315話:(1883年・初夏)工部の灯
霞がかった春の陽光が、銀座煉瓦街を金色に染めていた。
日本はすでに、藤村政権の下で富国も強兵も成し遂げていた。
財政は盤石、通貨は常陸銀行券で安定し、失業率はほぼ皆無。
列強諸国の大使たちが「この東の島国こそ、アジア唯一の文明国」と評するほどであった。
だがその裏で――一つの“灯”が、消えようとしていた。
霞ヶ関・工部省。
窓外に八重桜が咲き乱れるその庁舎で、白髭の役人が机の上の書類を押さえていた。
「……工部美術学校、閉鎖を検討中――」
印刷されたその一文を、イタリア人画家アントニオ・フェローチェは無言で見下ろした。
彼はローマ美術院の元教授。かつてサヴォイ家の肖像を描いた名匠であり、藤村晴人が自ら招聘した“日本洋画の父”とも呼ばれる人物だ。
だが、学内の生徒は二十名に満たない。
文明開化の熱が実業へと傾く中で、絵画を学ぶ若者は減っていた。
フェローチェは苦笑した。
「この国の人々は、目に見えるものを造る力に長けている。だが――“見えぬもの”を描くことには、まだ慣れていない。」
そこへ、ひとりの男がやってきた。
日本洋画界の先駆者・高橋由一である。
白髪を乱し、絵具に染まった手を懐に入れながら、静かな声で言った。
「フェローチェ先生、廃校の話は本当ですか?」
「ええ。工部省は“実用性に乏しい”と申しております。彼らにとって、芸術はまだ贅沢品です。」
由一は唇を引き結び、遠くの窓の外を見た。
「……文明を作った男たちが、文明を軽んじている。」
その夜、由一は筆を置き、東京首相官邸へと向かった。
目的はただ一つ――藤村晴人に、工部美術学校の存続を直訴するためだった。
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応接室に通された由一は、深々と頭を下げた。
「総理。どうか、この学校を救ってください。」
藤村は短く頷き、机の上の資料に目を落とす。
「存続を求める署名――学生十八名、講師六名。わずか二十四の声か。」
由一は拳を握った。
「ですが、彼らの手は未来を描けます! 日本人が日本の筆で、日本の風景を描く――その日が、もう近いのです!」
藤村は視線を上げた。その眼光は、官僚のそれではない。
国家を“設計”する建築士のような冷静さと、革命家の炎を宿していた。
「――よかろう。明朝、私が視察に行こう。」
その言葉に、由一は息を呑んだ。
誰もが知っていた。
藤村晴人は、一度決めたことは必ず実行する男である。
彼の決断一つで、国の制度が変わる。
常陸政府の“改革王”と呼ばれる所以だった。
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翌日、藤村一行が工部美術学校に現れた。
煉瓦造りの校舎の中に、絵の具と油の匂いが満ちている。
フェローチェと由一が迎えると、学生たちは筆を止め、一斉に頭を下げた。
藤村は無言のまま、壁に掛けられた絵を一つひとつ見ていった。
それは“日本の今”を描いた作品ばかりだった。
鉄道の線路、工場の煙突、街を行く人力車――いずれも、近代という新しい時間を描こうとしている。
「……面白い。」
藤村は呟いた。
「この絵は、富士を描いていながら、富士を中心にしていない。
視線が、列車に向いている。
つまり――この国が動いているということだ。」
フェローチェが深く頷く。
「彼らは無意識のうちに、“文明そのもの”を描こうとしているのです。」
藤村はしばし黙考し、ふと笑みを浮かべた。
「文明は、鉄と血だけでは作れぬ。色彩と想像があってこそ、形になる。
――廃校にはせぬ。」
その言葉に、教室中がどよめいた。
学生の一人が思わず涙をこぼし、由一はその肩に手を置いた。
フェローチェは帽子を取り、深々と頭を下げる。
「総理、貴殿は本当に“美術を理解する政治家”です。」
藤村は静かに答えた。
「理解ではなく、信念だ。芸術とは、国家の魂だ。」
――その一言が、この国の美術史を変えた。
藤村が工部美術学校を訪れた翌週。
官邸には、京都からの早馬が駆け込んできた。封書の表書きには墨痕鮮やかに「緊急嘆願」と記されている。
差出人は――狩野永悳、七十近い老画家。
徳川の御用絵師として江戸を彩り、明治に入っても京の画壇を束ねる存在だった。
封を切ると、整った筆跡でこう記されていた。
> 「西洋画なるものは、日本の美を塗り潰す毒であります。
> もし政府がこれを保護せんとするなら、我らは筆を折って抗議する所存。」
藤村は文面を読み終え、静かに息を吐いた。
