308話:(1882年・小暑)小暑の博覧会 ―天才に居場所を―
小暑。川面に反射する光が鋭さを増し、常陰州・水戸の空は真昼の青を深めていた。会場は旧藩校跡地と川沿いの練兵場をつなぐ広大な敷地。白砂に仮設の木道が張り巡らされ、各州の旗が風に鳴るたび、鮮やかな紋章が日差しに瞬いた。入口のゲートには大きく「大博覧会――十五州の智と業」の文字。三週間、全国と海外に向けて開かれる、日本初の規模である。
最初のアーチをくぐると、右手は江戸州パビリオン。磨き込まれた鋳鉄のフレームの中で、黒々とした筐体が唸りを上げる。係員が紙束を差し込むと、一時間千枚の速さで白紙がニュースへと変わっていく。紙の匂いと油の匂い、回転軸の微かな震動――人だかりのざわめきは、やがて規則正しい拍手に変わった。
その向かいには近畿州の大屋根。水槽の水が水車を回し、自動織機の杼が左右に走る。絹糸が音を立てて縦横に組まれ、布が帯のように生まれていく。職人が指先で張力を調整すると、布目が一段と揃い、見物客から感嘆の声が上がった。
中央通りを抜けると、蝦夷州の寒冷地農法ブース。黒い土。低いガラス温室。氷を砕いた水を灌いで、寒さに耐える苗を見せる。「風よけ柵」と書かれた杭の列には、北の風土の工夫が詰まっている。東北州は耐病性の穀種、北陸州は金属加工の精密さ、山陽州は造船技術の模型、琉球州は海の交易品と三線の音色――十五州がそれぞれの色で並び、通り全体がひとつの長い交響曲のようだった。
そして、川沿いの一角。木製の低いステージに、簡素な看板が掲げられている。
「複層ろ過システム――出展者:藤村義親(8歳)」
看板の文字は子どもの名を記しながら、どこか凛としていた。
装置は背丈ほどの縦長の塔だ。透明な筒が段ごとに区切られ、上から順に砂利、砂、活性炭、布。塔の根元には陶製の小槽が付いている。脇の小机には、薄い冊子と簡明な図、そしてもう一枚、手書きの札。
「第四段――塩素添加:微量の次亜塩素化合物により細菌を殺菌する。
濃度管理に注意。味・臭気を活性炭層で低減。」
最初の来場者が足を止め、次の来場者が息を呑む。子どもが母親の手を引き、大人が身を屈める。塔の前に立った少年は、黒目がちな瞳で客の列をまっすぐ見渡し、小さな声で、それでもはっきりと言った。
「これが、ぼくの装置です。汚れた水を入れると、ここで大きなゴミを止めて、ここで細かい砂を抜きます。黒い層は活性炭――匂いや色を取ります。それから、少しだけ塩素を足します。最後に布で仕上げて、飲める水にします」
言葉の途中で、実演が始まった。色のついた泥水が上槽に注がれる。観客が身じろぎし、ざわめきが一度、吸い込まれたように止まる。塔の中、砂利の層で流れが緩み、砂の層で濁りが消えていく。活性炭の黒は、光を吸い込む暗い海のようだ。小瓶から慎重に落とされた透明の滴が、滞留する刹那、目に見えない何かを壊していく。最後の布層を抜けると、陶の小槽に澄んだ水が静かに溜まった。
「……透明だ」「においがない」「ほんとに飲めるのか?」
係が用意した試薬で簡易検査を示す。色は安全の合図に振れ、客席から一斉にどよめきが起きた。臨時に設けられた蛇口から、木のコップへ。口をつけた男が目を丸くし、隣の娘も恐る恐る一口――次の瞬間、頬が緩む。笑い声。拍手。誰かが「子どもが作ったのか」と言った。義親は、ただ頷いた。
海外視察団も流れてくる。英語、ドイツ語、フランス語が、暑気の中で涼やかに交錯する。義親は簡単な挨拶を英語で返し、濃度の説明を短いドイツ語で補い、装置の段取りは日本語で丁寧に繰り返した。「にがい匂いは活性炭が消します」「塩素は多すぎると危険です」「キャンプでも使えます」。彼の声は幼いが、図の線は大人のように正確だった。
通りの端。藤村晴人は人垣の外から、そっとその様子を見ていた。白砂の上に伸びる義親の影は、まだ小さい。だが装置の塔と重なると、不思議と同じ高さに見えた。父親は息を潜め、拍手せずに、ただ目を細める。ここは彼の舞台だ――そう思ったからだ。
「総理、各州の来賓が控室へ」と陸奥宗光の声。
藤村は短く頷き、もう一度だけ息子の背に視線を投げた。義親は、質問攻めにも怯まず、指先のインクを気にも留めず、淡々と答えている。水は誰にとっても必要だ――その単純な真理が、彼をまっすぐ立たせていた。
