302話:(1882年・1月・小寒) 小寒の世界接続
1882年(明治15年)1月、小寒の頃。
江戸州・首相官邸は、夜の深い静寂に包まれていた。だが、その静けさを切り裂くように外務省の使者が雪を払いながら駆け込んだ。まだ暁には遠い時刻。執務室に灯るランプの火は小さく揺れ、書類の山を淡く照らし出していた。
「総理、大変にございます!」
使者は息を荒げ、懐から封緘を解いた電信の写しを取り出した。
「英国筋よりの急報にて――エジプトで軍人ウラービーが蜂起。掲げた言葉は“エジプト人のためのエジプト”。スエズ運河の安全保障が危機にございます」
藤村晴人は深く息を吐き、紙面を目で追った。震えるように並んだ活字は、一つひとつが世界を揺さぶる重みを持っていた。
「……遂に来たか」
低く呟く声は、雪嵐の気配にかき消されそうだった。
(1882年、ウラービー革命。記録にあった通りだ。スエズの運河が揺らげば、我が国の輸出入は直撃を受ける。久信が国際会議で訴えた“共同管理”の提案――あれは夢想などではなかった)
脳裏に浮かぶのは、数か月前の光景。十四歳の久信が壇上に立ち、必死に未来を説いた姿。しかし諸国の代表は冷笑し、言葉は顧みられなかった。だが現実は、その正しさを逆説的に証明しようとしている。
「世界は繋がっている……」
藤村は机に広げた世界地図を指でなぞった。極東の日本から紅海、地中海を越えて欧州へと続く航路。細い線で描かれたスエズの水路は、大地に刻まれた一本の血管のように、日本経済の命脈を担っている。
「この一本が塞がれれば……絹も茶も、すべて滞る」
その時、侍従が深々と頭を下げて入室した。
「総理……水戸から急報。藤田東湖先生がご病床に伏され、危篤とのこと」
「……東湖先生が」
藤村の胸に、二つの重石が同時にのしかかった。
一つはスエズの危機。
一つは己を育てた師の終焉。
ランプの炎が大きく揺れ、窓外には細かな雪が舞い始めていた。時代そのものが音を立てて動き出しているかのようであった。
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執務室を出て廊下を歩く藤村の背筋は、いつにも増して重かった。
「東湖先生……」
胸中でその名を繰り返す。
水戸学の権威であり、尊皇攘夷の象徴であった師。若き日に仕え、思想の根を授けてくれた人物。その東湖が危篤――自分を形づくった時代の一章が閉じようとしているのだ。
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「父上」
背後から呼ぶ声に振り返ると、軍装を整えた義信が立っていた。十五歳の長子は既に参謀の眼差しを持ち、冷気に霜を帯びた襟を正していた。
「スエズが……」
「ああ。エジプトで蜂起が起きた」
義信の瞳が鋭く光った。
「久信兄上の提案が、今こうして証明されたのですね」
「だが問題はこれからだ。戯言と退けられた言葉も、現実となった以上は行動で示さねばならぬ。お前は参謀本部と連携し、三つのシナリオを描け。短期・中期・長期――封鎖の度合いに応じた備えを」
「御意」
義信は即答し、足早に去っていった。
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その背が見えなくなると、小さな影が顔をのぞかせた。
「父さん……」
まだ八歳の義親である。手には統計表を抱えていた。
「もしスエズが閉じたら、日本に入ってくる砂糖の値段は二倍になる。輸入の染料も遅れるし、庶民は苦しくなるんだ。――僕、計算してみたんだよ」
藤村は思わず息を呑んだ。八歳の幼子が、外交と戦略を庶民生活に結びつけて考えている。
「……やはりお前は宰相の器だ」
その呟きは独り言に近く、義親も気づいたのか気づかぬのか、少し顔を赤らめて紙を胸に抱き寄せた。
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廊下に侍従の声が響いた。
「総理、馬車の支度が整いました。今出れば夜明け前に水戸へ」
藤村は窓外の雪を見やり、静かに頷いた。
世界の危機と師の死――二つの節目が、同じ夜に押し寄せていた。
夜明け前、雪を裂いて進む馬車の中。
藤村晴人は重く組んだ両手を解こうとせず、ひたすら前方を見据えていた。窓外にはまだ白く霞んだ水戸の城下が近づき、遠くに灯る行灯の光が揺れている。
