表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

350/354

317話:(1884年・春)風琴と銅版 ―ヤマハ、音を紡ぐ国へ―

蝉の声が校庭の外から聞こえていた。

 東京芸術学校の音楽館は、開校から三ヶ月が過ぎ、生徒たちの歌声でいつも満ちている。

 だがこの日、伊沢修二は沈んだ表情で藤村晴人のもとを訪れた。

 机の上には分厚い予算書と、赤く印をつけた「楽器購入費」の欄。


 「――総理、楽器が足りません。」


 藤村は顔を上げ、静かに頷いた。

 「音楽学校の生徒はどれほどに?」

 「四十名から七十名に増えました。だが、楽器は十台しかありません。」


 伊沢は書類を差し出した。

 ピアノ、オルガン、ヴァイオリン、フルート――どれもが輸入品。

 値段は目を疑うほど高い。

 ピアノ一台五百円。

 オルガンでも三百円。

 「教師の年収以上です」と伊沢は言った。

 「修理部品も届かない。もし壊れたら、海を越えてドイツやアメリカへ送らねばなりません。」


 藤村は静かにペンを置いた。

 蝉の声が遠くで一層強くなった。

 「……それでは、全国に広げるどころではないな。」


 伊沢は頷いた。

 「全国の師範学校でも音楽教育が始まっています。

  だが楽器が足りず、授業ができません。

  国産の楽器がなければ、この国の音楽教育は立ち行かなくなります。」


 藤村は立ち上がり、地図の前へ歩いた。

 壁にかかる日本地図の上には、赤い印がいくつも打たれている。

 札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、長崎――すべて音楽教師を派遣した都市だった。

 「音を教える教師はいる。だが、音を生み出す“道具”がない。」


 伊沢が静かに答えた。

 「総理……山葉寅楠という男を覚えておられますか?」

 「山葉……あの風琴を作ろうとしていた職人か。」

 「はい。浜松で研究を続けているようです。

  彼は――一人で、オルガンを作っています。」


 藤村は目を細めた。

 「一人で……か。」

 窓の外、真夏の陽光が瓦の上を照りつける。

 「伊沢君、準備をしてくれ。浜松へ行こう。」


 その決断は、迷いがなかった。

 それは、文明の音を“自らの手”で奏でるための、国家的な一歩だった。


 ――三日後。

 汽笛が鳴る。

 藤村一行を乗せた蒸気機関車が、東海道を南へと進む。

 窓の外には夏草が揺れ、田園に白い風が走る。

 藤村は隣に座る義親の頭を撫でた。

 八歳の少年は窓に張り付き、嬉しそうに外を眺めている。

 「父さん、浜松って遠いね」

 「遠い。だが、音の未来がそこにある。」


 汽車が止まり、浜松駅に降り立つと、潮の香りが風に混じっていた。

 町はまだ小さいが、どこか活気があった。

 風車のような木造の風力機が並び、遠くからは鍛冶屋の金槌の音が響く。

 藤村の目的地は、町外れにある一軒の工房だった。


 軒先には「山葉風琴製作所」と墨書された木札がかかっている。

 中に入ると、木くずと金属片の匂いが漂っていた。

 木製の筐体、革袋、銅製のリード、工具――。

 どれも磨き込まれてはいるが、明らかに“孤独な手”の痕跡を残していた。


 「――総理が、まさか……!」


 作業台の奥から、やややつれた男が現れた。

 山葉寅楠、三十五歳。

 眼光は鋭く、指先には無数の小さな火傷跡があった。

 「総理がこんな辺鄙な所へ。恐縮の至りです。」


 藤村は微笑み、机上の試作品に目を向けた。

 小さなオルガン――風琴と呼ばれる。

 足踏み式のペダルがつき、木製のボディには手作業の痕が生々しく残っていた。


 「これが……国産の風琴か。」


