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313話:(1882年10月・霜降)北の氷風 ― 音が越える国境 ―

霞ヶ関の夜は冷えていた。

 常陸政府の庁舎群は、秋の霜に白く縁取られ、街灯の明かりが石畳を鈍く照らしている。

 首相官邸の執務室には、地球儀の上に薄い煙草の煙が漂っていた。


 「――ウラジオストクで動きがあります。」


 陸奥宗光が扉を押し開け、厚い報告書を机に置いた。

 軍務省からの電報である。


 「太平洋艦隊の再編が始まりました。ロシアは極東防衛を名目に、戦艦五隻を常駐させています。」


 藤村晴人は眉をわずかに動かし、椅子を回して北の地図へ視線を移した。

 日本海の向こう、黒く囲まれた港――ウラジオストク。その名は“東の支配”を意味する。

 「……寒風が吹き荒れそうだな。」


 陸奥が頷いた。

 「シベリア鉄道の延長計画も進んでいます。

  いずれ朝鮮を経て南下し、太平洋に出る道を探すでしょう。」


 藤村は短く息を吐いた。

 机上の書類には、常陸海軍の艦隊一覧が記されていた。

 そこには新鋭戦艦〈常陸〉、〈瑞穂〉、〈扶桑〉、〈筑波〉の名が並ぶ。

 すべて国産。いまや海軍の主力は、もはや英国の影を借りてはいなかった。


 「海軍は順調か?」

 藤村が問うと、陸奥は即答した。


 「はい。呉・横須賀の新造ドックは稼働中。

  造艦技術はイギリスに匹敵します。

  すでに我が国は“極東の大艦隊”と呼ばれております。」


 藤村は微かに微笑む。

 「軍備で見劣りはしない。

  だが、戦わずに勝つ方が難しい。」


 その静かな言葉に、陸奥は一瞬息を止めた。



 翌朝、参謀本部。

 会議卓には、義信――十五歳の参謀補佐官がいた。

 少年ながら、戦略立案の席に呼ばれるのはもはや常態だった。


 「ウラジオストク艦隊の動き、確認済みです。」

 義信は資料を広げ、淡々と報告する。

 「しかし、現在の我が国の戦力なら、正面衝突しても敗れはしません。」


 老将の一人がうなる。

 「つまり、先に打つべきだと?」


 義信は首を振った。

 「いいえ。――撃てるからといって、撃つ必要はありません。」


 将官たちがざわめく。

 「戦わずして勝つ」――それは十五歳の少年が掲げるには大きすぎる理念だ。

 だが藤村晴人の息子なら、誰も軽んじられなかった。


 「ロシアの動きは挑発です。

  我々が動けば、清国も欧州も『常陸の侵略』と叫ぶでしょう。

  だからこそ、軍ではなく“文明”で応えるべきです。」


 静まり返る参謀室。

 義信は地図上に筆で線を描いた。

 「蝦夷州北岸に監視網を敷きます。

  情報で囲い込み、実際の戦火を避ける。

