314話:(1883年・春)音楽院の夜明け
十一月の風は乾いていた。
霞ヶ関の銀杏並木が薄金色に震え、首相官邸の白壁に、午後の陽が冷たく斜めの影を刻む。
障子の向こうで湯がことりと鳴った。茶の香りが立ちのぼる頃、伊沢修二が書類束を抱えて姿を現した。
「総理、失礼いたします。」
背筋の伸びた三十五の文部官僚。眼鏡の奥の瞳は、寝不足の赤を帯びているのに、光だけはよく研がれていた。
藤村晴人は机端の青い鉛筆を指で回し、顎で続きを促す。
「日本に、音楽学校が要ります。」
その一言で、部屋の空気が少し張った。
伊沢は紙背の汗を気にするそぶりもなく、言葉を置いていく。
「各地の学校で歌は教えています。ですが——教師の素養も、教材も、調律も、すべてが独学の継ぎはぎです。演奏家を育てるにも、理論家を育てるにも、核となる場がない。音楽を国の言語にするなら、基礎研究と師範養成を、同じ屋根の下で回さねばなりません。」
藤村は黙って聞き、窓の外に視線を流した。
吹き抜ける風が、庭の水面をさざめかせる。
(軍は強くなった。工部も、造船も、走り出している。ならば次は——人の心を同じ速度で鍛えねば、器が先に軋む)
「場所はあるのか。」
「上野の旧寛永寺。使われていない堂宇が残っています。骨組みは健在、音が良く回る。改修でいけます。」
「新築はしない、と。」
「はい。時間が惜しい。三か月で開けます。」
伊沢の声には、慎重さと焦燥が、均等に混じっていた。
藤村は鉛筆を止め、淡く笑った。
「よく準備して来たな、伊沢。」
「……ありがとうございます。」
「音楽学校は贅沢だ、と言う者が必ず出る。」
「承知しています。」
「だが、贅沢品と決めつけるのは、音を知らない者の論だ。国家が長く呼吸するには、拍と和声が要る。」
その時、障子の影が揺れ、三兄弟が顔を出した。
「父上、呼ばれましたか。」
義信(十五)は軍装の詰襟のまま、久信(十四)は書類鞄を抱え、義親(八)は黒いインクの染みを手に付けている。
「ちょうどいい。」藤村は合図した。「お前たちにも聞け。日本に音楽学校を作る。」
義信が一瞬、眉を上げた。「軍より先に旋律、ですか。」
「軍はもう走っている。」藤村は淡々と言う。「次は、走る足音に意味を与える番だ。」
久信が書類鞄から地図を広げた。「上野なら、交通も良い。外国人教師の受け入れも容易です。」
義親は椅子の縁につま先を揺らしながら、無邪気に問う。「音がよく響く部屋って、どう作るの?」
伊沢の頬がわずかにほどけた。「木と空気と、沈黙で作ります。……君にも手伝ってほしい。」
「僕、湿度を測る箱作れるよ。音、変わるでしょ?」
「頼もしいお弟子さんだ。」伊沢は小さく頭を下げた。
藤村は、決めた。
机上の決裁印が、朱の円をひとつ、紙に落とす。乾いた音が部屋に小さく跳ねた。
「上野寛永寺を改修し、東京音楽学校を設置する。期限は三か月。文部は総合指揮、工部と内務は後方支援だ。外国人教師の招聘は外務に調整させる。……伊沢、やりなさい。」
「はい。」
短い返事に、決意が詰め込まれているのが分かった。
「ただし——」藤村は印章を置き、視線を伊沢に戻す。「この学校は、いずれ階級を越える。今は上流の子弟が多いだろう。だが十年後には、村の小学校に音を持ち帰る教師を、百人単位で送り出してもらう。」
伊沢は深くうなずいた。「そのための“師範部”を、最初から併設します。」
「いい。」藤村は三兄弟に向き直る。「義信、開校式までに軍楽隊の譜面整備を。式典で国の拍を刻む。
久信、語学カリキュラムを設計しろ。音楽家は言語を持て。
義親、響きの実験を任せる。湿度、材、配置——数字で裏打ちしろ。」
「承知。」
「了解。」
「やる!」
それぞれの声が重なる。
官邸の外、陽はもう傾き、庭の影が長くのびていた。
風に乗って、遠くから練兵場のラッパが微かに聞こえる。
硬い金属の音色が、これから生まれる柔らかな旋律と、どこかで握手を交わしたように思えた。
