第306話:(1882年・立夏)立夏の汚名 ― 州制度の赦し
1882年・立夏。山陽州議会。
蝉の声が早くも混じり始めた午後、議場の空気は熱を帯びていた。
壇上に立つのは、かつて長州藩士の家に生まれた州議・有馬道章。白髪まじりの眉を吊り上げ、議場を見渡した。
「諸君、我々はいつまで“賊軍”の名を背負えばいいのだ!」
ざわめきが広がる。
議場には山陽州各地――山口・広島・岡山――から集まった議員たちが並んでいた。
だがその中心に座るのは、いずれも旧長州の血を引く者たちである。
「幕府の長州征伐で、我らの父たちは敗れた。
毛利家は改易、藩邸は焼かれ、家老も参謀も悉く斬られた。
高杉晋作は処刑され、山縣も伊藤も討たれた。
藩士の妻や子は追放され、名を名乗ることすら許されなかった。
あの屈辱から十七年――誰一人、謝罪もなかった。」
声は震えていた。怒りというより、長年の屈辱に染みついた痛みだった。
「州制度になり、法の上では平等となった。
だが、現実は違う。軍部の採用試験では、山陽州出身者は敬遠される。
“賊軍の子孫に武器を持たせるのか”――そう囁かれる。
子が官に上がれば、“裏切りの血”と陰で笑われる。」
議場の隅に座る若い議員が拳を握りしめた。
「それでも我々は沈黙してきた。敗者に発言権はないと、言い聞かせてきた。
だが、もう十分だ。過去に敗れたのは父たちであって、我々ではない!」
その言葉に、拍手が一斉に起きた。
拍手の中には涙も混じっていた。
敗者としての十数年が、ようやく口を開こうとしていた。
「求めるのは復讐ではない!」
有馬の声が響いた。
「我らは剣ではなく、制度で報いを求める。
差別のない軍、出身を問わぬ官。
それが州制度の理念であろう!」
彼の手が震えていた。
あの日、山口の空が焼け、父が捕らえられ、母が泣きながら家を離れた光景が脳裏をよぎる。
その記憶が、言葉に重みを与えていた。
議場の壁にかけられた地図――“大日本十五州図”――が、午後の日差しに照らされていた。
その中で、山陽州だけが、まるで沈んだ影のように見えた。
「州制度は、過去を超えるために作られたはずだ。
ならば問う――我々の過去は、いつになれば終わるのか!」
議場が静まり返る。
長い沈黙の後、議長がゆっくりと木槌を打った。
「山陽州議会、決議案――軍部採用および官吏登用における出身地差別撤廃を求む――提出を認める」
木槌の音が響いた瞬間、議場の空気が変わった。
それは、敗者の嘆きではなく、敗者の覚醒だった。
十七年を経て、ようやく山陽州が“沈黙の檻”から抜け出した瞬間である。
山陽州議会の決議が可決された翌朝、東京の空は鈍く曇っていた。
春の名残を残す風が、官邸の竹垣を鳴らしている。
藤村晴人は、書斎で一通の報告書を読んでいた。
――山陽州、出身地差別撤廃を正式要求。
文面は端正で、しかし痛切だった。
「旧長州地域出身者に対する軍部・官僚採用差別を是正せよ」と。
藤村は書類を閉じ、しばらく目を閉じた。
(また一つ、時代が動こうとしている)
彼の中には、かすかな痛みがあった。
それは過去の記憶――幕府の長州征伐、焼け落ちた萩城、
泣き叫ぶ子どもたちと、冷たく光る銃剣の群れ。
あの戦で、藤村は会津の官吏として幕府側に立っていた。
戦場にいたわけではない。だが、勝者の報いを知っていた。
(敗れた者がどれほどの屈辱を受けるか――)
その光景が、脳裏に焼きついて離れない。
長州は滅び、毛利家は改易。
伊藤俊介、山縣有朋らは斬首。
高杉晋作も切腹。
民衆は“逆賊の地”と呼ばれ、男は職を奪われ、女は嫁ぎ先を失った。
「勝者の裁きは、時に神より冷たい」
藤村は小さく呟いた。
陸奥宗光が入室し、恭しく頭を下げた。
「総理、山陽州から代表がまいっております」
「代表?」
「はい。――久坂玄瑞と申します」
その名に、藤村の眉が動いた。
「……あの久坂か?」
「はい。十数年前、総理のご決断により処刑を免れ、
松陰先生のもとで教育を受けた青年です」
藤村の脳裏に、一枚の記憶が蘇る。
――長州征伐の最中、戦場で捕らえられた若き志士。
憎悪に燃える瞳で「国を変える」と叫んだ少年。
その命を奪おうとした官僚たちを前に、藤村は静かに言った。
『この若者は殺すには惜しい。未来に使う。吉田松陰殿、預ける。育ててくれ』
あれから十余年。
久坂玄瑞は生き、学び、そして――帰ってきた。
襖が開かれ、久坂が入室した。
四十手前の壮年。痩せた頬に確かな知性の光を宿し、
