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32話:教育と銃の夜明け

水戸城内、かつては武士の子弟しか立ち入ることを許されなかった学問所の跡地に、新たな建物が建てられようとしていた。


 朝霧がまだ残る午前、石垣を背に、大工たちが柱を立て、梁を組み、藩士たちがそれを手伝っていた。驚くべきは、そこに町人や農民の若者も加わっていたことだ。


 「これが“啓学館”か……」


 藤村晴人は立ち止まり、建設中の建物を見上げた。


 まだ壁も屋根もないが、すでにその骨組みには“志”が宿っていた。ただの学舎ではない。“誰でも学べる場”という、前代未聞の思想が形になり始めているのだ。


 「旦那、こっちの柱、もう少し左ですかね」


 声をかけてきたのは、銃製作にも関わっていた職人・伊三次だった。墨壺を手に、真剣な目で木の歪みを見つめている。


 「うん、もう一寸。……目が良くなったな」


 「鍛冶で材料見てるうちに、自然とですね」


 屈託のない笑みに、晴人は微笑を返す。


 この啓学館の計画は、火薬と銃の製造が思わぬ形で“教育”の必要性を炙り出したことから始まった。


 爆発事故、ねじの不具合、火薬量の不統一――それらの原因を突き詰めると、すべて“知識の欠如”に行き着いたのだ。


 技術は、学ばねば継げない。思いつきや勘では、いつか命を落とす。


 それは、火薬を扱う現場だけでなく、町の商人や農民、そして子どもたちにも等しく言えることだった。


 「誰もが学べる場を作る」


 そう公言した晴人の提案に、最初は藩内から異論も多かった。


 「農民が学を持って、何になる」


 「身分を越えた教育など、世を乱すだけだ」


 だが、晴人は譲らなかった。


 「乱れるのは、“差別”に胡坐をかいた者たちの都合です。知識を得た民は、国の柱になります」


 その言葉に、最初に賛同したのが土方歳三だった。


 「……教えられる剣も、教えられる知も、すべて“命を守る力”だ。藤村様、俺は、そう思います」


 かつて剣の修練を塾で教えていたという彼は、教えることに強い使命感を持っていた。


 その後、若き町医者の卵、儒学者、数学好きの職人、読み書きそろばんを得意とする町娘たちが次々と名乗り出た。


 こうして、藩の城内に“庶民のための学び舎”――啓学館は誕生したのである。


 


 * * *


 


 完成から一週間後。


 開講の初日、城門前には、老若男女が長い列を作っていた。


 「ほんとに、入れるのかい? 武家じゃねえけど……」


 「俺ん家のガキ、字も読めねえが、大丈夫だろか」


 不安げな声が飛び交う中、門番の武士が一歩進み出た。


 「列を乱すな! まずは名前を書いて提出する。書けぬ者は、声に出して言えばよい。順番に通せ!」


 張りのある声が広がると、ざわめきは秩序に変わっていった。


 晴人は校舎の玄関口に立ち、ひとりひとりに笑顔で頷いた。


 「よく来てくれました。ここでは、誰もが“先生”と“生徒”になれます。あなたが知っていることを、誰かが必要としているんです」


 子どもだけでなく、大人たちも目を丸くしていた。


 中ではすでに授業が始まっていた。


 第一教室では「数字の読み方」。第二教室では「火薬の扱い方と構造」。第三教室では「米蔵運用に必要な記帳と計算」が行われている。


 そして夜には“夜間学級”として、大工、鍛冶屋、商人らが仕事終わりに通ってきた。


 「おう、旦那。今日も“あの機構”の続き、教えてくれよ」


 「わかった。でもその前に、昨日の復習な」


 “先生”として登壇する晴人を見て、子どもたちだけでなく、かつての敵だった者たちも、今や目を輝かせていた。


 


 * * *


 