伊沢は退出の前、振り返って一礼した。
「総理——音の学校は、音だけのために作りません。人を聴く耳を育てる場所にします。」
藤村は短く「頼む」とだけ答えた。
扉が閉じる。廊下の足音が遠ざかる。
静けさの中で、藤村は窓を開け放った。
冷たい空気が頬を刺し、肺に澄んだ痛みを残す。
(贅沢だと言われてもいい。国の呼吸を整える贅沢なら、躊躇う理由はない)
彼は机上の地図をたたみ、最後に朱の印影を指で確かめた。
その小さな赤が、思いのほか力強く見えたのは、夕陽のせいだけではなかった。
——ここから、音の時代を始める。
階級を跨ぎ、境を越え、言葉の手前で人と人を繋ぐ。
音楽院の夜明けは、官邸の一室から、静かに、しかし確かに、始まった。
冬に入る前の国会は、いつもより空気が乾いていた。
議場の木の匂いに石炭の粉っぽさが混じり、傍聴席の外套が擦れる音が、ざわめきに細い棘を立てる。
議長の槌が一度。静寂が落ちる。
「議題、東京音楽学校設置および関連予算案——」
読み上げる書記の声を、誰かが咳払いで断ち切った。
最初に立ったのは、白い口髭を整えた保守派の重鎮だ。外套の襟を正し、低く、よく通る声で。
「諸君。国の金は限りがある。いま必要なのは軍艦と砲、鉄道と電信——命綱だ。歌や琴は、危地を救わぬ。」
傍聴席の一角が「そうだ!」と湧いた。
重鎮は続ける。
「音楽学校? 贅沢だ。暖炉の前で嗜む趣味を、国家が面倒を見るのか。街角の子らは、パンを求めているのだぞ。」
紙束が机を打ち、乾いた音を立てる。
藤村は起立した。声は静かで、しかし一歩も退かない。
「軍艦一隻の予算で、音楽学校が十校できる。」
議場に小さなざわめき。「数字を持って来たぞ」という空気。
藤村は続ける。「軍艦は要る。だからこそ、十校分の“心の装置”を軽んじるべきではない。」
「心の装置、とは?」重鎮が冷笑を含ませる。
「拍子を合わせる場だ。」藤村は間を置いた。「軍が強くなっても、国民が不協和なら、足並みは崩れる。教育は読み書きだけではない。聴く力、合わせる力を育てる。音楽は、そのためのもっともわかりやすい訓練だ。」
「理屈だ!」と誰かが叫ぶ。
しかし改革派の若い議員が立ちあがった。袖口から覗く指はインクに染まっている。
「現場の学校では、教師が独学で唱歌を教えています。調律も和声も手探り。核となる師範がいない。師範を育てる場が、まず要るのです。」
「師範がいれば、村の小学校まで音が届く。」別の議員が受ける。「音は贅沢じゃない。秩序だ。心の歩測だ。」
保守派席から苛立つような笑い。
「では聞こう、藤村。」先刻の重鎮が顔を上げた。「誰のための学校だ? 楽器は高価だ。結局、通うのは富裕の子弟。町工の子は敷居にも触れられん。」
議場が静まる。
藤村は、逃げ道を用意しない種類の沈黙を置いてから、言った。
「最初は、そうだ。」
ざわめきが戻る前に、言葉を重ねる。「だが“最初は”だ。師範が各地に散れば、教える側が増える。楽器は国産化で安くなる。制作はすでに始まっている。扉は最初は重い。だが、開ける手は増やせる。」
重鎮の口元がわずかに歪む。「夢物語を。」
「夢は設計図があれば現実になる。」藤村は即答した。「ここに設計図がある。上野の改修、師範部の併設、外国語と理論の並行教育、国産楽器の調達計画。三か月で開校できる。贅沢ではない、機能だ。」
議場の空気が、わずかに動いた。
後列から、別の保守派が立つ。「外患が迫る時勢に、ましてや——」
「外患が迫る時勢だから、だ。」藤村は遮らない調子のまま、言葉だけで先手を打つ。「列強は『文明』を口実に領土を伸ばす。ならば我々は、文明の中身を示すべきだ。音楽は見えやすい。国の品位は、最初に耳で測られる。」
議長が木槌を軽く打つ。「質問は簡潔に。」
重鎮が最後の一矢を放つ。「数字で示せ。軍艦十校分の話も、結局は机上の空論ではないのか。」
藤村は書記に合図し、資料が配られた。