  この“見えぬ防壁”が真の盾です。」


 参謀長が小さく頷く。

 藤村晴人の哲学――「知と秩序による防衛」――が、息子の中に根づいていた。



 夜。

 藤村邸の書斎には、父と三兄弟が集まっていた。

 窓外の月が淡く机を照らし、静かな夜気が流れている。


 藤村は地図を前に、義信と久信を交互に見た。

 「軍備では、すでに我が国はロシアに劣らない。

  問題は、戦う理由だ。彼らが南下を正当化する“物語”を、作らせてはならぬ。」


 久信が首を傾げる。

 「物語……ですか?」


 「そうだ。国家は物語で動く。

  “文明をもたらす”という口実で、列強は他国を呑み込んできた。

  ならば我々は、その“文明”を先に示してしまえばよい。」


 久信が息をのむ。

 「つまり……文化で勝つ、と?」


 藤村は頷いた。

 「そうだ。お前たちが東京で立ち上げた音楽学校――あれは、ただの教育機関ではない。

  文明の象徴だ。音楽も、美術も、工芸も……それらこそが、この国の“力”になる。」


 義信が苦笑する。

 「父上、また音楽ですか。軍人には少し甘く聞こえます。」


 藤村は笑みを浮かべた。

 「軍刀で切るより、旋律で人を動かせるなら、その方が上等だ。」


 久信が頷き、真剣な声で言った。

 「……では私が、ロシア公使館へ行きましょう。

  “音楽外交”として、友好演奏会を提案します。」


 「よかろう。」

 藤村は椅子を立ち、三兄弟に目を向けた。

 「義信は軍の防衛網を整えろ。

  久信はロシアの氷を解かせ。

  義親は――音の科学を磨け。」


 八歳の末子・義親が胸を張った。

 「はいっ。僕、楽器の仕組みを研究します!」


 藤村は微笑み、ランプの灯を指で軽く調整した。

 橙の光が三人の顔を照らす。


 「いいか。軍事力とは、文明を護るためにある。

  文明を広げるのは、芸術と知だ。

  この二つが揃えば、ロシアの氷風も恐れるに足りぬ。」


 静かな決意が部屋に満ちた。

 窓の外では、北風が梢を鳴らしている。

 その音がまるで、遠い氷原から届く警鐘のように聞こえた。

 だが藤村晴人の瞳には、恐れよりも光があった。


 「――氷の国には、火ではなく、音で挑む。」

午後の光が傾きはじめ、霞が薄金色ににじんでいた。

 久信は外務省の黒塀を出て、まっすぐ虎ノ門のロシア公使館へ向かった。まだ十四の少年の歩みに、ためらいはない。履き慣れた革靴が石畳に小さな音を刻む。手にあるのは、厚さを削ぎ落とした一枚の書簡――提案はいつも簡潔であるべきだ、と父に叩き込まれていた。


 白壁の公使館は、向かい風に目を細めて見上げると、冬の気配を一足先に纏っているようだった。門番の軍帽が鈍く光り、冷えた金属の匂いが鼻を刺す。身分を告げると、想像よりも早く扉が開いた。