「なるほど……来たか。」
彼は窓際に歩み寄り、霞ヶ関の若木を見下ろした。
「新しい枝を伸ばそうとすれば、古い枝が光を遮る。……だが、剪定せずに森は育たぬ。」
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数日後、京都・円山公園の料亭「南禅亭」。
藤村は随行の少将と秘書官を伴って現れた。
対座するのは狩野永悳、そして円山派の俊英・幸野楳嶺。
二人は着座したまま、ゆっくりと頭を下げた。
楳嶺が先に口を開いた。
「藤村総理、遠路ようこそ。……ですが、なぜ“わざわざ”我らに会いに?」
「答えは簡単です。」
藤村は湯飲みを置き、真っ直ぐに二人を見据えた。
「あなた方の“反対”が、この国の未来を止めるからだ。」
永悳は唇を歪めた。
「未来……? 洋画風情が未来とな? あれは魂なき筆だ。線は奔放、構図は西洋の真似。伝統を踏みにじる玩具ではないか。」
「玩具ではない。」
藤村の声は低く、だが通る。
「文明とは、“他国を模す”ことではない。“己を映す鏡を増やす”ことだ。」
楳嶺は静かに頷いた。
「なるほど……だが、予算は有限です。西洋画を保護すれば、日本画は死にます。」
「死ぬのではない。」
藤村は反論しなかった。ただ茶を口に含み、柔らかく言葉を継いだ。
「時代が“次の形”を求めているだけです。」
永悳が机を叩いた。
「“次の形”など要らぬ! 我らが描く山水こそ、千年の美だ!」
藤村は微笑した。
「その山水に鉄道を通してみてはどうです? それでも美であるなら、日本画は永遠に生きる。」
一瞬、空気が張り詰めた。
楳嶺は湯気の立つ茶碗を見つめながら、低く呟いた。
「……若い画家たちは皆、洋画へ行く。私の弟子も半分は離れた。」
藤村は席を立ち、障子越しの庭を眺めた。
「彼らが去ったのではない。――行き先を示す者がいないだけです。」
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その夜、宿へ戻った藤村をフェローチェが出迎えた。
「総理、京の画家たちは手強いようですね。」
「彼らは“誇り”を守っている。叱る筋合いはない。」
フェローチェは苦笑した。
「イタリアもそうでした。新古典派と印象派が喧嘩し、ルーブルが分裂した。
だが、論争こそ文化を育てる火種になります。」
「ほう、火種か。」
藤村は懐から嘆願書を取り出し、火鉢に投げ入れた。
白い紙が炎に包まれ、ゆらゆらと光を立てて燃え上がる。
「ならば、燃やしておこう。
この炎が消えぬ限り――工部の灯もまた、生きている。」
フェローチェは沈黙した。
目の前の男の胆力と美意識に、思わず背筋を正す。
「……貴方のような政治家を、ヨーロッパでも見たことがありません。」
藤村は微笑した。
「政治とは、美術館の設計に似ている。
空間を整え、光を導けば――人が自然と集まる。」
「では、貴方の設計図の中心にある“光”とは?」
藤村は一拍置いて答えた。
「人の心だ。技術も制度も、それを照らす灯にすぎない。」
その静かな言葉に、フェローチェは深く頷いた。
彼は異国の地で初めて、“政治が芸術を愛する”瞬間を見た気がした。
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数日後、東京に戻った藤村は工部省の庁議でこう述べた。
「この件は、単なる学問の話ではない。
文明国家を名乗る以上、芸術は国策である。
財政の余裕があるからではない――“心の余裕”があるからこそ、我々は文化を興す。」
その言葉に、列席した官僚たちは一様に背筋を伸ばした。
工部卿、陸軍卿、文部卿――皆がこの若き宰相の理念を理解し始めていた。
フェローチェが壁際でそっと呟く。
「灯は、燃え広がる。」
京都御苑の春は、静かにして重い。
梅の香がただよい、鴨の鳴く声が遠くで響く――
その奥、古びた茶屋の座敷に、三つの影が対峙していた。
中央に座る男、藤村晴人。
黒い陣羽織の袖口から覗く刀の鍔が、かすかに光っている。
薩摩の国債を全額返済し、長州を征伐し、徳川を再興した“文明の立国者”。
その威はもはや将軍にも等しい。
向かいには、絵の世界を二分する巨頭がいた。
一人は狩野永悳――狩野派最後の大柱。
若き日に禁裏の襖絵を描き、帝から「筆聖」の号を賜った男。
筆を執れば鶴が舞い、風が息づくとまで謳われる。
もう一人は幸野楳嶺――円山派の俊英にして、写生の革新者。
新しい時代を睨みながらも、古典の魂を一滴も捨てぬ画壇の風雲児である。