 「はい。独学で組み上げました。音を聴いてください。」


 山葉がペダルを踏む。

 空気が送られ、リードが震える。

 ――ブオォ……。

 音が鳴った。

 確かに、音は出た。

 しかし、それはまだ粗削りで、どこか湿ったような響きを持っていた。


 「湿度のせいです」と山葉が苦笑した。

 「梅雨の時期になると木が膨らみ、音程が狂うんです。」


 藤村は静かにうなずいた。

 「それでも……日本の大地から出た音だ。」


 伊沢が補足した。

 「総理、この音を安定させるためには、化学と工学の両方が必要です。

  山葉さんは技術者ですが、資金も人手も足りません。」


 藤村は振り向き、山葉の背後を見た。

 壁際には、試作で失敗した部品が山のように積まれている。

 「ひとりで、これだけのことを?」

 「はい。昼は木工、夜は金属加工。もう三年、こうしてます。」


 その言葉に、義親が一歩前へ出た。

 「山葉さん、なんで音がズレるの?」

 山葉は驚き、少年を見下ろした。

 「木が湿気を吸って膨らむんだ。そうすると音が変わる。」

 「じゃあ、乾かすといいんじゃない?」

 「乾かしても、また湿る。」

 「じゃあ、湿らないようにしたら?」

 「……?」


 義親の瞳は真剣だった。

 「木を乾かすときに、温度と湿度を管理して、最後に防水のニスを塗れば、膨らみにくくなるんじゃない?」

 「化学処理、か……」

 山葉は息を呑んだ。

 「なるほど。そんな発想はなかった。」


 藤村が穏やかに笑った。

 「我が家では、八歳でも科学を語るのです。」


 山葉は少し照れたように笑い、机の上の工具を並べ直した。

 「この子の言う通りかもしれません。……やってみましょう。」


 藤村は静かに言った。

 「山葉殿、あなたは孤独ではない。

  今日から、国家があなたの後ろ盾です。」


 工房の奥で、古い風琴の中から風が鳴った。

 その音は、まだ不安定で拙い――だが、確かに未来の音だった。

夕方、浜松の町に橙色の光が落ちていた。

 山葉の工房の前で、藤村は立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をした。

 木の香りと鉄の匂いが混ざった空気の中に、確かに“ものづくり”の熱が漂っている。


 「山葉殿、あなたの苦労は分かりました。だが――これを続けるには、支えが必要です。」


 山葉は作業台に両手を置き、静かに首を振った。

 「資金が尽きれば終わりです。ですが、誰も見向きもしない。

  “音楽”は贅沢だと、笑う人ばかりです。」


 藤村はその言葉に短く息をついた。

 「贅沢ではない。文明の柱の一つだ。」


 義親が首を傾げた。

 「文明の柱?」

 「そうだ。教育、科学、芸術――その三つが揃って、初めて国は進む。」


 山葉は驚いたように目を上げた。

 「……音を、文明の一部として考えておられるのですか。」


 藤村は頷いた。

 「そうだ。

  人の心を育てるのは、法でも軍でもない。音と美だ。

  この国が力を持つには、学びと音楽が必要だ。」


 その言葉に、山葉の頬が僅かに緩む。

 だが、現実は重い。

 彼は指先を見つめ、小さく笑った。

 「理想は分かります。けれど……一人では、どうにもなりません。」


 藤村はゆっくりと机の上に革袋を置いた。

 中には分厚い封筒が入っている。

 「これは、研究支援金として五千円だ。」


 山葉は目を見開いた。

 「五千円……! 総理、それは――」


 「国家予算からの拠出だ。返済は不要。だが、条件が一つある。」


 山葉は息を呑んだ。

 藤村はまっすぐに彼を見た。

 「必ず、完成させてほしい。

