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第312話:(1882年7月・盛夏)漢城の炎 ―戦わずして守る者たち―

七月、東京の空は梅雨明けを迎えていた。

 湿り気を含んだ風の中に、夏草の匂いが混じる。

 夜半、首相官邸の玄関前を、馬蹄の音が駆け抜けた。

 陸奥宗光が蒸し暑い夜気を切り裂くように降り立つ。手には封を破られたばかりの電報が握られていた。


 「……総理、ただいま、朝鮮より急電です。」


 書斎の扉を開けると、藤村晴人が机の上に地図を広げ、油灯の光に顔を照らしていた。

 ランプの炎がわずかに揺れ、壁に映る影が長く伸びる。藤村の指先は地図の一点――「漢城ソウル」を示していた。まるで、運命を見透かすかのように。


 陸奥が電報を差し出す。

 「西郷隆盛朝鮮総督より――『漢城にて大規模反乱発生。総督府襲撃を受く』」


 藤村の目がわずかに細くなる。

 「……反乱の規模は?」


 「兵千五百、官舎炎上、街の三分の一が焼失とあります。反乱軍は旧式軍人と市民の混成。清国の旗を掲げておる者もいるようです。」


 静寂が落ちた。

 遠くで時計の針が「コツ、コツ」と夜を刻む。

 藤村は椅子に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。


 「……西郷が、動いたのか?」


 陸奥が短く頷く。

 「はい。近代化政策を進める中で、旧軍の解体と日本式訓練を推進しました。それが、反発を招いた模様です。」


 藤村の指先が机を軽く叩いた。

 「つまり、文明化の速度が早すぎた……」


 彼の声は冷ややかだが、どこか深い後悔を帯びていた。

 それは「進歩」という言葉の裏に潜む、人間の抵抗――歴史が幾度も繰り返してきた歪みを、彼はよく知っていた。


 陸奥が続ける。

 「反乱を扇動したのは、清国の密使である可能性が高い。彼らは“日本の傀儡政権を倒せ”と触れを出しております。」


 藤村の眉がぴくりと動いた。

 「……清国か。」


 油灯の光が、二人の顔を鋭く照らした。

 日本がようやく欧米列強に肩を並べつつあるその時、背後から迫る古い影――それが清であった。


 藤村は沈黙ののち、低く言った。

 「西郷はどうしている。」


 陸奥が次の電報を開く。

 「『増援は最小限にせよ。朝鮮民心を刺激すれば、全土が敵に回る』と。」


 藤村は目を細め、椅子の肘掛けを指でなぞる。

 「……あの男らしい。だが、このままでは漢城が焼け尽きる。」


 陸奥がためらいがちに言葉を継ぐ。

 「参謀本部は派兵を主張しております。五千名規模での鎮圧を――」


 その時、扉がノックされた。

 「義信殿がお見えです。」


 十五歳の義信が静かに入ってきた。

 彼は制服姿のまま、眠気の欠片も見せずに一礼した。

 「父上、状況は聞きました。」


 藤村は軽く頷いた。

 「西郷総督の危機だ。どう見る。」


 義信は壁にかけられた世界地図に歩み寄り、細い指で朝鮮半島をなぞった。

 「……父上。今、軍を送るのは危険です。」


 陸奥が驚いたように顔を上げた。

 「危険? なぜだ。」


 義信は、迷いのない声で言った。

 「第一に、朝鮮人の感情。第二に、清国の介入。第三に、世界の目。」


 「朝鮮人の感情?」

 藤村が促すと、少年は淡々と語り出す。


 「日本軍が大挙して押し寄せれば、反乱軍だけでなく一般民衆も敵になります。清の影響下で『独立運動』に変わる恐れがあります。」


 「清国の介入は言うまでもありません。日本が五千の兵を送れば、清も『保護』の名で兵を送ります。朝鮮が戦場になります。」


 「そして……」

 義信は目を伏せ、ランプの炎を見つめた。

 「欧米諸国は、我々を“文明国”と見始めたばかりです。ここで軍事介入をすれば、その評価を失います。」


 藤村の胸に、一瞬の静かな驚きが走った。

 この少年が語る言葉の重さ――十五歳の戦略家が、父の想像を超えていた。


 陸奥が感嘆の息を漏らした。

 「……まるで老練な外交官のようですな。」


 藤村はしばらく黙り、やがて低く笑った。

