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309話:(1882年・立秋)東西二輪の鼓動

1882年、立秋の陽が京の町を照らしていた。

 近畿州議会の議場には、湿った熱気とともに、長年くすぶってきた不満の声が渦巻いていた。


 最初に立ち上がったのは、京都出身の古参議員だった。白髪を後ろで束ね、扇を鳴らしながら言う。

 「国政は東日本のものになってしもうた。常陰州、江戸州――あの二つばかりが目立ちすぎる。わしら近畿は、いつまで“かつての都”として眺められるだけなんや」


 続いて、大阪商人出身の議員が机を叩いた。

 「先日の閣議で、次の博覧会は近畿で開くと決まった。それはそれで結構や。せやけどな――それだけや。」

 議場が静まる。

 「大阪は今も日本第二の商業都市や。京都の工芸は海の向こうで高う評価されとる。それやのに、中央政府の政策は東ばっかり優先しよる。わしらが求めてるんは“見せかけの栄誉”やあらへん。ほんまの自立や!」


 議員たちはどよめき、机を叩く音が連なった。

 別の議員が声を上げる。

 「このままでは、西日本は取り残される。州制度は平等を掲げたはずやのに、実際は常陰州ばかりが潤うてる。われらは州の名ばかりの存在や!」


 議長が木槌を鳴らしても、議場の熱は下がらない。

 「静粛に! ……本日の議題は、州権限の拡充についてである!」


 その言葉に、近畿州の議員全員が立ち上がった。

 京都・大阪・神戸――三都市の代表が並び、共同提案を読み上げる。


 「本州議会は、以下の三点を中央政府に求める!」


 一、州税率の上限設定を廃止し、各州に完全な税率決定権を認めること。

 二、外国との直接貿易交渉を許可すること。

 三、州間協定を中央の承認なしで締結できるようにすること。


 読み上げられた瞬間、議場は拍手と歓声に包まれた。

 「これでこそ、ほんまの州自治や!」

 「大阪の商人が自由に貿易できれば、日本はもっと強うなる!」


 だが、その熱狂の中にも、冷ややかな視線があった。

 後列に座る学者出身の若手議員が、低く呟く。

 「……それでは国が二つに割れるぞ。」


 彼の声は誰にも届かなかった。

 秋の風が障子の隙間から吹き込み、紙の議案書を揺らす。

 それは、やがて東西の対立の火種となる――そんな予感を含んだ風だった。

 ――同じ頃、常陰州・水戸。

 藤村邸の書斎では、秋の陽が障子越しに淡く差し込んでいた。

 藤村晴人は新聞の見出しを見つめていた。

 《近畿州、中央政府へ権限強化要求を決議》――その活字の黒さが、季節の光に似つかわしくないほど重かった。


 「……来たな」


 低く呟いた声に、背後の陸奥宗光が頷く。

 「はい。早い段階から不満は感じていました。博覧会の開催地が決まった時点で、彼らは“見せかけの優遇”だと受け止めたのでしょう」


 藤村は新聞を机に置き、腕を組んだ。

 「東西の均衡を保つための象徴が、かえって火をつけたか。人心とは難しいものだな」


 「どうなさいますか?」

 陸奥の問いに、藤村はしばし沈黙した。

 そして、ゆっくりと立ち上がる。

 「……久信を行かせよう。彼なら柔らかく話を聞き出せる」


 「ですが、近畿州議会は今、沸騰状態です。少年が行っても――」

 「だからこそだ。彼は“中央の官僚”ではない。どこの派閥にも属していない。相手にとって、最も受け入れやすい顔だ」


 藤村は窓辺に立ち、庭の槙の木を見た。風が葉を鳴らしている。

 「陸奥、我々が今必要なのは、議論ではなく共感だ。近畿の人々に“聞いてくれる相手がいる”と感じさせることだ」


 陸奥は頷いた。

 「承知しました。小村(壽太郎)を随行させましょう。財務関係の資料も整えておきます」


 「それと……」藤村は軽く笑った。「義親にも資料を見せておけ。あいつの目は面白い数字を見つける」


 「八歳の子に財政資料を?」

 「彼は数字で物を考える。時に、我々の“常識”より正確だ」


 陸奥は肩をすくめ、「了解しました」とだけ答えた。


 ――翌日。

 久信は兄の義信と共に、早朝の列車に乗り込んだ。目的地は大阪。

 窓の外を流れる風景は、稲の穂がわずかに色づき始めた初秋の日本を映していた。


 「父上は、僕に“共感を示せ”と言った」

 久信はノートを開き、州議会の議事録を読み返していた。

 「でも、僕は政治家じゃない。どうすればいいんだろう」


 義信が肩を軽く叩いた。

 「お前のやり方でいい。相手が話したいことを全部聞け。戦場でも外交でも、聞く耳を持つ者が一番強い」


 「兄さんは……近畿の人たちをどう思う?」

 「誇り高い人たちだ。だが、それが時に自分を縛る。俺たち常陰州も同じだがな」