「……東湖先生」
胸の奥で、再びその名を呼んだ。
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藤田東湖邸に着いた時、空はすでに淡く白み始めていた。庭先の松に積もった雪が重く枝を垂らし、門前には水戸学門下の弟子たちが列を成していた。誰も声を発さず、ただ深い沈黙のまま、主の最期を見届けようとしていた。
案内されて病床に入ると、藤田東湖は枕元に横たわり、痩せた頬に刻まれた皺が一層深く見えた。七十五歳――長き歳月を水戸学と尊皇攘夷に捧げてきた男の姿は、しかし眼光だけは衰えていなかった。
「晴人殿……来てくれたか」
掠れた声が、かろうじて口からこぼれた。
「先生……」
藤村は床几に膝をつき、師の枕元に身を寄せた。
「もう……時間がない」
東湖は苦しい呼吸の合間に、言葉を絞り出す。
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「私は、水戸学を信じてきた。尊皇攘夷こそが正しい道だと……ずっとそう思っていた」
かすれた声に、藤村は唇を固く結んだ。
「だが……お前を見て気づいた。時代は変わった。攘夷だけでは国は守れぬ」
「先生……」
「お前の歩む道は……尊皇開国。これが、新しい時代の水戸学かもしれぬ」
東湖の眼差しは揺らがなかった。その光は、もはや師の信念ではなく、未来を見据える祈りのように見えた。
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「義信は戦略家……久信は外交官……義親は宰相の器だ」
「三人が力を合わせれば、日本を導ける」
「世界は……繋がっている。そのことを……忘れるな」
その言葉を最後に、藤田東湖の胸の鼓動は、静かに、確かに途絶えた。
「先生――!」
藤村は深く頭を垂れ、震える声を押し殺した。
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その日、水戸の町には重い鐘の音が響き渡った。
師・藤田東湖、享年七十五。尊皇攘夷の象徴であり、水戸学の大成者であった巨人は、ついに世を去った。
葬儀は荘厳に執り行われ、藩士も門下生も庶民も参列した。雪に覆われた境内に無数の白布がはためき、冷たい風が参列者の涙を凍らせた。
藤村は弔辞に立ち、声を張った。
「先生は最期に、『世界は繋がっている』と申された。その御遺言を、我らは胸に刻みます」
その言葉に参列者たちは一斉に頷いた。
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三兄弟も列に並び、それぞれの胸に熱いものを抱えていた。
義信は拳を固く握った。
「先生は僕に兵学を授けてくださった。その誇りを背負う」
久信は深く息を吸った。
「外交の基礎を教えてくださったのも、先生だった」
義親は涙を拭いながら言った。
「五歳の頃、僕の拙い話にも真剣に耳を傾けてくれた……先生は僕の初めての理解者だった」
三人は師の墓前に膝をつき、声を揃えた。
「先生の遺志を継ぎます」
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雪は絶え間なく降り続いていた。
白き大地に刻まれた誓いは、静かに、しかし確かに新しい時代への一歩となってゆくのだった。
国会議事堂の本会議場には、重苦しい空気が流れていた。
「エジプトは欧州の問題にすぎぬ。我ら極東の日本が関わる筋合いはない!」
保守派の議員が声を荒げる。
「軍艦を増やす方が先決だ! よそ事に税を費やす余裕はない!」
別の議員も同調し、拍手が起こった。
藤村晴人はゆっくりと演壇に立ち、傍らに広げた世界地図を示した。
「諸君、世界は繋がっている」
その言葉に議場はざわめいた。亡き藤田東湖の最期の言葉を、そのまま借りる形だった。
「スエズ運河が封鎖されれば、我が国の絹も茶も、欧州へは届かない。輸送は喜望峰を経るしかなくなり、日数は倍、費用は三倍。貿易収支は崩壊する。これは“遠い欧州の話”ではない。我が国の生存の問題だ」
議員たちの顔に緊張が走る。地図に赤線で描かれた航路が、視覚的にその危機を突きつけていた。