 「戦わずして守る。お前の言葉は、かつて孫子が説いた兵法そのものだ。」


 義信が静かに答える。

 「西郷総督の願いも、きっと同じです。」


 藤村の目に、わずかな光が宿った。

 「……なるほど。ではどうする。」


 義信はすでに考えをまとめていた。

 「西郷総督を支援するために――戦わずして敵を封じます。」


 藤村が眉を上げる。

 義信は地図の上に鉛筆で線を引いた。

 「仁川港を、封鎖します。清国軍の上陸を防ぎ、海からの補給を断つ。」


 その線は、まるで剣のように海を横断した。


 「同時に、西郷従道殿の手勢が陸上で包囲。攻撃せず、逃げ道を断つだけにします。反乱軍を孤立させ、交渉に導く。」


 藤村は机に手を置き、深く息を吸い込んだ。

 「……多層戦略、か。」


 「はい。外交は久信兄上に任せます。欧米各国に『内乱鎮圧であって侵略ではない』と説明する。政治的決着の道を残します。」


 少年の声は澄み切っていた。

 その瞳には、父の世代の戦乱を超える静かな理知があった。


 藤村はしばし黙考し、そして立ち上がった。

 「義信。」


 「はい。」


 「その案――採用する。」


 陸奥が驚愕の表情を見せる。

 「総理、よろしいのですか? 十五歳の――」


 藤村が手を挙げて制した。

 「年齢は関係ない。理はある。」


 油灯の炎が再び揺れ、三人の影が重なった。

 外では蝉の声が鳴り止まない。

 それはまるで、遠い漢城の炎を告げるかのように響いていた。


 藤村は低くつぶやいた。

 「……戦場をつくらずして国を守る。それが文明の戦いだ。」


 そして静かに筆を取り、電報の返信をしたためた。

 ――「義信案を採用す。西郷総督に伝達のこと。」


 その筆跡は力強く、迷いがなかった。

仁川沖を漂う朝霧が、白く煙のように海面を覆っていた。

 日本海軍の艦艇四隻が静かに並び、甲板では士官たちが望遠鏡を握りしめている。


 「清国艦、北東方向に確認」

 報告の声が響く。

 司令官は唇を結んだまま命じた。

 「全艦、主砲照準。警告射撃の準備。」


 だが、撃つことはない。

 砲身が太陽を反射し、光の帯を海に落とすだけだった。

 清国艦もまた沈黙したまま、距離を保つ。

 海の上には、緊張だけが流れていた。


 ――これが、義信の描いた戦いの形だった。


 戦わずして、守る。

 敵の動きを封じ、矛を交えずに結果を得る。

 十五歳の少年の構想を、海の男たちは忠実に実行していた。


 同じころ、漢城では――

 炎のような空気が街を覆っていた。


 旧軍兵士と民衆が蜂起し、総督府周辺には黒煙が上がる。

 瓦屋根が崩れ、石畳の上を避難民が駆け抜けた。

 その中心に、西郷隆盛の姿があった。


 「撤退ではない、守りを固めろ!」

 怒号のように響く声。

 だが彼の目には、怒りよりも憂いが宿っていた。


 副総督の従道が駆け寄る。

 「兄上、日本本土から電報です。義信殿の戦略案が届きました。」


 「読ませてくれ。」

 西郷は煤に汚れた手で書簡を受け取り、目を通した。

 『港湾封鎖、陸上包囲、外交圧力、政治的解決――』


 「……見事じゃ。」

 西郷は低く呟いた。

 「十五の若さで、ここまで見通すとはのう。」


 従道は苦笑した。

 「兄上の思惑とも一致していますね。」


 「うむ。戦は最後の手段だ。むやみに殺しては、国が痩せる。」

 西郷は天を仰ぎ、息を吐いた。

 「包囲を敷け。ただし、攻撃はするな。」


 「兄上が、交渉なさるのですか?」

 「ああ。わしが行く。」

 従道の顔に緊張が走った。

 「危険です、兄上!」

 「危険など、民が日々背負っておるものじゃ。」

 西郷の笑みは、焔のように強く静かだった。


 ――夕刻。


 焦げた城門の前、西郷は一人で馬を降りた。

 兵士は誰も連れていない。

 風が衣をはためかせ、土埃が陽炎のように立ち上る。


 「誰だ!」

 反乱軍の見張りが銃を構えた。


 「わしは西郷隆盛じゃ。」

 声が通った。怒号が止まり、兵士たちの目が揺れた。


 「話をしに来た。」


 彼は、ゆっくりと両手を広げた。

