311話:(1882年・白露)ナイルの影 ―文明という武器―
秋雨前線が東京の空を覆っていた。
霞が関の官邸、その執務室には湿った風とともに、異国からの報せが届いた。
陸奥宗光は、分厚い公文書の束を抱えたまま、重々しく一礼する。
「総理。ロンドンより緊急電報です。イギリス軍がエジプトを実質的に占領しました」
藤村晴人は、窓辺の椅子に腰をかけたまま、静かに視線を上げた。
「……エジプトを?」
「はい。表向きは『反乱鎮圧』ですが、実際にはスエズ運河の支配権確保です。フランスとの共同管理体制を崩し、イギリス単独支配に移行しました」
藤村の手が、机上の世界地図に伸びた。
薄茶色の紙には、ナイル川が蛇のように青い線で刻まれている。その河口――スエズの文字を、彼は長く見つめた。
陸奥は一枚の報告書を広げる。
「総理、欧州列強が次々と『文明化の名の下に』アジア・アフリカへ進出しております。インドはイギリスの直轄、インドシナはフランス、オランダはジャワを支配。今や、未開と呼ばれる土地は減る一方です」
藤村は深く息を吸った。
「文明化の名の下に……か」
「はい。エジプトは軍事的にも経済的にも劣っておりましたが、何より痛かったのは――『文明国』と見なされなかったことです」
陸奥の声に、紙の擦れる音が重なった。
「列強は占領を『文明の恩恵』と称して正当化できた。つまり、文明国と認められなければ、いつでも侵略の対象になり得るのです」
藤村は地図上の「日本」の文字に指を置いた。
「……その言葉、他人事ではないな」
窓の外では、雨脚が強くなり始めていた。しとしとと降る音が、静寂を一層際立たせる。
「日本も、いずれ標的になる」――藤村は低く呟く。
陸奥が頷いた。
「まさに、その懸念こそが私の報告の核心です。いずれ列強は、極東にも目を向けます。アジアの小国が軍事で抗うことは不可能です。総理、いかがなさいますか?」
藤村はしばらく黙し、やがて椅子から立ち上がった。
机の上の地図を両手で押さえ、ゆっくりと東西を見比べる。
「……陸奥君。イギリスが、なぜ世界を支配できるか分かるか?」
陸奥は眉を寄せた。「軍事力と、資本力、でしょうか」
「その通りだ。だが、それを支えるのは“制度”と“思想”だ。彼らは『文明』を武器にしている」
藤村の声が、部屋の空気を震わせた。
「軍事と経済だけではない。法制度、教育、科学、そして芸術……それらを総称して“文明”という名の権威を作り上げている。列強はその“文明”を掲げ、未開を裁く権利を自らに与えた」
陸奥は小さく息を呑んだ。
「文明そのものが、武力の代わりになる……」
「そうだ。だから我々も、文明で戦うしかない」
藤村は机に両手を置き、まるで宣誓するように言った。
「帝国に抗うには、帝国と同じ土俵に立たねばならん。文明国と認められれば、占領の口実を奪える。日本が“文明”の証を示せば、列強は手を出しづらくなる」
陸奥の目が光を帯びた。
「つまり、文明を国家戦略にする、ということですか?」
藤村は頷いた。
「文明→経済→国防。この流れを作る。文化は武器だ、陸奥君」
外では、雷鳴が小さく鳴った。
その音を合図にするように、藤村は机上の書類を片づけた。
「陸奥、教育と芸術を担当する文部省に伝えてくれ。文明の象徴となる“学校”を作る。西洋に学び、だが西洋の模倣ではない日本の文明を築く。音楽、美術、工芸――それらを国家の礎にする」
「はっ。文部省にすぐ伝達いたします」
藤村はふと笑みを浮かべた。
「この雨、ナイルにも降っているだろうな」
陸奥は首をかしげた。「ナイルに?」
「そうだ。エジプトの民は、今頃この雨を見上げている。彼らも同じ空の下にいる。だが、彼らの国は文明の名のもとに奪われた。我々は、同じ過ちを繰り返さぬ」
藤村の瞳は、遠い西方を見つめていた。
「この雨が止むころ、日本の文明は芽吹き始めていなければならん」
陸奥宗光は静かに頭を下げた。
