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298話:(1881年・白露)北方圧力と八歳の天才

深夜二時、首相官邸の石畳は白露を吸って黒く光り、夜番の合図が二度鳴った。蝦夷州庁からの最優先電報が運び込まれ、封の朱が乾ききらぬうちに、藤村晴人は書斎のランプを引き寄せた。


 〈宗谷海峡 露艦十二 威嚇射 三千では抑止困難〉


 紙片の震えは、届けた走使の呼気の乱れか、それとも北の波頭の寒さか。藤村は短く息を飲み、脇卓の呼鈴を鳴らした。三時、臨時の閣議。江戸州・軍務総裁・財務・通信、そして蝦夷州の代行が電信越しに結ばれる段取りが、無言のうちに組み上がっていく。


 扉の内側――壁一面の帳場棚には、革紐で綴じた薄冊が整然と並んでいる。そこに収まっているのは、藤村が安政二年にこの時代へ来る以前の八年間の行政職で培った知見を基にした整理と、携行した端末の中身を、端末が寿命を迎えるまで右筆に書写させ続けて写し取った資料である。どの冊の背にも細い墨で題が立つ。〈北方航路・露艦行動記録抄〉〈氷季補給動線〉〈州兵動員所要・日割〉……必要な頁へ、彼の指は迷いなく伸びた。


 「軍務総裁を起こせ。蝦夷の線は“示威八、侵攻二”の想定で両睨みだ」


 独白は誰に向けるでもない。だが、背後で右筆が筆を走らせ、伝令が廊下の暗がりに消えていく。五分後、松平春嶽からの返電が入る。〈援軍五千 即応は一千 残りは四十八時間〉。机上の地図に、藤村は黒鉛筆で小さく×印を打った。宗谷、樺太西岸、根室。露艦が“見せたい”海面と“測りたい”海面は一致しない。


 「……常備は三千、欲しいのは五千。だが、州はそれぞれ事情を抱える」


 椅子の背に上衣を掛け、藤村は別の束を引き抜く。財務省が作ったばかりの円建て帳簿と、各州の両建て併記の比較表だ。移行の混乱を抑えるため、当分は両記載で進める――そう決めたのは、つい先日の国家鉄道会議だった。北の非常にも、貨幣の言葉は混乱なく通る必要がある。


 午前三時、緊急閣議が始まる。江戸州庁の会議線、常陰州の州都、水戸、札幌、横浜――複式の交換機を鳴らし合わせ、各線がようやく静まる瞬間を見計らって、藤村は口を開いた。


 「蝦夷より最優先。露艦十二、宗谷に出現。威嚇射。――軍務総裁」


 「援軍五千を要す。即応一千は帝都近衛より迂回、四十八時間で二千、七十二時間で残二千」と軍務総裁。そこへ、州側の慎重論が重なる。「江戸州は首都圏の防備を薄くできぬ」「常陰州は東北線の治安が未安定」「近畿州は商港の稼働を止められぬ」。


 藤村は、反応を遮らない。利害がぶつかる音の中にこそ、割れ目の向こうの地形が見える。机隅の薄冊を一つ開き、紙片を挟んだ。〈州兵応援規程(案)〉――これは先だって下書きした、州間の持ち回り動員の枠組みである。まだ合意に至っていない。だが、今夜のような時のために仕込んでおいた“溝”だ。


 「常備の三千は蝦夷で。即応一千は江戸州から北へ。常陰・東北から計一千、近畿から五百、山陽・東山・北陸から計五百。――不足はまだ千だ」


 紙端に走る数字は、単なる算術ではない。各州の“動かせる”分と“動かせない”分の境目を、長年の議席交渉で確かめてきた線だ。だが、線は線に過ぎない。誰かが跨がねば、線は線のまま残る。


 その時、廊下から小さな足音が近づき、扉が控えめに叩かれた。顔を覗かせたのは、寝間着に外套を羽織った八歳の三男・義親だった。眠たげな目の奥に、灯りに似た光がある。


 「父上、兄上たちは?」


 「義信は軍務局の地図室、久信は通信室だ。――おまえは、ここに座れ」


 藤村は椅子を引き寄せ、机上の図を低くしてやる。北の海に並ぶ小さな×印、州ごとの動員数字、そして、薄冊の栞。少年はしばらく黙って見つめ、やがて紙の上で指を止めた。


 「……協力しないと、みんな損をする並び方だね」


 藤村は、わずかに眉を動かした。「どういう意味だ?」


 「一つだけ助けると怒られる。みんなが出せば助かるのに、先に出した州だけ損をすると思われる。だから出しにくい。――そういう並び方」


 幼い声は、静かに核心へ降りていく。藤村は薄冊の別頁を開き、栞を移した。〈相互扶助条項(試案)〉。あの棚に収まる無数の薄冊のうち、幾つかは今夜のためにあったのだと、彼自身が改めて思う。