 待たせたのは赤い絨毯の応接室。重たいサモワールから立つ湯気に、甘い茶葉の香りが混じる。壁には帝政ロシアの軍港の油彩画。鉄と黒い海、遠く白い煙。

 やがて、銀髭の公使が現れた。肩章の金糸が、灯りの角度で硬質に光る。


 「お待たせしました、フジムラ卿のご子息。」

 「お招きに感謝します、公使閣下。」

 久信は、まだ角が残るロシア語で挨拶した。母音の尾を少し長く引きすぎる――それでも、公使の目が一瞬だけ和らぐのを見逃さない。


 「おや。悪くない発音だが、少し“雪”が足りない。」

 「では、今冬にもう一度来ます。雪ごと学びに。」

 軽い応酬に、公使は喉の奥で笑った。子供扱いしようとして、できない――その戸惑いが、すでに交渉の入口だ。


 茶が注がれ、銀の匙が小さく鳴る。

 久信は、書簡をテーブルの中央に、音を立てぬように置いた。


 「提案は一つ。今季、ウラジオストクで民間向けの演奏会を開きたい。日本の音楽家が、西洋の楽曲と我が国の古典を並べて奏でます。」

 「ふむ。」公使は書簡を開かず、少年の瞳だけを見る。「その意味は?」

 「氷の上に橋をかけること。軍港に旗は立てません。楽譜だけを持ち込みます。」


 沈黙。遠い部屋で時計が、丁寧に一拍ずつ刻む。

 公使はようやく紙を開き、短く目を走らせた。眉が、ほとんど見えないほど僅かに動く。


 「条件は厳しいが、全面的に不可能ではない。」

 「厳しい条件には、厳密な遵守が似合います。」

 「よろしい。」公使は指を一本立てた。「まず、会場は軍の管轄外。劇場、または市民会館に限る。」

 「承知。」

 「第二に、宿営地・港湾施設・通信所、いずれにも近づかない。演奏者の動線は当方が指定する。」

 「承知。」

 「第三に、演目は事前提出。挑発的な趣旨、軍事を想起させる題名は避ける。」

 「挑発は旋律の敵です。」

 「第四に――相互主義。貴国も、ペテルブルク音楽院の若い奏者を受け入れること。」

 「歓迎します。彼らに極東の冬景色も味わっていただきましょう。」


 公使は湯気の向こうで、ようやく微笑した。

 「あなたは十四歳か?」

 「はい。」

 「十四歳の交渉は、ときに三十四歳より厄介だ。」

 「若さは、説明の足りない大胆さを連れてきます。今日は、足りない分だけ誠実に補います。」


 公使が笑い、銀匙が再び鳴った。

 「本国に電報を打とう。返答には数日を要する。だが――」

 「だが?」

 「私は賛成だ。好奇心は、どの国旗よりも早く扉を開ける。」


 会談は三十分で終わった。立ち上がった少年に、公使はひとつだけ余計な助言を添える。

 「ベートーヴェンを弾くなら“月光”と“熱情”は避けたまえ。あれは人の心を動かしすぎる。」

 「では、“テンペスト”を。」

 「それも嵐だよ、若君。」

 ふたりは小さく笑い、固くはない握手を交わした。指先に残るのは、金糸の冷たさではなく、湯気の温度だった。


 門を出ると、夕陽が街路樹の影を長く伸ばしていた。久信は外套の襟を立て、足早に常陸邸へ戻る。脳裏では、すでに舞台の配置図が組み上がりはじめていた――中央にピアノ、右に琴、左にヴァイオリン。最初の一音は、どの高さで、どの強さで落とすべきか。


 ***


 夜、藤村邸。

 報告を聞き終えた父は、頷きを一度だけ与えた。多くを褒めないのは、成功を例外にしないためだ。

 「条件は整った。あとは中身だ。」


 すでに書見台の上には、伊沢修二の名が走る書状。東京音楽学校からの候補者名簿と、山葉寅楠の工房で調整中のピアノの仕様書。

 義親が卓上の図面を覗き込み、指で弦の位置をそっと辿る。

 「兄ちゃん、ウラジオは湿度が低い。乾きすぎで音が痩せるよ。弦のテンションを微調整して、ハンマーのフェルトは少し柔らかめにした方がいい。」

 「具体的に、どのくらい?」

 義親は迷いなく数字を置く。「フェルトの密度は一割落として、弦は一音平均でセント単位の微調整。現地の温湿度で再調律できるよう、温度計と簡易乾燥箱もセット。あと――」

 藤村が唇の端を上げる。「まだあるのか。」

 「現地の照明が暗いかもしれない。譜面台に反射板。金属じゃ寒い光になるから、白木を薄く削って角度を付ける。」

 八歳の工房監督は、当然のように言う。大人たちは顔を見合わせ、笑いで肩をすくめた。


 編成は十名。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルート、クラリネット、そして琴・尺八・胡弓。指揮は伊沢。

