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303話:(1882年2月・立春)信濃州の鉄道

1882年(明治15年)2月、立春の頃。

 信濃州・州都の議事堂は朝から人いきれで曇っていた。四方を山脈に抱かれた内陸州の息づかいは浅く、寒気はまだ強いのに、室内だけは不穏な熱がこもっている。


 「江戸まで馬で二週間、途中で絹の艶が落ちる」

 商人代表が拳を握る。

 「肥料も道具も高すぎる。売値が上がらにゃ、暮らしが保てぬ」

 農民代表の声は低く、しかし痛切だった。


 議場正面、地図の上には赤い線がいくつも引かれている。先に決した広域鉄道の基本計画は、東山州経由の幹線を優先した。だが峠は雪に閉ざされ、測量隊は幾度も引き返した。線は地図の中で前へ進むほどに薄れ、最後は鉛筆の擦れで消えている。


 信濃州知事が立ち上がる。

 「このままでは、我が州は取り残される。――常陰へ直接抜く道を求めたい」

 議場がざわめいた。日本海側の常陰州に出られれば、季節風の窓が開く。江戸だけを目指して疲れ切った荷が、海風に乗れるかもしれない。


 同じ日の午後、その打診は常陰州・水戸の州庁に届いた。会議室の長机を囲む顔ぶれは、半分が期待、半分が慎重だ。

 「賛成だ。信濃の絹と木材、鉱山の鉱も入る。内陸市場も広がる」

 商工会の代表は身を乗り出す。

 「山を越える鉄道だと? 費えも手間も底なしだ。そんな夢物語に州財を賭けるのか」

 保守派の議員が眉間に皺を刻む。


 議場の後方、総理でもある藤村晴人は黙って両派の言葉を聞き切った。五十七の目は、賛否の間に横たわる“できるか・できないか”の境界線を測っている。やがて短く頷くと口を開いた。

 「技術の可否を言い争っても進まぬ。――まず、検証する。地質・勾配・降雨雪量・湧水、全ての基礎データを洗い直せ。『常陰—信濃 山岳横断委員会』を置く」

 賛成の席に安堵の色、反対の席にまだらな不承不承。だが“検証”なら誰も退けられない。会議は設置趣旨と初期調査費の枠組みを定め、散会となった。


 夕刻。藤村邸の書庫は紙の匂いで満ちている。壁一面の棚に、右筆が十数年かけて写し集めた“知識帳”が整然と並ぶ。扉の隙間から、八歳の義親が顔を出した。両手には地形図の束。

 「父さん、常陰と信濃の間の標高差、ここが一番きついよ」

 方眼に写した等高線に小さな指が走る。

 「最短で抜くには、峠をいくか、山に穴をあけるか」


 そこへ、長男の義信(十五)が足早に入ってくる。軍装の襟に残る霜が、すぐ書庫の温みで消えた。

 「義親、峠越えは兵站上も雪崩と凍結のリスクが大きい。一定高度を保てる横断坑――トンネルが理に適う」

 義親の瞳が跳ねた。

 「穴を、まっすぐ……でも、空気と水は?」

 「そこは工学の仕事だ」

 義信が笑う。「お前の算盤が要る」

 「算盤じゃない、勾配と流量だよ」

 言い合いに、藤村は微笑を抑えた。


 夜更け。藤村は机に積んだ“知識帳”から、関連する巻を何冊か抜き出した。『山岳工事記録』『鉱山排水法』『火薬と穿孔』――どれも和紙に細かい字でびっしりと埋まっている。