 車窓の向こうで、富士の影が霞の中に沈んでいった。

 久信は静かに筆を走らせる。

 《誇りは力にもなり、壁にもなる》――その言葉をノートの端に記した。


 ――大阪。

 列車が停まると、街の熱気が一気に押し寄せてきた。

 行き交う人の声、商人の呼び声、川沿いの屋台から立ちのぼる蒸気。

 江戸や水戸とはまるで違う、どこか“生き物のような”街の脈動。


 久信は息をのんだ。

 「……すごい。まるで街全体が呼吸してるみたいだ」


 義信が笑った。

 「これが近畿の力だ。口より手が動く。理屈より勘。俺は好きだよ、こういう街。」


 二人を出迎えたのは、近畿州の副知事・山科忠右衛門。

 四十代半ば、鋭い目つきの実務家だった。

 「藤村総理のご子息か。ずいぶん若い使者を寄こされたものですな」


 皮肉を込めた挨拶。だが久信は一歩も引かなかった。

 「はい。若いからこそ見えることもあります。お話を伺いに参りました」


 山科は一瞬、目を細めて笑った。

 「……なるほど。言葉遣いは丁寧だが、芯は強い。よろしい。まずは州議会へ案内しましょう」


 州議会の廊下には、近畿の伝統工芸が並べられていた。金襴の屏風、奈良の漆器、堺の刃物。

 そのどれもが手入れの行き届いた輝きを放っている。

 久信はそれを見て、思わず呟いた。

 「美しい……でも、どれも“時が止まっている”ようだ」


 山科が振り返った。

 「止まっている、とは?」

 「新しい人の手が入っていない。職人の数が減っているでしょう」


 山科は驚いたように眉を上げた。

 「よく見ておられる。確かに若者が継ぎたがらんのです。儲からぬ商いは衰える一方。だからこそ、我々は自立の権限を求めている」


 議場に入ると、議員たちの視線が一斉に二人に注がれた。

 中には露骨に冷笑する者もいる。

 「中央の坊ちゃんか」「見世物やな」――小声の嘲りが響く。

 だが久信は、礼を失わず静かに一礼した。

 「本日は、皆様のお話を伺いに参りました。どうか、率直にご意見をお聞かせください」


 議員の一人が立ち上がる。

 「話すも何も、中央が聞く耳を持たんのや。権限も金も、すべて東に吸い取られる。われわれが汗を流しても、最終決定は東京――いや、江戸州と常陰州の机の上や」


 別の議員が続ける。

 「このままでは、近畿の誇りが立たん。われらは“旧都”やのうて、“現代の西都”として立たねばならんのや!」


 熱を帯びた言葉が飛び交う。

 久信はノートを開き、一言も逃さず書き取った。

 義信はその隣で静かに様子を見ていたが、やがて口を開いた。

 「近畿の誇りは分かります。ですが――誇りは、民の生活を支えていますか?」


 議場が一瞬、凍った。

 「……どういう意味や?」と年配議員が睨む。

 「町を歩きました。港は古く、設備は錆びついていました。職人の手は素晴らしいが、若者が消えている。誇りを掲げるのは結構ですが、それだけでは腹は満たされません」


 その言葉に、一部の議員がざわめいた。

 だが久信がすぐに頭を下げる。

 「兄の言葉がきつく聞こえたならお許しください。私たちは敵ではありません。問題の根を一緒に探したいのです」


 議長席の男が静かにうなずいた。

 「言葉の刃より、誠実な沈黙のほうが効くこともあるな。よかろう。では明日、実際の現場を見せよう。君たちに、近畿の“現実”を知ってもらう」


 ――翌朝。

 二人は山科に案内され、神戸港を視察した。

 そこには、錆びついたクレーンと傾いた倉庫。外国船はほとんど停泊していなかった。

 久信はノートを開きながら、静かに尋ねる。

 「修繕の予算は?」

 「国からの配分が少ない。ここ五年、常陰州の港湾整備に回された額の三分の一以下だ」


 久信は眉を寄せた。

 「数字で見ると――確かに差がある」


 義信が港の端に立ち、海風を受けながら言った。

 「このままでは、近畿州は商業の心臓を失う。港は国の血流や。流れが止まれば、州全体が衰える」


 山科は黙って頷いた。

 「我々が“権限を”と言うのは、誇りのためだけではない。生き残るためだ」


 久信はペンを止め、真剣な眼差しでその顔を見つめた。

 「……分かりました。近畿州が求めているのは“独立”ではなく、“自立”ですね」


 山科の目がわずかに和らぐ。

 「その通りや。よう分かっとる坊ややな」


 ――夕暮れ。

 宿に戻った久信は、父への報告書をまとめていた。

 窓の外で暮れなずむ大阪の街。提灯の明かりが川面に揺れ、橋の上では商人たちが一日の売り上げを笑顔で語り合っていた。

 彼はその光景を見つめながら、筆を止めた。

 「……人の熱は、中央の命令では作れない。ここには、ここだけの息づかいがある」


 その言葉をノートに書きつける。

 ――“中央が支えるのではなく、共に立つ”