紙面には、建物改修費・教員俸給・教材調達・師範部の運営費、そして国産楽器の単価引き下げ見込みが、整然と並ぶ。
「机上に載せた物は、机上の空論とは言わない。」と、藤村は淡く笑った。「現場の空気で乾かした紙だ。」
傍聴席で、誰かが思わず吹き出し、すぐに口を押えた。
議場に、冷ややかながらも和らいだ空気が広がる。
議長が採決を促した。
「起立、賛成の諸君——」
一斉に立ち上がる衣擦れの音が、波のように寄せて引いた。
数えられる。息を呑む一瞬。
「賛成、過半数を超過。……58%。」
「反対、37%。棄権、5%。」
結果が読み上げられ、議場がどっと沸いた。
賛成側の拍手に、反対側の机打ちが混ざる。勝利というより、紙一重の綱渡りを終えた安堵の音だ。
藤村は、騒めきを背に席へ戻る途中、正面の重鎮と視線が交わった。
老議員は小さく肩をすくめる——降参でも賛同でもなく、「決まった以上は見届ける」という古武士の仕草だった。
廊下に出ると、冷気が頬を撫でる。
石畳に、夕暮れの光が細く延びていた。
待っていた伊沢が、息をつめて近づく。
「——通りましたか。」
藤村は短く頷く。「辛うじて、な。ここからが本番だ、伊沢。」
「はい。」
返事は一語だが、目の奥の火は強くなっている。
背後の議事堂から、遅れて怒声とも笑声ともつかぬ音が漏れた。
藤村は振り返らず、重い扉に手を添える。「贅沢だと言われるうちは、正しい。国に必要な贅沢は、たいてい最初に反対される。」
「……肝に銘じます。」
扉が閉まり、冬の日差しが石段に斜めの影を落とした。
国会のざわめきは遠のき、かわりに街角の子どもが口ずさむわずかな節が、風に乗って耳に届いた。
拍も音程も、まだ頼りない。
——それでいい、と藤村は思う。始まりの音は、少し不揃いな方がいい。合わせる術を、みんなで学べるから。
可決の翌朝、文部省の廊下には早くも張り紙が出た。
《東京音楽学校 学生募集》——墨痕は新しく、紙の白が冬の日差しを弾く。年齢十五歳以上、実技と学力、面接。学費納入の但し書きが最後に小さく置かれているのが、伊沢修二の現実主義だった。
半月も経たぬうちに、茶封筒が山脈になった。
封を切るたびに香りが違う。上質の香木、墨、煤、干した藁。送り主の暮らしが、紙の匂いに宿っている。
応募は八十通。多くは武家の子弟、次いで大店の息女と若旦那、稀に農村の学校助教諭が一通だけ混じっていて、伊沢はその一通を掌で何度も撫でた。
実技の日、上野の仮教場は緊張で軋んだ。
琴の柱が乾いた音を立て、尺八の息が冬の空気を揺らし、ヴァイオリンの弓が薄く震えた。
「次——江戸・深川、十九歳。」
「——近畿・堺、十七。」
呼ばれるたび、履物の音が床を叩く。衣擦れの摺れが列を行き交う。
ルーサー・メイソンは、眼鏡の縁を親指で押し上げ、耳だけで判定を刻む。拍、音程、呼吸。
隣で山田景福は、瞼を半ば伏せ、目に見えぬ“間”を聞いていた。
「よく響く。けれど、急ぎ過ぎる。」
「——この娘は、恥を音に乗せるのが上手い。舞台向きだ。」
短い囁きが、紙の端に細く記されていく。
昼下がり。静まり返った控室の襖の向こうで、ひとつ溜息がこぼれた。
伊沢がそっと覗くと、肩を落とした少年が椅子に座っていた。常陰の訛りが残る下級武士の子だ。
「手はよく動く。けれど、楽器が粗末で——」
少年は自分のヴァイオリンを撫で、苦笑した。「弓がもう、限界で。」
伊沢はしばし黙り、背中の板の節目を見た。「学校に入れたら、弓は貸そう。」
少年は顔を上げる。「本当に?」
「ただし、仕上げは君の手だ。」
夕刻、最終の面接で、近畿の大店の娘が真っ直ぐに言った。
「父は“嫁入り道具に琴なら分かるが、学校は要らぬ”と申しました。」
「では、なぜ来た。」
「嫁入りの後、村の子に歌を教えたいのです。私の家だけの音にしたくありません。」
沈黙ののち、メイソンが薄く笑う。「良い動機だ。」
合格三十名。
封筒に朱が落ちるたび、張り詰めていた空気が音もなく解ける。