 「海の下を繋いだ例もある。ならば山の下も、原理は同じだ」

 紙背に残るのは“可能の痕跡”だけで、答えではない。答えを作るのは、いまここにいる者たちだ。


 翌朝、常陰州庁で第1回の連携打合せが始まった。信濃州から届いた使節は、疲れと焦燥を隠さない。

 「この冬、馬の脚はさらに鈍った。春まで持つ蔵もあるが、持たぬ蔵もある」

 「絹は待たない。艶は戻らない」

 会議卓に置かれた俵見本の裂け目が、言葉より雄弁だった。


 技術官僚が地図を壁に掛け、淡々と述べる。

 「従来の峠越え案は、最大勾配が規格超過。雪期の通年運行は困難。――残る選択は、長大トンネル」

 部屋の空気が一瞬固くなる。反対派の議員がすぐさま乗り出した。

 「長大? どれほどだ」

「最短で八里超。地質は花崗と頁岩の互層、湧水帯の横断は避けられない」

「不可能だ」

 断じる声が、机上の地図に突き刺さる。


 そのとき、控えにいた義親が、抱えていた図面をぎゅっと握り直した。小柄な体が一歩、会議の明るみに出る。

 「不可能かどうか、まだ決まっていません」

 年齢に似合わぬ落ち着いた声だった。視線が一斉に集まる。

 「山を“越える”から難しいんです。山の“中”をまっすぐ通れば、勾配は抑えられる。空気は縦穴で回し、水は床勾配で逃がす。――図にしてきました」

 驚きと苦笑と、半歩の好奇。紙が卓上に広がる音だけが響いた。


 窓の外、立春の陽射しはまだ淡い。だが紙の上の線は、確かに春の方向へ伸びていた。

常陰州庁の会議室に、州内外の技術者や財務官が集められた。窓から差し込む立春の光はまだ淡く、冷たい空気が漂っていた。


 「標高差は二千メートルを超える。従来の峠越えでは積雪と凍結に阻まれ、通年の運行は不可能だ」

 技術官僚が棒で地図を指し示しながら説明する。

 「唯一残る選択肢は――長大トンネル」


 会議室の空気が一瞬にして重くなった。

 「八里を超えるトンネル? 湧水帯の横断は避けられぬ。危険も費用も計り知れん」

 反対派の議員が身を乗り出し、机を叩く。


 沈黙の中、小柄な影が一歩前に出た。

 「……僕に、言わせてください」

 八歳の義親であった。抱えていた紙束を胸の前に広げると、視線が一斉に注がれる。


 「山を“越える”から難しいんです。山の“中”をまっすぐ通れば、勾配は抑えられる。空気は縦穴で循環させ、水は床の勾配で排水する」

 義親は震える声ながらもはっきり言い切った。机に広げられたのは幼い手で描いた断面図。山の中を貫く線、その周囲に換気縦坑や排水路が細かく描かれていた。


 「……八歳が、設計図を」

 年配の技術者が思わず呟いた。


 別の技術者が問いかける。

 「換気はどうする? 縦穴だけでは足りぬ」

 「山上に風車を置いて、空気を循環させるんです」

 義親は即答した。


 「地下水の排水は?」

 「勾配をつけて自然に逃がす」


 「掘削はどうする。黒色火薬では危険が大きすぎる」

 義親の目がきらりと光った。

 「ダイナマイトです。ニトログリセリンを珪藻土に吸わせれば安定する。父さんの本で読みました」


 ざわめきが広がる。子供が口にした言葉に驚きと困惑が交錯した。


 「……ただ」

 義親は少し唇を噛んで、正直に続けた。

 「崩落のことは、僕にも分かりません」


 沈黙が訪れた。だが藤村晴人がゆっくりと立ち上がり、その沈黙を断ち切った。

 「義親の言葉は夢想ではない。原理は正しい。細部を詰めるのは諸君の役目だ」


 視線を受けた技術者たちは、互いに顔を見合わせ、やがて小さく頷き合った。

常陰州庁での第二回会議は、経済官僚、商工会代表、農民の使節までが集い、議場の空気は熱を帯びていた。机上には義親が描いたトンネルの設計図、義信の戦略図、そして財務局が用意した収支試算が並んでいる。


