返済五年、銃はその鍵
藩庁の大広間は、異様な緊張感に包まれていた。
床几に正座する家老、奉行、勘定方、武士に町人――水戸藩の要人たちが一堂に会し、正面に立つ一人の若者をじっと見つめている。その視線を受けながらも、晴人は堂々と口を開いた。
「五年で借金を完済します。そして三年で、藩の収支を黒字に転じさせます」
その声は、かつての現代の会議室で鍛えた響きそのままに、静かに、けれど明確に場を圧倒した。
一瞬、場に沈黙が走る。次いで、どよめきが巻き起こった。
「ば、馬鹿な……水戸藩の赤字は、二十万両を超えているのだぞ……!」
「黒字など夢物語……せいぜい火の車を押さえるだけで精一杯のはず……!」
そんな声を背に、晴人はゆっくりと持参の巻物を広げた。それは、現代の会計理論をベースに、手書きで再構成された財政再建計画だった。月単位の収支、在庫となる米蔵の量、信用流通の設計図――そして、それを可能にする協力者の名。
「……商会代表・岩崎弥太郎氏」
晴人がそう紹介すると、左右に控えていた一人の男が頭を下げた。
弥太郎は、口の端を吊り上げた自信満々な笑みを浮かべている。
「米蔵を藩営化し、年貢米を市場に流通させます。さらに、藩が保証する“信用札”を発行し、藩内の取引に安定した価値を持たせる」
「それで足りるのか?」と問うたのは、厳しい面持ちの中老だった。
「いいえ。それだけでは足りません。……だから私は、“武器”を作ります。藩にとっても、民にとっても、時代に抗うための“技術”という名の武器です」
晴人はそう言って、一枚の図を広げた。描かれていたのは、旧式のエンフィールド銃を分解し、再設計した“水戸式小銃”の構造図だった。
――鍛冶場では、すでにその試作が始まっていた。
銃床を削る職人、金属パーツを焼き直す鍛冶屋、火薬室の強度を測る者たち。彼らの間に、緊張感が走っていた。
「おい、火薬室の固定、甘くないか?」
「いや、これ以上やると、内壁が割れるかも……」
「なら、火薬を減らして試そう。威力より、まずは安全だ」
言葉を交わす若き職人たちの顔は、真剣そのものだった。
そのとき――。
「っ……離れろ!!」
職人のひとりが叫ぶより早く、銃身の奥で乾いた音が弾けた。
――ドンッ。
破裂音と共に、金属片が火花を撒きながら宙を舞った。土壁が抉れ、見習いのひとりが腕を押さえて倒れ込む。周囲は悲鳴に包まれ、工房の火がかすかに揺らいだ。
「水……水を持ってこい!!」
職人たちが駆け寄る中、晴人が現場に駆けつけた。
「火薬量は何匁使った!?」
「……四匁弱です! 一番弱くしたつもりが……!」
晴人は倒れた見習いの腕を確認しながら、深く息を吐いた。出血はあるが、命に別状はない。安堵を胸に、彼は皆の前に立った。
「原因は、火薬室の圧力逃げ口が不完全だったこと。火薬は燃焼で高圧ガスになる。閉じ込めれば、銃身が耐えられないのは当然だ」
「じゃあ……もう、無理じゃ……」
職人の一人が、震えた声を漏らす。
「違う」
晴人は、ぴしゃりと言い放った。
「“失敗”は、“次”のための材料だ。安全装置をつけよう。ガスが逃げる余地を作る。撃鉄の形状も見直して、暴発しない機構を加える」
そう言いながら、晴人は手元のノートに素早くスケッチを描き始めた。クロスボルト式の安全機構、火薬室の排気路、そして火薬量を規定する“測り”の設計。
「君たちがいなければ、この国は何も変えられない。……頼む、もう一度、手を貸してくれ」
沈黙の中、先ほどまでうなだれていた職人たちの目に、再び光が宿った。
「……やってみます。次は、必ず仕上げます」
