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311話:(1882年・白露)ナイルの影 ―文明という武器―

 秋雨前線が東京の空を覆っていた。

 霞が関の官邸、その執務室には湿った風とともに、異国からの報せが届いた。


 陸奥宗光は、分厚い公文書の束を抱えたまま、重々しく一礼する。

「総理。ロンドンより緊急電報です。イギリス軍がエジプトを実質的に占領しました」


 藤村晴人は、窓辺の椅子に腰をかけたまま、静かに視線を上げた。

「……エジプトを?」


「はい。表向きは『反乱鎮圧』ですが、実際にはスエズ運河の支配権確保です。フランスとの共同管理体制を崩し、イギリス単独支配に移行しました」


 藤村の手が、机上の世界地図に伸びた。

 薄茶色の紙には、ナイル川が蛇のように青い線で刻まれている。その河口――スエズの文字を、彼は長く見つめた。


 陸奥は一枚の報告書を広げる。

「総理、欧州列強が次々と『文明化の名の下に』アジア・アフリカへ進出しております。インドはイギリスの直轄、インドシナはフランス、オランダはジャワを支配。今や、未開と呼ばれる土地は減る一方です」


 藤村は深く息を吸った。

「文明化の名の下に……か」


「はい。エジプトは軍事的にも経済的にも劣っておりましたが、何より痛かったのは――『文明国』と見なされなかったことです」


 陸奥の声に、紙の擦れる音が重なった。

「列強は占領を『文明の恩恵』と称して正当化できた。つまり、文明国と認められなければ、いつでも侵略の対象になり得るのです」


 藤村は地図上の「日本」の文字に指を置いた。

「……その言葉、他人事ではないな」


 窓の外では、雨脚が強くなり始めていた。しとしとと降る音が、静寂を一層際立たせる。

「日本も、いずれ標的になる」――藤村は低く呟く。


 陸奥が頷いた。

「まさに、その懸念こそが私の報告の核心です。いずれ列強は、極東にも目を向けます。アジアの小国が軍事で抗うことは不可能です。総理、いかがなさいますか?」


 藤村はしばらく黙し、やがて椅子から立ち上がった。

 机の上の地図を両手で押さえ、ゆっくりと東西を見比べる。

「……陸奥君。イギリスが、なぜ世界を支配できるか分かるか?」


 陸奥は眉を寄せた。「軍事力と、資本力、でしょうか」


「その通りだ。だが、それを支えるのは“制度”と“思想”だ。彼らは『文明』を武器にしている」


 藤村の声が、部屋の空気を震わせた。

「軍事と経済だけではない。法制度、教育、科学、そして芸術……それらを総称して“文明”という名の権威を作り上げている。列強はその“文明”を掲げ、未開を裁く権利を自らに与えた」


 陸奥は小さく息を呑んだ。

「文明そのものが、武力の代わりになる……」


「そうだ。だから我々も、文明で戦うしかない」


 藤村は机に両手を置き、まるで宣誓するように言った。

「帝国に抗うには、帝国と同じ土俵に立たねばならん。文明国と認められれば、占領の口実を奪える。日本が“文明”の証を示せば、列強は手を出しづらくなる」


 陸奥の目が光を帯びた。

「つまり、文明を国家戦略にする、ということですか?」


 藤村は頷いた。

「文明→経済→国防。この流れを作る。文化は武器だ、陸奥君」


 外では、雷鳴が小さく鳴った。

 その音を合図にするように、藤村は机上の書類を片づけた。


「陸奥、教育と芸術を担当する文部省に伝えてくれ。文明の象徴となる“学校”を作る。西洋に学び、だが西洋の模倣ではない日本の文明を築く。音楽、美術、工芸――それらを国家の礎にする」