「承知しました、総理」
――文明という言葉が、雷鳴の余韻の中で静かに残った。
夜、藤村邸。
書斎では三兄弟が父の帰りを待っていた。義信は軍制の書を閉じ、久信は地理帳を手に、義親は机の上で紙飛行機を作っている。
「父さん、今日も遅いね」義親が呟く。
その瞬間、戸が開き、藤村が入ってきた。雨に濡れた外套を脱ぎ、ランプの明かりのもとで息を整える。
「ただいま戻った。……みんな起きていたか」
「陸奥さんと会ってたんでしょ?」久信が訊いた。
「ああ。ナイルの国――エジプトが、イギリスに占領されたそうだ」
三人の表情が固まった。義信が立ち上がる。
「戦争、ですか?」
「いや、名目上は“保護”だ。だが実際は支配だ」
「なぜそんなことが……」と久信。
藤村はランプの火を少し強めた。
「理由は一つ。エジプトが“文明国”と認められなかったからだ」
義親が首をかしげる。
「ぶんめいこく?」
「そうだ。科学、教育、文化、芸術――そうしたものを持ち、民が理性で国を動かす。それを文明と呼ぶ。列強は“未開”と見なした国に、正義の名で剣を向ける。……まるで、神を名乗る裁判官だ」
義信が拳を握る。
「なら、軍備を強化して対抗すべきです。兵を増やし、大砲を作り、戦う準備を」
「軍備も必要だ。しかし――」藤村は首を振った。
「イギリスの軍事力は、日本の十倍以上だ。正面から戦えば、一日で滅ぶ」
「では、どうすれば……」久信の声が震えた。
藤村は、ゆっくりと息を吐いた。
「帝国に抗うには、文明で戦うしかない」
「文明で?」
「ああ。文明国と認められれば、占領は正当化されない。文明があれば、経済が生まれる。経済があれば、軍を持てる。つまり、文明→経済→国防。力の順序を変えるんだ」
藤村は義信の肩に手を置く。
「お前は軍を整えろ。ただし、戦争のためではなく、文明を守るために」
久信には言葉を向ける。
「お前は世界と交わる窓になれ。異国の文化を学び、日本の文明を外へ広げろ」
そして、末子の義親に微笑む。
「お前は科学を学びなさい。技術が人を豊かにし、国を救う」
三人は静かに頷いた。
その目に、父と同じ決意の炎が宿る。
藤村は窓の外を見た。雨は上がり、夜空には白い月が浮かんでいた。
「この光を見ろ。文明とは、闇を照らす月のようなものだ。ナイルの影がどれほど深くても、日本は光を絶やしてはならない」
彼の声が静寂に溶けていった。
秋晴れの朝。
霞ヶ関の文部省庁舎には、藤村内閣の方針を伝える公文書が届いていた。
「文明教育拡充に関する件――音楽・工芸・科学教育を国家の基礎とす」
その一行を読んだ若い官僚たちは顔を見合わせた。
「文明教育……総理は何を考えているんだ」
「音楽や工芸で国が守れるものか」
彼らの半信半疑をよそに、陸奥宗光の筆頭補佐官が宣言した。
「総理の命令だ。文部省は“文明の象徴”となる学校を設立する。音楽だ。東京に、日本初の音楽学校をつくる」
こうして――“東京音楽学校設立準備委員会”が発足した。
秋風の吹く上野の丘。
古い寺院の一角に、臨時の仮校舎が立っていた。
アメリカから招かれた音楽教育者ルーサー・メイソンは、白髪まじりの顎髭を撫でながら、譜面台の前に立っていた。
「音楽とは、人間の心を整える科学です」
メイソンの声には確信があった。
「日本の子供たちは、耳がいい。旋律の感覚が自然に備わっている。だが、楽器が足りない。特に――ピアノが」
伊沢修二が答える。「日本で作るには、技術がありません」
「ならば、技術を作ればいいのです」メイソンは微笑む。「文明とは、学ぶ勇気の別名ですよ」
その会話を聞いていたのは、藤村の次男・久信だった。
14歳の少年は、まだ肩に子供らしさを残しているが、目の奥は冷静に光っていた。
「先生、日本でピアノを作ることは本当に可能ですか?」
メイソンは指先で机を叩いた。
「木材の乾燥と金属の加工、そして音の“耳”があれば――不可能ではありません」
