318話:(1883年9月・秋分)外交の劇場 ― 言語は扉なり
秋の朝の光が、霞ヶ関の並木を金に染めていた。官邸の庭では白露をまとった芝が微かにきらめき、遠くで衛兵の靴音が石畳を刻む。静けさを破ったのは、扉越しに聞こえた低い咳払いだった。
「――総理、よろしいでしょうか」
陸奥宗光が分厚い革のフォルダを抱え、執務室へ一礼して入る。藤村晴人は地球儀の緯線から視線を外し、肘掛けに指を軽く叩いた。
「報せか、宗光」
「はい。文化で国の姿を示すなら、場をこちらで開くべきです。東京で、諸国を招いた会議を」
藤村の眉がわずかに動く。陸奥は一歩進み、机上へ資料を広げた。羊皮紙の地図の上に、欧州の都が赤い印で結ばれている。
「題して、『東京国際文化会議』。英・仏・独・露・米・伊の六か国に招請を。会期は五日。昼は政策と制度の紹介、夜は演奏と展示を。日本の“今”を、制度と作品の両輪で見せます」
紙面に走る陸奥の指先は迷いがなかった。藤村は短く息を吐き、机上の万年筆を縦に置く。
「こちらから、世界へ扉を開く、というわけだ」
「ええ。言葉と音と手業――三つの扉を同時に、です」
薄霞の差す窓越しに、白鷺が一羽、日比谷濠の水面を切った。藤村はその白い軌跡を見送り、決めたように頷いた。
「やろう。東京で。五日間で、我らの輪郭を刻む」
「準備にあたり、ひとつお願いが」
陸奥の視線がわずかに柔らぐ。革フォルダの最前に、別紙が一枚差し込まれていた。
「案内役に、久信殿を。各国語での応対、現場の調整、突発の質疑――通訳を介さず“直接”を貫くべき場面が必ず生じます」
「十四の少年に、世界の耳を委ねるか」
藤村は口角を上げ、すぐにその笑みを引き締めた。
「……よかろう。扉を開ける鍵は、彼が一番多く持っている」
白紙の議事日程が手早く埋められていく。初日は横浜での出迎えと礼節の確認、二日目に開会と要旨説明、三日目は学校と工房の視察、四日目を自由討議と民間交流、五日目に成果の取りまとめ。夜ごとに音と光で街を満たす企画が、余白に書き込まれていく。
「会場は――」
「迎賓の宴は鹿鳴館で。昼の部は上野の音楽館と芸術学校、工芸の実演は日本橋の仮設ホールに。横浜の埠頭にも臨時の展示棚を組みます。到着直後に“最初の一瞥”で掴みたい」
陸奥の答えに淀みはない。外務省の机で磨かれた段取りの刃が、音もなく走る。藤村は頷き、呼び鈴を弾いた。
「久信を」
扉が開く。十四歳の少年は、姿勢を正して入った。目は静かに燃え、指先は羽根ペンのようにしなやかだ。
「呼ばれました、父上」
「来月、東京で世界を迎える。案内役はお前だ」
久信の瞳に、迷いの影はなかった。ただ一度、小さく息を吸い、深く頭を垂れる。
「承りました」
「英・仏・独・露・米・伊。口の形と耳の角度を、すぐ整えよ。言葉は刃ではない、扉だ。開けるのは礼、通すのは論、締めるのは音楽だ」
「はい」
陸奥が資料束を手渡す。出席予定の肩書、嗜好、過去の論稿、好む作曲家――余白には鉛筆でびっしりと走り書きがある。少年は目の動きだけで読み、頷き、数枚を抜き取る。
「英国の学芸員は器物に厳密、フランスの教授は概念に敏感、ドイツの楽士は体系を欲する……初日の挨拶は英語で直裁に、討議の要点は仏語で抽象高く、音楽談義は独語で精密に」
「露西亜には?」
「氷が解けやすい温度で。礼儀を厚く、機会を細く、言葉は短く」
藤村と陸奥が同時に笑った。少年は照れず、さらに一枚を取り上げる。
「到着の港は横浜。最初の一言で勝負が決まります。船を降りた階段の半ばで、各国語の“ようこそ”を順に。耳が驚けば、心の扉も半歩、勝手に開きます」