「はっ。文部省にすぐ伝達いたします」


 藤村はふと笑みを浮かべた。

「この雨、ナイルにも降っているだろうな」


 陸奥は首をかしげた。「ナイルに?」


「そうだ。エジプトの民は、今頃この雨を見上げている。彼らも同じ空の下にいる。だが、彼らの国は文明の名のもとに奪われた。我々は、同じ過ちを繰り返さぬ」


 藤村の瞳は、遠い西方を見つめていた。

「この雨が止むころ、日本の文明は芽吹き始めていなければならん」


 陸奥宗光は静かに頭を下げた。

「承知しました、総理」


 ――文明という言葉が、雷鳴の余韻の中で静かに残った。


 夜、藤村邸。

 書斎では三兄弟が父の帰りを待っていた。義信は軍制の書を閉じ、久信は地理帳を手に、義親は机の上で紙飛行機を作っている。


「父さん、今日も遅いね」義親が呟く。


 その瞬間、戸が開き、藤村が入ってきた。雨に濡れた外套を脱ぎ、ランプの明かりのもとで息を整える。

「ただいま戻った。……みんな起きていたか」


「陸奥さんと会ってたんでしょ?」久信が訊いた。


「ああ。ナイルの国――エジプトが、イギリスに占領されたそうだ」


 三人の表情が固まった。義信が立ち上がる。

「戦争、ですか?」


「いや、名目上は“保護”だ。だが実際は支配だ」


「なぜそんなことが……」と久信。


 藤村はランプの火を少し強めた。

「理由は一つ。エジプトが“文明国”と認められなかったからだ」


 義親が首をかしげる。

「ぶんめいこく?」


「そうだ。科学、教育、文化、芸術――そうしたものを持ち、民が理性で国を動かす。それを文明と呼ぶ。列強は“未開”と見なした国に、正義の名で剣を向ける。……まるで、神を名乗る裁判官だ」


