297話:(1881年・立秋)州間対立と十四歳の挑戦
八月、立秋の風はまだ湿り気を帯び、江戸の街路を渡るたびに、熱気と涼気が交錯する奇妙な感覚を残した。新設された国家鉄道会議の会場――江戸州庁舎の大広間には、全国十四州から集まった知事と議員、さらに財務官僚、軍部代表までがずらりと席を埋めていた。壇上には、将軍にして国家元首の徳川慶喜が着座し、場の空気を引き締めている。その隣には、内閣総理大臣・藤村晴人の姿があった。
議題はひとつ、日本を貫く鉄道建設の配分である。だが、その数字はあまりに絶望的だった。
机上の予算表には、各州の要望総額が大書されている。
一、江戸州 四百万円
一、常陰州 二百四十万円
一、近畿州 二百二十万円
一、東山州 二百十万円
一、蝦夷州 百万円
一、その他州 合計二百十万円
合計一千三百八十万円。対して、今年度に割ける国家予算は、わずか四百二十万円にすぎない。不足額、九百六十万円――。
数値を読み上げた財務大臣・松平春嶽の声が、広間の梁に重く沈んだ。ざわめきが走り、議場のあちこちで椅子が軋む。
「ふざけるな、我らの州を軽んじるのか」
「江戸州ばかりに資金を回す気か」
「東北の防衛線を無視するのか」
「大阪港の拡張は国益だ。譲れぬ」
声が飛び交い、広間は蜂の巣を突いたような騒がしさとなる。
慶喜は軽く扇を開き、視線を巡らせただけで場の騒ぎを一瞬抑えた。その老練な気配に議員たちは姿勢を正す。続いて、藤村晴人が口を開いた。
「諸君、落ち着いてほしい」
五十七歳となった晴人の声音には、二十六年前に安政の世から飛び込んで以来、政治の荒波をくぐり抜けてきた重みが宿っていた。だが慶喜が座する場である以上、彼は「宰相」として議論を導き、最終的な威信は将軍が支える――そうした構図がはっきりとあった。
その横で、三人の少年がじっと父を見ていた。
長男・義信十五歳。軍事理論に通じ、数学と統計を駆使する才子。
次男・久信十四歳。三十か国語を操り、外交交渉で頭角を現し始めた少年。
三男・義親八歳。幼さの中に、政治の匂いに敏感な眼差しを宿す末子。
藤村は三人の顔を順に見やり、決断を下した。
「久信」
呼ばれた次男は小さく背筋を伸ばす。
「はい、父上」
「この会議の調整役を任せる。各州の声を聞き、優先順位をまとめよ」
広間にざわめきが走った。十四歳の少年に、国家規模の配分調整を任せるというのか。江戸州の重臣は眉をひそめ、近畿州の代表は鼻で笑う。
「子供の遊びではあるまいぞ」
その声を遮ったのは、慶喜の低い声だった。
「静まれ。この若者は外交の場で既に成果を上げておる。年齢で侮るべきではない」
国家元首の一言が場を圧した。晴人は軽く会釈し、言葉を継ぐ。
「私は総理として、この任を託す」
広間の空気が凍った。久信は喉の渇きを覚え、指先が汗ばむのを感じながら、父と将軍の眼差しをまっすぐ受け止めた。
「承知しました」
こうして、熾烈な州間対立の調整という難題は、若き久信の肩に託された。
――だが、その前にもうひとつの課題があった。
「諸君、もう一点」
財務大臣が卓上に置いたのは、新しい銀貨と紙幣の見本である。
「本日より、貨幣単位を『円』に統一する。これまでの『両』は移行期間を設け、定率で換算する。今後の国家予算はすべて円建てで計上する」
「円だと?」
「なぜ両を捨てる」
「帳簿はどうする」
藤村は説明を続け、慶喜は頷いて支持を示した。二人の立場が重なったことで、反対の声は大きくならなかった。
こうして会議の場は、鉄道建設と新貨幣制度という二重の重圧を帯びることとなった。
会議四日目の午後、熱気はすでに怒気へと変わっていた。壇上に立った久信が、各州路線の優先度を縦横に配した一覧を掲げた瞬間、広間の空気がはじける。
「江戸州を最上位? 笑止!」
「常陰州の東北防衛線が二位とは何だ、我らは一位以外あり得ぬ!」
「十四の小童が、州の流通を裁断する気か」
反発は容赦がない。久信は用意してきた説明――貨物トン数、人口加重、軍事所要時間短縮率――を落ち着いて述べたが、数字は耳に届かず、肩書と感情が先に立った。十分、二十分、三十分……やがて、議長席の木槌が乾いた音で沈黙を命じる。
「本日の協議はここまで」
木槌の主は藤村晴人ではない。国家元首・徳川慶喜である。慶喜は外向きに皇帝を戴くこの国で、内における元首として議事の節度を担っていた。渋い低音で「いったん仕切り直し」と言い渡すと、怒声の尾はあっさり切れ、広間は潮の引くように静まった。
「――久信」