長州の血が持つ烈しさを静かに抑え込んだ風貌だった。
「藤村総理……いえ、先生とお呼びすべきでしょうか」
久坂は深々と頭を下げた。
「松陰先生から、何度もあなたの話を伺いました。
“未来を見通す目を持つ男”だと。」
藤村は微笑んだ。
「松陰殿にそう言われては、恐縮だな。
して――今回は何を求めに来た?」
久坂は一瞬、ためらい、そしてはっきりと口を開いた。
「我ら山陽州の者たちに、まだ“賊軍”の烙印が残っております。
軍部や官庁では、山口の名を告げた途端、採用を拒まれる。
法では平等。だが、心は未だ封建のままです」
藤村は黙って聞いていた。
久坂の声は震えていなかった。だが、
言葉の一つひとつが血のように熱かった。
「総理。私は、あの征伐の日に見た光景を忘れません。
父も、友も、民も斬られました。
だが――私は、あなたに生かされた。
その命を、今、未来のために使いたいのです。
過去の敵と味方を分ける時代を、終わらせたい」
藤村は、静かに息を吐いた。
(この男は、あの日よりも強くなっている)
「久坂。お前がその志を貫くならば、私は支えよう。
だが、覚えておけ。
この国では“赦す”こともまた、勇気が要る。
過去を断罪するより、赦し合うほうが、よほど痛みを伴う」
久坂は深く頷いた。
「承知しています。
松陰先生も言っておられました――
『未来を創るとは、赦しの続きを描くことだ』と」
藤村はふと微笑んだ。
その言葉に、遠い日の松陰の声を感じた。
(松陰、君は本当に、時代の先を見ていたな)
「……よかろう。山陽州の件、私が国会にかける。
お前の“理念”を、国の言葉にしよう」
久坂が深々と頭を下げた。
その瞬間、障子の外で風が吹き、庭の若葉がざわめいた。
それはまるで、新しい時代の産声のようだった。
藤村は小さく呟いた。
「お前を救ったあの日が、ようやく報われたな――久坂」
春の終わり、立夏を前にした山陽州。
汽車の吐く黒煙が、瀬戸の海風に流されていく。
車窓から見えるのは、瓦屋根がまだ焼けた色を残す村落と、遠く霞む山並みだった。
「これが……旧長州の地か」
久信が呟く。窓の向こう、田の中に立つ石碑には、
“長州征伐 戦没者之墓”と刻まれていた。
義親が手帳を開き、統計を確認する。
「この地域、軍部の採用率は全国平均の半分以下。
試験成績では上位なのに、面接で落とされてる」
義信が眉を寄せた。
「つまり、“出身地”で落とされてるんだな」
久坂玄瑞が同じ車両に座り、静かに頷いた。
「この地の若者は、皆知っている。
“山口”と書いた途端に、門が閉ざされることを」
汽車が萩駅に滑り込む。
小さな駅舎の屋根の上で、燕が巣作りをしていた。
そこに漂うのは、どこか懐かしい潮と墨の匂い。
だが町の表情は暗かった。
石垣の崩れた旧藩校、荒れた屋敷跡、
そして往来を避けるように歩く人々の沈黙。
「……まるで時間が止まっているみたいだ」
久信が呟く。
久坂は答えた。
「止まっているのではない。“止められている”のです。
ここでは、敗北を語ることが罪とされてきた。
誇りを持つことすら、禁じられた」
彼らは村の中央にある古い集会所へ向かった。
内部は薄暗く、壁には古びた太刀と、破れた藩旗が掛けられていた。
中には十数人の男たちが待っていた。
皆、旧長州藩士の家系。
額に刻まれた皺が、年月よりも屈辱を物語っていた。
最年長の男が口を開いた。
「我らの祖たちは、幕府に逆らい、敗れた。
領地は没収され、名も記録から消された。
子や孫の代になっても、“賊の血”と言われる」
義信が慎重に言葉を選んだ。
「法的には、もう藩の区別はありません」
すると、別の男が冷たく笑った。
「法? 紙の上の話だ。
だが現実には、我らの息子は軍学校に入れん。
孫娘は他州に嫁げん。それが“現実”だ」
沈黙。
部屋の隅に座っていた少年が、古びた木刀を抱きしめていた。
義親が近寄り、膝をついた。
「それ、大事なもの?」
少年はうつむき、呟いた。
「父さんの形見。戦で斬られた。
“逆賊を討った”って、町の人が笑ってた」
義親の喉が詰まった。
(この子にとって、父は英雄なのに……)
久坂が少年の前に立ち、膝を折った。
「君のお父さんは、逆賊ではない。
国を想って戦った人だ。
誰もその誇りを奪うことはできない」
少年の瞳が少しだけ揺れた。
久信がその様子を見ながら、ゆっくり口を開いた。
「藤村総理は、“制度”だけでなく“心”を変えようとしています。