久信は伊沢に向き直る。
「職人を探しましょう。日本で作るなら、浜松がいい。気候が木に合う。……父の言葉を思い出します。文明は“制度”だけではなく、“音”や“形”の中にある、と」
伊沢は少年の言葉に一瞬驚き、それから笑みを漏らした。
「さすがは藤村総理の息子だ」
――こうして、久信は浜松へ向かうことになった。
*
遠州灘の風が、乾いた木の香りを運んでいた。
浜松の町外れ、小さな木工房の中で、一人の職人が金槌を握っていた。
山葉寅楠――まだ無名の楽器修理師である。
壁には分解されたオルガンが並び、床には木屑が積もっていた。
「ピアノを作りたい、ですって?」
少年の来訪に、山葉は目を丸くした。
「文部省の伊沢修二先生から聞きました」
久信は胸元から藤村総理の封書を取り出す。
「日本の音楽教育には、国産の楽器が必要です。輸入では追いつきません。あなたのような職人の力を借りたい」
山葉は手の中の金槌を握り直した。
「私はまだ、外国製のピアノを分解して構造を学んでいる段階です。完成には何年かかるか……」
「時間は構いません。政府が支援します」
久信の声には、子供とは思えぬ確信があった。
「音楽は文明の象徴です。日本が世界に並ぶためには、音を持たねばならない」
山葉はその言葉に、胸の奥が震えるのを感じた。
「……文明の象徴、か。私はただ、音を“再現”したかった。しかし、あんたの言葉を聞いて分かった。俺は音で“国”を作るんだな」
「そうです。音で国を作る。父の言葉を借りれば――“文明とは、心の軍備”です」
浜松の空には、秋雲が流れていた。
その下で、木槌の音が響く。
文明という言葉が、まだ誰も知らない未来の旋律を刻み始めていた。
*
数日後、京都。
藤村の末子・義親が視察に訪れたのは、七宝工芸の工房だった。
硝子質の粉を銅板に焼きつけて彩る、極めて繊細な技術。
並河靖之と濤川惣助――二人の巨匠が、炎の前で対立していた。
「惣助殿、あんたの言う通りに温度を上げたら、色が死んだ!」
「なら温度を下げすぎだ!炎が弱いと、透明感が出ない!」
職人たちが眉をひそめる中、義親はこっそりと炉の温度計を覗きこんだ。
「おじさんたち、温度は毎回同じですか?」
「いや、感覚だ。火の“色”で見る」
「じゃあ、同じ色でも場所によって温度が違うんじゃない?」
義親の声は素朴だった。
「ガラスを焼くのと同じで、温度と時間を決めて実験すれば、きっと同じ色が出るよ」
濤川は唖然とした表情を浮かべた。
「温度と時間の管理……つまり科学的管理か」
並河はゆっくり頷いた。
「確かに、我々は伝統の“感覚”に頼りすぎていたのかもしれない」
義親の小さな提案は、工房の空気を変えた。
後に、この方法は「温度管理による品質安定法」として京都の七宝産業全体に広がり、日本の工芸品を一段高めるきっかけとなる。
藤村が後にその報告を受けたとき、静かに笑った。
「伝統と科学の融合――それこそ文明の核だ」
*
夜、藤村邸。
藤村は、陸奥宗光を再び呼び寄せていた。
机の上には、報告書が三通。
一通は、東京音楽学校設立準備。
一通は、山葉工房支援案。
そして一通は、京都七宝産業の技術革新提案書。
「陸奥君、これらを見てくれ」
陸奥は目を通し、唸った。
「音楽、工芸、そして科学……いずれも文化的分野。しかし、これが本当に国防に繋がるのですか?」
藤村は静かに答えた。
「文明とは、他国に奪われない“誇り”の形だ。経済を生み、国際的信用を築く。そして、侵略の口実を奪う」
「……文明をもって帝国と戦う、というわけですな」
藤村は頷いた。
「我々はナイルの影に学ぶ。
文明を失えば、どれほどの歴史を持っていようと、国は奪われる。だが、文明を持つ国は、尊敬され、取引され、認められる。
イギリスの艦砲よりも恐ろしいのは――“無知の烙印”だ」
その言葉に、陸奥は深く頭を垂れた。
