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299話:(1881年・寒露)農政危機と八歳の裁定

1881年、寒露の頃。江戸州・新宿。

 甲州街道に面して広がる藤村家の邸は、およそ三万坪。表門から母屋まで砂利の参道がゆるく湾曲し、蔵が八棟、米蔵・書庫・兵具蔵・器材庫が中庭を囲む。奥手には荷車の回し場と馬屋、簡易の荷捌き台、雨天でも積み替えができる下屋げやが連なり、外門脇の見張り櫓からは街道を行き交う荷馬車と旅籠の灯が見渡せた。ここは武蔵野台地の玄関口、江戸と甲斐・信濃を結ぶ物流の節目である。昼夜を問わず米俵や酒樽が運び込まれ、威勢の掛け声と値切りの応酬が敷地の壁越しにも届く。


 八歳の義親にとって、経済は机上の学びではない。往来の俵こそ教科書であり、荷捌き台で交わされる言葉こそ実地の授業だった。母屋の一隅――書庫蔵に隣接する小間には、農産物統計と米相場表、そして父・藤村が右筆に書き写させ、年々増補してきた “知識帳” が積まれている。薄い和紙の背には「需給」「運賃」「裁定」「保管」「品質」といった小背文字。頁端には付箋が林立し、欄外には父や家人の筆で注が重ねられていた。


 その日、常陰州からの報せが届いた。大豊作で米価は一石六十円まで下落。一方、新宿市場は百円を超え、庶民は嘆いている。義親は “知識帳/需給” の頁に指を滑らせ、机上の用紙に素早く書き込んだ。


  常陰州:六十円/石(余剰)

  江戸州(新宿市場):百円/石(不足)

  輸送費:十円/石

  ――差額:三十円/石


 「常陰で七十円で買って、江戸で九十円で売れば……農民も救われ、町も助かり、国庫に二十円が残る」


 小さな呟きは、幼い夢想ではない。義親は、兄・義信から譲られた計算用紙に “知識帳/空間的価格差” の要点を写し、自分の言葉で置き換えて理解していた。机の隅には自作の路線図。常陰から銚子に出て江戸川舟運で内陸に揚げ、甲州街道を経て藤村家の荷捌き台へ持ち込む水陸併用の道筋。通行札、積替え賃、保管料、荷痛みの見込み損、雨天時の遅延――邸内の施設を使う場合と外部倉を使う場合の差まで、費目が細かく書き込まれている。


 「複雑な補助金を先に組むより、まずは太い “橋渡し” を一本通す。国が裁定に入れば詰まりは解ける」


 障子の向こうから、街道の喧噪が響く。

 「百円は高すぎる!」

 「いや、俵が足りねえ!」

 「常陰じゃ投げ売りだってよ!」

 邸内の米蔵では保管役が反響を真似て笑い、荷捌き台では小頭が荷の回し順を読み上げていた。数字と現場の声が、義親の思考を同じ方向へ押し出していく。


 義親は統計表と計算紙、“知識帳” の控えを胸に抱え、座敷へ駆けた。居間では、父と兄二人が農政会議へ出す原案を前に議論を続けている。


 「市場介入は時期尚早だ」

 「いや、買い叩きが続けば農家が立たぬ」

 「国庫の余力にも限りがある」


 言葉が交わる間を縫って、義親は小さな体で畳の中央へ出た。


 「簡単なんだよ」


 静まり返る。義親は震える指で紙を広げ、“知識帳/裁定” に挟んだ付箋を示した。


 「常陰で七十円で買い、江戸で九十円で売る。根拠はここ。余剰と不足の差は運賃と手間で埋まるはずなのに、いまは中継の仕組みが細いから詰まっている。国が一本、太い管を臨時に通せばいい。買いは邸内の米蔵で受け、雨天は下屋で積み替え。保管は蔵番が帳面を付ければ損耗率を抑えられる」


 義信は計算を追い、頷く。

 「運賃十、買い上げ七十、売り九十、残二十。数字は確かだ。兵站表の式にも乗る」


 久信が苦笑して肩をすくめた。

 「そのまま州知事に出しても落ちない理屈だな。言い回しは俺が磨く」


 藤村晴人は視線を “知識帳” に落とし、ゆっくりと微笑した。

 「義親、お前の言はことわりに立ち、現場に支えられている。――よし、まずは試す。買い付け先と売り先を限定し、数量を絞る。失敗しても傷の浅い設計で始めよう。蔵番、下屋、荷車、小頭、皆に段取りを回せ」


 「図も要ります」

 義親が先回りして答える。

 「余剰と不足を色で塗り、運賃を帯で示します。蔵と荷捌き台の動線も引いて、商人にも一目で分かるように」


 外は薄曇り。三万坪の庭に秋の風が通り、笹鳴りが障子を震わせた。小さな指が紙の端をしっかり押さえる。――次は帳面ではなく、蔵と舟と車、そして人の心を動かす番だ。邸の広さは、学びの余白であると同時に、実行の舞台でもあった。