正午の合図。鐘が三度鳴り、広場中央の舞台に各州の旗手が整列する。司会役が開会の辞を述べ、太鼓が鳴り響く。「十五州の知恵は、海の波のように互いに響き合い、山の稜線のように互いを引き立てる」――少し気取った言い回しに、笑いが散った。けれど、会場の空気は確かに一つになっていた。
午後、江戸州の印刷機が特設号外を刷りはじめた。「常陰の少年、清水を生む」「ろ過塔、熱狂」。紙束は瞬く間に捌け、手にした客がその場で読み、近くの見知らぬ誰かに渡す。言葉は紙を媒介にして、会場全体に波紋を広げていく。近畿州の織機が生む布は、陽に透けると鳩羽色に見え、蝦夷州の温室は子どもたちに人気を博した。砂糖菓子の屋台は長蛇の列。遠くからは三線と囃子、そしてどこかで聴いた讃美歌の旋律まで混ざって聞こえる。
義親は、手元の筆記に一瞬だけ目を落とした。紙の端に、いくつかの数字が並ぶ。有効塩素量、接触時間、活性炭の交換周期。それを見て安心し、また顔を上げる。質問の矢継ぎ早に、短く、正確に、嘘がない返答。ときどき言葉を探して黙るが、その沈黙に焦りはない。沈黙の中で、彼は考えている――より良くするために。
夕刻、空の青が薄くなる頃、海外視察団の一行がふたたび戻ってきた。紺の上着をきちんと着込んだ中年の男が、塔の図面を覗き込み、独り言のようにドイツ語で呟く。「残留の臭気は……」「味の調整は……」。義親は聞き取り、短く答え、指先で層の厚さを示した。二人の会話はやがて、周りのざわめきから自然と独立する小さな円になった。通じている――言葉だけでなく、対象に対する敬意が。
西の空に朱が差す。川面を渡る風が少し涼しくなり、旗が柔らかに揺れた。義親はコップを洗い、塩素瓶の蓋を確かめ、塔の脚に手を当てる。木の温度が掌に残る。今日だけで、何度この塔に触れただろう。これはぼくの城だ――小さな胸の内で、そんな言葉が一瞬だけ浮かび、彼は照れくさくなってすぐに追い払った。
「本日の公開はここまででございます!」係の声が木道を走り抜け、拍手とため息が混ざる。装置の前に残ったのは、飾り気のない塔と、インクで黒くなった少年の指と、白砂に刻まれた足跡。夜の照明が点き始め、遠くのパビリオンが金色に輝いて見えた。初日の熱は、確かな手応えへと変わりつつある。
帰りがけに、藤村晴人は足を止め、振り返った。白砂の上で、義親が塔に軽く会釈している。誰にも見られていない、子どもめいた仕草。父はその背中に、温かいものと、微かな痛みを同時に覚えた。この背を守るのは、国ではなく、まず家族だ――そう胸の中で言葉にして、歩を進めた。
日が落ち、川風が心地よい冷たさを帯びる。水戸の町は臨時の提灯で明るく、屋台の湯気に笑い声が混じる。どの顔も、今日という日をそれぞれの形で祝っていた。十五州の旗は夜の空気の中でもはためき、白砂の上には、明日へ続く道がはっきりと伸びていた。天才の塔は、今夜も静かに立っている。明日もきっと、誰かの喉を潤すために。
博覧会二日目。朝の光は柔らかく、昨日の熱気を少し冷ましたようだった。
義親の展示台の前には、また人だかりができていた。
だが――昨日と違ったのは、そこに笑顔が少なかったことだ。
「子供の遊びじゃないのか?」
「まあ、父親が手を貸したんだろう」
そんな声が、大人たちの口からこぼれた。義親はそれを聞いていないふりをした。
手元のビーカーを両手で包み、装置のバルブをゆっくり開ける。水が流れ、層を抜けていく。昨日と同じ透明な水が、今日も静かに下槽へと溜まった。
「ほら、濁ってた水が、こんなにきれいになりました」
声ははっきりしている。だが、大人たちは頷くだけで通り過ぎていく。
隣のブースでは、近畿州の技師たちが自動織機の新機構を囲み、職人同士で楽しそうに談笑していた。江戸州の印刷技師たちは紙を配りながら、酒場の約束をしている。蝦夷州の農学者たちは、夜に「共同研究の打ち合わせをしよう」と笑っていた。
義親は、自分のまわりだけが音の届かない硝子の中にあるように感じた。
(みんな、仲間がいる……)
昼を過ぎると、陽が強くなり、来場者の列がさらに伸びた。少年は汗を拭う間もなく説明を続ける。だが、どれだけ説明しても――返ってくるのは、「へえ」「立派だね」だけだった。