「よし。衣は?」
「昼は和装に短剣――礼装の印。夜は洋装に白手袋――近代の印。両方を同じ身に宿すのが、我が国の答えです」
風がカーテンを持ち上げ、窓辺にわずかな冷たさを運ぶ。藤村はその冷気を肺に入れ、静かに吐いた。
「宗光。各省と歩調を合わせろ。文部は作品と人を、工部は灯と機械を、内務は街路と灯火を、警保は静穏を。客人は我が家へ迎える。埃一つ、風一つ、意味を持たせろ」
「御意」
「久信。五日で、ここが文明の劇場だと納得させよ。見せ物ではなく、筋の通った芝居を。台詞は言葉、舞台装置は制度、音楽は心だ」
「演目の結末は、“対話の継続”に」
「終わりなき幕間、か。いい」
筆が走る音が、雨だれのように部屋を満たす。やがて、日付と印が押され、会議は現実へ歩き出した。
午後、官邸の塀外では、飴売りの声と人力車の鈴が混じり合い、都の空に白い雲が流れていく。五日間のために積み上げる無数の小さな準備――名札の活字、絨毯の針、譜面のインク、茶器の艶――その一つひとつが、見えない歯車のように回り始めた。
藤村は最後に、窓辺で立ち止まる。薄陽の中、彼は独りごちた。
「扉を開けるのは礼だが、扉の向こうに置くのは、我らの心だ」
そのとき、庭の砂利道を駆ける小さな足音がした。末子の義親が風の匂いを抱き込むように駆け込み、兄の袖を引いた。
「兄ちゃん、外国の人、いっぱい来るの?」
「来るよ。だから、失礼のないように、でも胸を張って迎える」
「うちの音、聴いてもらえる?」
「聴いてもらうさ。言葉で開けて、音で確かめる」
少年の答えに、藤村は満足そうに頷いた。東京は、舞台になる。台本はすでに書かれ、役者は揃い、幕は、静かに上がろうとしている。
横浜港の沖に、白い帆と黒い煙が重なって見えた。汽笛が海霧を裂き、埠頭の旗が朝風に鳴る。税関の時計が九時を告げるころ、最初の舷梯が甲板から降ろされた。
「――Welcome to Japan. ようこそ」
桟橋の先端で、久信が一歩進み、小さく礼をした。英語の一言に続けて、仏語、独語、露語、伊語が滑るようにこぼれる。耳に触れた音がそれぞれの国名を呼ばわるより速く、到着客の眉がわずかに上がった。
「少年が……通訳か?」
英国代表の学芸員は口髭を撫で、半歩だけ足を止めた。フロックコートの襟に潮気が張りつく。彼の視線の先で、久信は客人の手荷物に目を遣り、同行の書記官へさりげなく合図する。荷札の記号を読み取っているのだと、すぐに分かる身振りだった。
「お手持ちの木箱は精密器具ですね。検査台を優先いたします」
「……結構」
短い返答とともに、英国紳士の懐疑はまだ解けない。だが、係官の動きが実際に速く、箱が丁寧に扱われるのを見ると、帽子の角度が心持ち和らいだ。
「Monsieur, par ici, s’il vous plaît. 作品は直射日光を避けております」
フランス代表の美術教授には仏語で、箱の置き場を案内する。教授は横目で少年を値踏みした。吐息に漂う煙草の香りが、白い朝日に溶ける。
「発音に訛りがない。だが、現代の審美眼を日本がどこまで理解しているか……」
言葉に出さず、胸の内でつぶやく。目の前の木箱には、彼が選んだ日本の工芸に並ぶだけの期待と疑いが封じられている。
「Guten Morgen. 楽譜の取り扱いは、湿度三五パーセントに保ってあります」
ドイツ代表の音楽院教授が、わずかに目を細めた。湿度という単語で、相手の用意が「感覚」ではなく「数値」に根ざすことが分かる。