 義信が拳を握る。

「なら、軍備を強化して対抗すべきです。兵を増やし、大砲を作り、戦う準備を」


「軍備も必要だ。しかし――」藤村は首を振った。

「イギリスの軍事力は、日本の十倍以上だ。正面から戦えば、一日で滅ぶ」


「では、どうすれば……」久信の声が震えた。


 藤村は、ゆっくりと息を吐いた。

「帝国に抗うには、文明で戦うしかない」


「文明で?」


「ああ。文明国と認められれば、占領は正当化されない。文明があれば、経済が生まれる。経済があれば、軍を持てる。つまり、文明→経済→国防。力の順序を変えるんだ」


 藤村は義信の肩に手を置く。

「お前は軍を整えろ。ただし、戦争のためではなく、文明を守るために」


 久信には言葉を向ける。

「お前は世界と交わる窓になれ。異国の文化を学び、日本の文明を外へ広げろ」


 そして、末子の義親に微笑む。

「お前は科学を学びなさい。技術が人を豊かにし、国を救う」


 三人は静かに頷いた。

 その目に、父と同じ決意の炎が宿る。


 藤村は窓の外を見た。雨は上がり、夜空には白い月が浮かんでいた。

「この光を見ろ。文明とは、闇を照らす月のようなものだ。ナイルの影がどれほど深くても、日本は光を絶やしてはならない」


 彼の声が静寂に溶けていった。

秋晴れの朝。

 霞ヶ関の文部省庁舎には、藤村内閣の方針を伝える公文書が届いていた。

「文明教育拡充に関する件――音楽・工芸・科学教育を国家の基礎とす」

その一行を読んだ若い官僚たちは顔を見合わせた。

「文明教育……総理は何を考えているんだ」

「音楽や工芸で国が守れるものか」

彼らの半信半疑をよそに、陸奥宗光の筆頭補佐官が宣言した。

「総理の命令だ。文部省は“文明の象徴”となる学校を設立する。音楽だ。東京に、日本初の音楽学校をつくる」


 こうして――“東京音楽学校設立準備委員会”が発足した。


 秋風の吹く上野の丘。

 古い寺院の一角に、臨時の仮校舎が立っていた。

 アメリカから招かれた音楽教育者ルーサー・メイソンは、白髪まじりの顎髭を撫でながら、譜面台の前に立っていた。


「音楽とは、人間の心を整える科学です」

 メイソンの声には確信があった。

「日本の子供たちは、耳がいい。旋律の感覚が自然に備わっている。だが、楽器が足りない。特に――ピアノが」


 伊沢修二が答える。「日本で作るには、技術がありません」


「ならば、技術を作ればいいのです」メイソンは微笑む。「文明とは、学ぶ勇気の別名ですよ」


 その会話を聞いていたのは、藤村の次男・久信だった。

 14歳の少年は、まだ肩に子供らしさを残しているが、目の奥は冷静に光っていた。

「先生、日本でピアノを作ることは本当に可能ですか?」


 メイソンは指先で机を叩いた。

「木材の乾燥と金属の加工、そして音の“耳”があれば――不可能ではありません」


 久信は伊沢に向き直る。

「職人を探しましょう。日本で作るなら、浜松がいい。気候が木に合う。……父の言葉を思い出します。文明は“制度”だけではなく、“音”や“形”の中にある、と」


 伊沢は少年の言葉に一瞬驚き、それから笑みを漏らした。

「さすがは藤村総理の息子だ」


 ――こうして、久信は浜松へ向かうことになった。



 遠州灘の風が、乾いた木の香りを運んでいた。

 浜松の町外れ、小さな木工房の中で、一人の職人が金槌を握っていた。

 山葉寅楠――まだ無名の楽器修理師である。

 壁には分解されたオルガンが並び、床には木屑が積もっていた。


「ピアノを作りたい、ですって?」

 少年の来訪に、山葉は目を丸くした。


「文部省の伊沢修二先生から聞きました」

 久信は胸元から藤村総理の封書を取り出す。

「日本の音楽教育には、国産の楽器が必要です。輸入では追いつきません。あなたのような職人の力を借りたい」


 山葉は手の中の金槌を握り直した。

「私はまだ、外国製のピアノを分解して構造を学んでいる段階です。完成には何年かかるか……」


「時間は構いません。政府が支援します」

 久信の声には、子供とは思えぬ確信があった。

「音楽は文明の象徴です。日本が世界に並ぶためには、音を持たねばならない」


 山葉はその言葉に、胸の奥が震えるのを感じた。

「……文明の象徴、か。私はただ、音を“再現”したかった。しかし、あんたの言葉を聞いて分かった。俺は音で“国”を作るんだな」


「そうです。音で国を作る。父の言葉を借りれば――“文明とは、心の軍備”です」


 浜松の空には、秋雲が流れていた。

 その下で、木槌の音が響く。

 文明という言葉が、まだ誰も知らない未来の旋律を刻み始めていた。



 数日後、京都。

 藤村の末子・義親が視察に訪れたのは、七宝工芸の工房だった。

 硝子質の粉を銅板に焼きつけて彩る、極めて繊細な技術。

 並河靖之と濤川惣助――二人の巨匠が、炎の前で対立していた。