「命を無駄にしたくねぇ。次こそ、“撃てる銃”を作るぞ!」
晴人は静かに頷いた。
――まだ始まったばかりだ。だがこの歩みが、後に“水戸式小銃”と呼ばれることになる武器の、最初の一歩だった。
午後の日差しが傾きかけた鍛冶場に、微かに煙の香りが漂っていた。先ほどの爆発事故の名残が、焦げた土壁や黒く煤けた床に、くっきりと痕を残している。
静まり返る中、晴人はひとり黙々と板の上に図を描いていた。傍らには割れた銃身、破損した金属部品の断片、そして血で赤く染まった布切れが置かれている。
「……“設計”が悪かった。俺が止めるべきだった」
手にしていた炭筆が、わずかに震える。
だが、後ろでかすかな足音がした。ふと振り返ると、伊三次をはじめとする若い職人たちが、無言のまま揃って晴人の背後に立っていた。
「……お前たちは、下がって休んでろ。もう今日は作業中止だ」
晴人が顔も上げずにそう言うと、伊三次が一歩、前に出た。
「旦那、さっきの話……本気なんですか?」
「……どの話だ?」
「俺たちがいなければ、この国は変えられないってやつです」
晴人はようやく顔を上げた。その瞳には、疲労と覚悟が同居していた。
「本気だ。お前たちの手がなければ、この銃は完成しない。水戸は、武器を自前で持つ藩になる。そのためには……時間も失敗も、必要なんだ」
伊三次は一瞬、何かを言いかけて、結局押し黙った。そして黙って作業台に向かい、割れた部品の一つを拾い上げた。
「俺、銃なんて触ったこともなかった。でも、やってみたら面白かった。怖かったけど、楽しかった。……たぶん、初めて“何かを創る”って感じがした」
他の若い職人たちも、それぞれの作業台に戻っていった。誰も言葉は発さなかったが、その手つきは確かだった。
晴人は静かに頷く。
「なら、まずは“型”から作る。職人が違っても、精度が同じになるように。……これが“工業”ってやつだ」
炭筆を握り直すと、晴人は図面に“定規の型板”や“鋳型枠”の仕様を描き加えていく。
「鉄の種類も見直そう。いま使ってるのは鍛造鋼だけど、もっと硬度の高い鉄を混ぜれば、銃身が持つはずだ。……たとえば、木炭と砂鉄を合わせて作る“たたら鉄”なら……」
「出雲のやつですか?」
伊三次が食いついた。
「そう。ただし高いし量も限られる。だから、炉の改良も必要だ。二つの土炉を並べて、送風を連動させれば、温度も均一化できる」
「やってみましょう」
職人の一人が、静かにそう言った。
「今のままじゃ、怪我人が出る。でも、あの見習いが泣きながら言ってたんです。“もう一度やらせてほしい”って」
晴人は、ゆっくりと顔を上げた。
「……あいつ、生きてたか?」
「ええ。……でも、左腕がしばらく動かせないそうです」
晴人は唇を噛んだ。だが、すぐに思考を前へと切り替える。
「わかった。じゃあ、あいつのためにも“誰も傷つけない銃”を作ろう。命を守るための、最後の盾にもなるような銃を」
彼の声は、決して大きくなかった。だが、それは確かに工房の空気を変えた。
* * *
その夜――。
晴人は一人、勘定所の一室で、ろうそくを灯していた。机の上には、数枚の紙が広げられている。財政計画書、信用札の流通図、そして……もう一つ、新たな紙がある。
そこには、銃身の内部構造とともに、“再設計案”と書かれた見出しが走っていた。
「まずは安全性。次に再現性。そして、量産体制……」
つぶやきながら、晴人は手を止めた。しばし沈黙のあと、目を閉じて過去を思い出す。
――現代の記憶。
――自衛隊の資料で見た、日本の兵器開発の系譜。
――小銃開発の初期に、いかに安全と規格統一が重視されたか。