「数値で語る国か。ならば、理を尽くす議論ができるかもしれん」
「Здравствуйте. お疲れでしょう、まずは温かい茶を。――Чай тёплый」
ロシア代表の音楽家は、硬い頬をほんの少し緩めた。桟橋の仮設休憩所では湯気の立つ湯飲みと、小ぶりの菓子が並ぶ。木卓の上には各国語で印刷された日程表が束ねられていた。紙の縁に触れた瞬間、指先が感じるわずかな凹凸――新しい銅版印刷の細密さが、無言の自己紹介をしている。
「移動はどうなっておる?」
「東京まで汽車で一時間半。車中で要点の資料をお配りします。到着後は鹿鳴館で昼餉、その後、上野で開会式です」
言葉は簡潔で、間がいい。歩幅に合わせて説明の粒が落ちるたび、荷車の軋みと汽笛の余韻が背景に退いていく。
午前十時、客車が横浜駅を出る。窓外に稲田が走り、点々と社の朱が流れる。客室では小さな卓が据えられ、薄い冊子が配られた。表紙には金泥で「東京国際文化会議」と記され、本文には会期の構成、見学先の配置図、参加工房と学校の概要が整然と並ぶ。
「このレイアウト……」
英国代表が親指で余白をなぞる。視線は活字の均整と余白の呼吸を測っている。
「読みやすい。紙質も悪くない。……だが、よくできた案内は良い舞台の条件ではあっても、芝居の中身を保証はせん」
「教授、こちらの地図をご覧ください。上野の音楽館から工房群まで、歩いて十五分に抑えています。移動の負担を最小に」
久信はドイツ語に切り替え、教授の前へ小地図を滑らせた。手描きの赤鉛筆の線が、楽隊の動線と客席の配置まで示している。
「……実務の把握が行き届いておる」
ロシア代表は車窓の先に広がる江戸川の光を見つめ、言葉少なに湯飲みへ唇を寄せた。
昼、鹿鳴館。玄関の柱に垂れる蘭の白が、日差しを柔らかく散らしている。絨毯の毛並みは靴底を沈ませ、銀の燭台が緩やかに光を返す。楽隊のチューニングが遠くで揃い、食堂の扉の向こうから肉の香りが這い出してきた。
「皆様、本日はお運びいただき、感謝いたします」
藤村が前へ出る。礼装の羽織に小刀を帯び、胸元の白が深い紺に映える。彼は一礼し、言葉を始めた。語調は穏やかで、句読点の置き方がきれいだ。
「この五日間で、我らが何者であるかを、制度と実技、音と言葉でお見せします。議論は歓迎、批判もまた歓迎。扉は開けてあります。どうぞ中まで、お入りください」
拍手が重なり、椅子が引かれる音がさざめいた。卓上の献立には、出汁の効いた澄ましと牛肉のローストが並び、どちらにも過不足がない。葡萄酒の杯に和菓子の甘みが不思議と調和し、会釈の輪が自然に広がっていく。
「通り一遍のもてなしではないな」
英国代表が鼻梁の眼鏡を押し上げ、低く言った。フランス教授は器の縁を指で叩き、磁肌の音色に耳を傾ける。
「有田ではない。京都の手、だろう」
「はい、京焼の名工の作です。窯と釉の配合を、職人自ら説明できる場もこの後に設けております」
久信の返しは短いが、要点を立てた。言葉の温度が客に合わせてわずかに変わる。その揺らぎが、会話の隙間を心地よく埋める。
食後、上野へ。音楽館のホールは午後の光で舞台に薄金の縁取りをつくり、客席の背もたれに布の匂いが新しい。舞台袖では、学生たちが緊張で指先を冷やし、譜面の角を何度も直している。
最初の一音は、琴の爪が弦に触れた時の、紙が裂けるような微かな息だった。やがて尺八が細い柱を立て、音の庵ができる。西洋の耳にはあまりに静かだ。だが、静寂が音を縁取る輪郭線だと気づくのに、時間は要らなかった。
「繊細だ……」
