305話:(1882年・清明)知の国防 ― 三兄弟の春 ―
1882年、清明の朝。
首相官邸の庭では、露に濡れた若草が春風に揺れていた。白砂の小径を渡る風が、障子を軽く鳴らす。墨と茶の香がまじり合い、静謐な朝の光が縁側を染めていた。
陸奥宗光が報告書を胸に抱え、足早に入室する。黒羽織の裾が畳を払う音が、張りつめた空気を切った。
「総理、外務省より緊急の報告です」
「話せ」
陸奥は紙を差し出しながら言葉を継いだ。
「フランス第三共和政は内政混乱、政権交代の兆し。ドイツ帝国は軍事予算を三割増額。英仏の植民地競争は過熱。欧州、きな臭くなっております」
藤村は頷き、書類に目を走らせる。
(十九世紀末から二十世紀初頭、ヨーロッパは大戦の泥濘へ向かう――令和の記録ではそう書かれていた。だが、この時代ではまだ三十年の猶予がある。いや、行動次第で、三十年を“創れる”かもしれない)
藤村は静かに書類を伏せた。
「陸奥。今の外務に、最も欠けているものは何だと思う?」
陸奥は短く考え、言葉を選ぶように答えた。
「若い頭脳ですな。国際法と交渉術を学び、冷静に世界を見られる者が乏しい」
藤村は机の脇に置いた一通の書簡を指で叩いた。
「そのために、一人、呼び戻した。アメリカ・ハーバードで抜群の成績を収めた青年だ。名は――小村壽太郎」
陸奥の目がわずかに動いた。
「日向・**飫肥**の出ですな。……あの青年か。たしか“主席で卒業した”という噂も」
藤村は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「噂だ。本人は否定している。だが、実力は本物だ。理論に明るく、情に溺れぬ胆力を持つ」
そのとき、襖の外から控えめな声がした。
「失礼いたします。日向国飫肥出身、小村壽太郎、参上いたしました。」
現れた青年は、細身ながら背筋の伸びた姿勢で立っていた。焦茶の瞳に映る光は鋭く、長い留学生活で鍛えられた理知と自信の輝きがあった。
「初めまして。藤村総理にお呼びいただき、光栄に存じます」
「話は聞いている。アメリカでは国際公法を専攻したとか」
「はい。ハーバードで、主に国際仲裁と関税交渉の制度史を研究いたしました」
陸奥が静かに言う。
「外務は理屈より現場を重んじる。理論家には骨が折れるかもしれませんぞ」
藤村はふっと笑みを浮かべた。
「危うい者ほど、時代を動かす。宗光、お前の補佐につける。書簡整理からではなく、次の外電分析から入らせろ」
陸奥が軽く頭を垂れた。
「……承知しました。ただ、若い芽を焦がさぬように育てます」
小村は一歩進み、深く頭を下げた。
「総理。父の事業が傾いた折、借財をお救いくださった恩義、一生忘れません」
その声には感謝よりも、背負った責任の重さが滲んでいた。
藤村は机の上にあった封筒をそっと押し出した。
「返済はすべて済んだ。名目は“国家顧問就任の前渡し金”だ。だが――恩を感じるな。私が見たのは、お前の頭と胆力だ。国を守るとは、戦うことではない。考えることだ。 宗光の傍で、世界を見てこい」
小村は静かに息を吸い、深々と礼をした。
障子の外、春の陽射しのなかを一羽の燕が横切った。
陸奥はその影を見送りながら呟く。
「春の燕か……帰るべき巣を見つけたようですな」
藤村は微笑みを返した。
「ならば、国を飛ぶ知恵の翼に育てよう。いずれ、欧州の嵐を越えて飛べるようにな。
外務省・欧州局の会議室。
窓の外には桜の花弁が散り始め、霞む陽光が古い地図の上に落ちていた。
長机の上には、各国の新聞電報、外電の訳稿、そして藤村直筆の覚書が並んでいる。
陸奥宗光が指を鳴らすように言った。
「本題に入る。フランスは政権が安定せず、首相が三か月ごとに交代。ドイツは陸軍三十万の常備化を進めている。ロシアはバルカンに触手を伸ばし、英仏のアジア進出は止まらぬ。――小村、どう見る?」
呼ばれた青年は、一枚の地図を前にしてすっと立った。
「欧州の均衡は、すでに“静的”ではありません。力の均衡が崩れた瞬間、連鎖的に戦争へ発火する構造です」
彼はペンで三角形を描いた。
「この三角形の頂点が、英・仏・独です。どれか一国が軍備を拡大すれば、他の二国が追随せざるを得ない。結果、全体として軍拡が加速する。これは、戦争ではなく“習慣の競争”です」