 ある夜のこと。


 「失礼します、藤村様。今、よろしいでしょうか」


 控え室に現れたのは土方歳三だった。


 その背後には、肩掛け袋を大事そうに抱えた二人の少年が立っていた。


 「こいつら、“教えてほしい”と夜な夜な俺を訪ねてきまして。親に聞いたら、こないだの町の鍛冶場爆発で『知識が足りなきゃ死ぬ』ってことが分かったらしくてな」


 少年たちは真剣な目で、晴人を見つめていた。


 「わかった。預かろう。火薬と銃――それに、国を守るってことの重さを、ひとつずつ教えていこう」


 こうして、啓学館は単なる“教育の場”を越え、“民の力を育てる礎”となっていく――。

昼下がりの教室には、木の机が並び、板の間に座る生徒たちの目が真剣に黒板を見つめていた。


 「火薬とは、単なる“爆発する粉”ではありません。炭と硝石と硫黄――三つの素材が、決まった割合で混ざることで、初めて命を吹き込みます」


 晴人の声が、静かに教室を満たす。


 「混ぜすぎれば暴れ、足りなければ火もつかない。まるで、人の心と同じです」


 墨で書かれた簡素な図を黒板に描きながら、晴人は目の前の職人たちの顔を見渡した。歳はまちまち。中には髭を生やした四十男もいれば、十代の少年もいる。皆、先日の事故を機に、自ら望んでこの“学び舎”へとやってきた者たちだった。


