音色は、まだ聞こえない距離だ。だが、いつか必ず届く――ハリソンは、確信に近い予感を覚えた。
夜の東京は、まだ街灯の光がまばらだった。
明治十六年の冬。石畳を照らす灯は少なく、往来する人々は行灯の影の中を静かに行き交う。
ハリソンは、宿泊先の築地ホテル館を出て、通訳の久信に案内されながら、首相官邸へ向かっていた。
彼の胸の中には、いくつもの感情が交錯していた。驚き、戸惑い、そして少しの敬意。
――この国は、私の知っている「東洋」ではない。
馬車の車輪が雪を踏みしめ、かすかに軋んだ音を立てる。
遠くから三味線の音が流れてくる。
それはどこか憂いを帯びながらも、芯の通った響きだった。
ハリソンは耳を傾けた。旋律の起伏に、言葉を超えた表現の力を感じた。
「文明とは何か」――その問いが、彼の胸に重く沈んでいった。
翌朝、官邸の執務室。
藤村晴人は机の上の書類を整え、ゆっくりと顔を上げた。
応接の間には、すでにハリソンが待っていた。
黒い外套を脱いだ彼の姿勢は礼儀正しく、しかし眼光は鋭かった。
「お目にかかれて光栄です、総理。」
通訳を介さず、流暢な英語で挨拶した。
「私もあなたの新聞を読んでおります。」
藤村は柔らかな笑みを浮かべ、英語で応じた。
「タイムズの筆致には、世界の重みがある。」
ハリソンはわずかに驚いた表情を見せた。
――首相が、直接英語で話すのか。
それだけで、すでに先入観が崩れた。
机上には、藤村の愛用する地球儀があった。
その上には、いくつもの細い赤線が描き込まれている。
ロンドンからシンガポール、香港を経て横浜に至る航路。
さらに、北方にはウラジオストクと樺太を結ぶ線が重ねられていた。
「これは貿易路ですか?」
「いいえ。」藤村は微笑む。
「文化の流れを描いています。」
ハリソンの眉がわずかに上がる。
「文化の、流れ?」
「ええ。国境を越えるのは、軍艦よりも先に、音と色と形です。
それを理解できる国が、次の時代を導くでしょう。」
その言葉を、ハリソンは即座にメモに記した。
筆先が震えた。これまで、アジアで「思想」を聞くとは思っていなかった。
藤村は窓の外に目をやった。
薄曇りの空の下、遠くに国会議事堂の建設現場が見える。
木材が組まれ、土煙が上がっていた。
「いずれ、あの建物で子どもたちが政策を議論する時代が来るかもしれません。」
ハリソンは問い返した。
「子どもが、政治を?」
「ええ。私の息子が九歳で州議会に立ちました。」
その言葉に、ハリソンは思わず身を乗り出した。
「九歳で…?」
藤村の表情は穏やかだった。
「学びたいことを、学ぶ自由を訴えたのです。
大人が気づかない理想を、子どもはまっすぐに語る。
それが国家にとって何よりの財産です。」
ハリソンは息を呑んだ。
英国では、教育とは「統制」だった。
しかし、この国では「解放」であるらしい。
「あなたは、哲学者のようだ。」
思わず洩らしたその言葉に、藤村は静かに微笑んだ。
「人はよくそう言います。ですが、私はただ――日本がどうすれば尊敬される国になるか、それを考えているだけです。」
「尊敬、ですか。」
「はい。」藤村は椅子から立ち上がり、窓辺に歩いた。
「恐れられる国ではなく、尊敬される国に。
そのためには、文化と教育が必要です。
軍備は力を示すが、文化は心を動かす。
人は恐怖よりも、感動によって変わる。」
その声音には、確信があった。
ハリソンは沈黙のまま、言葉を失っていた。
政治家が、心の教育を語る――そんな姿を、彼は見たことがなかった。
藤村は再び席に戻り、静かに茶を注いだ。
湯気が立ち上り、部屋に香ばしい緑の香りが満ちる。
「どうぞ、日本の茶です。」
ハリソンはカップを受け取り、一口含んだ。
苦味のあとに、わずかな甘みが広がる。
それは、どこか人の心のように複雑で、奥深かった。
「この味は、英国の紅茶とはまるで違う。」
藤村が頷く。
「違いを受け入れること――それが文明の第一歩です。」
言葉の意味が、胸に沁みた。
記者として多くの国を見てきた。戦争、植民地、支配と被支配。
だが、この小さな島国の首相は、静かにそれを超えていた。