退場の人波が薄くなったところで、背後から父の声。応接の小間に移ると、机上には何冊もの和綴じが四方へ開かれている。背に小札が貼られ、見出しが整然と並ぶ。〈交−08/相互扶助制度〉〈財−12/基礎収支と特別会計〉〈鉄−03/幹支線分離の設計〉〈詞−05/面子の保存〉。紙魚の痕一つない、よく手入れされた索引群だった。
藤村は一冊を指で叩く。
「耳で負けたな」
「……はい」
「きょう、お前が示したのは“正しさ”の地図だ。だが諸州が求めているのは“顔が立つ道順”でもある。正しさだけでは、人は歩かぬ」
父は索引〈詞−05〉を開き、余白に走る自筆の注を示した。〈“変更”と言わず“整合”と言え。敗北感の語を避け、技術の名で橋を架けよ〉
「それから――これは記録の一節だ。“地方交付”という仕組みがかつてどこかで運用された。富む地域が拠出し、脆い地域を支える制度だ。ただし“施し”と受け取られぬよう、配分の根拠を透明にし、拠出州の利益回収の道を同時に設ける」
「……基金という形に?」
「そうだ。名は“財政調整基金”がよい。『余剰の一部を共同の壺へ』『壺からは基準に従って配る』。匙加減ではなく、基準だ。江戸や近畿には、幹線の優先整備という見返りを明示する。常陰や東山には、要地のみ“第一期対象”を約す。蝦夷には冬期補助の特別枠――」
扉が軽く叩かれ、慶喜が入って来た。袍の裾がきちんと折られ、影も折り目正しい。
「藤村、若き調整役は折れたか」
「いえ、まだ撓めただけにございます」
慶喜は唇の端をわずかに上げ、久信に視線を落とす。
「汝、よく叩かれた。叩かれた材は、曲がらず折れず、船肋に向く。――ひとつ、心得を授けよう。諸侯の言う“州益”は鏡である。鏡には己しか映らぬ。まず鏡を置かせ、次に窓を開けさせよ。窓から風が入れば、鏡も曇る」
「……鏡を置かせ、窓を開ける」
「うむ。鏡とは面子、窓とは共同の利だ。言葉を以て風を呼べ」
そう言って、慶喜は索引〈交−08〉の一枚を抜き取り、余白に端正な字で書き加えた。〈“自立は誇り、扶助は胆。誇りを守る文言を先に、胆を支える算術を次に”〉
「この筆は、汝に返す」
去り際、慶喜は藤村へだけ聞こえる声で付け加えた。
「――若さに任せて押し通せば、お前の敵が増える。押すかわりに“預かる”と言わせよ。責任の半分を他人の肩にのせて歩むが良い」
扉が閉まる。藤村は長く息を吐き、索引の束を丁寧に重ねた。
「一週間、会議を休ませる。久信、諸州知事のところへ歩け。日参しろ。初日は追い返されても、二日目も行け。三日目、茶の一杯が出る。五日目に本音が出る」
「歩いて、聴く。――何を持っていけば?」
「地図を一枚。州益が映る“鏡”だ。もう一枚、採算の“窓”。それからこの索引から、必要な札だけ切り出す。紙は武器にも盾にもなる」
その晩、藤村邸の離れ。灯火のもとで、義信と義親も机についた。義信は軍用図の上に薄紙を重ね、分散配置の無駄が一目でわかる赤い点を打っていく。義親は耳を澄ませ、兄たちの会話の隙間に自分の直感を落とした。
「水戸‐福島を最短で繋いだら、ここが詰まるよ。山の曲り角。雪の日に止まる」
「……なるほど。冬期補助の特別枠は、ここを念頭に置けば説得力が増す」
久信は二人の手元を見て、素早く索引に札を挟む。〈鉄−03/幹支線分離〉〈財−07/季節変動費〉〈詞−02/“暫定”“整合”〉。紙の束が、明日の言葉の形に整っていく。
翌朝から、一週間の“地ならし”が始まる。江戸州庁。初日、知事は露骨に冷たい。
「子供の使いか。帰りなさい」
「失礼いたします。明日、また参ります」
二日目。「忙しい」。三日目。廊下で待つこと二刻、ようやく上がる許し。「毎日来るのか」。四日目、茶碗が一つ。五日目、知事は地図の上で指を止めた。
「東京‐横浜だけは、必ず“第一期”に。千葉は一歩遅れても構わぬ」
「承りました。江戸の拠出を“壺”へ入れる条件に、“第一期”の確約を文言に載せます」
同じ道筋を、常陰州、近畿州、東山州、蝦夷州……と繰り返す。拒絶、沈黙、茶、そして本音。久信は“鏡”を置かせ、“窓”を開ける順序を守った。面子に触れる語は先に用意した。「変更」ではなく「整合」。「恒久」ではなく「暫定」。施しではなく「相互扶助」。索引の札が、実地の空気で温度を帯びていく。
五日目の夜、財務省の奥の間。松平春嶽が数字を弾きながら、久信の紙束に目を走らせた。
「最優先だけを束ねると、六百万円で収まる計算か」
