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300話:(1881年・立冬)外交新星と蒔かれた種

立冬の朝、外務省の回廊は白い光を長く引き伸ばし、磨き上げられた床板に薄銀の筋を置いていた。応接前の控えでは各国公使館からの差紙が次々と運び込まれ、浅葱の束が皿の上で静かに積み上がっていく。陸奥宗光は硝子窓の曇りを袖でぬぐい、砂時計を逆さにすると、扉の方へ目をやった。


 「藤村久信――外務省補佐官として任ずる。今日からだ」


 十四歳の少年が、深く礼をして一歩、また一歩と踏み入る。年齢に似合わぬ落ち着きだが、踵の鳴りはまだ軽い。陸奥は頷き、手元の認証書に朱を落とした。


 「異議は出よう。だが、必要なのは年齢ではない。耳と目と、言葉の温度だ」


 午前の省議は案の定、波だった。

 「子供を省議に? 前例がない」

 「列国往来の場で、不測の失言があっては困る」

 反対の声が重なるたび、陸奥は短く切り返した。

 「前例は、必要ならば作る。――実績は、すでにある」


 江戸州鉄道会議での調停、州間相互扶助の設計、白露の折の北方危機での資料編纂。紙片に箇条で並べた久信の働きが、会議卓に静かな圧を生んだ。最後に財務・内務・海軍が順に沈黙し、異議なしの合図にうなずくと、陸奥は立ち上がった。


 「午後、代表団を編成する。議題はスエズの安全と地中海航路の協調。久信、君は“耳”として同行し、必要とあれば“舌”にもなれ」


 省議が散じると、待っていた二人の兄が廊下の陰から現れた。

 義信は茶色の革紐で束ねた地図と表を差し出す。

 「軍船の石炭搭載量、回航日数、運河封鎖時の軍事的損失――要点はここに。言葉より図が早い」


 久信は受け取り、指先で紙の縁をなぞった。

 「ありがとう。図の“温度”は俺が整える」


 義親は両腕で抱えるほどの分厚い帳面を差し出した。

 「往復航路の保険料、運河通行料、積替えコスト、港湾滞船料。全部、相場の実値だよ。『利益の帯』は太いほど、人は素直に動く」


 紙面には細い字で数字がびっしりと並んでいた。俵、樽、石炭、時間。幼い書き手の癖はあるのに、計算は驚くほど端正だ。久信は思わず笑み、弟の頭を軽く叩いた。


 「助かる。二人の“背骨”があれば、俺は“舌”に専念できる」


 父の執務室へ向かうと、藤村晴人は窓辺で書付けを巻き、静かに振り返った。五十七の顔に、幾つもの冬を越えた皺が刻まれている。


 「――任命の報は受けた。陸奥殿の目は確かだ」


 「父上、俺は、やり切ります」


 晴人は机の抽斗から細長い封を取り出した。中には薄い和紙が二枚。片方には“言ってよいこと”、もう片方には“言わずに置くこと”が箇条書きになっている。


 「外交の場では、何を語るかと同じくらい、何を語らぬかが力になる。これは私なりの習いだ。破り捨てて構わぬ。ただ、書いておけば、迷ったとき紙が背中を押す」


 久信は封を受け取り、胸の内側に収めた。

 「忘れません。言葉の温度と、沈黙の位置」


 昼前、代表団は外務省前庭に集合した。陸奥、通訳官、海軍の随員、会計官。そして末席に、濃藍の詰襟を正した久信。門外には各国公使館の目があり、馬車が並び、鉄製の車輪が霜を踏む。


 「行こう」

 陸奥の一言で、隊列が動き出す。行き先は江戸州の国際会議場。大理石の柱、半円形の議場、各国の旗が冷たい光を返す空間だ。

 「君は三日、発言するな。耳と目を使え。休憩の廊でこそ、本音は零れる」

 道すがら、陸奥が低く告げた。

 「はい。観るのは口元ではなく喉、聴くのは語尾の沈み――学びました」


 会議場は、入った瞬間に空気の密度が変わる場所だった。英国、仏国、独国、露国、墺、伊。色の違う軍帽と、異なる調子の咳払い。久信は席に着き、正面の演壇ではなく、左右の列を順に見渡した。