陸奥が腕を組んだ。
「つまり、誰も止められぬということだな」
「いいえ。理論上、抑止は可能です」
小村の声がわずかに熱を帯びる。
「各国が“協定”を結び、一定水準以上の軍備を互いに制限すれば、拡大の悪循環を止められます。言い換えれば、条約を“国際の数学”として運用するのです」
陸奥の眉がわずかに動いた。
「条約を数学とは、興味深い表現だ」
「はい。国際関係を数式で捉えれば、感情よりも理性が勝る可能性があります。私はそれを、外交の数理化と呼んでいます」
室内に微かなざわめきが走った。
若い書記官の一人が呟く。「理屈では分かるが、現実は……」
陸奥はその空気を一喝するように言った。
「異論はあるまい。理想論ほど、国を変える火種になる。――小村、続けよ」
小村は静かに地図を指した。
「この構造の中で、最も危険なのはドイツです。ビスマルク宰相は『鉄と血』を掲げ、外交を軍備の延長と見なしている。いずれ彼の後継者が、その鉄を実際に振るう日が来るでしょう」
陸奥の目が鋭く光った。
「お前は、いつ戦争が起きると見る?」
小村は迷いなく答えた。
「早ければ二十年、遅くとも四十年以内。――ただし、各国が理性を保てば、半世紀は稼げるかもしれません」
陸奥は口の端をわずかに上げた。
「半世紀、か。短いようで長いな。人の一生を賭けるには、十分だ」
彼は椅子から立ち上がり、窓の外を見やった。
霞む陽の下で、桜の花びらが紙のように散っていく。
「……お前の分析、総理に届ける。だが一つだけ忠告しておく」
「はい」
「外交官は理論で動き、政治家は情で動く。お前が前者であることは誇りだ。だが、情を捨てた理屈は冷たすぎる。――いつか、その冷たさが命を奪うこともある」
小村はゆっくりと頷いた。
「承知しました。けれど、理屈が命を救うこともあると信じています」
陸奥はその言葉に一瞬だけ目を細め、やがて笑った。
「いい。そうでなくては、外務は回らぬ。さて、午後に総理と会談だ。同行せよ。日本の未来を決める会議になる」
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同日午後、首相官邸・書斎。
藤村は地図を広げ、小村と陸奥を迎え入れた。
「……つまり、欧州は火薬庫。誰かが火をつければ、大陸全体が燃える、そういうことだな?」
「はい。とりわけドイツは、軍備を国策と見ています」
藤村はしばらく黙り、筆を置いた。
「世界は武力で動く。だが、武力では国を守れぬ」
小村が顔を上げた。
「守るのは、何でございますか」
藤村は窓の外を見やりながら、ゆっくりと答えた。
「知識と制度だ。――教育と法。これだけが、戦争を超える武器になる」
陸奥が頷いた。
「つまり、総理は“学問による国防”を構想しておられる」
藤村は静かに笑った。
「そうだ。お前たちは、世界が血に濡れる前に、その“知の壁”を築け。力を競うより、知を磨け」
室内の空気が凜と張り詰めた。
春の光が障子を透かし、地図の上の大陸を淡く照らす。
外では風が吹き、遠くから燕の声が聞こえた。
――その日、日本の外務省に、「知識を武器とする外交」という新しい理念が芽吹いた。
後に世界を揺るがす嵐が来るとは、まだ誰も知らない。
その夜。
藤村邸の書斎には、薄青いランプの光が揺れていた。
机には欧州の地図と新聞、そして昼の会議で使った陸奥と小村の報告書が広げられている。
義信が静かに入ってきた。まだ十五歳。制服の襟元には学生の白線が光っている。
「父上、陸奥卿や小村さんの報告を拝見しました。――これ、本当に戦争になりますね」
藤村は顔を上げ、穏やかに答えた。
「戦争は、誰も望まずに始まるものだ。欲ではなく、恐れから始まる」
義信は椅子を引き、机の上の図を見た。
「恐れ、ですか」
「そうだ。相手が攻めてくるかもしれない――その恐れが、軍備を増やさせる」
義信は鉛筆を取り、報告書の余白に数式を走らせた。
「……やっぱり、これは数学の問題です」
「数学?」
「はい。父上、聞いてください。
ドイツが軍備を増やすと、フランスも不安になって増やす。