「あなたの政策は、どこまで計画されているのですか?」
「十年後、日本の子どもたちが自分の力で世界と語り合えるように。
二十年後、日本の職人たちが西洋の市場で堂々と競えるように。
三十年後、日本の学者たちが世界の知を導くように。
それが、私の“国防”です。」
ハリソンの胸に、重く響いた。
――彼の国では、砲艦外交が国防だった。
だが、藤村の国防は「知」と「美」だった。
部屋の奥で時計が時を告げた。
ハリソンは取材を終え、立ち上がった。
「今日の話を、世界に伝えます。」
「どう伝えるかは、あなた次第です。」藤村は笑った。
「ただし、事実を曲げぬこと。それだけをお願いしましょう。」
官邸を出ると、雪は静かに降り始めていた。
白い粉が街路樹の枝に積もり、空気を透き通らせていく。
久信が傘を差し出し、歩調を合わせる。
「父は、いつもあの調子なんです。」
「どの調子だい?」
「人を叱るより、信じる方が早い。」
ハリソンは小さく笑った。
「英国にも、そんな政治家がいればな。」
宿へ戻る途中、街角の露店から子どもたちの歌声が聞こえた。
国産のオルガンが奏でる旋律に合わせ、澄んだ声が夜を満たす。
雪の舞う空に、まるで小さな鐘の音が鳴り響くようだった。
――文化とは、声のことだ。
その声を封じずに育てる国こそ、真の文明国なのだろう。
ハリソンはそう思いながら、胸の中で一つの言葉を反芻した。
「Philosopher Government(哲人政権)」――。
それは、彼が記事の見出しに最初に書き込む言葉となった。
雪が溶け、淡い光が街に戻る頃。
東京の冬は、思いのほか静かだった。
だが、その静けさの奥では、歴史の歯車がゆっくりと動いていた。
ハリソン記者の取材から十日後、藤村邸の庭に外国製の大きなカメラが据えられた。
木製の三脚に真鍮の鏡筒。重厚なレンズの奥で、硝子板が冬の光を受けて淡く輝いている。
「総理、ご家族で一枚、撮影をお願いできますか?」
通訳が英語で確認する。
藤村は頷き、三人の息子を呼んだ。
久信、義信、義親――三人はすぐに外へ出てきた。
久信はすでに十五歳、背が父に並び、凛とした立ち姿を見せる。
義信は軍帽を手に、やや緊張した面持ち。
義親は一番末の九歳。雪の名残を踏みしめ、はにかみながら父の隣に立った。
「少し右を向いてください」
ハリソンが英語で指示を出す。久信が即座に通訳した。
「父さん、もう少し左に――そう、そのまま。」
藤村は軽く頷き、三人を見渡した。
白い息が空に溶けていく。
「この一枚が、何かを伝えるなら、それでいい。」
カメラの背後で、黒い布がかぶせられる。
硝子板に焦点を合わせる音が、わずかに響いた。
「はい――動かないでください。」
露光の時間、わずか十秒。
だがその一瞬の静止の中に、ひとつの時代が凝縮されていた。
――文明の形を持たぬ国が、いま形を得ようとしている。
――父と子が、過去と未来を繋ごうとしている。
シャッターが切られると、ハリソンは深く頭を下げた。
「Thank you, gentlemen.(ありがとうございました)」
彼の声は、どこか震えていた。
その夜、現像された乾板の上に、四人の姿が浮かび上がった。
中央の藤村は柔らかく微笑み、左右に並ぶ三兄弟は、それぞれ異なる眼差しをしていた。
長男・久信は知の光を、次男・義信は責任の影を、三男・義親は希望の火を宿している。
ハリソンは、その写真を見つめながら小さく呟いた。
「Philosopher and sons…哲人とその子ら。
これが日本の未来か。」
彼の手帳には、すでに記事の見出しが書かれていた。
――JAPAN’S NEW DAWN(日本の新しい暁)。
そして翌年一月一日。
ロンドンの街を覆う霧の中、新聞売りの少年たちが声を張り上げた。
「タイムズ新年号! 極東の奇跡、日本の哲人総理!」
活版印刷の香りが立ちこめる編集室では、黒々としたインクの紙面が次々に積まれていく。
トップページには、藤村と三兄弟の写真。
その下に大きな見出しが踊っていた。
> “Japan’s New Dawn — A Philosopher Government in the East.”