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同じ頃、参謀本部では十五歳の義信が机に広げた地図の上に書き込みを続けていた。
「スエズ封鎖の三つのシナリオを考える」
義信の声は少年らしさを失いつつあり、冷徹な計算に満ちていた。
「一、短期封鎖――一か月以内。被害は限定的」
「二、中期封鎖――三か月から半年。輸送費高騰により国内市場が混乱」
「三、長期封鎖――一年以上。欧州航路は事実上麻痺。代替航路の確保が必須」
参謀たちは顔を見合わせた。
「十五歳の子供が……」
「だが、論理は筋が通っている」
義信は手を止めず続けた。
「我が国の取るべき道は三つ。第一に、久信が唱えた“国際運河管理”を正式に提案すること。第二に、パナマ地峡を経由する太平洋—大西洋航路を念頭に置き、遠洋航路計画を検討すること。第三に、アジア域内の貿易を強化し、欧州に頼らぬ経済基盤を作ること」
軍部の将校が低く唸った。
「……十五歳が世界戦略を語るとは。しかし、確かに正しい」
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一方、江戸州・首相邸では三兄弟が深夜の卓を囲んでいた。
ランプの灯が揺れる中、義信の書き上げた戦略図と、義親の統計表が机に並ぶ。
「兄上、軍事の見立ては理解した。だが、庶民の生活を忘れてはいけない」
義親は小さな指で紙を押さえ、数字を示した。
「輸入品の砂糖が二倍になれば、町人の生活は直撃を受ける。染料が遅れれば織物の工房も困窮する。外交も軍略も、庶民の台所に繋がっているんだ」
久信は驚き、目を見開いた。
「……そこまで考えていたのか」
「僕は宰相になるんだ。だから庶民を見なきゃいけない」
義親は恥ずかしそうに言ったが、兄たちは真剣に頷いた。
義信は笑みを浮かべ、義親の肩に手を置いた。
「お前の視点があってこそ、戦略は完成する」
久信も手を差し伸べた。
「僕はかつて、一人で戦おうとして失敗した。でも、今度は違う。三人で力を合わせる」
三人の手が重なった。
ランプの光が、まるで小さな炎のようにその誓いを照らした。
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翌日、陸奥宗光が久信を訪ねた。
「英国が国際会議を招集した。日本も招かれている」
「……また僕が行くのですか」
久信の声には不安が混じっていた。
「そうだ。だが今度は違う。お前が“予言”した危機が現実となった。各国は、もはやお前を子供とは見ない。先見の明を持つ者として扱う」
久信は唇を結び、静かに頷いた。
「学びました。正しいだけでは足りない。正しい時に、正しい方法で伝えなければ」
陸奥はにやりと笑った。
「その通りだ。だから今度は、きっと成功する」
久信の派遣が決まった夜。藤村家の書斎には、長男・義信、次男・久信、三男・義親、そして父・藤村晴人が集まっていた。
義信は戦略図を机に広げ、指で要点を示した。
「久信、軍略的な裏付けは整えてある。敵国がどう動いても、これで理屈は通る」
義親は小さな紙束を抱え、兄の隣に並んだ。
「僕は庶民の暮らしを数字にした。砂糖の値段も、染料の遅延も……全部計算したよ。外交は兵力だけじゃなく、人々の生活にも繋がってるんだ」
藤村は静かに三人を見渡し、ゆっくりと頷いた。
「東湖先生は最期に言われた。“世界は繋がっている”と。――日本も、我ら一家も同じだ。互いに支え合ってこそ道は開ける」
久信は深く息を吸い、震える胸を押さえた。十四歳の身に託された責務は重すぎる。だが、兄と弟、そして父の言葉が確かに背を押していた。
「……僕は、逃げません」
義信が弟の肩に手を置き、義親も小さな掌を重ねる。三兄弟の手がひとつに結ばれ、ランプの炎がその決意を照らした。
外では小寒の雪がしんしんと降り積もっていた。白き帳の向こうには、動乱のエジプトと、揺れるスエズの水路がある。
そして日本からは、師の遺言を胸にした十四歳の少年が、再び世界の会議に挑むのだった。
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1882年小寒、師・藤田東湖の死とエジプト動乱という二つの衝撃が、日本を世界へと接続させた。
三兄弟の誓いは、この夜の雪と共に刻まれた。
――日本は、もはや極東の孤島ではない。