 「技術的に可能だとしても、建設費はどうする」

 財務官僚が険しい顔で声をあげた。

 「見積もりでは二百万円規模。常陰州だけで負担するのは到底不可能だ。信濃にも半分を負わせるとしても、十数年にわたって州財政を圧迫することになる」


 議員たちがざわめく。その時、義親が机に小さな紙を置いた。墨痕鮮やかな字で、算盤の珠を並べるように数字が記されていた。


 「僕なりに計算してみました」


 静まり返る場内。義親の声は幼いながらも澄んでいた。

 「トンネルが完成すれば、信濃から江戸までの輸送時間は三分の一に縮まります。馬で二週間かかっていたものが、鉄道で五日に。輸送費も半分に減る」


 彼は指で数字を追った。

 「経済効果は年間五十万円以上。建設費二百万円でも、四年から五年で回収できます」


 財務官の眉が動いた。

 「八歳の子供が投資収益を論じるとは……」


 だが義親は揺らがなかった。

 「数字は年齢を問いません。計算は正しいか、間違っているか、それだけです」


 商工会の代表が勢い込んで立ち上がった。

 「その通りだ! 信濃の絹と木材、鉱山の鉱。常陰の米や塩、そして港を通じた輸入品。それらが自由に往来できれば市場は倍に広がる! これは夢想ではなく現実の利益だ」


 農民代表も席を打ち鳴らした。

 「我らの米も信濃へ売れる。逆に肥料や道具をこちらに送ってくれるだろう。これぞ共存共栄の道ではないか!」


 議場が一斉に沸き立った。しかし反対派の議員はなおも食い下がった。

 「だが、工期はどうする? 十年、二十年に及ぶかもしれぬ。その間に時代が変わり、投資が無駄に終わる恐れはないのか」


 重苦しい空気に、藤村晴人が口を開いた。

 「工期の長短は問題ではない」

 五十七歳の総理は、地図を前に揺るがぬ声で続けた。

 「重要なのは“始める”ことだ。始めなければ、何年経とうと完成はない。だが始めれば、必ず前に進む」


 言葉は静かだったが、議場全体を押さえつける力を持っていた。


 そこへ義信が立ち上がり、軍事的視点から補足する。

 「峠を越える道は雪崩や凍結で閉ざされやすく、戦時の補給路として極めて不安定です。しかしトンネルなら、通年運行が可能。輸送だけでなく防衛戦略上も決定的に有利となります」


 「軍までが賛成するのか……」と議員たちの顔色が変わる。


 久信も弟に視線を向け、真剣な声で言った。

 「義親、お前は庶民の暮らしに目を向けてくれた。砂糖が二倍になれば町人の台所は壊滅する。染料が遅れれば織物工房は閉じる。外交官である僕でも、そこまで計算に入れてはいなかった」


 義親はわずかに照れながらも、胸を張った。

 「僕は宰相になるんだ。だから庶民を見なきゃ」


 三人の兄弟の視線が交わる。義信の軍事、久信の外交、義親の政治。藤村晴人はその姿を見つめながら、胸の奥に熱を感じた。


 「お前たちが揃えば、この国は動く」


 その言葉は独白に近かったが、議場にいた誰もが耳にしていた。

議場に静寂が戻る。長い討論の末、知事が議案を読み上げた。

 「――常陰州と信濃州は連携し、山岳横断鉄道の建設調査を共同で開始する」


 採決の鐘が鳴り、投票箱に票が投じられる。やがて結果が掲示された。

 賛成七五%、反対一五%、棄権一〇%。

 議場にどよめきが走り、賛成派の議員たちは安堵の息をついた。反対派も声を荒げはしなかった。決着はついたのだ。


 「……可決」

 木槌が鳴り響いた瞬間、信濃州の代表は目に涙をにじませた。

 「これで、我らの州は孤立から救われる。絹も米も、人も文化も、閉ざされた谷を越えて広がっていく」


 常陰州の農民代表も大きく頷いた。

 「我らの米も信濃に売れる。互いに支え合えば、必ず豊かになる」


 会場の後方に控えていた義親は、両手を膝に置き、深く息をついた。小さな肩がわずかに震えている。だが藤村晴人はその姿を見逃さなかった。


 「義親」

 父は壇上から声をかけた。場の視線が一斉に集まる。

 「お前が描いた図と数字が、この決断を動かした。八歳でありながら、政治の場に立つに足る才を示した」


 義親は驚きに目を瞬かせた。

 「僕は……一人じゃ何もできなかった」

 声はかすれ、しかし確かに響いた。

 「お兄ちゃんたちが知識を教えてくれた。技術者が方法を考えてくれた。父さんが背中を押してくれた。だから僕は紙に線を引けただけなんだ」


 藤村はゆっくりと頷いた。

 「それが政治だ。一人では何もできない。人を結び、力を束ね、道を作る。それが宰相の務めだ」


 義信が歩み寄り、弟の肩に手を置いた。

 「軍事の知識を活かしてくれて嬉しかった。お前が政治に変えてくれた」

 久信も続ける。

 「庶民の暮らしを忘れずに計算する……僕にはできなかった視点だ。ありがとう」


 三人の手が重なった。小さな炎のように、兄弟の絆が灯った。


 ⸻


 数日後、常陰州と信濃州の連携協定に署名がなされ、起工式が簡素に行われた。まだ雪深い谷に、鍬入れの音がこだまする。


 藤村は人々の前に立ち、声を張った。

 「このトンネルは、数年では完成しない。十年か、二十年かかるかもしれぬ。だが、今日この日から道は拓かれたのだ。

  義親、これがお前の最初の政治的功績だ」


 義親は小さく頷き、雪に覆われた地平を見つめた。そこにはまだ穴一つ掘られていない。だが彼には、未来へ伸びる一本の線が確かに見えていた。


 1882年(明治15年)立春。常陰州と信濃州は協定を結び、山岳横断鉄道の調査を始めた。幼き義親が描いた線は、やがて『信越トンネル』構想として歴史に刻まれる。兄たちの知と父の後押しを束ね、彼は初めて政治家として一歩を踏み出した。政治は独力ではなく、人と人を繋ぐ力――そのことを、八歳の宰相はすでに知っていた。

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