 翌朝、江戸州・霞が関にある農政局の会議室には、農政官僚、経済学士、各州の代表が居並び、空気は張り詰めていた。

 壁には、常陰・東北・江戸を結ぶ米の生産・流通の地図が広げられ、机の上には米相場の帳簿が山のように積まれている。前夜から続く討議で誰もが疲弊し、茶器は冷えたままになっていた。


 「米価の下落は一時的現象にすぎぬ。放置しても市場は必ず均衡する」

 「だが、その均衡を待つ間に農民が倒れる。補助金を下ろすしかあるまい」

 「補助金など浪費だ! 国庫の余力を食い潰すだけだ」


 怒号と反論が飛び交い、議場はまるで戦場のようだった。藤村晴人は議長席に静かに腰を掛け、手元の帳簿を閉じた。彼は議論が煮詰まる瞬間を、わざと待っていたのだ。


 その時、扉が小さく開き、場に似つかわしくない小柄な影が入ってきた。

 義親、八歳。父の邸宅で準備した大きな紙束を胸に抱え、怯まずに歩み出た。


 「僕の考えを聞いてください」


 どよめきが起きた。各州の代表は眉をひそめ、学士たちは顔を見合わせる。子供がこの場に? しかし藤村は制止せず、むしろ頷いて席を譲った。


 義親は紙を広げ、震える指で数字を示した。


 「常陰で七十円で買って、江戸で九十円で売ればいい。農民も、江戸の庶民も助かり、国庫には二十円が残ります」


 ざわつきが広がる。経済学士の一人が鼻で笑った。

 「机上の空論だ。そんな簡単にいくものか」


 藤村はすぐに切り返した。

 「では、この案の欠陥を具体的に示していただこう」


 学士は一瞬、言葉を詰まらせた。計算自体に矛盾はない。輸送費を加えても裁定取引の余地は三十円残る。理論は正しいのだ。


 「だが……現場は複雑だ。米俵は湿気や傷みで損なわれる。輸送路も限られる」

 「それならば数量を絞って試験導入すればいい」


 藤村の一言に、議場が揺れた。八歳の発言を、そのまま政策に取り入れる気なのか、と。


 しかし義親は怯まず、さらに図を掲げた。

 「これは父さんの“知識帳”にある考えを使ったんだ。需要と供給の差を国が橋渡しすれば、みんな得をする。難しい仕組みはいらない」


 地図には、常陰から銚子に出て、江戸川を経て新宿市場に米を運び込むルートが赤で描かれていた。馬車輸送と舟運の費用比較、通行札や積替え賃までが細かに書き込まれている。


 「余剰が六十円、不足が百円。輸送費は十円。国が橋渡しすれば三十円が浮きます。そのうち二十円を国が取り、十円を余剰州の農民に上乗せして払えば、みんな納得するはずです」


 会議室は沈黙に包まれた。八歳の声は幼いが、数字と図で裏付けられた主張は揺るぎなかった。


 久信が小声で父に囁いた。

 「兄さんや僕が言うより説得力があるな」


 義信は資料を覗き込み、眉を上げた。

 「裁定取引……数理的には完全に正しい。運賃、損耗率まで計算している。八歳の計算じゃない」


 経済学士の一人が苛立ちを隠せずに言い放った。

 「理論は正しいかもしれん。しかし八歳の子供の提案を、国家政策に据えるなど前代未聞だ」


 その瞬間、藤村が机を叩いた。

 「年齢は問題ではない。理論に欠陥があるなら指摘せよ。欠陥がないなら、提案者が子供であろうと関係ない」


 誰も反論できなかった。


 沈黙を破ったのは、蝦夷州から来た代表だった。

 「……我が州でも余剰が出ている。試みに千石、国に売ってみてもよい」


 これを皮切りに、各州の代表が次々と応じる。

 「うちも五百石なら」

 「試験規模なら反対はしない」


 こうして八歳の提案は、一笑に付されるどころか、実際に試験導入されることになった。


 父は義親の肩に手を置き、低く囁いた。

 「お前の声は、机上ではなく新宿の現場を背負っている。だから通ったのだ」


 義親の胸は熱くなった。数字だけでなく、人々の声と生活を基盤にした自分の考えが、大人たちを動かしたのだ。

翌週、常陰州の港町・銚子では、国の役人と農民たちが米俵を積み出す作業に追われていた。

 「これで七十円で買い取ってもらえるなら、うちもやっていける……」

 農民たちは安堵の表情を浮かべていた。今まで六十円でも買い手がつかず、破産寸前の家も少なくなかったからだ。


 だが、早くも第一の問題が立ち上がった。

 積み込みを監督していた役人が顔をしかめる。

 「雨だ! 米俵が濡れてしまう。倉庫が足りん」


 銚子港には大型の保管倉庫がなく、野積みが常態化していた。防水の油紙で覆っても、長雨にさらされれば俵は黴び、重量も増して輸送効率が落ちる。


 次に立ちはだかったのは、輸送日数だった。

 義親の計算では、舟運と馬車を組み合わせれば三日で江戸新宿市場に届くはずだった。だが実際には、川の水位低下で舟が遅れ、積み替えも手間取り、到着まで七日を要した。到着した米の一部は既に虫がつき、値崩れの原因となってしまった。