武家が多い。商家もいる。だが、手に鈍い胼胝を持つ若者は、数えるほどだった。
伊沢は名簿の余白に、鉛筆で大きく「師範」と書き、二重線で囲った。——ここから変える、と。
その頃、上野の旧寛永寺では改修が始まっていた。
梁はまだ生きている。床板は張り替え、壁には石灰を塗って音の返りを整える。窓の格子は一部を外し、冬でも風が直に入らない角度で障子を重ねる。
義親が袖を汚して、湿度計を持ち歩いた。
「この部屋、乾き過ぎ。低いドの音が痩せる。」
工部省の職工が目を丸くする。「坊や、耳が良すぎる。」
「耳じゃないよ。数値。」
少年は紙片に鉛筆で数字を走らせ、柱の位置を指で示した。「ここに水甕を。蒸発で均す。」
午後、広間の一角に、雅の衣がすっと影を落とした。
山田景福だ。唐衣の襟を正し、静かに佇むだけで、空気が少し締まる。
「伊沢殿。」
「先生。」
山田は広間を一巡し、柱と天井の距離、床と壁の角を確かめた。爪先で板を軽く叩くと、余韻が薄く返る。
「よく整えてある。」
「お力添えをいただけるか。」
山田は少し言葉を選んだ。「雅楽は——千年、変わらぬままに変わってきた音です。外から新しい風を入れること自体は、否ではない。ただ……混ぜるのではなく、“会わせる”のだと、心得ていただきたい。」
奥からメイソンが現れ、深く会釈した。
「先生の『越天楽』は、最初に学生へ聴かせたい。私のピアノと同じ日に。」
山田の瞳に、微かな棘が消えた。「順番は?」
メイソンは首を傾げ、やがて笑った。「——二つを続けて、間を置く。それが礼儀でしょう。」
「うむ。」
それは折衷ではなく、呼吸を合わせる約束だった。
夕刻、倉口から木箱が運び込まれる。
山葉寅楠が自ら先頭に立ち、手袋を外して蓋を外した。緩衝布がめくられ、黒檀の艶が広間の灯りを映す。
「国産一号です。」
メイソンが思わず息を呑み、鍵盤に指を置いてひとつ音を鳴らす。ホールの空気が、低く柔らかく、たわんだ。
義親が近寄り、ピアノの背面に顔を寄せる。「この弦、錆びないように油の種類を——」
山葉が笑う。「君は本当に八つか。」
「八つでも科学は八つじゃないよ。」
メイソンが愉快そうに目尻を下げた。「良い助手を得たな、ヤマハさん。」
「ええ、末恐ろしい助手です。」
夜、準備室の畳に設計図が広げられた。
久信がインク壺にペン先を浸し、語学カリキュラムの骨組みを描く。
「イタリア語は発声と発音記号。ドイツ語は和声理論と論文読解。フランス語は美文と批評、英語は往復書簡と契約。」
伊沢が頷く。「教師は?」
「在京の宣教師に交渉します。加えて、留学生枠で若い才を——音楽家は耳だけでなく、口と手で世界と繋がるべきです。」
「授業が重たくなる。」
「重たくすべきです。——この学校は、楽をする場所ではないので。」
沈黙ののち、伊沢は小さく笑った。「君は時々、総理に似る。」
障子の向こうで、風が梢を揺らした。冬の匂いに、檜の香りが微かに混じる。
週の終わり、合格者に書状が出た。
封蝋には、音符ではなく「師」の字が押されている。
江戸の青年は掲げて泣き、近畿の娘は母に黙って見せ、常陰の少年は弓を握り直した。
——壁は在る。学費、家の反対、道具。
けれども、扉も在る。印の朱の向こうに、まだ見ぬ音がある。
伊沢は最後の書状を見送り、灯を落とした。
広間の闇に、梁だけが黒い川のように横たわる。
(ここで、千年の音と明日の音を、同じ空気に通わせる)
階級は一朝一夕に消えない。だが、拍は誰の胸にも平等に打つ——その当たり前を、国の常識に変えるまで、足を止めない。
外に出ると、上野の坂の上に薄い月が出ていた。
冷たい光の下で、工夫の笑い声と、遠い練習の音階だけが、静かに滲んでいた。
1883年3月10日、まだ春浅い上野の丘に、東京音楽学校の開校式を知らせる鐘が響いた。
朝靄の中、杉の並木を抜けて白い息を吐く人々。学生たちは緊張した面持ちで並び、黒い制服の襟を指で整える。
旧寛永寺の伽藍を改修した講堂の前には、藤村晴人をはじめ、文部省・宮内省の役人、外国教師たちが静かに並んでいた。