ロシア代表が囁き、目を閉じる。彼の肩に差す午後の光が、ステンドグラスを透ったように彩を帯びる。
続いて、ピアノ。山葉の工房から運ばれた国産機が、黒い艶で舞台の奥に座っている。鍵盤に触れたときの音の立ち上がりが、わずかに柔らかい。ベートーヴェンの月光が、ガス灯の火のように揺れて広がった。
「響板の材が違うな」
ドイツ教授が顎に手を当てる。久信は小声で応じる。
「国産の杉を使っています。乾燥の方法を工夫しました」
最後に、東西を織る新曲。弦が和声の地を敷き、篠笛が旋律を渡す。低弦の持続の上を、三味線の細い線がかすかに笑んだ。
「模倣ではない」
フランス教授の独白に、英国代表が短く頷く。「自分たちの語法で、向こうの文を綴っている」
演奏が終わると、拍手は慎ましく、しかし長く続いた。指揮者の手が降りてもなお、いくつもの掌が余韻を確かめるように遅れて打つ。音が消えた後の静けさが、満ち足りていた。
夜、鹿鳴館のホールに灯がともる。鏡面に映るシャンデリアの滴が、笑い声の粒と混ざり合う。晩餐会の卓を離れ、各国の輪ができる。銀の盆を持った給仕が無音で滑り、言葉の交換がはじまった。
「君は、なぜそこまで諸語を」
英国代表がグラスを傾け、久信に問う。少年は一拍置き、ゆっくりと返した。
「通訳を介すと、扉の隙間から覗くだけになります。自分の手で扉を開け、部屋の空気を吸いたいのです」
「扉、か」
「はい。閉ざしたままでは、誰も中を見ません。開ければ、靴音が入ってきます。音が変わる。それが、対話だと思うのです」
英国の紳士は杯の縁を指でなぞり、小さく笑った。「面白い。君は、鍵をたくさん持っている」
向こうの卓では、フランス教授が工芸の青の由来を尋ね、八歳の義親が金属と釉薬の話を拙い仏語で説明していた。言葉の端々で久信がさりげなく支え、教授は目尻に笑い皺を寄せる。
廊下の端、ドイツ教授は義信と軍楽隊の編制について立ち話をしていた。拍と歩度、楽隊配置の図が紙ナプキンに素早く描かれる。理が理を呼び、会話が音符のように連なる。
夜気が庭の榎を揺らし、灯の輪が芝に楕円を描く。初日の幕は、歓談の熱がほどよく冷める頃合いに静かに下りた。懐疑は消えていない。だが、扉は確かに半歩、内側へ押されている。明日の議論は、今日より深く、明後日の視察は、今日より遠くまで届くだろう。東京という劇場は、観客の目が暗がりに慣れる時間を、きちんと用意していた。
翌日、東京の空は晴れていた。秋の光が鹿鳴館のステンドグラスを透かし、磨かれた床に色の帯を落とす。会議二日目――いよいよ、各国代表を招いた展示と討論が始まる日だった。
久信は正装の詰襟を整え、鏡の前で深呼吸をした。父から託されたのは「案内役」――だが、それは単なる通訳ではない。日本の文明を言葉と姿勢で示す、“国家の顔”でもある。
扉の外では、各国の旗が並んで翻っていた。英国、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカ、オランダ――。初めて日本の首都に文化代表を送った国々である。
藤村は会場に姿を現すと、軽く一礼して壇上へ上がった。
「――第1回東京国際文化会議へようこそ」
穏やかに響いた声は、鹿鳴館の高い天井に柔らかく反射する。
「この五日間、日本がどのように学び、そして創ってきたかをお見せします。批判も歓迎です。対話こそが、文明を磨く礎となるでしょう。」
軽い拍手が起こり、次の瞬間、藤村の視線が客席の一角を見た。
「本日の案内役を務めるのは――我が息子、久信です」