 銃口がわずかに下がる。

 反乱軍の中から、髭面の男が一歩前へ出た。


 「話? 貴様らが我らの国を壊した。何を話す!」


 西郷は一歩も引かず、静かに言った。

 「壊しに来たのではない。守りに来たのじゃ。」


 男が眉をひそめる。

 「守る? この混乱を見て、まだそう言うか!」


 西郷は胸元から一通の書簡を取り出した。

 「これを見よ。日本政府、藤村総理の署名入りだ。」


 炎に照らされる文字。

 『朝鮮人官僚の登用、朝鮮語教育の維持、旧軍兵士の再雇用』


 「これは、この地を日本が奪うための策ではない。

 自らの足で立てるよう、助けるための策じゃ。」


 男は息を呑んだ。

 西郷は続けた。

 「わしは薩摩の人間じゃ。かつて藩が潰れかけた時、藤村晴人という男が全ての借財を肩代わりし、民を救ってくれた。

 わしはその恩を、命に代えても返すつもりでおる。

 今度は、この朝鮮を救う番じゃ。」


 沈黙が落ちた。

 遠くで炎が揺れ、夜風が灰を運んでいく。


 男の手が震えた。

 銃口が、ゆっくりと地に向いた。

 「……その言葉、信じていいのか。」


 西郷は頷いた。

 「信じるも疑うも、お主らの自由じゃ。

 だが、わしは約束する。血ではなく道で国は立つ。」


 反乱軍の中で、嗚咽が漏れた。

 若い兵が、泣きながら銃を置く。

 それが合図のように、周囲の者たちも次々に武器を地面へ落とした。


 「兄上、反乱軍が……!」

 従道の声が震える。

 「戦わずして終わった……」


 西郷は静かに笑った。

 「戦わずして守る。それが、本当の勝ち方じゃ。」


 その夜、風が止んだ。

 漢城の空に、初めて煙のない星が瞬いた。

漢城の夜は、静まり返っていた。

 昼間の混乱が嘘のように、街灯の灯だけが風に揺れている。

 西郷隆盛はその光を見つめながら、書簡を机に置いた。

 義信の戦略が届いたのだ。港の封鎖、陸上包囲、そして政治的譲歩。どれも、血を流さず国を守るための道筋だった。


 「この若さで、ここまで考えるとはな……」

 西郷の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

 隣の従道が言う。

 「兄上、藤村総理の息子はやはり只者ではありません。兄上の志を、学問で形にしておる。」

 「藤村晴人か……あの人には借りがある。薩摩の借財を、あの男が肩代わりしてくれた。」

 西郷は静かに拳を握る。

 「わしらが立て直せたのは、あの恩あってのことじゃ。今度は、わしが恩を返す番だ。」


 窓の外には、炎に包まれた町の残骸が見えた。

 焦げた木の匂い。壊れた市場の屋根。そこに、守るべき民の暮らしがあった。

 「従道、包囲を続けろ。ただし、撃つな。」

 「はっ。」

 「この反乱は、朝鮮人と日本人の戦ではない。未来をどう作るかの、考えの違いだ。」

 兄弟の目には、疲労と決意の光が同居していた。


 その頃、仁川港では別の静寂が支配していた。

 海面に月が浮かび、四隻の日本艦が港を囲むように停泊している。

 艦長・秋山正之が望遠鏡を覗き込み、低く呟いた。

 「……清国艦、距離二千。速力を落としています。」

 副官が緊張した声で報告する。

 「上陸の動きは?」

 「いまのところ、ない。だが、警戒態勢を維持せよ。」

 艦橋に静かな緊張が走る。

 やがて、清国艦から信号灯が点滅した。

 《日本艦、退去せよ。朝鮮の港を封鎖する権限はない》

 秋山は即座に応答信号を返した。

 《介入は許されない。我々は秩序を守る。さらに接近すれば、交戦と見なす》


 風が止み、波の音が不自然に静まる。

 数十秒の沈黙のあと、清国艦がゆっくりと舵を切った。

 月光の中で、その艦影が遠ざかる。

 秋山は帽子を脱ぎ、海に向かって小さく敬礼した。

 「……これで、一滴の血も流さずに済んだ。」


 一方、東京では久信が各国公使館を渡り歩いていた。

 まだ十代半ばの少年が、燕尾服に身を包み、流暢な英語と仏語で列強の外交官を説得していた。


 英国公使は、紅茶を口に含みながら皮肉っぽく笑った。

 「日本は、また新しい戦を始めたのかね?」

 久信は静かに首を振った。

