304話:(1882年・春)啓蟄の首都 ― 首都協力協定
1882年(明治15年)、春。
まだ寒気が残る三月初め、東京・麹町の料亭。障子を閉め切った座敷に、江戸州の保守派議員たちが集まっていた。外には泥を弾く人力車の音、芽吹きを待つ土の匂い。だが座敷には、別種の熱がこもっている。
「江戸は首都だ。天皇も、国会も、霞が関の官庁もすべて江戸にある」
六十を越えた長老議員が盃を置き、低く、重い声を張った。
「だが実質の決定は、すべて常陰州から出ているではないか」
若手議員が応じる。
「財政調整制度、北方防衛協定、教育制度の基準、信濃とのトンネル構想……。いずれも常陰州の発案です。国の形を決めているのは江戸ではない」
別の議員が吐き捨てるように言った。
「しかも、藤村は新宿に手を伸ばした。鉄道の結節点を押さえ、商業区を拡張し、いまや首都の心臓を常陰州の勢力下に置いている」
座はざわめいた。盃を持つ手が震える者もいた。
「新宿は元より江戸の地であった。それを藤村が、あたかも常陰州の領土のごとく振る舞っている。これでは首都の威信は丸ごと奪われたも同然だ」
長老議員は唇を噛みしめた。
「首都・江戸州が、常陰州の影に隠れるなど、耐えられぬ。藤村晴人は水戸の人間だ。身びいきで常陰州を肥やし、江戸州を忘れた」
畳の上に重苦しい沈黙が落ちる。外を渡る春の風の音さえ、遠く鈍く響いた。
やがて一人が声を張り上げた。
「常陰州への国家補助金を削ぐべきだ。新宿を抑えられた以上、首都の権威は財政で示すしかない!」
「その通りだ。江戸州の道路、橋梁、上下水道こそ急務だ。見せかけの地方鉄道より、首都の威信を整える方が先だ」
「常陰州の繁栄は地方の見栄にすぎぬ。首都が黙れば、国全体が軽んじられる」
次々に言葉が重なり、座敷は怒声と盃の音に包まれた。
しかし、細身の議員が冷ややかに口を開いた。
「忘れるな。我らが敵にすべきは常陰州ではない。本当に欲しいのは『首都の承認』だ。世論を敵に回してはならぬ」
その一言に、しばし座が静まり返った。
だが誰の胸にも同じ焦燥が渦巻いていた。首都は江戸にあるはずなのに、鉄道も商業も、国家の実権も藤村の手の中にある。
「必ず国会の場で声を上げる」
長老議員が盃を高く掲げた。
「江戸州の威信を取り戻す。新宿も、常陰州も、藤村の思い通りにはさせぬ」
冷めた酒を一息にあおると、盃は畳に重く落ちた。だが彼らの胸に燃え上がった炎は、夜の闇よりも強く揺れていた。
春の陽が射し込む国会議事堂。新築間もない大理石の壁に、議員たちの声が反響し、議場はざわめきに満ちていた。墨の匂いが残る予算案の冊子が机に積まれ、その紙面が捲られる音すら、緊張に震えているようだった。
「議長、発言を!」
立ち上がったのは江戸州の重鎮、白髪の保守派議員だった。背筋を伸ばし、壇上に向かって怒声を放つ。
「江戸州は首都である! だが、常陰州ばかりが国家の補助金を得、勝手に事業を拡大している。この不均衡を、我々はもう見過ごせぬ!」
どよめき。机を叩く拳の音が響く。
「常陰州への国家補助金は五割削減すべきだ!」
その一言に、議場は波のようにざわめいた。筆を走らせていた新聞記者たちが一斉に顔を上げ、傍聴席の視線が集中する。
「彼らは財政調整制度、北方防衛、教育制度、信濃トンネル……すべて先走り、自らの手柄とした! そして極めつけは――新宿だ!」
議員の目がぎらりと光る。
「新宿はもとより首都・江戸州の地であった。それを藤村家が徳川慶喜公より拝領したと称し、領土のごとく振る舞っている! 鉄道を引き、商業を呼び込み、まるで常陰州の飛び地だ! 首都の心臓を、常陰州が握っているのだ!」
議場はどよめき、椅子を蹴って立ち上がる者まで現れた。
常陰州代表がゆっくり立ち上がる。年若いが、その声には冷たい静けさが宿っていた。