「……承知しました。外務省も、文明外交を支える体制を整えます」
窓の外では、秋の虫の声が響いていた。
夜気は冷たく、しかしその冷たさの奥には、確かな希望の光があった。
藤村はランプを消し、月明かりの中で呟く。
「文明とは、剣を持たぬ戦いだ。
だが、その戦いに勝てる国こそが、真に強い国になる」
――文明という武器が、静かに形を取り始めていた。
九月下旬。東京の空は澄み渡り、金木犀の香りが風に乗っていた。
霞ヶ関の議事堂は、朝から異様な熱気に包まれている。
「文明国家構想に関する国会演説」――藤村内閣が掲げる新たな国家理念の発表であった。
議場に詰めかけた議員たちの顔ぶれは、半信半疑と期待の入り混じる複雑な表情をしていた。
「文明?」「音楽や工芸で国が守れるか?」――小声の囁きがあちこちで飛び交う。
その中心、壇上に立つ藤村晴人の姿は、いつもより痩せて見えたが、眼光は鋭く光を宿していた。
「――諸君。エジプトが滅びた理由を知っていますか」
冒頭の一言に、議場のざわめきが止んだ。
「軍事力の差ではない。文明の差です」
藤村は一歩前へ進み、手にした世界地図を広げた。
「イギリスはスエズ運河を支配するため、エジプトを『文明化』の名で占領した。
それが許されたのは、世界がエジプトを“文明国ではない”と見なしたからだ」
静寂。
藤村の声は低く、しかし確信に満ちていた。
「文明――それは言葉で飾られた理想ではない。
それは国際社会での『免疫』だ。文明国と認められなければ、いつでも病原のように切り捨てられる。
軍事力より恐ろしいのは、“文明の欠如”という烙印だ」
ざわめく議員たち。中には椅子を鳴らして立ち上がる者もいた。
だが藤村は構わず続けた。
「では問おう――日本は文明国といえるか?」
その言葉に、場内が凍りついた。
議員の一人が叫ぶ。「我が国には教育制度もある!鉄道もできた!」
藤村は静かに頷いた。
「そうだ。だが、それは“形”の文明にすぎない。
真の文明とは、“心”の仕組みだ。音楽・芸術・科学・法。それらが国民の血の中に溶けてこそ、文明国と呼ばれる」
藤村の目が、最前列に座る陸奥宗光を捉える。
「文明は経済を生む。経済が国防を支える。
文明→経済→国防――この循環がある国だけが、帝国主義に抗える」
陸奥は小さく頷いた。
それは、藤村が“ナイルの影”を見て導き出した答えであった。
*
演説が終わったあと、議場の外では新聞記者たちが殺到した。
「文明国家構想」とは何か、総理の真意はどこにあるのか。
その喧騒を背に、藤村は歩き出した。
外は夕暮れ。赤く染まる議事堂の壁が、どこか血のような色に見えた。
――文明を掲げるということは、血を流さない戦争を宣言することだ。
その覚悟を胸に、藤村は馬車へと乗り込んだ。
*
夜、参謀本部。
義信が軍務局長室で資料をめくっていた。
若干十五歳の彼は、軍学に関してはすでに一部の将校を唸らせる知識を持っていた。
老将の一人が呟く。「文明国家構想……総理は夢想家ではないのか」
義信は顔を上げた。
「夢ではありません。現実です」
「現実だと?」
「文明は、戦争を遅らせる盾になります。
文明国同士の戦争は、“非文明の証”になる。
だから、文明を示すことが抑止力になる」
将官たちは静まり返った。
義信は、言葉を続けた。
「父は軍備を軽んじてはいません。むしろ、軍備を支える“経済の土台”を築こうとしている。
文明が国を豊かにし、豊かさが兵を養う。文明と軍事は敵ではなく、両輪です」
その言葉に、将たちはしばらく沈黙し、それから一人が口を開いた。
「……君の父上は、戦を避けるための“戦略家”なのだな」
義信は微笑んだ。
「そうです。父は、戦わずして勝つ国を作ろうとしています」
*
一方その頃、上野。
東京音楽学校の仮校舎では、ピアノの調律音が響いていた。
新しく搬入された山葉工房製の試作ピアノが、静かに蓋を開けられていた。
木目の美しい外装、まだ粗削りではあるが、音は澄んでいた。