 「この比率、いちいち天秤に乗せるのは難儀だ。けど、目安の“匙”を作っておけば、毎回同じ量を取れるようになる。それを“規格”って言うんだ」


 板書の下に、火薬を計る木製の匙の模型が置かれた。源吉が工房で試作したものである。


 「ほう……それなら、火薬が暴れるのも減るってわけか」


 「おうちでも測りを作ってみっかね」


 ざわざわと声が上がる教室の隅では、若い女職人が目を丸くしていた。


 「……おら、火薬なんぞ怖くて近づけなかっただ。けど……教わったら、ちょっと触ってみたくなった」


 彼女の手は、粗く荒れた指先だった。炭焼きの家に生まれ、読み書きもできないまま奉公に出されていたという。


 だが今は、正面の板書に目を凝らし、自分のノートにひらがなを写し取っている。


 「……“ひ”……“か”……“やく”……」


 つたない筆跡だったが、その一文字一文字には、確かな重みが宿っていた。


 別の教室では、算術の授業が行われていた。


 「三十文で買った木材を、八つに切って、五つ売った。一本いくらで売れば損をせんか?」


 「先生、それは……六文じゃ、足が出るっぺ!」


 「七文だ! 七文で五本売れば三十五文!」


 木札を使った帳面算のやり取りが続く。教師を務めているのは町娘で、読み書きそろばんを近所の子に教えていた経験がある。


 生徒は商人、農民、手代、職人の卵……身分も年齢もバラバラだ。


 だが、机を並べ、同じ問題に頭を悩ませるその姿には、どこか“家族”にも似た一体感があった。


 その廊下の窓越しから、土方歳三が静かに覗き込んでいた。


 「……よく、ここまで育てましたな、藤村様」


 「……いや、彼ら自身が、学ぶ覚悟を決めたからこそです」


 晴人は、窓の外で薪を割る少年たちを見つめた。


 昼食を終えた生徒が、当番制で校舎の維持に努めているのだ。学びの場は、教わるだけではない。“守る”“整える”こともまた、教育の一環だと晴人は考えていた。


 そのうちのひとりが、ふと斧を振るう手を止め、晴人たちに向かって手を振った。


 「先生、次の“じゅぎょう”、楽しみにしてます!」


 はにかむ笑顔に、晴人は静かに頭を下げる。


 「“学ぶこと”を、楽しみだと思える。それだけで、人は変われる」


 「剣を握るより、よほど強くなれそうですな」


 土方の言葉に、晴人は微笑んだ。


 「……剣も知も、命を守るためにある。どちらかが欠けても、国は滅びます」


 教室の奥では、ある老職人が、火薬の調合実習を手伝っていた。


 「おい、そこはもっと均等に混ぜろ。見ろ、粉が白すぎる。硝石が多すぎるぞ」


 「す、すんません!」


 かつては“感覚”だけで仕事をしていた彼が、いまや黒板の前に立ち、若者に教えている姿。


 その背中に、誰よりも誇らしい“教師”の風格があった。


 晴人は、そっと胸に手を当てた。


 ここに来てから、さまざまなものを変えてきた。銃も、貨幣も、農業も。


 だが、どんな技術よりも、どんな制度よりも――


 「人の心を変えるのは、“学び”なんだな……」


 そう、実感していた。


 やがて夕刻。灯りがともり、夜間学級が始まる。


 「今日も頼みますよ、先生」


 「今日こそ、引き金の構造を理解して帰ります!」


 晴人は、ノートと板書用の筆を手に、夜の教室へと歩を進めた。


 ――この場所が、“水戸の夜明け”になることを、信じて。

夕暮れが、水戸城下に静かに訪れていた。

 校舎の窓には橙の光が差し込み、教室内の影を長く引き延ばしている。


 「――よし、ここまで」


 晴人が筆を置くと、黒板に向き合っていた生徒たちが、一斉に背筋を伸ばした。

 今日の夜間学級には、火薬の調合を学ぶ若者たちが集っていた。中には、昼も授業に出ていた者もいる。


 「今日の講義で学んだのは、“安全装置”の構造とその意義だ。これは銃の未来を守る技術であり、同時に君たち自身の命を守るものでもある」


 板書には、簡略化された図面がいくつも描かれていた。

 引き金と連動した安全レバー、弾込めの途中で暴発を防ぐ爪、そして火打石を封じる蓋――


 それを食い入るように見つめていたのは、農民の三男坊だった勝之助だった。


 「先生、うちじゃ昔、親父が火縄銃で手ぇ吹っ飛ばしました……あのとき、こんなもんがあったらって……思わずにはいられません」


 「……だから、作るんだ。今度は、自分たちの手でな」


 晴人の言葉に、勝之助は強く頷いた。

 その目は、涙を浮かべながらもまっすぐだった。


 教室の奥では、もう一つの授業が始まっていた。

 そこでは、町娘の文が子どもたちに文字を教えていた。


 「“火薬”って字はね、“火”と“薬”を合わせたの。昔の人は、爆発を薬って考えたのよ」


 「えー!? ばくはつがお薬!?」


 子どもたちの声が、黄昏の空に弾けた。

 文は笑いながらも、手元の紙にゆっくりと筆を走らせて見せた。


 「でも、本当に薬になるの。山を崩すとき、道を作るとき、大地を耕すとき。火薬って、使い方次第で人のためになるのよ」


 「ふしぎだね……」


 「ね、火薬って、ちょっと魔法みたい」


 そんな声が上がる中、晴人は静かに廊下からその様子を見守っていた。


 人は、知識によって恐れを制御できる。

 知らないものは怖い。だが、知れば“使える力”になる。

 子どもたちの表情が、それを物語っていた。


 その夜。啓学館の裏庭では、数人の若者たちが銃の試作品を囲んでいた。


 「こっちの部品、今度は鉄の質を変えてみたんです。鍛冶屋の源さんが、炉の温度を調整してくれて」


 「なるほど。じゃあ、前回より“硬くて軽い”か……?」


 「はい。衝撃の耐久も増えました。それと、握る部分に滑り止めの加工を入れたんです。銃が跳ねるのを少しでも防げるようにって」


 「それはいい発想だ。持ち手の安定性が上がれば、命中精度にも関わるからな」


 笑いが起きたのは、誰かが言った冗談に対してだった。


 「でも、加工しすぎると指が痛ぇって、弾込めのとき文句言われるんですよねぇ」


 「それは贅沢な悩みだな」


 晴人は肩をすくめながら、試作品を手に取り、銃身にそっと目を通した。


 「……よく作ったな。だが、この接合部はもう少し工夫できそうだ。“噛み合わせ”の概念、明日の講義で話すか」


 「噛み合わせ?」


 「……歯車と歯車が、“ずれずに噛み合う”ように、金属の部品も互いを“掴み合う”必要がある。遊びがあると、力が逃げる。逃げた力は、暴発になるんだ」


 「なるほど……」


 誰かがうなった。


 銃という“危険な道具”を、自らの手で扱い、自らの知識で“制御する”という概念は、これまでの水戸にはなかった。


 ――学びが、銃を変えている。

 ――銃が、町を変えていく。


 晴人は、背後に立っていた伊三次に声をかけた。


 「今度、子どもたちにも模型を見せよう。“仕組み”を覚えるのは、早いほどいい」


 「はい、旦那。小さくして、竹で作ってみます」


 若い職人の顔には、かつての不安はなかった。

 そこには“未来に関わっている者”の誇りがあった。


 その夜。晴人は、学舎の片隅で日誌を記していた。


 “教育は力だ。教えることは、支配ではない。自由と責任を授けることだ”


 “火薬も銃も、知識によってこそ道具となり得る”