差別禁止法を制定し、軍部採用も匿名化する方針です」
男たちの表情に微かな動揺が走った。
「本当に……そんな時代が来るのか」
久坂が静かに頷いた。
「来ます。
かつてこの地を焼いた藤村晴人という男が、
いまはこの国の総理です。
彼は私を救い、言った。
“過去を赦す覚悟ができたら、未来を語れ”と」
その名が出た瞬間、場にざわめきが走った。
「藤村……? あの幕府の官僚が……?」
「賊軍を裁いた張本人ではないか!」
空気が緊迫した。
だが久坂は立ち上がり、毅然と言った。
「そうだ。
だが、彼は敵ではない。
彼は“裁く側”でありながら、“救う側”でもあった。
私が生きているのは、藤村晴人が私を赦したからだ。
だから今度は――私たちが、彼を赦す番です」
静寂。
その一言が、重く落ちた。
外では風が強まり、障子が震えた。
久信が立ち上がり、深く一礼した。
「我々は、山陽州の皆さんの声を、総理に届けます。
“過去ではなく未来を語る政治”を、必ず形にします」
男たちがゆっくりと立ち上がる。
誰も拍手はしなかった。
だが、その沈黙は――信じることを選んだ者の沈黙だった。
夕暮れ。
一行は城下町を歩いていた。
瓦屋根の隙間から差す夕陽が、街並みを赤く染める。
義信がふと呟いた。
「父さんがここを焼いたのか……」
久坂が頷いた。
「ええ。あなたの父上は、敵としてこの地を討った。
だが、私は彼を憎んではいない。
彼がいなければ、私は“今”という時間を生きられなかった」
義信は立ち止まった。
「もし父さんがあの時、お前を助けなかったら?」
「私は死に、長州は永遠に“過去”になっていたでしょう」
久坂の声は穏やかだった。
「あなた方三兄弟が、この国の未来を背負う。
ならば、私の役目は“過去を赦す”ことだ」
その言葉を聞いた義親が、ぽつりと言った。
「復讐より、赦すほうが難しいんだね」
久坂は微笑んだ。
「そうだ。だが、赦しこそが未来の条件だ」
丘の上から見下ろすと、萩の町の海が金色に輝いていた。
波の音が穏やかに響き、まるで遠い時代の鎮魂歌のようだった。
義信は海を見つめながら呟いた。
「……この海を渡って、あの時代の痛みが届かなければいいのに」
久坂は肩を叩いた。
「届くさ。痛みはいつも、未来に届く。
だが、届くたびに意味を変えていくんです」
汽笛が鳴った。
帰路を告げる音。
三兄弟と久坂は振り返らずに歩き出した。
その背後で、潮風が白い花を散らした。
――それは、赦しという名の風だった。
初夏の風が東京を包んでいた。
新緑が光る官邸の庭では、白いツツジが朝日を受けて咲き誇っている。
だが、その静けさとは裏腹に、首相官邸の執務室には緊張が漂っていた。
「……山陽州の実情を、すべて見たのか」
藤村の声は低く、しかし確かに揺れていた。
机の上には、久信たち三兄弟の報告書が積み上げられている。
義信が口を開く。
「はい。山陽州の出身者は、軍部採用で明らかに不利な扱いを受けています。
成績では他州と遜色ないのに、面接で落とされる」
義親が続けた。
「差別の根は、“心”にあります。
制度では平等でも、人々は“賊軍の子孫”という意識を捨てきれていません」
久信が一歩前に出た。
「彼らは、ただの被害者ではありません。
復讐を望んでいる者もいない。
ただ、“人として扱われたい”と願っている」
藤村は、報告書から目を離さなかった。
(……長州征伐。あの時、私は官僚としてこの国を守る側にいた。
だが、守ったのは“秩序”であって、“人”ではなかった)
「久坂は、何と言っていた?」
義信が答えた。
「“赦しこそ未来の条件だ”と」
藤村の指が微かに震えた。
机の引き出しから、古びた短冊を取り出す。
そこには、吉田松陰の筆跡でこう書かれていた。
――『過去は変えられぬ。だが、過去を赦す者は未来を創る』
(久坂が生きていなければ、この言葉も埋もれていたかもしれない。
あの時、彼を処刑せず、生かした判断……間違いではなかった)
藤村は立ち上がった。
「陸奥、国会の準備を」
「総理、討論は避けられません。保守派は軍の権威を盾に反対するでしょう」
「構わん。今日の議場で、私は“国家の赦し”を宣言する」
⸻
昼下がり。
議場は、夏の熱気と怒号で満ちていた。
壇上の藤村が立ち上がると、ざわめきが一瞬にして沈んだ。
「山陽州の差別問題について、調査を終えた。
その結果、明白な不平等が存在する」
ざわめきが再び広がる。
保守派の議員が立ち上がった。
「総理! それは感情論だ!