 それが、久信が近畿の街で掴んだ最初の答えだった。

――翌日、近畿州議会。

 議場の天井には金箔の装飾が施され、古都の誇りを映していた。

 だがその輝きの下、議員たちの顔には険しさが漂っている。

 今日の議題は「中央政府から派遣された藤村久信使節による、近畿経済再建案」。

 壇上に立つのは、わずか十四歳の少年――だが、その視線は一人前の政治家のようにまっすぐだった。


 「本日は、私の考えを述べさせていただきます」

 久信は深く一礼し、ゆっくりと口を開く。

 「近畿州が中央政府に権限強化を求めた理由、すべて拝見しました。

  しかし――私はこう考えます。近畿州が真に求めているのは“独立”ではなく、“再生”です」


 議場にざわめきが走る。

 老議員が低く唸った。

 「再生だと? 我らが滅びたとでも言うのか」


 久信は首を横に振った。

 「滅びではありません。むしろ、他州よりも多くの可能性を持っています」

 彼は机上の書類を広げた。

 そこには義親が作成した統計が並んでいた。

 「近畿州の人口密度は全国二位。商業登録数も江戸州に次ぎます。

  しかし、港湾投資額は全国七位。道路整備は九位。

  “人と技術”はあるのに、“血を流す管”が詰まっている状態です」


 議員たちは資料を覗き込み、思わず息を呑んだ。

 若い技術官僚たちが後方で頷き合う。

 「つまり君は、金が足りんと言いたいのか?」

 「はい。しかし、それは単なる要求ではありません。――“投資”です」


 久信は一歩前へ出て、声を張った。

 「中央政府は、近畿州に五年間の集中投資を行います。

  対象は三つ――大阪・神戸の港湾近代化、京都の文化保護、そして西日本産業連携の推進です」


 会場がざわめいた。

 数字が書かれた紙を掲げる。

 「予算総額は、年間百五十万両相当。これは常陰州での港湾整備の二倍に当たります」

 議員の何人かが立ち上がり、どよめきが走る。

 「そんな巨額を……」

 「本気か……」


 久信は頷いた。

 「本気です。藤村内閣は“東西二輪”を掲げています。

  常陰州が北関東を支えるように、近畿州が西を支える。

  それが均衡の国家――“双軸日本”の形です」


 その言葉に、賛同の拍手がまばらに響いた。

 だが、老議員たちの中には冷たい目を光らせる者もいた。

 「……坊や、立派な演説や。けどな、我々が求めているのは“金”やない。

  誇りや。権限を中央に握られたまま、金をもらってどうする」


 久信は、静かに目を閉じた。

 「――誇り。それは確かに尊いものです」

 彼は深く息を吸い、再び口を開いた。

 「ですが、飢えた子供を前に“誇り”だけでは救えません。

  港で働く労働者の指は、明日を待たずに荒れています。

  船が来なければ、誇りも職も失われます。

  私は、誇りを“守るために”金を使いたいのです」


 議場が静まり返った。

 沈黙の中で、誰かが椅子をきしませる音だけが響く。

 その静寂を破ったのは、山科副知事だった。

 「――久信殿。あなたの言葉、確かに胸に響きました。だが一つだけ問いたい。

  その投資、誰が決め、誰が使うのです?」


 久信は即座に答えた。

 「州議会が決めます。中央は条件をつけません。予算だけを渡し、責任は州にあります」

 「責任も……州に?」

 「はい。結果が出なければ、次の年の投資は打ち切りです。つまり――挑戦権と同時に、責任を渡す」


 山科の眉がわずかに上がる。

 議員たちも再びざわついた。

 「挑戦権……責任……」

 「まるで商人の契約みたいやな」

 「悪くない。自分らの腕で立てる」


 だがその空気を断ち切るように、別の声が響いた。

 「待て! それは“餌”や! 中央が金で我々を飼い慣らそうとしているだけや!」

 立ち上がったのは、強硬派の老議員・藤堂。

 白髪交じりの頭を振りながら叫んだ。

 「誇りを金で買えると思うな! 我らは長年、“東”に支配され続けてきた! 今度こそ、独立した経済圏を築く!」


 その声に、数人が「そうだ!」と拳を上げる。

 議場の熱が一気に荒れた。