 “そして、人は学ぶことで初めて、同じ方向を向いて歩き出せる”


 風が、開いた窓から帳面の端を揺らした。

 晴人は筆を置くと、空を見上げた。


 東の空には、明日を告げる細い月が昇っていた。

夕餉の灯が水戸城下を柔らかく包み込む中、啓学館の奥の一室では、密やかな熱が漂っていた。


 晴人は広げられた図面の前に座り、試作品の部品を手に取りながら、何度もその構造を見直していた。火蓋と火薬室を繋ぐ導火部の密閉性に不安があり、これが暴発や燃焼不良の原因となる可能性があった。


 「……やっぱり、この部分はもう一度試す必要があるな」


 そう呟いた時、戸の向こうから控えめなノックの音が聞こえた。


 「入ってくれ」


 扉が静かに開くと、若き職人・伊三次と、文の姿が現れた。伊三次は何やら巻物を抱え、文は帳面と筆を持っていた。


 「旦那、明日の授業に使う“部品模型”、仕上がりました」


 伊三次が巻物を広げると、中から小さな木製の銃機構模型が現れた。子どもたちでも理解できるよう、引き金や火打石の仕組みを分解して動かせるようになっている。


 「これなら、触って学べます。“動く模型”って、楽しいですから」


 晴人はその出来に目を細めた。


 「よくやった。これなら、子どもたちにも銃の仕組みが伝わる」


 文が隣から続ける。


 「それと、先日の授業で子どもたちが書いた“銃についての作文”、持ってきました。見ていただけますか?」


 晴人は帳面を受け取り、めくる。そこには、拙い字で綴られた想いが並んでいた。


 『ぼくは、銃がこわかった。でも、先生の話を聞いて、おもった。おとうさんが山でくまをおいはらったのも、だれかをまもるためだったのかもしれない』


 『火やくはあぶない。でも、先生が教えてくれた。あぶないものこそ、しることがだいじだと』


 ひとつ、またひとつと読み進めるうちに、晴人の胸に小さな熱が灯った。


 「……子どもたちは、ちゃんと見て、聞いて、感じてくれてるんだな」


 文は微笑んだ。


 「はい。最初は“銃なんて怖い”“女の子が学んでも無駄”って言ってた子も、今じゃ質問攻めです」


 その言葉に、晴人は笑みを返した。


 「教える側が、試されてるな……」


 窓の外には、月が高く昇っていた。


 「そうだ、伊三次。君の工房で進めていた“水戸式銃・二号”の試作、あれはどうなった?」


 伊三次は背筋を伸ばした。


 「はい。先ほど、火蓋の調整が終わりまして、明日には初発試験ができると思います」


 「よし……明日の講義後に、藩士たちと一緒に見せてもらおう。彼らにも、君らの工夫を伝えたい」


 その時だった。


 学舎の外で、乾いた破裂音が響いた。


 「ッ……!?」


 三人が一斉に立ち上がる。


 晴人はすぐに窓を開け、外を見下ろした。裏庭の試験場で、数人の若者が動いているのが見えた。


 「……暴発じゃない。意図的な発射だ。夜間に?」


 すぐに下へ降りると、そこには先日入ったばかりの学徒・栄太と数人の若者たちが、煙の立ち上る銃を囲んでいた。


 「先生! す、すみません! でも、どうしても試したくて……」


 晴人は言葉を遮った。


 「銃口を、人に向けるな」


 その声に、場の空気が凍った。


 「火薬も、銃も、知識も。扱う者が未熟なら、それはただの“凶器”になる。……君たちは、“力”を学んでいるんじゃない。“責任”を学んでいるんだ」


 しばしの沈黙の後、栄太が深く頭を下げた。


 「……はい。申し訳ありませんでした」


 その姿を見て、晴人はゆっくりと息をついた。


 「だが、よく作った。照準も、発火も安定している。明日の講義で、“模範例”として取り上げよう」


 若者たちの顔に、再び光が戻った。


 その夜、晴人は再び日誌を開いた。


 “知識は、伝えることで形になる”


 “技術は、試すことで進化する”


 “教育は、未来を描く手であり、過ちを受け止める心だ”


 そう書き記すと、墨を乾かす間に、そっと夜空を見上げた。


 空には、細く長い雲が浮かんでいた。


 それはまるで、これから進む道を照らす“夜の道しるべ”のように、静かに東の空へと延びていた――。

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