  この国の音楽を、他国の手に委ねぬように。」


 伊沢が続けた。

 「東京での教育は、すでに限界です。

  山葉さん、あなたの手が必要なんです。」


 山葉はしばらく黙っていた。

 やがて、小さく息を吐き、深く頭を下げた。

 「……分かりました。命を懸けて、作り上げます。」


 義親が目を輝かせた。

 「本当に、できるの?」

 「できるとも。だが、簡単じゃない。」

 山葉は笑った。

 「君の言った“化学処理”、試してみるよ。」


 その瞬間、藤村の表情に柔らかな笑みが浮かんだ。

 「よし。では政府として正式に支援体制を組もう。

  伊沢君、技術者を招け。海外の知識を導入する。」


 「外国人技師を、ですか?」


 「ああ。山葉殿の技術と、欧州の経験を融合させる。

  それが、この国の音を変える。」


 窓の外で、汽車の汽笛が遠く響いた。

 藤村はその音に耳を傾けながら、静かに言葉を結んだ。

 「この音のように、日本中に響く“風琴”を作ろう。」


 山葉は深く頷いた。

 「はい、総理。」


 その夜、浜松の小さな町に、長い挑戦の火がともった。

 山葉寅楠の工房の明かりは、夜更けまで消えることがなかった。

浜松の夏は、風が強い。

 その風の中で、山葉の工房に新しい息吹が流れ込もうとしていた。


 「――総理、ドイツより技師が到着しました。」


 伊沢が報告すると、藤村は頷き、玄関へ出た。

 背の高い老人が立っていた。

 髭を蓄え、手には革の鞄。名は、エルンスト・ヴァイゼル。

 オルガン製造の名工として知られる人物だった。


 「はじめまして、総理閣下。私は楽器の教師であり、機械の友でもあります。」


 彼は流暢な日本語でそう言い、藤村は驚いたように笑った。

 「言葉まで心得ているとは。」


 ヴァイゼルは微笑んだ。

 「私は“音”を学びに来ました。この国の風がどんな響きを持つか、感じたいのです。」


 藤村は彼の言葉に深く頷き、山葉へと視線を向けた。

 「これで、道が開ける。」


 工房では、さっそく共同作業が始まった。

 山葉は黙々と木を削り、ヴァイゼルは図面を描く。

 義親は横で興味深そうに覗き込み、メモを取っていた。


 「山葉さん、ここはリードの厚みが均一ではありません。」

 「……手作業では、どうしても誤差が出ます。」

 「では、銅板を薄く延ばす装置を作りましょう。」


 ヴァイゼルの手は老いていても正確だった。

 指先でわずかな歪みを感じ取り、工具の角度を変える。

 「音は数ミリで変わる。人の心もまた、わずかで変わる。」


 義親が思わず呟いた。

 「すごい……楽器を直す人って、医者みたいだ。」


 ヴァイゼルが微笑んだ。

 「その通りだ。私は“音の医者”です。」


 それからの三ヶ月、浜松の町には木槌と風の音が絶えなかった。

 山葉の工房には十人の職人が集まり、夜を徹して試作を重ねた。

 義親は温度と湿度を測り、記録をつけた。

 防湿処理を施した木材は、次第に安定した響きを保ち始める。


 やがて――冬の初め。

 山葉は試作品の前に立ち、深く息を吸い込んだ。

 「これが……完成形です。」


 藤村、伊沢、ヴァイゼルが見守る中、ペダルが踏まれた。

 空気が流れ、音が鳴る。


 ――ボォン……。


 低く、深く、そして清らかだった。

 湿りも歪みもなく、まるで鐘の音のように澄んでいた。


 ヴァイゼルはそっと目を閉じた。

 「……美しい。機械の音ではない。魂の音です。」


 山葉の指が震えていた。

 「やっと……届きました。」


 藤村は静かに近づき、彼の肩に手を置いた。

 「これが、日本の音だ。」


 その瞬間、工房にいた全員が言葉を失った。

 誰も拍手しなかった。