その三人の前に、長机が静かに置かれていた。
机の上には、一枚の設計図――「東京芸術学校」構想の草案。
藤村が低く告げる。
「……工部美術学校を廃するのではない。生まれ変わらせるのです。」
永悳が扇を閉じ、険しい眼差しを向けた。
「文明の世とて、伝統を捨てる理由にはならぬ。
西洋の絵など、光と影ばかりの幻にすぎぬ。」
楳嶺もまた、控えめに笑う。
「若者の多くは“油絵”に魅せられておる。
だが、我らが描くのは“気”の絵だ。
生き物の息遣いを、筆一本で表す。
異なる理を混ぜれば、魂が鈍ります。」
その場の空気がわずかに張り詰めた。
藤村は沈黙ののち、ゆっくりと立ち上がる。
腰の刀を抜く――否、抜かぬまま、静かに鞘を畳に置いた。
「この刀は、薩摩の債を断ち切り、長州の野心を鎮め、徳川を救った刃です。
ですが――今は、刀だけでは国を護れぬ。」
永悳の眉が動いた。
楳嶺も息を呑む。
「筆と刀は対立するものではない。
刀は国土を護り、筆は人心を導く。
文明とは、その二つが並び立つことを言うのです。」
狩野永悳は静かにうなずいた。
「……おぬし、やはり只者ではないな。
薩摩を救い、長州を屈し、徳川を立て直したかと思えば、
今度は筆の世界まで治めようというのか。」
藤村は微笑を浮かべた。
「治めようなどとは思っておりません。
ただ――守りたいのです。日本の美という“心”を。」
楳嶺が腕を組み、低く言った。
「ならば約束を。日本画の火を、消さぬこと。」
「約束します。」
藤村は刀を腰に戻し、二人の前に深く一礼した。
「この国の未来を描くのは、筆を持つ者たちです。
和も洋も関係ない。
日本の美が、時代と共に呼吸し続けること――
それこそが我が政治の責務です。」
庭の竹が鳴る。
春の風が障子を揺らし、墨の香が広がった。
その場にいた誰もが悟った。
――この男の言葉は、ただの政治家の理屈ではない。
国を背負う覚悟と、刀を抜かぬ勇の象徴だった。
初夏の陽が傾き、銀座の画廊を金色に染めていた。
再編された「東京芸術学校」の記念展覧会――そこに、藤村晴人の姿があった。
展示室には、洋画と日本画が並ぶ。
高橋由一の「鮭」、幸野楳嶺の「花鳥図」、そして学生たちの新しい試み――。
だが、藤村の目を止めたのは、絵ではなかった。
会場の片隅で、静かに絵を見つめるひとりの少年がいた。
制服の袖口には法学校の徽章。
眼差しは真っ直ぐで、どの絵よりも光を宿している。
「君、名は?」
藤村が声をかけると、少年は少し驚いたように振り向いた。
「黒田清輝です。法を学んでおります。」
「法学か。だが……その目は、法律家のものではないな。」
藤村は微笑を含ませた。
黒田は一瞬ためらい、そして言った。
「私は絵を見るとき、言葉では説明できないものを感じます。
法は人を裁きますが、絵は人を赦す気がします。」
藤村は沈黙した。
目の前の青年の中に、まだ形にならない“光”を見た。
それは、政治でも軍事でもない――芸術の種。
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その夜、官邸の書斎で藤村は封筒を開いた。
文部卿・伊沢修二からの進言である。
《留学生派遣計画:法律・工芸・美術分野を視野に》
藤村はしばし考え込み、そしてひとつの名を記した。
黒田清輝。
「君はまだ絵を学んでいない。
だが、光を見る眼がある者は、いつか必ず描くようになる。」
筆を置くと、藤村は小さく呟いた。
「工部の灯は消えぬ。
法の学徒が、いつか芸術で国を照らす――それもまた文明だ。」
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数週間後、横浜港。
出航を待つ船上に、黒田清輝の姿があった。
見送りに来た伊沢修二が声をかける。
「法律を学び、世界を見てきなさい。
ただし、もし別の光を見つけたら――恐れずに進むのですよ。」
黒田は微笑み、帽子を取って深く頭を下げた。
「はい。……この国の未来が見える気がします。」
その背後、桟橋の群衆の中に藤村の姿があった。
煙草の煙をくゆらせながら、遠く海の彼方を見つめている。
「――行け、若き法学生。
筆を取るか、法を取るかは問わぬ。
ただ“光”を見失うな。」
船笛が鳴り、波が割れた。
やがて白い帆が風をはらみ、港を離れてゆく。
その瞬間、藤村は心の中で静かに呟いた。
「文明とは、灯を継ぐことだ。」
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