 第一部は西洋曲――モーツァルトの小夜曲、ベートーヴェンはやはり“穏やかな顔”を選び、シューベルトは歌曲を器楽に移した編曲版。

 第二部は日本の古典――「越天楽」の新編、「さくらさくら」の変奏。

 第三部は融合曲――西洋和声に雅楽の旋法を重ねる、新作「東西の橋」。作曲はメイソンと伊沢の連名、監修は藤村。題名に戦も国も入れない。風と川と季節だけが行き来する。


 「衣装も大事です。」と久信。

 「日本側は黒の礼装に、襟元だけ色を入れる。琴の奏者は淡い藍。統一感を崩さない程度に、海の色を置く。」

 「舞台の背景は?」義信が問う。

 「無地の深紺。旗は立てない。代わりに、譜面に小さく旭日――ではなく、朝焼けの色を差す。」

 父が笑い、片眉を上げた。「挑発は旋律の敵、だったな。」

 「はい。視線が譜面に落ちるたびに、朝が来る。」


 翌日から、準備は走った。

 山葉は夜を二度越えてピアノのハンマーを研ぎ、伊沢は合奏のテンポに一拍の“間”を増やす――寒冷地の反応は、半拍遅れて届くのだ。

 義親は湿度計を手製の箱に固定し、風穴の大きさを針で計る。

 「音は空気の旅だからね。空気の道具は、軽い方がいい。」

 メイソンは、細いチョークで譜面に英語と片仮名の発音記号を並べ、ロシア語の歌詞のアクセントを久信に確かめる。

 「この母音は、口を少しすぼめて……そう、雪が降るように。」

 「公使も同じことを言いました。」

 「音楽家と外交官が同じ比喩を使うとき、準備は大抵うまくいく。」


 外は北風。中は拍の数。

 家中が、音と数の共同作業場になった。

 藤村は時折、廊下の陰からそれを眺める。指示は短く、評価は目の光だけだ。


 やがて、公使館から電報が戻る。

 〈条件付許可〉――短い文字列の最後に、珍しく句点がない。急いで打った、ということだ。

 会場はウラジオストク市内の民間ホール。入場者は兵・官・市民の混在を許可。ただし最前列は当局が押さえる。

 舞台裏の導線は一方通行、楽屋に監視員を一名。

 そして、相互主義の確約――ロシアの若い奏者五名の受け入れ。


 「受けよう。」と藤村。

 「こちらの扉も開く。ならば相手の扉も開く。」


 出立は十日後。

 荷の最後に、久信は小さな箱をひとつ忍ばせた。

 白木の反射板、義親の指で磨かれたもの。裏に鉛筆で小さく書いてある。

 〈朝は、音より早い〉


 当日未明、品川桟橋。吐く息が白い。

 空がまだ色を持たぬうちに、楽器箱が静かに積み込まれていく。

 甲板に立つ伊沢の指先が、冷気にかじかみ、しかし震えはない。山葉は最後までピアノの脚を締め直し、義親は乾燥箱の蓋を撫でてから、兄の袖を引いた。

 「向こうで湿度が変わったら、これでね。」

 「忘れない。」

 義信は海図を畳み、風向を見上げた。

 「凪だ。出るなら今だ。」


 汽笛。

 船が重たく岸を離れる。

 白い線が海面に引かれ、それがすぐに消える。

 誰かの息の白さと同じ速度で、彼らの痕跡は水に溶けた。


 見送る藤村は、帽子の庇を指で整えた。

 「銃も旗も置いてゆけ。代わりに、よく響く“間”を持て。」

 言葉は海風にかき消え、しかし三兄弟の背に確かに届く。

 音はまだ鳴っていない。だが、譜面の前に立った瞬間から、演奏は始まっているのだ。


 北へ。

 氷の気配が、音の生まれる場所を確かめるように、船の腹を撫でていった。

十一月下旬。

 ウラジオストクの空は、昼でも灰色に沈んでいた。

 港の外には薄い氷の膜が張り、波打つたびに細かく割れて光を散らす。

 その寒風の中を、一隻の日本船〈常陸丸〉が静かに入港した。


 甲板には十名の音楽団。伊沢修二を筆頭に、東京音楽学校の若き奏者たち。

 荷揚げの際、港湾警備兵の監視が絶えず付き従う。

 「視線が痛いな」と、ヴァイオリン奏者が小声で漏らした。

 伊沢は笑って肩を叩く。「音で返せばいい。ことばはいらない。」


 彼らが向かったのは、市街中心部の劇場――木造二階建ての民間ホール。

 看板にはキリル文字で「友好音楽会」と掲げられ、その下に日本語で小さく「日露交流演奏」と記されていた。

 観客席には軍服と民間服が入り混じる。最前列にはロシア軍将校たち、中央に市民、後方に商人や家族連れ。

 ホールの温度は零下に近く、息が白く浮かぶ。

 だが、舞台中央のピアノだけは、義親の設計した乾燥箱から取り出されたばかりで、木肌が微かに温かい。