 「中央は我々の税を吸い上げ、港の投資を後回しにした! 今さら“援助”だと? 笑わせる!」

 「わしらは施しを求めているんやない! 権限や!」


 ざわめきの中で、久信は壇上から一歩も引かなかった。

 義信が立ち上がり、弟を支えるように前に出た。

 「では問います」義信の声が、低く議場に響く。

 「あなたがたは、中央と戦うつもりですか? 戦って勝てるだけの準備があるのですか?」

 「なにを……!」

 「港は老朽化し、財政は赤字。職人の若手は減少。――今のままで独立経済圏など夢物語です」

 議場が凍りつく。

 「だが、私たちは敵ではない」義信の声が和らぐ。

 「我々は、あなた方を利用するためではなく、共に立たせるために来た」


 沈黙の中で、久信が再び前に出た。

 「誇りを奪う気はありません。ただ、“誇りが消えぬための現実”を支えたいのです。

  これは“施し”ではなく、“契約”です。――近畿が立てば、日本が立つ」


 山科副知事が、静かに立ち上がった。

 「……採決に入りましょう」

 木槌の音が響く。

 「賛成の者、起立を」


 多数の議員が立ち上がった。

 「反対の者は」

 数十人の議員が、ゆっくりと残ったまま椅子に腰掛けていた。


 結果――賛成六割、反対三割強、棄権わずか。

 可決。だが完全な勝利ではない。


 議場を出た廊下で、久信は小さく息を吐いた。

 「……勝った気がしない」

 義信が頷いた。

 「当然だ。彼らの誇りは、数字では測れない。投資が始まっても、不満は消えないだろう」


 「それでも……」久信は拳を握った。「聞いてもらえただけで、前進です」


 その夜、藤村邸宛に電報が届いた。

 《近畿州議会、再建案可決。ただし反対勢力根強し。詳細報告後送》。

 報せを受けた藤村は、机の上で目を閉じた。

 「……やはり、完全な解決はないか」

 陸奥が静かに言った。

 「しかし、近畿は動きました。止まっていた歯車が、少しずつ回り始めた」


 藤村は微笑んだ。

 「それでいい。すべてを解くことが政治ではない。――火を消さず、灯に変える。それが統治だ」


 外では、鈴虫の声が鳴き始めていた。

 立秋。

 風はわずかに涼しく、しかし、東と西の熱は、静かに燃え続けていた。

近畿州議会での採決から三日後。

 大阪の街は、早朝から湿った風に包まれていた。

 立秋――暦の上では秋だが、地の熱はまだ冷めきらない。

 道頓堀では、商人たちが慌ただしく木札を掲げ、新しい契約書を交わしていた。

 「久しぶりに中央が本気を出したな」「港が動きゃ金も回る」

 そんな声が飛び交う一方で、裏通りの茶屋では別の噂が囁かれていた。

 「坊主一人に、州議会が折れた」「いや、折れたふりをしただけや」

 「次は“西日本連合”を作るらしいで」


 その噂は現実となった。

 近畿州知事・松永惣右衛門は、京都・大阪・神戸の有力者を集め、極秘裏に会議を開いた。

 議題はただ一つ――“中央に対抗しうる西日本経済圏”の創設である。


 松永は机に手を置き、低く言った。

 「我々は、中央の施しを受けた。それは事実や。だが、それで満足しておれるか? ――否や」

 「否!」 という声が室内に響く。

 「常陰州が東の要となるなら、我らは西の矢となろう。四国、山陽、東海……呼びかけるのだ。西の誇りを取り戻すために」


 その言葉は火のように広がった。

 まず応えたのは四国州。

 讃岐の商人代表が電報を打った。

 《西日本協力構想、賛成。物資輸送および港湾整備に参加を希望》

 続いて山陽州も動いた。

 《306話の支援感謝。近畿との連携を望む》

 そして東海州からも、やや慎重な返信が届く。

 《検討中。ただし経済協力に限り前向き》

 西日本の地図上に、新しい線がゆっくりと引かれようとしていた。


 一方、東京――常陰州議会。

 東の議員たちは新聞を広げ、眉をひそめていた。

 「“西日本経済協力会議”発足? これは、実質的な反中央運動ではないか!」

 「藤村政権はどう対応するつもりだ」

 議場が騒然とする中、財務相・榊原は静かに言った。

 「焦ることはありません。対立ではなく、競争です」

 「競争?」