戦で幕府に弓を引いた者どもを、今さら庇うのか!」
藤村は冷ややかに視線を返した。
「彼らはもはや“幕府に弓を引いた者”ではない。
彼らは“この国を共に作った者”だ」
「だが、国を割ったのは長州だ!」
「国を割ったのは、憎しみだ」
藤村の声が静かに、しかし確実に議場を圧した。
「幕府の長州征伐で、この国は一度、心を裂かれた。
その裂け目を放置すれば、また次の戦が生まれる。
我々は制度で国を統一したが、心ではまだ戦っている」
陸奥宗光が控席から静かに頷く。
藤村は演壇に両手を置き、宣言した。
「私は、三つの改革を提案する」
一、軍部・官僚採用の完全匿名化。
出身地・家名を伏せ、純粋な能力で評価する。
二、差別禁止法を制定する。
出身地を理由に人を拒むことを、国法で禁ずる。
三、旧賊軍の名誉回復。
“賊軍” “朝敵”の呼称を公文書から削除する。
歴史は残す。だが、人を呪う言葉は残さない。
議場がざわめいた。
誰もが、その提案の重さを理解していた。
それは、過去を赦すことと同義――つまり、国家が一度犯した罪を認めるということだった。
「……総理、それではあなた自身が裁かれることになりますぞ」
保守派の重鎮が震える声で言った。
藤村は穏やかに微笑んだ。
「構わん。私こそ、最初に赦されるべき人間だ」
その瞬間、議場が静まり返った。
外から吹き込む風が、書類の端を揺らす。
「私はあの戦の責を逃れぬ。
だが、あの地で見た人々の沈黙は、私を赦してくれた。
ならば、国家として彼らを赦す番だ。
――復讐ではなく、赦しによって国をひとつにする」
陸奥が静かに拍手した。
それが最初の一拍。
やがて議場のあちこちで、ためらいながらも手が打ち鳴らされていく。
議長が声を上げた。
「採決に入る――!」
結果は、賛成九割。反対、わずか数名。
圧倒的多数で可決。
⸻
夜。官邸の灯が落ちた頃、藤村は一人、書斎で筆を取った。
墨の香が静かに漂う。
紙の上に、彼はゆっくりと書いた。
――「赦しこそ、国の礎なり」
その筆跡のかすれに、長い歳月の贖罪が滲んでいた。
そこへ、久坂玄瑞が訪れた。
「見事でした、総理」
藤村は顔を上げずに言った。
「これで本当に、長州の痛みが消えるだろうか」
久坂はゆっくりと首を振る。
「痛みは消えません。
だが、痛みを語れるようになった時、人は救われます」
藤村はようやく筆を置き、久坂を見つめた。
「ならば、次はお前の番だ。
この国の“赦し”を、教育の中で伝えていけ」
久坂が深く頭を下げた。
「承知しました。松陰先生の教えを、この時代の言葉で語り継ぎます」
外では立夏の風が吹き抜け、庭のツツジを揺らした。
藤村は静かに窓を開け、夜空を見上げた。
星の光が、淡く霞んでいる。
(会津の雪も、長州の炎も、すべてこの風が運んでいく。
過去の痛みが、未来の力に変わる日まで――)
その風は、まるで赦しの息吹のように、
東京の夜を優しく包み込んでいった。