「その言葉、取り消していただきたい。新宿は確かに藤村家の領地だ。だがそれは、慶喜公より正式に賜った正統な拝領地。違法性など一分もない」
ざわつく議場。江戸州側は口々に叫ぶ。
「正統だと? 首都を人質に取ったに等しい!」
「象徴を踏みにじる行為だ!」
常陰州代表は一歩も引かず、机に手を置いた。
「我らは人質にした覚えはない。むしろ首都の繁栄を支えようとした。鉄道の結節点は国の利益であり、帝都の利益でもある。藤村家が開いた道を、江戸州が拒む理由はどこにある!」
怒声と拍手が交錯した。議長の木槌が打たれるたびに、声は一瞬沈むが、すぐにまた波が押し寄せる。
江戸州の若手議員が机を叩いて叫んだ。
「威信だ! 我らが求めているのは財ではない。首都としての威信だ! 新宿を常陰州に奪われてなお、首都と呼べるのか!」
「威信、威信と叫ぶが――」
常陰州の議員が立ち上がり、鋭く言い返す。
「国の威信とは、見栄で作るものではない。防衛を固め、鉄道を敷き、学を広める。その実を積んでこそ威信となるのだ!」
両派の声が交差し、議場は嵐のようになった。傍聴席の新聞記者が、鉛筆を走らせる。紙面には「首都の威信をめぐる攻防」「新宿拝領地を巡り紛糾」の文字が浮かぶ。
そして――議場の隅。藤村晴人は沈黙していた。総理の席にありながら、表情ひとつ動かさず、ただ議論の嵐を見つめている。
「総理! 一言を!」
江戸州の議員が壇上を指差し、声を張り上げた。
「首都を守るか、それとも常陰州をかばうか!」
藤村はゆるりと立ち上がり、深々と頭を下げた。だが言葉はなかった。議場に広がったのは、重い沈黙。
「黙して答えぬか!」
怒声が響く。だが藤村はただ腰を下ろし、眼を閉じた。
その姿に、議員たちは息を呑んだ。
「……我らを試しているのか」
誰かがつぶやく。
議場の空気は張り詰めたまま、次の瞬間には再び嵐のような怒声が巻き起こった。常陰州を守る声、首都を守れと叫ぶ声。木槌の音が虚しく響き続ける。
その日の予算委員会は、結論を見ぬまま延会となった。議員たちは重い足取りで廊下へと出ていく。外では新聞記者が群がり、矢継ぎ早の質問を浴びせた。
「新宿拝領地、補助金削減! 結論は?」
「首都の威信は守られるのか!」
江戸州の議員は血走った眼で叫んだ。
「次こそ、決着をつける!」
その言葉は、帝都の春空にこだまし、まるで啓蟄の雷鳴のように国中に響き渡った。
夕暮れの霞ヶ関。議場を後にした藤村晴人は、記者の群れを避けるように官邸へと戻った。玄関先で報道陣が叫ぶ。
「総理、江戸州の補助金削減案にどう応えるのか!」
「新宿拝領地について沈黙を続けるおつもりか!」
藤村は何も言わず、帽子を軽く持ち上げて一礼すると、そのまま中へ消えていった。わずかな仕草に、記者たちは苛立ちを募らせた。沈黙は肯定にも否定にも映る。それが政治の怖さだった。
その夜。藤村邸。広間に灯された行灯の下、三兄弟は父を囲んでいた。食事もそこそこに、議場の騒動が話題に上る。
「父上、なぜ何も仰らなかったのですか」
長男・義信が低く問う。額に深い皺を寄せ、焦りを隠さない。
藤村は湯呑みを手に取り、しばらく茶の香りを味わってから口を開いた。
「私が口を開けば、すぐに『常陰州びいき』と呼ばれるだろう。……だから、あえて沈黙した」
「ですが、それでは常陰州が孤立します!」
次男・義親が声を荒げる。まだ若い声に震えが混じる。
藤村は静かに首を振った。
「孤立をどう打開するか。――それを試されるのは、私ではない」
兄弟は目を見合わせた。沈黙の意味が、じわじわと胸に重くのしかかる。
「お前たちに任せた。江戸州を納得させ、補助金削減を退けよ」
短い一言。だがそれは三兄弟にとって、稲妻のような衝撃だった。
⸻
深夜。藤村邸の書庫。積まれた書物と、ろうそくの炎が揺れる中、三人は床に膝をついて話し合っていた。