ざわ、と一瞬ざわめきが走った。十代半ばの少年が壇上に立つなど、外交の場では異例だった。
だが、久信は一歩前へ進み、落ち着いた英語で挨拶をした。
「Ladies and gentlemen, welcome to Tokyo. Thank you for coming so far to see our culture with your own eyes.」
発音は驚くほど自然で、抑揚も柔らかい。
英国代表が思わず小声で言った。
「……あの歳で、これほどの英語を。」
久信は続けて仏語、独語、露語で同じ挨拶を述べる。言葉が変わるたびに、会場の空気が波のように動いた。
「それでは、展示室へご案内いたします」
最初の展示は、工芸の間だった。
漆の器、七宝の花瓶、京焼の茶碗――いずれも、光の角度で色を変える。
英国代表が一つの七宝壺に目を留めた。
「これは……金属を焼いて色を出しているのか?」
久信が頷き、傍らにいた職人・並河靖之を紹介する。
「この作品を作ったのは、京都の並河靖之氏です」
並河が一歩前に出て、礼をした。
「地金に釉薬を重ね、火で色を封じるのです。温度の加減は指先で感じ取ります」
「釉薬……それは、ガラス質か?」とフランス代表。
久信は即座に仏語で通訳する。
「Oui, mais très délicat. 一度でも温度を誤れば、全てが割れます」
教授は思わず感嘆の息を漏らした。
「C’est magnifique…(見事だ)」
その隣で、濤川惣助が彩色した花文様の壺を差し出した。
「伝統の形に、西洋の陰影を学びました」と彼は言う。
フランス代表が眉を上げる。
「それは模倣ではないのか?」
濤川は笑みを浮かべ、答えた。
「模倣から始めて、創造で終える――それが文明の道です」
久信がその言葉を通訳すると、会場に静かな頷きが広がった。
やがて、一行は次の会場――東京芸術学校へと向かった。
校舎の白壁の向こうには、学生たちの作品がずらりと並ぶ。
西洋画の展示には、富士山と街路を同じキャンバスに描いた風景画。
日本画の展示には、花鳥の間に微妙な陰影を取り入れた屏風。
ドイツ代表が低く言った。
「統一がない……どっちつかずでは?」
久信は即座に独語で答えた。
「先生、我々は“どちらか”を捨てていません。学ぶことと守ること、両方を行うのです」
「だが、それは矛盾では?」
「矛盾ではなく、融合です。
西洋の理論と東洋の感性――どちらも人の手から生まれたもの。
ならば、手を繋げばよいのです」
ドイツ代表は腕を組み、しばし沈黙したあと、静かに頷いた。
「なるほど……理屈だけではない、思想だな」
その瞬間、会場にいた学生たちの目が光った。
“世界の目が、今、自分たちを見ている”――そう実感したからだ。
その日の終わり、演奏会の準備が始まった。
山葉の工房で作られた新型のオルガンが舞台中央に据えられ、学生たちが緊張の面持ちで並ぶ。
久信は舞台袖で一度だけ父を見る。
藤村は小さく頷いた。
「行け。文明は、言葉と音で示すものだ」
照明が落ちた。
会場の空気が静まり、ひとつの音が――風琴から流れ出した。
風琴の澄んだ音が、鹿鳴館の天井をゆっくりと満たしていった。
最初に響いたのは「さくらさくら」だった。
琴と尺八が静かに旋律を導き、やがて山葉寅楠が製作した国産オルガンが重なる。
――日本の音と、西洋の音が、ひとつになった。
ロシア代表は目を閉じ、指先で拍子をとる。
「……繊細だ。だが決して弱くない。」
フランス代表は口元に笑みを浮かべた。
「音が、文化を語っている。」
そしてドイツ代表は、低く唸るように言った。