メイソンが鍵盤に手を置き、低音を試す。
「……悪くない。日本の空気に合っている音だ」
伊沢修二は思わず微笑んだ。
「山葉寅楠、やりましたな」
山葉は汗だくのまま、手を拭いながら頭を下げた。
「先生方のご指導の賜物です」
久信が近づき、鍵盤を軽く叩いた。
「この音が、文明の音ですね」
メイソンが振り返る。「その通りです、少年。音楽は、文明が生んだ“心の秩序”です」
そしてゆっくりと付け加えた。
「この音を持つ国は、もう野蛮ではない」
久信はその言葉を胸に刻んだ。
――ナイルの影の反対側には、音の光がある。
*
翌週、開校式。
新校舎の講堂には、花と国旗が飾られ、初等生たちが整列していた。
メイソンが指揮棒を振ると、澄んだ歌声が天井に広がった。
♪「君が代」の旋律が、これまでにない荘厳さを帯びて響いた。
その列の後方で、藤村と三兄弟が静かに聴いていた。
義信は軍帽を脱ぎ、久信は指揮の動きを目で追い、義親は両手を胸に組んだ。
ピアノの音が重なり、子どもたちの声が光となって空へと立ち上る。
藤村はそっと呟いた。
「これが文明の音――人の心が、剣より強く響く音だ」
久信が小さく笑った。
「父さん、いつかこの音が海外でも鳴り響く日が来るでしょうね」
「そうだ。その日、日本は真に“文明国”と呼ばれるだろう」
*
夜。藤村邸の庭には、秋虫が鳴いていた。
縁側で湯呑を手にする藤村の隣に、義親がちょこんと座っていた。
「父さん、文明って音のこと?」
「うん、音もそうだ。でも、文明は“人の心の動かし方”だ」
「心を動かす……」
義親は月を見上げた。
「今日、ピアノの音で泣いてる人がいた。音ってすごいね。誰も殴らないのに、胸が痛くなる」
藤村は静かに笑った。
「それが文明の力だ。銃や剣で人は支配できる。だが、音や言葉で心を動かせる国こそ、真に強い」
義親の小さな瞳が、夜空の星を映した。
「じゃあ、僕も音を作る人になりたい」
「科学でも音楽でも構わん。人の心を照らすものを作れ。それが文明の担い手だ」
遠くで、山葉工房から運ばれたピアノの音がかすかに響いていた。
その音は、まるで新しい日本の胎動のように、秋の空に溶けていった。
十月を目前に控えた白露の候。
秋晴れの空の下、上野公園では新しい建物の工事が進んでいた。
木の香りと漆喰の匂いが混ざり、遠くからは工事を見守る市民のざわめきが聞こえる。
「ここが、音楽学校の本校舎になるのですね」
メイソンが帽子を取って額の汗をぬぐう。
隣では伊沢修二が設計図を広げ、職人たちに指示を出していた。
「日本の木造建築で音響を最適化する――これが試練ですよ」
伊沢の声に、メイソンが頷く。
「西洋のホールより温かい音が響くでしょう」
そのやりとりを見ていた久信が、静かに言った。
「文明とは、輸入ではなく、調和のことだと思います」
伊沢は微笑む。「若いのに、核心を突いていますね」
久信の視線は、工事を続ける大工たちに向けられていた。
木槌の音、糸鋸の響き、それらすべてが一つの旋律のように聞こえた。
――これが“文明の建設音”だ。
久信の胸に、そんな言葉が浮かんだ。
*
一方、京都では別の動きが始まっていた。
七宝工房の煙突から白い煙が立ち上り、炉の中では新たな試作が行われていた。
「温度を一定に保てば、焼きムラがなくなる」
濤川惣助が温度計を見ながら呟く。
その傍らで、並河靖之が手帳に数値を記していた。
「八百度で八分。……義親殿の言う通りだな」
義親は小さな椅子に座り、手を組んで観察していた。
「ねえ、今の青、きれい。海の色みたい」
濤川が微笑む。「君は色を見る目がある。だが、理屈も知っているな」
義親はうなずいた。
「色は光の波の長さで変わるんでしょ? 炎の温度が違えば、ガラスの中の金属が違う光を出すんだ」
並河は息を呑んだ。
「八歳で、そこまで理解しているのか……」