> (日本の新しい暁――東洋に現れた哲人政権)
記事は静かに、しかし力強く書き出されていた。
「私は京都の工房を訪れた。並河靖之という職人が、たった一つの七宝に三ヶ月を費やしていた。
その姿に、国の品格を見た。」
ページをめくると、藤村晴人の言葉が引用されている。
> “Culture is not decoration. It is the armor of the mind.”
> (文化とは飾りではない。精神の鎧である。)
そして結論にはこう記されていた。
「藤村政権は、哲人が導く国家である。
日本はもはや模倣者ではない。
西洋は、この国から学ぶべきだ。」
紙面の下には、家族写真が掲載されていた。
その構図は、英国の読者にとっても衝撃だった。
父が中央に立ち、三人の息子が未来を見つめている。
血筋でも軍でもなく、“理念”を継ぐ家族――それは英国社会が忘れかけていた理想の姿だった。
ハリソンの筆致は欧州各紙に転載され、三日後にはパリ、ベルリン、ローマ、ウィーンでも同じ写真が掲載された。
フランス・ル・モンド紙は書いた。
「Le Japon ne copie plus, il crée.(日本はもはや模倣せず、創造している)」
ドイツの新聞はこう評した。
「Fujimura ist der Platon des Ostens.(藤村は東洋のプラトンである)」
ロシアでは聖ペテルブルク通信が報じた。
「日本は文化によって強国となる。軍艦ではなく、知識と芸術で国を築く。」
だが――そのころ日本国内では、少し異なる空気が漂っていた。
街の新聞売りが、夕暮れの中で声を張る。
「世界が日本を称賛! タイムズ紙、藤村総理を『哲人』と評す!」
通りを歩く人々は、その見出しを一瞥して立ち止まる。
「すごい話だな」
「けど、俺らの暮らしは変わらねぇよ」
「文化もいいが、飯の値はどうにかならんのか」
藤村の理念は、民衆の生活とはまだ遠かった。
それでも、誰もが少しだけ誇らしげに空を見上げた。
遠いロンドンで、自分たちの国が称えられている。
それだけで、胸の奥が温かくなるのを感じた。
――同じ夜。首相邸の書斎。
藤村は机に置かれた新聞を静かに見つめていた。
蝋燭の灯が紙面を照らし、活字の黒が金色に光る。
「哲人政権……」
その言葉を呟きながら、彼は眼鏡を外した。
記事の中の自分は、理想の化身のように描かれていた。
しかし現実の彼は、眠れぬ夜を何度も過ごしている。
予算の調整、党派の対立、民間の不満。
理想を貫くほど、足元の現実は重くなる。
「父さん、まだ起きてるの?」
戸口に立つ声に振り返ると、久信がいた。
十五歳の少年は、父の疲れを察していた。
「考えていたんだ。」
藤村は静かに答えた。
「世界が日本を見るようになった。
けれど、我々はまだ、自分たちを見ていない。」
久信は少し間を置いてから言った。
「父さん、僕たちはもう模倣の国じゃないよ。
でも、自分たちの答えを見つけるのは、これからだと思う。」
藤村は目を細めた。
「そうだな……お前たちの世代に託すしかない。」
外では、雪が再び降り始めていた。
その音はかすかで、まるで未来のささやきのようだった。
藤村はそっと新聞を畳み、机の引き出しにしまった。
「世界が日本を見る日が来た。
だが、私が見つめねばならぬのは、この国の“心”だ。」
灯を消すと、闇の中に一枚の写真が浮かんだ。
家族四人の笑顔。
その笑顔は、確かに“暁”の光を映していた。
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