「どう考えても、財源の話ではない」
末弟・久信が、議会記録をめくりながら低く言った。
「彼らは『金が足りない』とは言っていない。『首都の威信が失われた』と、繰り返していた」
義親が首を傾げる。
「威信……面子ってことか?」
「そうだ」久信は力を込めて頷いた。
「常陰州が鉄道を引き、北方を守り、教育を整備した。国民の称賛は常陰州に集まった。だが江戸州は――天皇も議会もあるのに、誰からも称えられていない。首都としての誇りが傷ついているんだ」
義信は腕を組み、黙考した。
「もしそれが真の動機なら、財政でいくら譲歩しても無駄だな」
義親が机を叩いた。
「じゃあ、どうする! 江戸州に何を与えれば気が済むんだ!」
久信は、手元の議事録を指でなぞりながら言った。
「承認だ。首都としての役割を認めてやればいい」
「承認欲求……」義親が繰り返す。
「そうだ。江戸州が求めているのは金でも土地でもない。『首都である』と全員に認めさせたいだけなんだ」
その言葉に、静かな重みが落ちた。
義信は深く息を吐いた。
「なるほど……。我らが経済を握っているなら、彼らには政治の威光を与える。役割を分ければ、両者は共に立てる」
義親が眉を上げる。
「でも、それをどう伝える? 僕らが『首都を立てます』なんて言って、信じてもらえるのか?」
久信は唇を引き結び、しばらく考え込んだ。そして顔を上げた。
「やってみるさ。失敗するかもしれない。でも、試さなきゃ分からない」
その瞳には、不思議な輝きがあった。かつて国会で言葉を失い、父に叱責されたときの弱々しい少年ではない。挫折を知り、そこから立ち上がろうとする意思が宿っていた。
義信はその瞳を見て、ふっと微笑んだ。
「ならば我らも協力しよう。これは三人で挑む戦だ」
義親も頷いた。
「僕が議事録をもっと読み込む。江戸州の保守派が何を嫌って、何を欲しているのか、全部調べてやる」
久信は深く頭を下げた。
「ありがとう。……兄上たちとなら、きっとやれる」
外では春の夜風が庭の竹林を揺らしていた。啓蟄の頃、地中から這い出す虫たちの気配のように、若い三人の胸にも、新しい試練への熱が芽吹いていた。
数日後。春の風が吹き込む東京・麹町の一角。江戸州保守派の事務所の門を、十四歳の少年がくぐった。
藤村久信――総理の次男。その背筋は伸びていたが、掌は汗でじっとりと濡れていた。
応接室で待っていたのは、予算委員会で声を張り上げた壮年の保守派議員。白髪交じりの眉が険しく吊り上がっている。
「藤村の倅か。……で、何の用だ」
低く唸るような声に、久信は緊張しながらも頭を下げた。
「常陰州への補助金削減案を、どうか取り下げていただきたいのです」
その一言に、議員は顔をしかめた。
「ほう……小僧が我らを説得しに来たか」
久信は必死に言葉を紡いだ。
「常陰州の事業は国全体の利益になります。補助金を削られては鉄道も防衛も立ち行かなくなる。どうかご理解を……」
議員は机を叩いた。
「黙れ! 常陰州が国を思っているだと? 笑わせるな! 新宿を見ろ、新宿を! あそこは本来、江戸州の地であった。それを藤村家が慶喜公から拝領し、己の領土のように扱っている。国の心臓を奪いながら、なお補助金まで求めるか!」
声は鋭く、久信の胸を突き刺した。返す言葉を探したが、喉が塞がり、声が出ない。
「お前に何ができる。十四の小僧に、我らの屈辱が分かるものか。帰れ!」
突き放すような声に、久信は頭を下げるしかなかった。背中に冷たい視線を浴びながら、事務所を後にした。
⸻
その夜。藤村邸。
帰宅した久信は、玄関に腰を下ろしたまま靴を脱ぐことも忘れ、深いため息を吐いた。
「やっぱり僕じゃダメだ……」
そこへ現れたのは三男・義親。兄の沈んだ姿に苦笑しつつ、肩を叩いた。