 伊沢は指揮台に立つ。

 「……始めよう。」


 第一曲――琴と尺八による「さくらさくら」。

 静かな旋律が響いた瞬間、ざわめいていた場内が凍りついた。

 ロシアの観客は、耳を傾けながら互いに視線を交わす。

 低音の尺八が雪を踏む音のように響き、琴の高音が氷の上を渡っていく。

 その音は、異国の旋律でありながら、どこか北国の風景を思わせた。


 第二曲――ベートーヴェンの「月光ソナタ」。

 日本人のピアニストが弾くその音は、寒気の中で透き通り、観客の表情をわずかに和らげた。

 軍帽を膝に置いた将校の一人が、ふと目を閉じる。

 「……戦の夜に聞くより、ずっと穏やかだ。」


 第三曲――新作「東西の橋(ブリッジ・オブ・イースト・アンド・ウエスト)」。

 和の旋法と西洋和声が交差し、フルートと琴が呼応する。

 途中、尺八の一音が高く鳴り、ピアノがそれを受けて和音を重ねた。

 客席の中央、ひとりの婦人が小さく拍手した。

 それをきっかけに、波のように掌の音が広がる。


 ――しかし、全てが好意的ではなかった。


 公演後の控室。

 ロシアの若い将校が近づき、流暢な英語で言った。

 「美しい演奏でした。だが、音楽で国境は越えられませんよ。」

 久信は静かに答える。

 「越えるためではありません。凍らないように、風を入れに来たのです。」

 将校は一瞬黙り、やがて小さく笑った。

 「……その風、悪くない。」


 翌日、地元新聞『ウラジオ通信』には短い記事が載った。

 《日本音楽団、異国の調べを奏でる。聴衆の反応は賛否半ば。だが、旋律は氷の街に一夜の灯をともした。》


 夜、宿舎の窓から外を見下ろすと、港に停泊した艦船の灯がゆらめいている。

 久信は日誌に静かに書きつけた。


 ――文化は砲より遅い。だが、一度届けば、長く残る。


 音楽団の旅は、まだ終わっていなかった。

十二月初旬。

 音楽団が帰国の途についたころ、霞ヶ関では小雪が舞っていた。

 首相官邸の執務室には、薪ストーブの火が静かに揺れている。

 藤村晴人は窓辺に立ち、義信と久信の報告を黙って聞いていた。


 「ロシアの反応は三割が好意的、四割が無関心、三割が警戒的でした。」

 久信が読み上げる。

 「完全な成功ではありませんが、敵意はやや和らいだかと。」


 藤村は頷いた。

 「――風を送ったな。」


 久信は小さく笑う。「はい。音楽の風を。」


 机の上には、ウラジオストクの新聞記事が載った報告書が広げられている。

 紙面の片隅には、観客が拍手を送る写真が印刷されていた。

 藤村はそれをしばらく見つめ、低く呟いた。

 「戦わずして国を守る――それは言葉ではなく、静けさを広げることかもしれんな。」


 その言葉に義信が頷く。

 「はい。軍備は整っております。だが、力を見せびらかすほどに、恐れを招きます。」

 「……だからこそ、文化が必要です。」


 藤村は微笑を返す。

 「その通りだ。国を築くのは剣ではない。心を繋ぐものだ。」


 ストーブの薪が弾けた。

 外では雪が静かに降り積もり、霞ヶ関の通りを白く染めていく。

 藤村はその景色を見ながら言葉を続けた。


 「文明とは、光の形をした盾だ。

  音楽も、美術も、科学も――それを磨けば、国はどんな嵐にも立てる。

  義信、軍の眼でそれを守れ。

  久信、外交の声でそれを伝えろ。

  義親、科学の手でそれを支えろ。」


 三兄弟は一斉に頭を下げた。

 その背後には、冬の窓を通して遠い海の光が見えた。

 北の氷風はまだ吹いている。

 だが、常陸の灯は消えない。


 ――その光の中で、藤村晴人はゆっくりと煙草に火をつけた。

 薄い煙が立ち上がり、執務室の空気を柔らかく包む。

 「音楽は言葉を超える。

  たとえ届くまで百年かかろうと、火を絶やすな。」


 義信は真っ直ぐに父を見た。

 「はい。北の氷は溶けません。ですが、光は凍らない。」


 藤村の口元に微かな笑みが浮かぶ。

 「……それでいい。」


 外の雪は止み、夜空には一筋の月光が差していた。

 それはまるで、極北の海を越えて届いた一条の旋律のように、

 静かに、確かに――日本の空を照らしていた。

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