「惣助殿、あんたの言う通りに温度を上げたら、色が死んだ!」

「なら温度を下げすぎだ!炎が弱いと、透明感が出ない!」


 職人たちが眉をひそめる中、義親はこっそりと炉の温度計を覗きこんだ。

「おじさんたち、温度は毎回同じですか?」


「いや、感覚だ。火の“色”で見る」


「じゃあ、同じ色でも場所によって温度が違うんじゃない?」

 義親の声は素朴だった。

「ガラスを焼くのと同じで、温度と時間を決めて実験すれば、きっと同じ色が出るよ」


 濤川は唖然とした表情を浮かべた。

「温度と時間の管理……つまり科学的管理か」


 並河はゆっくり頷いた。

「確かに、我々は伝統の“感覚”に頼りすぎていたのかもしれない」


 義親の小さな提案は、工房の空気を変えた。

 後に、この方法は「温度管理による品質安定法」として京都の七宝産業全体に広がり、日本の工芸品を一段高めるきっかけとなる。


 藤村が後にその報告を受けたとき、静かに笑った。

「伝統と科学の融合――それこそ文明の核だ」



 夜、藤村邸。

 藤村は、陸奥宗光を再び呼び寄せていた。

 机の上には、報告書が三通。

 一通は、東京音楽学校設立準備。

 一通は、山葉工房支援案。

 そして一通は、京都七宝産業の技術革新提案書。


「陸奥君、これらを見てくれ」


 陸奥は目を通し、唸った。

「音楽、工芸、そして科学……いずれも文化的分野。しかし、これが本当に国防に繋がるのですか?」


 藤村は静かに答えた。

「文明とは、他国に奪われない“誇り”の形だ。経済を生み、国際的信用を築く。そして、侵略の口実を奪う」


「……文明をもって帝国と戦う、というわけですな」


 藤村は頷いた。

「我々はナイルの影に学ぶ。

 文明を失えば、どれほどの歴史を持っていようと、国は奪われる。だが、文明を持つ国は、尊敬され、取引され、認められる。

 イギリスの艦砲よりも恐ろしいのは――“無知の烙印”だ」


 その言葉に、陸奥は深く頭を垂れた。

「……承知しました。外務省も、文明外交を支える体制を整えます」


 窓の外では、秋の虫の声が響いていた。

 夜気は冷たく、しかしその冷たさの奥には、確かな希望の光があった。


 藤村はランプを消し、月明かりの中で呟く。

「文明とは、剣を持たぬ戦いだ。

 だが、その戦いに勝てる国こそが、真に強い国になる」


 ――文明という武器が、静かに形を取り始めていた。

 九月下旬。東京の空は澄み渡り、金木犀の香りが風に乗っていた。

 霞ヶ関の議事堂は、朝から異様な熱気に包まれている。

 「文明国家構想に関する国会演説」――藤村内閣が掲げる新たな国家理念の発表であった。


 議場に詰めかけた議員たちの顔ぶれは、半信半疑と期待の入り混じる複雑な表情をしていた。

 「文明?」「音楽や工芸で国が守れるか?」――小声の囁きがあちこちで飛び交う。

 その中心、壇上に立つ藤村晴人の姿は、いつもより痩せて見えたが、眼光は鋭く光を宿していた。


「――諸君。エジプトが滅びた理由を知っていますか」

 冒頭の一言に、議場のざわめきが止んだ。

「軍事力の差ではない。文明の差です」


 藤村は一歩前へ進み、手にした世界地図を広げた。

「イギリスはスエズ運河を支配するため、エジプトを『文明化』の名で占領した。

 それが許されたのは、世界がエジプトを“文明国ではない”と見なしたからだ」


 静寂。

 藤村の声は低く、しかし確信に満ちていた。


「文明――それは言葉で飾られた理想ではない。

 それは国際社会での『免疫』だ。文明国と認められなければ、いつでも病原のように切り捨てられる。

 軍事力より恐ろしいのは、“文明の欠如”という烙印だ」


 ざわめく議員たち。中には椅子を鳴らして立ち上がる者もいた。

 だが藤村は構わず続けた。


「では問おう――日本は文明国といえるか?」


 その言葉に、場内が凍りついた。

 議員の一人が叫ぶ。「我が国には教育制度もある!鉄道もできた!」

 藤村は静かに頷いた。

「そうだ。だが、それは“形”の文明にすぎない。

 真の文明とは、“心”の仕組みだ。音楽・芸術・科学・法。それらが国民の血の中に溶けてこそ、文明国と呼ばれる」


 藤村の目が、最前列に座る陸奥宗光を捉える。

「文明は経済を生む。経済が国防を支える。

 文明→経済→国防――この循環がある国だけが、帝国主義に抗える」


 陸奥は小さく頷いた。

 それは、藤村が“ナイルの影”を見て導き出した答えであった。



 演説が終わったあと、議場の外では新聞記者たちが殺到した。

 「文明国家構想」とは何か、総理の真意はどこにあるのか。

 その喧騒を背に、藤村は歩き出した。


 外は夕暮れ。赤く染まる議事堂の壁が、どこか血のような色に見えた。

 ――文明を掲げるということは、血を流さない戦争を宣言することだ。