炉から取り出された器は、深海のような青を湛えていた。
光を受けると、表面に金の粒がちらちらと輝き、まるで星空を閉じ込めたようだった。
濤川が感嘆の声を上げた。
「これだ。これが“文明の美”だ」
その後、この技法は「恒温焼成法」として確立され、のちに海外万博で高い評価を受けることになる。
*
同じ頃、浜松では山葉寅楠が夜遅くまで工房にこもっていた。
ピアノの鍵盤の隙間を、ランプの光が照らす。
木の香り、鉄の油、そして夜露の冷気が混ざった独特の空気。
「弦の張りが強すぎる。これでは高音が伸びない」
山葉は調律ハンマーを握りしめ、何度も張力を調整する。
そこに、藤村からの書簡が届いた。
――「文明とは、音を持つ国家のこと」
その一行を読み、山葉は目を閉じた。
「……音を持つ国家、か」
再びピアノに向かい、彼は鍵盤を叩いた。
透明な音が、夜の工房に響く。
静寂の中、その一音がまるで“独立の鐘”のように鳴り渡った。
「この音を、日本中に――いや、世界に届けてみせる」
山葉寅楠はその夜、初めて「輸出」という言葉を口にした。
それは、彼の一生を決定づける夜となった。
*
東京では、藤村が新制度の草案をまとめていた。
机の上には、細やかな文字で書かれた草稿が並ぶ。
文明振興法(案)
第一条 教育・芸術・科学を文明の礎とする
第二条 技術者・芸術家の保護と支援
第三条 外国技術導入の推進と国産化の奨励
第四条 文明産業による国家経済の強化
そこへ陸奥宗光が入室した。
「総理、これは軍事予算とは別枠ですか?」
藤村はうなずいた。
「これは“戦わずして守る”ための予算だ」
陸奥はしばし沈黙し、微笑んだ。
「総理……あなたは剣を抜かずに戦をする方だ」
藤村も笑みを返した。
「陸奥君、戦は戦でも、“心の戦”だ。
文明という武器は、人の心を照らし、国を守る」
*
夜、藤村邸の書斎。
雨音が静かに障子を叩いている。
窓際の机には、三兄弟の描いた世界地図が広げられていた。
義信が線で航路を引き、久信が各国の国旗を書き込み、義親が海に青を塗る。
藤村がその背後から静かに声をかけた。
「どこへ行く航路だ?」
義信「ナイルから、極東へ」
久信「文明の流れを示しています」
義親「世界を青でつなげてるの」
藤村は小さく笑った。
「そうだ。文明は海のように広がる。
どこかで影が差しても、光は必ず届く」
雨が上がり、障子の向こうに月が浮かんだ。
月光は白い紙の上に反射し、ナイルから日本へ引かれた青い線を淡く照らした。
その線は、まるで未来への道筋のように見えた。
*
――翌日、新聞各紙が一斉に報じた。
「藤村内閣、文明国家構想を正式発表」
「音楽と工芸を国家戦略に」
「文明こそ国防――新時代の理念」
街の人々は、見出しを読んで首を傾げた。
「音楽や芸術で国が守れるのか?」
「でも、総理の言葉は不思議と胸に残るな」
その日の夕方、上野公園では音楽学校の生徒たちが小さな演奏会を開いた。
通りすがりの職人、子供たち、そして兵士までが足を止めた。
ピアノの音が風に乗って広がる。
その旋律は、まだ拙く、未熟で――けれど確かに“日本の音”だった。
山葉の試作ピアノが奏でる和音が、夕陽の空に溶けていく。
メイソンが静かに目を閉じた。
「音がある限り、この国は野蛮にならない」
その言葉に、伊沢が静かにうなずいた。
「この音は、ナイルの影を超えた光ですね」
*
その夜、藤村は日記にこう記した。
――「文明とは、剣を持たぬ者の防衛であり、創造である」
――「音楽も、工芸も、科学も、国家の心臓である」
――「ナイルの影に怯える時代は終わった。
我々は、音で、色で、知恵で、未来を守る」
筆を置いた藤村は、静かに窓を開けた。
庭からは秋の虫の声が響いてくる。
ふと、遠くからピアノの微かな音が風に混ざって届いた。
藤村は目を閉じ、その音に耳を傾けた。
それは、帝国主義という闇を切り裂く、
新しい時代の“夜明けの音”だった。