フランスが増やすと、ドイツは“やはり危険だ”と考えて、さらに増やす。
――これが“正のフィードバック”。軍拡の連鎖です」
義信は紙の端に、数列を書き連ねた。
「一国が十を増やせば、相手も十増やす。次は十五、次は二十。
数は無限に発散します。これが“戦争数列”です」
藤村は眉を動かした。
「お前は戦争を数式にしたのか」
「はい。止めるには、“負の係数”――つまり互いに信頼するための要素を加えなければなりません。
しかし、その信頼を破る者が一人でもいれば、全てが崩壊する」
藤村はしばし黙し、義信の描いた紙を見つめた。
その構造は確かに正確で、冷徹だった。
「……戦争を止めるには、理論では足りぬのかもしれん」
「では、どうすればいいのです?」
藤村はゆっくり立ち上がり、窓の外を見た。
春の夜気の中、庭の楓が静かに風に鳴っている。
「人の恐れを減らすには、知識しかない。
教育が広まれば、恐怖ではなく理解で物を考えられるようになる。
お前の数式が正しいなら――それを解く鍵は、教育だ」
義信は静かに頷いた。
「つまり、戦争の敵は“無知”ですね」
「そうだ。戦争を止めるには、兵を増やすよりも教師を増やせ。
武器を磨くよりも、頭を磨け。
そうして初めて、数列の発散を止められる」
義信の目に、確かな光が宿った。
「父上……。もし教育が国防になるなら、私はその理論を完成させます」
藤村は微笑み、肩に手を置いた。
「義信。お前の数理はやがて国を救う。
小村が外交の方程式を解くなら、お前は戦争の方程式を解け」
その瞬間、障子の外を風が通り抜けた。
花の香が漂い、遠くで夜更けの鐘が響く。
藤村は心の中で呟いた。
(この国の未来は、剣でも砲でもなく――この若い頭脳にある)
翌朝、藤村邸の応接間には三兄弟が揃っていた。
障子の向こうでは、朝の光が桜の花びらを照らしている。
昨夜の義信の数式が、まだ机の上に残っていた。
藤村は湯呑みを置き、三人を順に見渡した。
「義信は軍事理論。久信は外交。義親は科学。――それぞれ違うが、どれも“国を守る道”だ」
久信が手帳を開いた。
「父上、外務から追加報告があります。欧州の緊張は高まる一方ですが、我が国は中立を保てています」
「そうか。だが、均衡は脆い。小村と陸奥には“等距離外交”を徹底させよ」
久信は頷き、記録を取りながら言った。
「父上、彼らの考えを聞いていると、外交とは“国の心の平衡”のようです。
どちらかに傾けば、必ず戦が始まる」
義親が顔を上げた。
「平衡って、化学反応みたいですね。
温度や圧力が変われば、反応の向きも変わる。……国も同じです」
藤村が微笑んだ。
「お前は何でも化学で考えるな」
義親は少し照れたように笑ったが、すぐ真顔になった。
「でも、化学には“触媒”があります。自分は、そんな役割になりたい。
戦争にも平和にも傾かず、両方を結びつける“触媒”に」
藤村は静かに頷いた。
「いい考えだ。
お前の研究が武器を作るか、橋を作るかは――お前次第だ」
義信が弟の言葉にうなずき、ノートに新しい式を書き始めた。
「もし、教育を“知の触媒”と置くなら、国家の反応速度も変えられます。
――人材が増えるほど、国の思考力が加速する」
藤村は椅子から立ち上がり、窓際へ歩み出た。
春の光が障子越しに彼の背を縁取り、長い影を畳に落とす。
「軍拡では国を守れぬ。外交は平和を繋ぐ橋だが、それも長くは持たない。
――だから、教育を柱とする。これが“知の国防”だ」
その言葉に、三兄弟の顔が引き締まった。
「義信、戦争の方程式を解け」
「久信、世界の距離を測れ」
「義親、化学で未来を照らせ」
藤村の声には、迷いがなかった。
「武力は時代を動かすが、知識は時代を残す。
この清明の春、日本は武器を磨く代わりに、頭脳を磨く国となる」
外では、庭の柳がそよぎ、燕がまた一羽、軒先をかすめて飛び立った。
その姿を見送りながら、藤村は小さく呟いた。
「嵐の前に、翼を育てねばならぬ」
――数十年後、ヨーロッパが火薬庫と化したとき。
この春に蒔かれた“知の種”が、日本を救う礎となる。
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