「兄ちゃん、説得しようとしたんだろ。でもね、『協力してください』じゃ通じないよ」
久信が顔を上げる。
「じゃあ、どうすれば……」
義親は少し考え、ゆっくりと言った。
「相手が欲しいのは金じゃない。今日の議事録でも、会合でも、ずっと言ってたろ。『首都の威信』だ」
久信の瞳が揺れた。義親は続ける。
「なら、それを満たしてあげなきゃ。江戸州が『首都だ』と胸を張れるようにしてやればいい。僕らが譲るんじゃない、認めるんだよ」
久信はしばし黙り、やがて拳を握った。
「……そうか。僕はただ頭を下げただけだった。相手の望みを見ようとしていなかった」
義親はにやりと笑った。
「兄ちゃん、やっぱり考え方は鋭いんだから。あとは相手に届く言葉にするだけだよ」
⸻
数日後。再び保守派事務所。
久信は前より落ち着いた足取りで応接室に入った。議員は驚いたように眉を上げる。
「また来たか。懲りぬ小僧よ」
久信は深々と頭を下げた。
「前回は、常陰州の事情ばかり話しました。失礼しました」
議員は目を細める。
「ほう……」
久信はまっすぐ相手を見据えた。
「江戸州は首都であり、国の中心です。天皇も国会も江戸にある。首都の威信を求めるお言葉は、正しいと私は思います」
議員の瞳が揺れた。久信は一歩近づき、低く続けた。
「ですから提案します――『首都協力協定』を結びましょう」
机の上に置いた紙には、いくつかの条項が書かれていた。
1. 江戸州を「政治・行政の中心」と明文化する
2. 常陰州を「経済・教育の拠点」と位置づける
3. 国家政策の正式発表は江戸州で行う
4. 常陰州は首都の威信を尊重し、事前に江戸州へ諮問する仕組みを設ける
「……これは……」議員が紙を手に取り、声を失った。
久信は静かに言葉を重ねる。
「新宿は確かに藤村家の領地です。しかし、あれは慶喜公から賜った地。首都を奪う意志はありません。むしろ江戸州の繁栄を支える場にしたいのです。どうか、首都と常陰州が手を取り合う形を築かせてください」
沈黙。時計の音だけが部屋を満たした。やがて議員は目を細め、紙を机に置いた。
「……小僧め、言うようになったな」
声に険はあったが、その奥にわずかな柔らかさがあった。
「すぐに答えは出せぬ。だが、考えてみよう」
その言葉を聞いた瞬間、久信は胸の奥に熱が込み上げた。
――扉は、開きかけている。
議員の言葉を胸に刻みつつ、久信は事務所を後にした。外へ出ると、春の風が頬を撫でた。緊張で硬くなっていた肩が、ようやくほどけていく。
帰宅した久信を、玄関先で義親が迎えた。三男は兄の顔色を一目見て、微笑んだ。
「手応えあった?」
久信は小さく頷いた。
「まだ約束はされなかった。でも……『考えてみよう』と言ってくれた」
義親の目が輝いた。
「それは大きい! 最初は突っぱねられてたのに、そこまで変えたんだ」
そこへ長男・義信も書斎から現れ、腕を組んで二人を見やった。
「やるじゃないか、久信。だが気を抜くなよ。相手が頷くのは、まだ先のことだ」
久信は頷き、しかし声に自信が混じっていた。
「うん。でも今回は、相手の欲しているものを正面から認められた。……前より、一歩は進めたと思う」
義信は満足げに目を細め、弟の肩を軽く叩いた。
「その言葉が出るなら、もう大丈夫だ」
義親はいたずらっぽく笑った。
「兄ちゃん、次はちゃんと勝利の晩酌だね。お茶で乾杯しよう!」
三人の笑い声が、久しぶりに邸内を満たした。
その奥で、藤村晴人は静かに一部始終を見ていた。
息子たちが互いに支え合い、試練を越えようとする姿に、わずかに口元を綻ばせる。だがすぐに表情を引き締めた。
――国内は、ようやく和解の兆しを見せた。
だが、外の世界はどうか。
書斎の机に広げられた地図。フランスとドイツの国境に指を滑らせながら、藤村は心の内でつぶやいた。
(次に嵐を呼ぶのは、欧州か……)