「技術も、感情も、両方ある。まるでベートーヴェンの弟子たちのようだ。」
曲が終わると、拍手が起こった。
だがその拍手の中で、久信は小さく息を吐く。
三十三ヶ国語の通訳、来賓への対応、展示の案内――十四歳の体には重すぎる責務だった。
夜、晩餐会の席。
長いテーブルの上には、和洋折衷の料理が並ぶ。鯛の西京焼きとビーフステーキが同じ皿に載り、ワインの隣には清酒が注がれていた。
英国代表がグラスを傾けながら言った。
「久信君、どうしてそこまで言語を学ぶ?」
久信は少し考えてから、穏やかに答えた。
「以前、国際会議で通訳を通した会話をしたとき、言葉が違えば心も届かないと感じました。
だから、直接話したかったのです。」
「いくつの言葉を話すのかね?」
「三十三です。」
会場がざわめいた。
「三十三……?」
「信じられない!」
フランス代表が笑いながら言った。
「だが、なぜそこまで?」
久信は静かに答えた。
「父が言いました――言語は武器ではなく、扉だと。」
「扉?」と英国代表。
「はい。
閉ざされていれば、誰も中に入れない。
開けば、そこに対話が生まれます。
いま、私はあなたと英語で話しています。
扉が開いているから、あなたと笑い合えるのです。」
テーブルの空気が、柔らかく変わった。
ワインの香りの奥で、静かな敬意が広がる。
翌日――会議四日目。
各国代表は控室で総評を行っていた。
英国代表が開口一番、こう言った。
「日本の工芸と教育は、想像以上だ。」
フランス代表は頷く。
「和洋折衷という思想、あれはただの折衷ではない。哲学だ。」
ドイツ代表は記録帳を閉じ、短く言った。
「藤村政権は体系的だ。偶然ではなく、理念に基づいている。」
ロシア代表が加える。
「一年や二年では作れまい。長い時間をかけて育てた文化だ。」
結論は一つだった。
――「藤村政権は、文明政府である。」
そして最終日。
藤村晴人は壇上に立ち、深く一礼した。
「この会議で学んだのは、文化とは力でなく、理解であるということです。
久信が申した通り、言語は武器ではなく扉です。
扉を開ければ、そこに対話が生まれる。
対話が生まれれば、世界は共に進める。」
拍手が起こった。
英国、フランス、ドイツ――すべての代表が立ち上がって拍手を送る。
久信は静かに目を閉じ、その音の波を胸に刻んだ。
――そして数週間後。
陸奥宗光が新聞を携えて官邸を訪れる。
「総理、タイムズ紙です。見出しをご覧ください。」
英語でこう書かれていた。
“Japan’s Young Prodigy: A 14-year-old boy who speaks 33 languages.
The Fujimura administration is truly civilized.”
藤村は笑みを浮かべ、新聞をたたんだ。
「ようやく世界が、“日本”という言葉の意味を理解し始めたな。」
――その夜。
久信は疲れ切った体で、父の執務室に入った。
「父さん……五日間、長かったです。」
「よくやった。」
義信が横から言った。
「久信、戦場より大変そうだったぞ。」
義親が続けた。
「お兄ちゃん、外国の人に囲まれても怖くなかったの?」
「怖かったさ。でも、扉を閉じたくなかったんだ。」
藤村は静かに頷いた。
「お前は、国と世界の扉を開いた。」
久信は微笑んだ。
「でも、まだ開いていない扉がたくさんあります。」
「ならば、一つずつ開けていこう。」
障子の向こう、秋の虫が鳴いていた。
その音は、文明の夜を静かに包み込んでいた。