 「いいえ、戦を終わらせに動いているのです。」

 「ほう?」

 「朝鮮での反乱は内政問題。ですが清国が介入すれば、戦火は東アジア全体に広がる。

  我が国は、それを防ぐために最小限の措置を取っています。」

 英国公使の眉がわずかに動く。

 「封鎖は侵略ではないのか?」

 「封鎖ではありません。秩序の保全です。」

 久信は目を逸らさずに言った。

 「我が国は、武力ではなく文明で立つ国です。文明国とは、他国の血を無用に流さぬ国を指します。」


 フランス公使が割って入った。

 「仁川港の封鎖は、主権の侵害では?」

 「朝鮮は日本の保護下にあります。」

 久信は即座に答えた。

 「私たちは朝鮮を支配しているのではない。自立を助けているのです。清国の旧支配から、未来へと導くために。」


 ドイツ公使がゆっくり頷いた。

 「君は若いが、老練だな。理念だけでなく、現実を見ている。」

 久信は微笑んだ。

 「日本は、血の若さよりも、知の若さで戦います。」


 その夜、久信は宿舎の机に座り、報告書をまとめていた。

 机上のランプの炎が揺れ、紙の上で影を作る。

 「父上……」

 小さく呟く。

 「文明で立つ国とは、どこまで人の命を守れる国なのか。僕たちは、その答えを探している気がします。」


 夜風がカーテンを揺らし、机の上の紙を一枚めくった。

 そこには手書きの一文。

 『戦わずして守る。それが真の戦略。』


 義信は軍略で、久信は言葉で、西郷は現地で――それぞれが、血を流さぬために動いていた。

 だが、誰もが知っていた。これが一度きりの成功ではないことを。

 朝鮮の不満、清国の野心、そして列強の影。どれも消えていない。


 翌朝、藤村の執務室に陸奥宗光が入ってきた。

 「清国艦隊、撤退しました。」

 藤村は短く頷く。

 「よくやった。義信も、久信も、西郷も、皆よくやった。」

 そして、机上の地図に視線を落とした。

 そこには朝鮮半島と、その背後に広がる大陸。

 「だが、これは始まりにすぎん。」

 ペン先が地図の端をなぞる。

 「次は、清国自身が動く。」

 「……はい。」陸奥は息を呑む。


 藤村は静かに目を閉じた。

 「戦わずして守る。それは最も困難な戦いだ。」

 「だが――」

 彼はゆっくりと地図を見上げた。

 「武より知を、怒りより理を。

  我が国は、それで立つ。」

夜が明けた。

 漢城の上空を、白い靄がゆっくりと流れていく。

 瓦礫と灰の街に、初めて陽光が差し込んだ。

 西郷隆盛は瓦礫の中を歩きながら、静かに息を吐いた。

 「……ようやく、終わったか。」

 周囲には武器を置いた兵士たちが座り込み、疲れ切った顔を上げている。

 誰も戦っていない――だが、戦よりも重い夜を越えた顔だった。


 従道が小走りに駆け寄ってくる。

 「兄上、反乱軍は完全に投降しました。死者、わずか十二名。ほとんどが暴徒の中での小競り合いです。」

 「十二名……」

 西郷は天を仰いだ。

 「戦でこの数字は奇跡じゃ。義信殿と藤村殿に感謝せねばな。」

 従道は笑みを浮かべた。

 「兄上が剣を抜かずに済んだ。それが一番の勝利です。」


 そのとき、遠くで子どもの泣き声がした。

 廃墟の隙間から、小さな男の子が姿を見せる。

 破れた服を着たその子の手を、西郷は迷わず取った。

 「泣くな。これからは、もう誰も殺さぬ。」

 子どもは涙で濡れた目を上げ、西郷の胸の徽章を見つめた。

 「……にほんの、ひと?」

 西郷は小さく頷いた。

 「そうじゃ。だが、お前の敵ではない。」

 子どもは、少し考えたあと、かすかに笑った。

 その笑顔を見て、西郷の胸に熱いものがこみ上げる。

 「この国は、まだ救える。」


 ◇


 その報せが東京に届いたのは、三日後のことだった。

 陸奥宗光が報告書を手に、総理執務室へと入ってくる。

 「壬午の乱、完全終息です。

  西郷兄弟は、反乱軍の指導者と講和を締結しました。

  清国艦隊も撤退を確認。」

 藤村は目を閉じ、長く息を吐いた。

 「……よくやった。皆が生きて帰れた。それが何よりの成果だ。」

 机の上には、義信の書いた戦略図が広げられている。