 英国代表が“スエズ”と言った瞬間、右手の指が無意識に整列する。

 仏国代表が“運河”と発音すると、声は上ずらず、ごく浅く沈む。

 対立を演じる言葉の下で、身体が示す小さな矛盾。ノートに細い字が走る。

 〈英:支配の語、呼吸が早まる=緊張/仏:共同の語、喉の上下小=譲歩の余地〉


 休憩。

 廊下の柱影で、英の副官が小声で漏らす。

 「本国の指示だ、対立を保て――だが現場は疲弊している」

 少し離れたソファで、仏の書記官が囁く。

 「協力できれば、積荷の遅延は半分になる。だが、面子がある」

 誰も少年に注意を払わない。彼はただ盆に載せられたティーカップの数を数えるふりをしながら、語尾の温度だけを拾い集めた。


 席に戻ると、陸奥が視線だけで問う。

 久信は短く、数字で返す。指二本、そして三本――“二者の利害が三点で重なる”。

 陸奥の目が、わずかに細くなる。

 「よい。まだ話すな。重なり目が“形”になったとき、初めて舌を使え」


 午後、配られた議題書に、久信は兄たちから受け取った表と地図をそっと重ねた。軍の紙は損失を、商の紙は利益を語る。二枚を透かして重ねると、白い部分――“誰も傷つかず、誰かが得をする”帯が浮かび上がる。


 (ここに、言葉を置く)


 心の中でそう定めると、彼はペンを置き、また耳になった。発言の時は、まだ来ていない。

 立冬の薄い日差しが窓の高い位置から差し、議場の塵がきらめいた。

 十四歳の補佐官は、まだ黙っている。だが、沈黙は空ではない。観察で満ちている。

会議四日目。議場の空気は、前日までの小競り合いを経て一層張りつめていた。壁面に並ぶ各国の旗は、冷たい光を受けて硬質に揺らぎ、互いの威信を主張しているかのようだった。


 久信は深く息を吸い、挙手した。十四歳の手は細いが、動きは確かで、注目を集めた。議長が目を細めて頷き、発言を許す。


 「諸国代表の皆さま――」

 久信は英語で始め、その後すぐに流暢な仏語に切り替えた。

 「この会議の核心は、運河の軍事支配ではなく、その安全確保にあると存じます。もし運河が閉ざされれば、年間五百万ポンド相当の貿易が損なわれる。それは英仏いずれの国益にも反する」