 「彼らは国家を離れる気はない。ただ、中央と対等に渡り合いたいのです。それが、藤村総理の望んだ姿です」


 その頃、首相官邸の庭では、藤村晴人が静かに筆を走らせていた。

 “地方自治と国家の均衡に関する覚書”――新たな統治指針の草案だった。

 陸奥宗光が歩み寄る。

 「近畿州、動きが速い。西日本経済協力会議、正式に発足したようです」

 藤村は筆を止め、淡く笑った。

 「予想どおりだ」

 「静観なさるおつもりで?」

 「静観ではない。“育成”だ」


 藤村は窓の外を見た。

 風に揺れる若竹の葉が、光を反射している。

 「この国は、長らく“中央がすべて”という錯覚に囚われてきた。

  だが、それでは民は依存し、地方は衰える。

  今、近畿が挑戦しようとしている。常陰と競い合いながら、己の形を作ろうとしている。――それでいい」


 陸奥は静かに頷いた。

 「しかし、火種は残ります」

 「火は必要だよ、宗光。国家に必要なのは、完全な調和ではない。緊張と均衡だ。

  すべてを解こうとすれば、国はぬるくなる。だが、火を残せば、人は動く」


 その頃、久信は官邸の別室で電報を見ていた。

 《近畿州投資案、可決/西日本経済協力会議発足》

 「……結局、反発は残りました」

 義信が椅子に腰かけ、肩をすくめた。

 「それでも悪くない結果だろう。お前の演説で“敵”が減った」

 「敵は減ったけど、火種は増えました」

 久信の声には、十四歳とは思えない疲労が滲んでいた。

 「父上は、それを分かっていて……この結果を選ばせた気がします」


 義信は笑い、立ち上がった。

 「お前、父上に似てきたな。いつのまにか、“正しさ”より“均衡”を見ている」

 「……皮肉ですか?」

 「褒めてる」


 そこへ、義親が駆け込んできた。

 「お兄ちゃん! 新聞! “近畿、東に挑む”だって!」

 久信が受け取ると、見出しには大きく書かれていた。

 《近畿州、博覧会で常陰州に挑戦を表明 西日本経済協力会議も同調》

 「……挑戦、か」

 紙面には知事・松永の声明が載っていた。

 ――「中央政府の経済投資を歓迎する。しかし、我々は常陰州に負けない」

 ――「東と西の健全な競争こそ、日本を強くする」


 久信は新聞を折り、静かに呟いた。

 「……これで、父上の狙いが完全に形になった」


 夜、官邸の庭。

 藤村は灯の下で、三人の息子たちを前にしていた。

 「久信、よくやった」

 「失敗しました。反対派は根強く、彼らは西日本連合を作りました」

 「それでいい」

 「……いい?」


 藤村は湯飲みを置き、柔らかく笑った。

 「この国は、一つの心で動くよりも、二つの力で支え合うほうが強い。

  東と西、理と情、論と芸――その拮抗が文明を作る。

  常陰州と近畿州は、これから互いを意識し、競い合うだろう。

  不満は、向上心の別名だ」


 義信が問う。

 「つまり、対立を止めないのですか?」

 藤村は首を横に振った。

 「対立ではなく、競争だ。

  争わずに並び立ち、互いに磨き合う――それが新しい国家の形だ。

  令和の時代、東京一極集中が日本を歪めた。

  この世界では、中心が複数ある。

  多極こそ、均衡の鍵だ」


 義親が小声で言った。

 「でも、お父さん。火事みたいに燃え広がったら?」

 藤村は竹林の方を見つめた。

 「その時は、風を読めばいい。火を恐れるな。

  火がある限り、国は生きている」


 その言葉に、三兄弟はしばし黙った。

 夜風が涼しく、虫の声が細く響く。

 遠くの空には、雲の切れ間から星がひとつ覗いていた。


 ――藤村はその光を見つめ、心の中で呟いた。

 (完全な安定は、停滞だ。 だが、不完全な均衡は、進化を生む)


 翌朝。

 東京新聞の一面には、大きくこう記されていた。

 《東西二輪の時代、始まる》


 1882年、立秋。

 常陰州と近畿州――二つの心臓が、同じ国の中で鼓動を始めた。

 その鼓動は、まだ不揃いだった。だが確かに、生きていた。

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