 その覚悟を胸に、藤村は馬車へと乗り込んだ。



 夜、参謀本部。

 義信が軍務局長室で資料をめくっていた。

 若干十五歳の彼は、軍学に関してはすでに一部の将校を唸らせる知識を持っていた。


 老将の一人が呟く。「文明国家構想……総理は夢想家ではないのか」

 義信は顔を上げた。

「夢ではありません。現実です」


「現実だと?」


「文明は、戦争を遅らせる盾になります。

 文明国同士の戦争は、“非文明の証”になる。

 だから、文明を示すことが抑止力になる」


 将官たちは静まり返った。

 義信は、言葉を続けた。

「父は軍備を軽んじてはいません。むしろ、軍備を支える“経済の土台”を築こうとしている。

 文明が国を豊かにし、豊かさが兵を養う。文明と軍事は敵ではなく、両輪です」


 その言葉に、将たちはしばらく沈黙し、それから一人が口を開いた。

「……君の父上は、戦を避けるための“戦略家”なのだな」


 義信は微笑んだ。

「そうです。父は、戦わずして勝つ国を作ろうとしています」



 一方その頃、上野。

 東京音楽学校の仮校舎では、ピアノの調律音が響いていた。

 新しく搬入された山葉工房製の試作ピアノが、静かに蓋を開けられていた。


 木目の美しい外装、まだ粗削りではあるが、音は澄んでいた。

 メイソンが鍵盤に手を置き、低音を試す。

 「……悪くない。日本の空気に合っている音だ」


 伊沢修二は思わず微笑んだ。

 「山葉寅楠、やりましたな」

 山葉は汗だくのまま、手を拭いながら頭を下げた。

 「先生方のご指導の賜物です」


 久信が近づき、鍵盤を軽く叩いた。

 「この音が、文明の音ですね」


 メイソンが振り返る。「その通りです、少年。音楽は、文明が生んだ“心の秩序”です」

 そしてゆっくりと付け加えた。

 「この音を持つ国は、もう野蛮ではない」


 久信はその言葉を胸に刻んだ。

 ――ナイルの影の反対側には、音の光がある。



 翌週、開校式。

 新校舎の講堂には、花と国旗が飾られ、初等生たちが整列していた。

 メイソンが指揮棒を振ると、澄んだ歌声が天井に広がった。

 ♪「君が代」の旋律が、これまでにない荘厳さを帯びて響いた。


 その列の後方で、藤村と三兄弟が静かに聴いていた。

 義信は軍帽を脱ぎ、久信は指揮の動きを目で追い、義親は両手を胸に組んだ。

 ピアノの音が重なり、子どもたちの声が光となって空へと立ち上る。


 藤村はそっと呟いた。

「これが文明の音――人の心が、剣より強く響く音だ」


 久信が小さく笑った。

「父さん、いつかこの音が海外でも鳴り響く日が来るでしょうね」

「そうだ。その日、日本は真に“文明国”と呼ばれるだろう」



 夜。藤村邸の庭には、秋虫が鳴いていた。

 縁側で湯呑を手にする藤村の隣に、義親がちょこんと座っていた。

「父さん、文明って音のこと?」

「うん、音もそうだ。でも、文明は“人の心の動かし方”だ」


「心を動かす……」

 義親は月を見上げた。

「今日、ピアノの音で泣いてる人がいた。音ってすごいね。誰も殴らないのに、胸が痛くなる」


 藤村は静かに笑った。

「それが文明の力だ。銃や剣で人は支配できる。だが、音や言葉で心を動かせる国こそ、真に強い」


 義親の小さな瞳が、夜空の星を映した。

「じゃあ、僕も音を作る人になりたい」

「科学でも音楽でも構わん。人の心を照らすものを作れ。それが文明の担い手だ」


 遠くで、山葉工房から運ばれたピアノの音がかすかに響いていた。

 その音は、まるで新しい日本の胎動のように、秋の空に溶けていった。

十月を目前に控えた白露の候。

 秋晴れの空の下、上野公園では新しい建物の工事が進んでいた。

 木の香りと漆喰の匂いが混ざり、遠くからは工事を見守る市民のざわめきが聞こえる。


 「ここが、音楽学校の本校舎になるのですね」

 メイソンが帽子を取って額の汗をぬぐう。

 隣では伊沢修二が設計図を広げ、職人たちに指示を出していた。


 「日本の木造建築で音響を最適化する――これが試練ですよ」

 伊沢の声に、メイソンが頷く。

 「西洋のホールより温かい音が響くでしょう」


 そのやりとりを見ていた久信が、静かに言った。

 「文明とは、輸入ではなく、調和のことだと思います」


 伊沢は微笑む。「若いのに、核心を突いていますね」

 久信の視線は、工事を続ける大工たちに向けられていた。

 木槌の音、糸鋸の響き、それらすべてが一つの旋律のように聞こえた。


 ――これが“文明の建設音”だ。

 久信の胸に、そんな言葉が浮かんだ。



 一方、京都では別の動きが始まっていた。

 七宝工房の煙突から白い煙が立ち上り、炉の中では新たな試作が行われていた。


 「温度を一定に保てば、焼きムラがなくなる」

 濤川惣助が温度計を見ながら呟く。