 青い線が海の封鎖を、赤い線が包囲の輪を示していた。


 「義信。」

 父の呼びかけに、十五歳の少年が立ち上がる。

 「はい。」

 「今回の戦略、完璧だった。」

 藤村は微笑んで言った。

 「だがな、戦略が成功した理由は一つだけだ。誰も、怒りで動かなかった。」

 義信は小さく頷いた。

 「……西郷総督が、戦を嫌ったからです。」

 「そうだ。」

 藤村は窓の外を見た。霞む朝の光の中で、桜の若葉が揺れている。

 「人を殺さずに国を守る――それは、どんな戦よりも難しい。」


 その夜、藤村邸に一通の書簡が届いた。

 封蝋には「西郷隆盛」の名。

 藤村は封を切り、静かに読み上げた。


 > 「藤村総理、義信殿、久信殿へ。

 >  このたびの鎮定、あなた方の智恵あってのこと。

 >  わしは剣を抜かずに済んだ。民の血を流さずに済んだ。

 >  戦は、勝っても国を貧しくする。だが、話し合いで治めれば、国は強くなる。

 >  義信殿の策、久信殿の理、どちらも若さゆえの輝きがある。

 >  この国の未来は、もう大丈夫じゃ。」


 読み終えた藤村は、手紙をそっと机に置いた。

 「……隆盛殿、あの人らしい。」

 義信が隣で問いかける。

 「父上、西郷総督は次も同じように……?」

 「いや。」

 藤村はゆっくり首を振った。

 「次は、もっと厳しい。清国は引き下がらない。」

 「……戦争ですか?」

 「その可能性がある。だが――」

 藤村は視線を少年に向ける。

 「お前たちが大人になる頃、この国が戦わずに世界を渡れるようにしておきたい。」


 義信の瞳がわずかに震えた。

 彼は拳を握りしめ、父の言葉を胸に刻む。

 「僕も、その国を作ります。」


 ◇


 夜更け、久信は自室のランプを消し、月明かりだけの机に座っていた。

 窓の外では、虫の声が遠く響く。

 手元の原稿用紙には、こう書かれていた。


 > 『文明とは、血を流さずに未来を作る力である』


 彼はペンを置き、深く息をついた。

 「兄上の軍略がなければ、外交は成り立たない。

  けれど――外交がなければ、軍略も意味を失う。」

 言葉にしてみると、それがこの兄弟の宿命のようにも思えた。

 父・藤村晴人が築いた“文明の国”。

 兄・義信が守る“知の戦略”。

 そして、弟・久信が担う“理の外交”。

 それぞれが、違う角度から同じ未来を照らしていた。


 外の風が吹き込み、紙が一枚舞い上がる。

 久信はそれを拾い上げ、微笑んだ。

 「きっと、西郷総督も同じ空を見ている。」


 ◇


 翌朝、国会で藤村は壇上に立った。

 「朝鮮における反乱、鎮静いたしました。」

 議場がざわめく。

 「西郷総督の冷静な指揮、義信の海上戦略、久信の外交努力、

  これらが一体となり、清国の介入を阻止いたしました。」


 議員の一人が声を上げた。

 「つまり、戦わずに勝ったと?」

 藤村は静かに頷いた。

 「そうだ。」

 「しかし、根本の不満は?」

 「それこそが、次に我々が向き合うべき戦だ。」

 藤村は言葉を区切り、力強く言った。

 「人の心を治めること。

  それこそ、政治の最も困難で、最も尊い仕事である。」


 議場が静まり返った。

 その沈黙は、拍手よりも重い承認だった。


 ◇


 その日の夕暮れ、藤村邸の庭にて。

 陽が傾き、夕風が竹を揺らす。

 義信が庭の中央に立ち、空を見上げていた。

 「戦わずに守る……本当に、これでよかったのでしょうか。」

 隣に立つ久信が答えた。

 「戦えば、守れないものもあった。父上が教えてくれたろ?」

 「……ああ。」

 義信は頷く。

 「だけど、俺はそれでも強くなりたい。戦わずに勝つために。」

 久信は笑って肩を叩いた。

 「それなら、僕が世界を黙らせてみせるよ。兄上が戦わずに済むように。」

 義信は微笑んだ。

 「……頼もしいな。」


 遠く、夏の夜空に一番星が光った。

 その光は、まるで戦火を越えて残った希望のように、ゆっくりと揺れていた。

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