「はい。今年度四百二十万円の国家予算に、江戸・近畿の拠出金を“基金”に積み増し、第一期を六百万円まで拡張したいと考えています」
「拠出の率は?」
「基準は三つ。州内総生産、人口、主要港の通過トン数。“豊かさ”“人の多さ”“流れの太さ”です。率は段階式に。江戸は高く、だが“第一期確約”で見返りを同時に明記。近畿も同様」
春嶽は顎に手を当て、やがて頷く。
「数字は理に落ちている。――だが、文言は?」
「そこは父と、国家元首にお力を」
その足で江戸城。慶喜は“鏡”と“窓”の箇所を一読すると、筆を取り、表現だけを二箇所直した。
「“拠出”は角が立つ。『分担』とせよ。“受益”は卑屈に響く。『適用』に改めよ。――言葉は台座だ。台座が歪めば、上物は転ぶ」
最後の紙が綴じられたのは、立秋の七日目の夕。江戸の夕焼けが硝子に映り、赤い線が紙縁を撫でた。久信は束を胸に抱え、深く一礼した。
「諸州の窓が、少し開きました」
藤村は短く笑った。
「よし。明朝、会議を再開する。押すな、預かれ。決めるな、合意させろ。札はもう揃っている」
十三日目の朝、再開された会議場には、これまでとは違う空気が漂っていた。各州の代表たちはすでに、久信が一週間かけて訪問し、粘り強く話を聞いて回った相手たちだ。その多くが、十四歳の少年に心を開くことなどないと思っていた。だが、彼の真剣さと執念は、頑なだった大人たちの胸を少しずつ揺さぶっていた。
久信は壇上に立ち、深呼吸をした。
「皆さま。私はこの一週間、各州を訪れ、知事の方々と直接お話を伺いました。その結果、各州が掲げる全ての要望のうち、絶対に譲れない最優先は、合計で六百万円規模に収まると分かりました」
会場がざわつく。先日まで一千三百八十万円という無理難題に固執していた議場が、突如として現実的な数字を聞かされたのだ。
久信は続けた。
「今年度、国家が鉄道に割ける予算は四百二十万円です。しかし、六百万円であれば、財務省の協力のもと追加的な工面が可能です。江戸州は東京—横浜。常陰州は水戸—福島。近畿州は大阪港の整備。東山州は新潟—長野。そして蝦夷州は札幌周辺。この五つを柱として、第一期計画を実施すべきと考えます」
資料の紙束が配られ、各州の代表が目を落とす。先日とは違い、数字は簡潔で、図表もわかりやすい。さらに久信は続けた。
「第二期以降の路線については、新しく設ける『財政調整基金』で支援します。豊かな州が拠出し、資源の乏しい州を援助する仕組みです。三年ごとに見直し、段階的に全国を結ぶ鉄道網を完成させる――それが私の提案です」
議場に重い沈黙が落ちた。
最初に声を上げたのは、江戸州の知事である。
「……東京—横浜が確実に通るなら、賛成しよう」
続いて常陰州の代表が頷く。
「水戸—福島が守られるなら、異存はない」
近畿州も東山州も、次々と賛成を表明する。
だが、全員がそうではなかった。四国州の代表が、ゆっくりと立ち上がる。
「反対だ。我らは自立したい。施しを受けるつもりはない」
山陰州の代表も続いた。
「貧しいと決めつけられることこそ屈辱だ」
さらに琉球州の代表が声を張り上げた。
「自治を侵害する仕組みなど認められぬ!」
三州の反対。蝦夷州と東北州は棄権を選んだ。だが、十州は賛成に回った。
結果――賛成十、反対三、棄権二。提案は可決された。
久信は胸の奥で、熱いものが込み上げるのを感じた。完璧ではない。全てをまとめきれたわけでもない。だが、最初は冷笑され、総攻撃を浴びた十四歳の提案が、今、国家的合意へと繋がったのだ。
会議後、江戸州の知事が歩み寄ってきた。
「最初は軽んじていた。すまなかった。お前の粘りに、老いぼれの私も心を動かされた」
久信は深く頭を下げた。
「私は一人では何もできませんでした。財務省の方々、父上、そして各州知事の皆さまが協力してくださったからです」
その言葉を聞き、藤村晴人は静かに頷いた。
(……息子よ。お前はただ理論を語るだけでなく、人の心を動かすことを学んだ。その力は、令和の知識にも記されていなかった、人間の力だ)
会場を後にするとき、徳川慶喜が久信の肩に手を置いた。
「よくやった。しかし忘れるな。これでお前を警戒する者も増える。十四歳に負けたと感じる大人たちが、必ず牙を剥くだろう」
久信は一瞬、息を呑んだ。だがすぐに顔を上げる。
「承知しております。けれど私は、逃げません」
慶喜はわずかに目を細めた。
「そう言えるなら、ますます面白い。藤村家の次男……見ものだな」
八月の立秋の風が、会議場の庭に吹き抜けた。湿り気を帯びた空気の中で、少年の決意は確かに刻まれていた。