彼は気づいた。
自分が見ているものと、彼らが見ているものは違う。
彼らは「水の変化」を見ている。
義親は「仕組み」を見ている。
理解してほしい。
でも、伝わらない。
――その時。
背後で低い声がした。
「Entschuldigung…(失礼、これは塩素殺菌ですか?)」
ドイツ語。
義親の瞳がわずかに揺れた。
「Ja, es ist chemische Desinfektion.(はい、化学的殺菌です)」
振り向くと、白髪まじりのドイツ人科学者が立っていた。
灰色の瞳は真剣そのもので、義親の答えをただの子供の受け売りとは見ていない。
「塩素濃度は? pH値は?」
「0.5ppmです。中性域で処理しています。塩素の匂いは活性炭で吸着します」
「ふむ……」科学者は唸り、図面を指差した。
「この部分、流速が速すぎる。接触時間を延ばせば、より安定する」
義親は目を輝かせ、即座にメモを取った。
「ありがとうございます。そうすれば残留塩素も減りますね」
「君は何歳だ?」
「八歳です」
科学者は一瞬、言葉を失ったが、すぐに笑みを浮かべた。
「驚いた。私の国にも、これほど論理的に話す子供はいない。――君は天才だ」
義親の胸の奥が熱くなる。
誰かに「天才」と言われたことなど、一度もなかった。
父からは「努力しろ」、兄からは「危ないことをするな」としか言われてこなかった。
初めて、同じ目線で話してくれる人がいた。
理解してくれる人がいた。
「Danke schön…(ありがとうございます)」
「いや、こちらこそ。君のような少年がいれば、この国の未来は明るい」
科学者はそう言い、帽子を軽く掲げて立ち去った。
義親はその背中を、長く見送っていた。
夕暮れ、空が金色に染まる中、義親は塔の横に座り込んだ。
昼間の喧噪が去った会場に、カラスの鳴き声が響く。
指先についたインクの黒が、妙に大人びて見えた。
(僕にも、ちゃんと話してくれる人がいる)
(でも――その人は、明日には帰ってしまう)
喉の奥が、少し痛くなった。
風が吹く。白砂が舞う。塔の影が長く伸びて、少年の足元を包み込んだ。
――彼はまだ八歳だった。
だが、胸の中に宿った孤独は、大人のそれに近かった。
その夜、博覧会の灯がすっかり落ちたあと、義信は弟の展示台の前に立っていた。
昼間の喧噪が嘘のように静まり返った会場。照明の残光が、ろ過装置の透明なガラスをほのかに照らしている。
バルブの中には、まだわずかに澄んだ水が残っていた。
その水面には、義親の小さな手の跡が残っている気がした。
「……すげぇもん作ったな」
義信は呟いた。けれど、その声には誇らしさよりも、どこか切なさが混じっていた。
彼は思い出していた――昼間、説明を続ける弟の姿。
懸命に笑顔を作っていた。だが、あの笑みはどこか作り物のようだった。
観客が去った瞬間、義親がほんの一瞬、俯いた。その時の沈んだ目が、頭から離れなかった。
「義信兄さん、まだいたんですか?」
声のした方を振り向くと、久信がランプを手にして立っていた。
「お前こそ。弟の展示が気になるのか?」
「……ああ。今日、ずっと一人で説明してた。誰も、まともに話してくれなかった」
久信は少し考え、静かに頷いた。
「義親は、まだ八歳だ。でも、頭の中では僕らより先を走っている。だからこそ、周りと話が合わない」
「天才ってのは、孤独なんだな」
「うん。でも――放っておけば、孤独は病気になる」
二人は展示台の前に並んで立ち、しばし無言で装置を見つめた。
義信がバルブを軽く回すと、ポンプの音がかすかに鳴り、澄んだ水が流れた。
その音が、まるで弟の息づかいのように感じられた。
「……明日、俺たちも一緒にブースに立とうか」
「いい考えだね」
「でも、俺たちがいたら、客が気を遣うかな?」
「そんなことない。義親は、“兄たちが自分を見てる”だけで違うはずだ」
久信はランプの光を少し高く掲げた。
柔らかな光が装置を透かし、水槽の中に小さな気泡が立ち上る。
「きれいだな……」
義信が呟く。
「うん。まるで、義親の心みたいだ」
久信の言葉に、義信は苦笑した。
「お前、詩人みたいなこと言うな」
「そうかもしれない。でも、本当にそう思うんだ。