 「……よし。まずは“出した者が損をしない仕組み”の骨だけ、今夜のうちに立てる」


 藤村は受話器を握り、会議線に戻った。北の海は暗く、露艦十二は灯を消して漂う。しかし、この部屋の紙束と人の声は、確かに熱を帯び始めていた。

会議は午前三時を回ってなお続いていた。電話線の向こうからは各州知事の声が重なり合い、議場は混沌の坩堝と化している。


 「なぜ我が常陰州ばかりが北の防衛に駆り出されねばならぬ」

 「江戸州の首都防衛が最優先だ。蝦夷は二の次だ」

 「関西の経済は日々の輸出で成り立っている。兵を割けば港が止まる」

 「東北も危ういのだ。余力などない」


 言葉は剣より鋭く飛び交い、電話交換手が何度も線を組み直すほどの怒声が響いた。誰も譲らず、誰も耳を貸さぬ。


 机上に広げた兵力配分表に、藤村は冷静を装いながらも、胸の奥底で小さな焦燥を覚えていた。経済協力制度――先の州間調整で成立させた基金は、数字で利を示すことで何とか合意を得られた。だが、軍事は違う。損得勘定よりも「自州を守る」という感情が勝ち、互いに牽制し合う。今のままでは、分裂と崩壊の兆しすら見える。


 そのとき、静かに扉が開き、幼い足音が絨毯を踏んだ。


 「父上」


 声の主は三男の義親だった。まだ八歳。だが、その眼差しには眠気よりも鋭い光が宿っていた。


 「お前、なぜここに」藤村が声を潜める。

 「眠れなかったんだ。兄上たちが慌ただしく走っていくのを見たから」


 義信と久信の姿は別室。軍務局と通信室を行き来し、資料と伝令で手一杯になっている。残された幼子のように見えた義親は、机に広げられた紙を一瞥しただけで、すっと椅子に座り込んだ。


 「これは……“囚人のジレンマ”だね」


 部屋にいた者たちが一瞬言葉を失った。八歳の口から出るには、あまりに突飛で、しかし正鵠を射抜いた言葉。


 「どういう意味だ?」と父が問う。

 「各州は協力すれば全員が助かる。でも、自分だけ兵を出したら損をすると思うから、誰も出したがらない。だから、みんな沈黙するんだ」


 静けさが訪れた。先ほどまで張り裂けんばかりに飛び交っていた声が、まるで霧散するかのように消え、閣議室の空気はひととき重苦しい静寂に包まれた。


 義親はさらに続ける。

 「解決するには“相互確証”を作ればいい。今回は蝦夷を守る。その代わり、次に別の州が危機に陥ったとき、必ず助ける。そういう約束を制度にすれば、みんな出せる」


 藤村は心の底で震撼した。この場に並ぶ壮年の知事や大臣たちが辿り着けず、彼自身が密かに資料に書き留めていた条文の原型を、この八歳の息子が言葉にしてしまったのだ。


 「北方防衛相互協定……」藤村は呟いた。


 電話線の向こうで、常陰州知事が低く応じる。

 「それは……確かに筋は通る。だが、誰が保証する?」

 「制度化すればいい」義親は即答した。小さな掌が紙の上をすべり、未使用の余白に丸を描く。「兵を出す州の名と数を記す。出さなかった州は、次のとき助けを受けられない。そう決めれば、不公平はなくなる」