 その傍らで、並河靖之が手帳に数値を記していた。


 「八百度で八分。……義親殿の言う通りだな」


 義親は小さな椅子に座り、手を組んで観察していた。

 「ねえ、今の青、きれい。海の色みたい」


 濤川が微笑む。「君は色を見る目がある。だが、理屈も知っているな」

 義親はうなずいた。

 「色は光の波の長さで変わるんでしょ? 炎の温度が違えば、ガラスの中の金属が違う光を出すんだ」


 並河は息を呑んだ。

 「八歳で、そこまで理解しているのか……」


 炉から取り出された器は、深海のような青を湛えていた。

 光を受けると、表面に金の粒がちらちらと輝き、まるで星空を閉じ込めたようだった。

 濤川が感嘆の声を上げた。

 「これだ。これが“文明の美”だ」


 その後、この技法は「恒温焼成法」として確立され、のちに海外万博で高い評価を受けることになる。



 同じ頃、浜松では山葉寅楠が夜遅くまで工房にこもっていた。

 ピアノの鍵盤の隙間を、ランプの光が照らす。

 木の香り、鉄の油、そして夜露の冷気が混ざった独特の空気。


 「弦の張りが強すぎる。これでは高音が伸びない」

 山葉は調律ハンマーを握りしめ、何度も張力を調整する。

 そこに、藤村からの書簡が届いた。


 ――「文明とは、音を持つ国家のこと」


 その一行を読み、山葉は目を閉じた。

 「……音を持つ国家、か」


 再びピアノに向かい、彼は鍵盤を叩いた。

 透明な音が、夜の工房に響く。

 静寂の中、その一音がまるで“独立の鐘”のように鳴り渡った。


 「この音を、日本中に――いや、世界に届けてみせる」


 山葉寅楠はその夜、初めて「輸出」という言葉を口にした。

 それは、彼の一生を決定づける夜となった。



 東京では、藤村が新制度の草案をまとめていた。

 机の上には、細やかな文字で書かれた草稿が並ぶ。


 文明振興法(案)

 第一条 教育・芸術・科学を文明の礎とする

 第二条 技術者・芸術家の保護と支援

 第三条 外国技術導入の推進と国産化の奨励

 第四条 文明産業による国家経済の強化


 そこへ陸奥宗光が入室した。

 「総理、これは軍事予算とは別枠ですか?」

 藤村はうなずいた。

 「これは“戦わずして守る”ための予算だ」


 陸奥はしばし沈黙し、微笑んだ。

 「総理……あなたは剣を抜かずに戦をする方だ」

 藤村も笑みを返した。

 「陸奥君、戦は戦でも、“心の戦”だ。

 文明という武器は、人の心を照らし、国を守る」



 夜、藤村邸の書斎。

 雨音が静かに障子を叩いている。

 窓際の机には、三兄弟の描いた世界地図が広げられていた。

 義信が線で航路を引き、久信が各国の国旗を書き込み、義親が海に青を塗る。


 藤村がその背後から静かに声をかけた。

 「どこへ行く航路だ?」


 義信「ナイルから、極東へ」

 久信「文明の流れを示しています」

 義親「世界を青でつなげてるの」


 藤村は小さく笑った。

 「そうだ。文明は海のように広がる。

 どこかで影が差しても、光は必ず届く」


 雨が上がり、障子の向こうに月が浮かんだ。

 月光は白い紙の上に反射し、ナイルから日本へ引かれた青い線を淡く照らした。


 その線は、まるで未来への道筋のように見えた。



 ――翌日、新聞各紙が一斉に報じた。


 「藤村内閣、文明国家構想を正式発表」

 「音楽と工芸を国家戦略に」

 「文明こそ国防――新時代の理念」


 街の人々は、見出しを読んで首を傾げた。

 「音楽や芸術で国が守れるのか?」

 「でも、総理の言葉は不思議と胸に残るな」


 その日の夕方、上野公園では音楽学校の生徒たちが小さな演奏会を開いた。

 通りすがりの職人、子供たち、そして兵士までが足を止めた。

 ピアノの音が風に乗って広がる。


 その旋律は、まだ拙く、未熟で――けれど確かに“日本の音”だった。

 山葉の試作ピアノが奏でる和音が、夕陽の空に溶けていく。

 メイソンが静かに目を閉じた。

 「音がある限り、この国は野蛮にならない」


 その言葉に、伊沢が静かにうなずいた。

 「この音は、ナイルの影を超えた光ですね」



 その夜、藤村は日記にこう記した。


 ――「文明とは、剣を持たぬ者の防衛であり、創造である」

 ――「音楽も、工芸も、科学も、国家の心臓である」

 ――「ナイルの影に怯える時代は終わった。

    我々は、音で、色で、知恵で、未来を守る」


 筆を置いた藤村は、静かに窓を開けた。

 庭からは秋の虫の声が響いてくる。

 ふと、遠くからピアノの微かな音が風に混ざって届いた。


 藤村は目を閉じ、その音に耳を傾けた。

 それは、帝国主義という闇を切り裂く、

 新しい時代の“夜明けの音”だった。

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