 ただ、静かな音の余韻だけが、長く空気の中を漂っていた。


 外では、冬の風が松林を渡っていく。

 遠くで鐘が鳴り、鳥が一羽、屋根を越えて飛び立った。

 藤村はその音に耳を傾け、静かに言った。


 「――これで、文明の音が日本に根づいた。」

冬が明け、春の風が浜松の町を包んでいた。

 その風に乗って、ひとつの知らせが東京へ届いた。


 ――「国産風琴、ついに完成。」


 文部省では祝賀会が開かれ、伊沢修二が壇上で報告を行った。

 「浜松の山葉寅楠氏が、日本初の実用風琴を完成させました。

  価格は輸入品の半額、音質は同等以上。すでに十台を試験導入済みです。」


 議場がざわめいた。

 「半額だと?」「本当に日本で?」

 「ドイツ人技師の協力があったとはいえ、驚嘆に値する」と、感嘆の声が重なる。


 藤村は、ゆっくりと立ち上がった。

 「日本の文明は、もはや輸入の模倣ではない。

  今、我々自身の“音”を持った。」


 その一言に、場の空気が静まった。


 「文部省は、山葉工房に年間一千台の製造を発注する。

  五年間で五千台――全国の師範学校に風琴を配備し、

  子どもたちに音楽の灯を届ける。」


 静まり返った議場に、やがて拍手が波のように広がった。

 それは単なる技術の成功ではない。

 ひとりの職人が“産業”を生んだという、文明の証だった。


 ――同年四月。

 浜松の郊外に、新しい建物が建てられた。

 「浜松楽器製作所」。

 政府補助金五千円、山葉の自己資金五千円。

 従業員三十名。初の量産工場である。


 工場では、木材を乾燥させる炉が並び、銅のリードが一枚一枚磨かれていた。

 木槌の音、革袋を縫う針の音、風を試す音。

 それらが交じり合い、まだ拙いが確かな“響き”を織り上げていく。


 義親は現場を見学して目を輝かせた。

 「父さん、音がたくさん鳴ってる!」

 藤村は頷き、微笑んだ。

 「そうだ。これは音楽が生まれる“音”だ。」


 山葉は職人たちを前に言った。

 「この風琴を全国へ届けよう。

  音楽を、誰もが学べる時代を作るんだ。」


 彼の声は決して大きくなかったが、誰もがその言葉を胸に刻んだ。

 新しい文明は、すでに工場の中で息づき始めていた。


 ――その夜。

 藤村は浜松の宿で、伊沢と語らっていた。

 「この国の文化は、形を持ち始めたな。」

 「はい。絵画、陶芸、音楽――すべてが日本の手で作られ始めています。」


 藤村は、窓の外の星を見上げながら静かに言った。

 「学問を護るのが軍。文化を拡げるのが国家だ。

  国家とは、戦うためにあるのではない。

  人の心を豊かにするためにある。」


 伊沢はその言葉に頷いた。

 「音楽は、戦争より強い武器になるかもしれませんね。」


 藤村の目が和らいだ。

 「いつか、そうなるだろう。

  風琴の音が、銃声よりも多くの人を動かす日が来る。」


 夜風が障子を揺らした。

 遠くで工場の灯が、星明かりのように瞬いていた。

 その光は小さかったが、確かに未来を照らしていた。


 ――数ヶ月後。

 東京の師範学校では、初めての国産風琴による授業が始まった。

 小さな子どもたちの歌声が、朝の教室に澄んで響く。

 教師が微笑み、窓の外では桜が舞っている。


 その音を聞いた誰もが思った。

 「これはただの音楽ではない。

  新しい時代の始まりだ」と。


 藤村は政府公報に、一行だけ記した。


 ――「音は、文明の証である。」


 そしてその欄外には、小さく添え書きがあった。


 ――「浜松の山葉寅楠。

   のちに“ヤマハ”と呼ばれる楽器製作所、ここに誕生す。」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