 会場の数名がわずかに身じろぎした。続けて、義信から託された軍事データを簡潔に示し、義親の統計を交えて数字を重ねる。


 「ゆえに、私は提案します。英仏両国が共同で“国際運河管理委員会”を設け、各国の監視下で安全を担保するのです」


 一瞬の静寂。しかし、すぐに鋭い声が飛ぶ。

 「我が英国は単独で運河を守れる。なぜ他国と分け合う必要がある」

 「共同管理は、事実上イギリスの軍事優位を認めるに等しい。我がフランスの発言権は失われる」

 「東洋の小国が欧州の政に口を挟むなど、百年早い」


 怒号に似た反論が、半円の議場に響き渡る。久信の言葉は、たしかに届いた。しかしそれ以上に、彼が「子供」であることが議場を支配していた。


 陸奥宗光が静かに立ち上がった。

 「本提案は、あくまで参考意見である」

 冷静な声が、怒声を受け止めて散らす。だが結論は覆らない。久信の提案は、事実上の拒絶に終わった。


 議場を後にした久信の足は重く、背筋をまっすぐに保とうとすればするほど、胸の奥に熱いものがこみ上げてきた。宿舎に戻ると、堪えきれず机に突っ伏し、声を殺して泣いた。


 「三十か国語も、鉄道会議での成果も、白露の夜の努力も……何の意味もなかった」

 「結局、僕はただの子供だ……」


 涙で濡れたノートの隅には、彼が議場で気づいた観察の断片が残っていた。

 〈英:支配を強調するたび、呼吸が乱れる=不安〉

 〈仏:協調を口にするとき、声が沈む=本音〉


 だが、今の彼にはそれを読む余力もなかった。ただ、自分の小ささだけが胸を締めつけていた。

翌朝。

 重苦しい空気が漂う宿舎の一室で、久信はベッドから起き上がることもできなかった。


 窓の外では冬支度の枯葉が舞っている。

 だが心はそれすら映さない。


 「……もう、行けません」


 会議に向かうよう促す陸奥宗光に、顔を伏せたまま答えた。

 かすれた声には、前夜の涙の跡がまだ残っている。


 その日の午後、父・藤村晴人が静かに部屋へ入ってきた。


 五十七歳。

 白髪まじりのこめかみ、やややつれた頬。

 それでも眼差しは鋭く、総理としての重責が刻まれていた。


 「久信」


 呼ぶ声に、息子は小さく肩をすくめる。


 「父上……僕は、もう無理なんです」


 掠れた声で絞り出すと、久信は膝に顔を埋めた。


 「三十か国語を学んでも、過去の成功があっても、誰も僕を相手にしない。

 ただの子供だと笑われるだけでした」


 晴人はしばらく黙り、机の端に腰をおろした。

 肩越しに差し込む冬の光が、紙束の縁を白く縁取っていた。


 「久信……お前の提案は、今は誰にも受け入れられまい。だがな――」


 父は言葉を選ぶように間を置いた。


 「外交というものは、時に二十年、三十年をかけて実を結ぶ。

 方向性さえ誤っていなければ、やがて花開くこともあるのだ」


 「……でも、それをどうして言い切れるんですか」


 久信の声はかすれていた。


 晴人はわずかに微笑し、息子の肩に手を置く。


 「証拠はいまなくてよい。

 未来は、今日この瞬間に蒔いた種から育つ。


 お前は、その種を蒔いたのだ」


 久信の胸の奥に、わずかな温もりが灯った。


 完全な納得ではない。

 だが「無意味ではなかった」と父が断じてくれたことが、折れかけた背骨に細い芯を通す。


 その夜、外務卿・陸奥宗光も顔を見せた。


 「確かに諸国は口では退けた。だが――」


 「イギリス代表は一瞬だけ目を見開いた。

 フランス代表はこっそりメモを取った。

 ドイツ代表は副官に耳打ちをしていた」


 「彼らは認めはしなかった。

 だが心の奥では“可能性”を感じていた。

 十四歳の子供が二十年先を見据えている、その事実だけで衝撃なのだ」


 遅れて、兄たちから走り書きが届いた。


 義信は簡潔に図を添えた。――「筋は通っている。臆するな」

 義親は幼い筆跡で書いた。――「転んだところに印がつく。次に走る道しるべになる」


 蝋燭の光に照らされた紙を見つめながら、久信は深く息を吸った。


 「……僕は、逃げません」


 窓の外、立冬の風が冷たく街路を吹き抜ける。

 その風に背中を押されるように、少年は再び外交の舞台に立つ覚悟を固めた。

会議の最終日。

 厚い絨毯を敷いた大広間には、各国の代表が整然と並んでいた。冬の光が高窓から差し込み、冷えた空気を白く照らす。


 久信は静かに席に着いた。

 前日までの涙と迷いは消え、瞳には凛とした光が宿っている。


 議長が開会を告げると、各国の代表は形式的な演説を繰り返した。

 領土の安全保障、軍備拡張、通商権の主張――。

 そのどれもが、相手をけん制する言葉にすぎなかった。


 やがて、沈黙の一瞬。

 久信は立ち上がった。


 「諸国の代表閣下」


 その声は幼さを残しつつも、張りのある響きで場を貫いた。


 「私は十四歳。経験も浅く、皆様から見れば取るに足らぬ存在でしょう。

 ですが、私の祖国はこれからも世界と共に歩むため、学び、そして提案する義務があります」


 イギリス代表が眉をひそめ、フランス代表が組んだ腕を解く。

 ドイツ代表は机を指で叩いたまま動きを止めた。


 「昨日、私は“国際運河管理委員会”を提案しました。

 諸国の反対は理解しています。ですが――」


 久信は一息置き、会場を見渡した。


 「いまは否とされても、二十年、三十年後に必ず必要になる。

 その時、人々は今日の議事録を開き、思い出すでしょう。

 “十四歳の日本人がここでその種を蒔いた”と」


 ざわめきが広がった。

 侮蔑でも嘲笑でもない。驚きと、わずかな敬意を帯びたざわめきだった。


 議長は軽く咳払いをして進行を続けたが、各国代表の視線はなお久信に注がれていた。


 その日の会議は、大きな決定を見ぬまま閉じた。

 だが、イギリスの副官は懐にメモをしまい、フランス代表は帰国後の報告に「日本の若き発言者に注目すべし」と書き加えた。

 ドイツは冷笑を崩さなかったが、密かに久信の情報収集を命じていた。


 宿舎に戻ると、陸奥が口元に笑みを浮かべた。

 「久信殿、結果は出なかった。しかし――あの場に残った爪痕は小さくない」


 久信は深く息を吐いた。

 「父上の言葉、陸奥卿の言葉……そして兄上たちの支えがなければ、立てませんでした」


 義信の冷静な軍略、義親の緻密な数字。

 すべてを背にして、自分は言葉を投げたのだ。


 立冬の夜、冷たい風が窓を揺らした。

 だが、その音はもはや胸を凍らせはしなかった。


 久信の心には、一つの誓いが芽吹いていた。


 ――外交とは、今日の勝敗ではない。

 ――未来へ種を蒔き続ける営みだ。


 その灯火を抱き、十四歳の外交新星は再び歩み出した。

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