その光景は、まるで明治の国がひとつの音を奏でようと息を合わせる瞬間のようだった。
演壇に立った藤村は、一礼し、ゆっくりと語り出す。
「本日、東京音楽学校が開校します。この校舎は古い寺の再生です。しかし、ここから生まれる音は、新しい日本の息吹となるでしょう。」
ざわめきが止まる。
藤村は続けた。
「我が国は文明で立つ国です。音楽はその文明の証であり、国を結ぶ糸でもある。
音楽は国境を越える——それは、我々が剣ではなく、心で世界と交わるということです。」
メイソンが通訳を務め、外国教師たちの表情に静かな敬意が浮かんだ。
伊沢修二が壇上に立ち、三つの使命を朗読する。
「一、音楽教師の養成。二、日本音楽の創造。三、世界への発信。」
会場の空気が、目に見えぬ鼓動を打つ。
開校の鐘が二度鳴る。
その瞬間、山葉寅楠が運び込んだ国産ピアノが、初めて正式に講堂に響いた。
メイソンの指が鍵盤を押し、バッハの《インベンション第1番》が流れる。
それは、清らかでありながら力強く、木造の天井に反響して柔らかく広がった。
学生たちの顔が、少しずつ緊張から驚きに変わっていく。
音が言葉を超えた瞬間だった。
続いて、山田景福が立ち上がる。
唐衣の袖を静かに払うと、笙と篳篥が奏でる「越天楽」の旋律が空気を満たした。
風のような音。千年を超える調べが、バッハの旋律の残響に溶け合い、会場を包む。
その交わりは、まるで時代が手を取り合うようだった。
藤村はその様を見つめ、胸の奥で呟く。
「——これが文明だ。」
その日を境に、学校は本格的に動き出した。
初日の授業。メイソンは黒板に五線を引き、チョークの粉を払いながら言った。
「音楽は言語です。言葉が違っても、音で心は通じます。」
そして、ピアノを叩くように強く鳴らすと、学生たちは一斉に譜面をめくった。
彼らの目に映る音符は、まだ異国の記号でしかなかったが、その中に未来の旋律が潜んでいた。
一方で、山田の教室では尺八と琴の音が交差する。
「これが日本の音だ。」
学生たちは驚きの眼差しを向ける。
「西洋の音は横に流れ、日本の音は縦に立つ。違いを知らずして融合はできぬ。」
彼の言葉に、学生たちはただ頷いた。
その瞬間、音楽学校の中で初めて「日本の音とは何か」という問いが生まれた。
昼休み、校庭の片隅で学生たちが語り合う。
「俺は藩校の出だが、父は剣を捨てた。今は琴を教える。」
「うちは商家。だが、女にできることが少ないから音楽を選んだ。」
「俺は下級武士で、学費を払うのがやっとだ。でも、音楽で生きたい。」
様々な声が交わり、互いの違いを知ることから友情が始まった。
それは、国の縮図でもあった。
夕方、藤村は邸で義親と向かい合っていた。
「父さん、音楽学校ってお金持ちしか行けないの?」
藤村は静かに答えた。「今はそうだ。」
「それって、不公平だよ。」
「その通りだ。だが、いきなり全員には開けぬ。まず教師を育てるんだ。教師が全国に散らばれば、庶民も学べるようになる。」
義親は真剣に頷く。「じゃあ、その日が来るまで、僕も勉強するよ。」
藤村は笑って息を吐いた。「いい子だ。」
夜。
講堂では、初めての合同練習が始まっていた。
ピアノ、ヴァイオリン、琴、尺八。まだ音はばらばらだが、それぞれが互いを探り合うように響いていた。
メイソンは譜面を閉じ、呟く。「——不完全だが、美しい。」
伊沢は目を細めた。「これが始まりです。」
山田景福は、そっと手を合わせる。「伝統は息を止めぬ限り、死にはしません。」
窓の外、夜桜が風に揺れる。
藤村はその光景を見つめながら、胸の奥で小さく呟いた。
「音楽院の夜明け——文明の灯は、静かにともった。」
翌日、新聞に短い記事が載った。
《東京音楽学校、開校。学生三十名。教師陣、外国人と日本人の協働。音楽文明、此処に始まる。》
紙面の隅にあったその記事は、やがて時代を変える大きな旋律の、最初の一音だった。