あの透明な水の奥には、誰にも見えない想いがある」
――その頃、義親は自室でノートを開いていた。
薄いランプの光の下、今日の改良案を描き込む。
ページの端には、小さな文字が並ぶ。
《理解されないことは、悲しい》
《でも、理解してもらう努力をやめたら、もっと悲しい》
その筆跡は幼いが、震えひとつなく整っていた。
彼は机の上のビーカーを手に取り、残っていた透明な水をそっと覗き込む。
ランプの灯が水面に反射し、まるで遠い星のように瞬いた。
(今日、ドイツの先生が言ってた……“君は天才だ”って)
(でも……僕、本当は、誰かと遊びたいだけなんだ)
義親はノートを閉じ、窓の外の闇を見つめた。
博覧会の旗が夜風に揺れている。
誰もいない闇の中で、その音だけが優しく耳に届いた。
彼の胸の奥で、小さな寂しさが静かに波紋を広げていった。
それは、まだ言葉にならない――八歳の孤独の形。
博覧会最終日、朝の光が水戸の空を包んでいた。
梅雨の晴れ間、蒸気のように湿った空気の中、常陰州会場には再び大勢の人々が詰めかけている。
だが今日は、少し違っていた。
義親の展示台の脇に、義信と久信が並んで立っていた。
二人の背丈が義親の小さな体を包み込むように、左右に位置している。
観客が近づくと、義親が一歩前に出た。
「こちらが僕の作った、複層ろ過装置です」
「水をきれいにするの?」
「はい。五段階でろ過し、塩素で細菌を殺菌します」
義信は後ろでそっと見守り、久信が時折フォローを入れる。
兄たちが一緒に立つだけで、周囲の視線が変わった。
「この子が作ったのか?」「本当に八歳?」と、驚きと敬意が混じる声が上がる。
義親は少し照れながらも、前よりずっと自然に笑っていた。
「お兄ちゃんたちがいるだけで、勇気が出る」
そう呟く彼の声は、観客のざわめきに消えたが、義信にはしっかり届いていた。
午前の部が終わり、人波が少し落ち着いたころ――
ドイツの科学者が再び訪れた。
「ハロー、マイスター・ヨシチカ!」
義親が思わず笑った。「こんにちは、先生!」
科学者は藤村家の三兄弟を見渡して言った。
「優れた頭脳も素晴らしいが、こうして支える家族がある。これが何よりの財産だ」
その言葉に、藤村晴人の胸が少し熱くなった。
午後、閉会式の壇上で藤村総理が演説を行った。
「この博覧会は、技術の進歩を示しただけではない。
互いの努力を認め合う――その心こそ、文明の根幹だ」
会場の人々が静まり返る。
藤村は、壇上から義親の小さな姿を探す。
人の波の中に、兄たちに囲まれた小さな影があった。
「特に、若き発明家・藤村義親の成果は注目に値する。
だが彼は、ただの“天才少年”ではない。
家族と共に成長し、人として学んでいる。
――それが、我が国の未来を創る姿だ」
拍手が沸き起こる。
義親は驚いたように目を丸くし、それから静かに頭を下げた。
式が終わり、夕陽が会場を金色に染めるころ。
三兄弟は肩を並べて歩いていた。
久信が言う。「父さん、見てたね」
義信が笑う。「まったく、あの人は人前で褒めるのが下手だ」
義親は少し俯いてから、ぽつりと呟いた。
「僕、あの言葉、ちゃんと聞こえたよ」
「どの言葉?」
「“人として学んでいる”って」
義信と久信が顔を見合わせ、そして笑った。
「当たり前だ。お前は俺たちの弟なんだから」
その晩、藤村邸の縁側。
義親は兄たちと並んでスイカを食べていた。
遠くで蛙の声がする。
昼間の喧騒が嘘のように、静かな夜。
「父さんが言ってた“遊びの日”って、来週から?」
「そうだ。お前、何したい?」
義親は少し考えたあと、いたずらっぽく笑った。
「川で実験してもいい?」
義信が笑いながらスイカの種を飛ばす。「それ、もう遊びじゃないだろ!」
三人の笑い声が夜風に溶けていった。
月明かりの下、縁側の影がゆるやかに重なり合う。
――藤村晴人は、障子越しにその光景を見つめながら、静かに息をついた。
(才能よりも、大切なものを守れた気がする)
(この家には、孤独を癒す灯がある)
彼は筆を取り、執務日誌に一行書き込んだ。
《天才に必要なのは賞賛ではなく、居場所である》
その筆跡は揺らぎもなく、力強かった。
夜更け、風鈴が鳴った。
義親の部屋からは、もう寝息が聞こえる。
新しい夜が、静かに流れていった――。