 さらに、江戸の市場では思わぬ反発が起きた。

 「常陰の米は味が落ちる。江戸っ子はやっぱり佐倉か武蔵の米じゃなきゃ」

 庶民は値段が下がったことを歓迎しつつも、品質への不満を隠さなかった。

 九十円で売り出した常陰米は、確かに安価で人気を集めたが、一部では「二級品扱い」として売れ残る俵も出始めた。


 農政局の役人が報告書を持って新宿の藤村邸に駆け込むと、義親は目を丸くした。

 「三日じゃなくて七日……? そんなはずない」

 自分が机の上で導いた数字と、現場の現実の間には大きな隔たりがあった。


 藤村晴人は報告書を黙って読み、静かに言った。

 「数字は正しい。だが、数字だけでは世の中は動かん。雨もあれば虫もいる。人の心も動く」


 義親は唇を噛みしめた。

 「僕は……現場を見ていなかった」


 その夜、義信と久信が弟を励ますように机を囲んだ。

 義信は輸送の統計を見せながら言った。

 「お前の計算は、僕の軍事輸送の理論と同じだ。理屈は正しい。でも、戦場では必ず予定外が起こる」

 久信も頷いた。

 「説得も同じだ。正しい理屈を言っても、人は感情で動く。だからこそ“制度”に落とし込まないと続かない」


 義親は涙をにじませながらも、兄たちの言葉を受け止めた。

 「理論だけじゃ足りない……。現場と人の心を知らなきゃ」


 その翌日、農政局の臨時報告が届いた。

 試験導入で買い上げられた五千石のうち、江戸で売れたのは三千五百石。残りは価格をさらに下げて処分せざるを得なかった。しかし農民の収入は確かに一部回復し、国庫も赤字にはならなかった。


 部分的な成功、だが完璧ではない。


 藤村は会議室で静かに言った。

 「制度は改良すればいい。初めから完璧な仕組みなどない。だが義親の提案がなければ、農民は今年の寒露を越せなかった」


 義親は拳を握り、深く頷いた。

 「次は……僕も現場を見に行きます」


 父は少し笑って答えた。

 「護衛をつける。来年の農繁期には、お前を常陰の田に立たせてやろう」


 八歳の天才は、机上の学問から初めて現場へ踏み出す決意を固めた。

秋の陽が短くなり、寒露の冷たい風が新宿の藤村邸を撫でていた。庭の大銀杏は半分ほど葉を落とし、黄色い絨毯を敷いたように地面を染めていた。


 その日の夕刻、藤村家の広間には義信・久信・義親、そして藤村晴人が集まっていた。農政局からの最終報告が届き、試験的に導入した「州間農産物調整」は一応の成果を収めたとされた。


 「五千石のうち三千五百石が予定どおり売れ、残りは値崩れしたものの……農民の手取りは前年より増えました」

 読み上げた久信の声は、安堵と悔しさの入り混じったものだった。


 義信が眉を寄せて表を覗き込む。

 「計算上は黒字だな。だが余剰をすべて吸収するには程遠い」


 義親はうつむき、指先で机の木目をなぞっていた。

 「僕の計算は正しかった。でも……三日で届くと思った米が七日かかって、倉庫もなくて、江戸の人には味が悪いって言われた」

 小さな声は震えていた。


 藤村は静かに頷いた。

 「理論は出発点だ。だが現場を歩いて初めて“制度”になる。お前はそれを学んだ」


 義親は顔を上げ、強い眼差しで父を見返した。

 「次は現場に行かせてください。田んぼを見て、農民と話して、自分の目で確かめます」


 藤村はしばらく黙したのち、にやりと笑んだ。

 「護衛をつける。来年の農繁期には、お前を常陰の田に立たせてやろう」


 兄たちも笑みを浮かべた。義信は弟の肩に手を置き、

 「お前が机で出した理論は間違ってなかった。だが次は、俺の兵站計算と組み合わせて、もっと確かな仕組みにしよう」

 久信も続けた。

 「州知事たちは、すでにお前の名を知っている。八歳の小僧だとはもう笑わない。次は俺がその信用を広げる」


 義親の胸は熱くなった。自分一人の力ではなかった。兄の統計、兄の交渉、そして父の支え――家族があってこそ制度は動いたのだ。


 翌朝、農政局は臨時閣議で「州間農産物調整制度」の恒久化を議題に上げた。

 - 余剰州での国の買い取り価格を安定化させること

 - 不足州への輸送ルートを確立すること

 - 各州間の負担を調整する基金を設けること

これらの三本柱が検討され、翌年以降の制度化に向けて調整が始まった。


 広間の窓から見える甲州街道には、今日も荷車が行き交い、商人たちの声が飛び交っていた。義親はその喧噪を聞きながら、心の中で静かに誓った。

 「次は、理論と現実を繋ぐ仕組みを作る」


 寒露の季節に芽生えた小さな制度は、未熟ながらも新しい農政の一歩となった。

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