 義信が残した軍務局の統計表を横に並べ、久信が用意した州別人口と兵力の一覧に目を走らせる。義親はそれらを瞬く間に組み合わせ、簡単な図解を鉛筆で描き出した。


 「もし蝦夷が落ちれば、次は東北。さらに関東が危うい。ここに数字を足せば一目で分かるよ」


 幼い声が机を越え、電話の向こうへと流れていく。江戸州、常陰州、東北州、近畿州――重苦しい沈黙の中で、いくつかの息が整う音が聞こえた。


 藤村はその場に立ち、受話器を強く握った。

 「諸君、今夜ここで未来を決める。義親の言葉を制度に昇華し、明朝には合意草案を整える。これができなければ、日本は自ら分裂して滅ぶだろう」


 震える声ではなかった。揺るぎない決断の響きが、夜明け前の江戸を貫いた。

翌朝、江戸の空は薄曇りだった。

 夜を徹した議論で疲れ果てた官僚たちの顔に、仄かな光が射し込む。

 だが、ここからが本番である。


 「義信、お前は軍務局の統計を整理しろ。」

 「久信は、各州知事の説得にあたれ。」

 「義親は、昨夜の理論を図解に落として資料を整える。」


 父の指示に、三兄弟は一斉に頷いた。


 義信は軍務局の倉庫にこもり、兵站表や艦砲射程の一覧を引き出した。

 膨大な数字を走査し、確率を弾き出す。

 「ロシア侵攻の可能性は二割……だが、威嚇だけで終わる確率は八割。」

 鉛筆が走り、紙面に数式が並ぶ。

 しかし、その冷徹な数字は、人心をそのまま動かすには足りない。


 一方、久信は江戸に逗留する各州代表の宿を、夜ごとに回った。

 昼は会議で張り合う面々も、灯の下では本音をこぼす。

 江戸州の重臣には、東京―横浜の最優先のみを確認。

 常陰州には、水戸―福島の線が東北防衛の要であると認めさせた。

 近畿州は大阪港整備を、東山州は新潟―長野の連絡を、蝦夷州は札幌周辺の保全を――。

 遠方の州へは、書面と電信で同趣旨の提案を送り、返電を積み重ねる。

 「全線一括」は影を潜め、「最小限だが確実に効く一本」へと本音が揃い始めた。


 そのころ義親は、兄の数字と自らの理論を重ね、図と表に落としていく。

 「ここは矢印を細くして……うん、協力しなかった場合の損失は、協力した場合の三倍以上。」

 紙の上には損得を示すマトリクス。

 左に「協力」、右に「非協力」。

 結果が数字と矢印で並び、子どもの手とは思えぬ精緻さでまとめられていく。


 藤村はその束を受け取り、深く息を吐いた。

 「これなら、大人たちも腑に落ちる。」


 再び州代表が集う。

 壇上の久信は、やや痩せた頬に気力を宿して口を開いた。

 「この協定は、蝦夷だけのためではありません。

 いずれ訪れるであろう諸君の州の危機のためでもあるのです。」


 壁面の大図の前で、義信が補足する。

 「現在の兵力は三千。必要数は五千。

 ただし、確率上は侵攻二割に留まる見立てです。」

 すぐに軍部の声が飛ぶ。

 「二割でも、国が滅ぶ危険は危険だ。数字で命は量れん。」


 義信が言葉に詰まる刹那、義親が一歩前へ出た。

 「兄の数字は正しいよ。

 でも、人は数字だけで動かない。

 だから制度がいるんだ。

 今日出した兵は、明日必ず返ってくる。

 その約束が、僕たちを守る。」


 八歳の声が、大広間に澄んで響いた。

 誰も笑わなかった。

 むしろ沈黙の中で、多くの大人が顔を伏せた。


 久信は机上の覚え書きをめくり、静かに続ける。

 「第一期は各州の最優先一本のみ。

 不足分は『相互扶助の拠出表』で補います。

 拒む州は、将来の支援を受ける権利を持ちません。

 ――公平にして簡明。

 これが、我々が江戸の夜に交わした“本音”の合意です。」


 視線が交錯し、やがて幾つかの頷きが連鎖した。

 江戸州の代表が最初に手を挙げ、常陰州が続く。

 議場の空気が、わずかに流れを変えた。


 藤村は壇上の三兄弟を見た。

 数字、言葉、図。

 冷たさと温度を束ねるための三つの道具が、いま一つの方向を指している。

 「行ける。」

 胸の奥で、小さくそう呟いた。

翌朝、宗谷の海から届いた報は、思いのほか静かなものだった。

 ロシア艦隊は威嚇を繰り返したのち、日本側の援軍到着を察してか、潮が引くように東の水平線の彼方へと退いたのだ。


 「……一時的な撤退に過ぎん。」

 軍務卿が低く唸る。

 「再び戻る可能性はある。いや、必ず戻るだろう。」


 広間の空気は張り詰めたままだった。

 しかし、緊急の危機が去ったという事実は、州代表たちに安堵をもたらしていた。


 藤村は立ち上がり、義親の手による図表を高く掲げる。

 「諸君、今日をもって『北方防衛相互協定』を制度化する。

  これがなければ、次に襲いかかる嵐を防げぬ。」


 江戸州の代表が手を挙げた。

 「制度として予算に組み込むのならば、我らも反対はしない。」

 続いて東北州が頷く。

 「常設隊があれば、計画的に人員を回せる。」


 反対の声も残ったが、多数は賛成へと傾いた。

 義親の冷静な分析、義信の数字、久信の奔走――三人の力が、大人たちの意志を動かしたのだ。


 その夜、藤村は静かに息子たちの寝顔を見つめた。

 八歳の義親は、疲れ切った様子で小さな拳を握りしめて眠っている。

 十五歳の義信は、机の上に数式を広げたまま舟を漕いでいた。

 十九歳の久信は、布団に倒れ込むように眠り、まだ馬の汗の匂いが残っている。


 「……よくやった。」

 藤村の声は誰にも届かない。だが、その眼差しには確かな誇りが宿っていた。


 白露の季節、日本は北方の危機を一時的に退けた。

 完全な勝利ではない。

 しかし、この夜生まれた協定こそが、日本を一つの「家族」として結び合わせる最初の鎖となった。

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