「そうだ。あの頃の知識、全部使う。これはただの銃じゃない。“独立”への象徴だ」
筆を走らせる。
「反動軽減機構、バレル冷却構造、……いや、そこまではまだ早いか。でも、撃鉄に一体化したセーフティ。火薬量制御機構。それだけでも、劇的に変わる」
ふと、外でカン、カン、と鍛冶の音が鳴った。
まだ、工房は動いていた。
晴人は立ち上がり、窓を開ける。
涼しい夜風が、蝋燭の火を揺らす。工房の方角には、まだ灯りが瞬いていた。
「……みんな、もう一度立ち上がってくれたか」
独り言のように呟くと、晴人は再び机に向かった。
この銃が完成するまで、まだ幾度の試作が必要だろう。だが確かに、いま――。
“水戸式小銃”はその胎動を始めていた。
翌朝。まだ霧が辺りを包む中、晴人は鍛冶場へと足を運んだ。
朝露に濡れる石畳を踏みしめながら、門をくぐる。すでに炉には火が入り、赤々とした熱が場内に満ちていた。早朝にもかかわらず、職人たちは定位置に立ち、それぞれの作業に没頭していた。
火ばさみで焼けた鉄片を持ち上げる者。炭をくべる者。砥石でパーツを磨く者。
――何かが、明らかに変わっている。
昨日まで漂っていた不安や緊張は、すでに場から消えていた。代わりにあったのは、張り詰めた集中と、ひとつに結束した空気。
それを見て、晴人は小さく頷いた。
「……おはよう」
「おはようございます!」
晴人の声に、職人たちの挨拶が一斉に返る。
晴人は伊三次の横へと歩み寄り、鍛錬中の鋼を見つめた。
「鋼の温度、もう少し上げて。色で分かるだろ。もう少し“白みがかった橙”に近づけて」
「……これくらいっすか?」
「うん、いい目をしてる。あとは均一に叩け。厚みにムラが出ると、強度が落ちる」
伊三次は無言で頷き、金槌を握り直した。力任せではない、繊細で、的確な打撃。晴人は、その動きの中に“技術者”としての芽吹きを確かに感じ取っていた。
――この藩には、“道具”ではなく“技術”が必要だ。
それがなければ、どんな計画も、どんな改革も、根を張ることはできない。
ふと晴人の視線が、作業台の隅に置かれた“測り”に移った。
それは火薬の分量を計るために即席で作られた、小さな金属製の筒だった。
「この火薬測り、誰が作った?」
「あっ、俺です!」
声を上げたのは、昨日負傷した職人の代わりに来た若い見習いだった。顔にはまだあどけなさが残っている。
「量の線を目盛にして、間違えにくいようにしました」
「……いい発想だ。こういう道具が、みんなにとっての“共通の基準”になる。君の名前は?」
「斎藤源吉です!」
「よし、これから“測り役”を任せる。銃が暴発したら、まず君が俺に叱られるからな」
「は、はいっ!」
声がわずかに震えていたが、晴人は何も言わず、そっと背を叩いた。
――若者に“責任”を与え、役割を担わせる。
それこそが、晴人が現代社会で学んできた“育てる力”だった。
「旦那、こっちも見てください!」
呼び声に振り返ると、伊三次が新たに削り出した銃床を手にしていた。
「木目が通ってて、反りも少ないです。重さも、昨日のより軽くなってます」
「いいな。素材は?」
「榧の木です。硬いけど、湿気に強くて反りにくい」
「……最高だな。これを水戸式の標準銃床にしよう」
晴人は銃床の断面を指でなぞった。吸いつくような滑らかさがあり、握った感触も悪くない。携行性にも優れる。
しかし、銃は木と鉄だけで作られるものではない。
次に晴人は、火薬室と銃身の接合部――“ねじ山”の精度に目を向けた。
「……ネジが甘いな。隙間があると、ガスが漏れる。旋盤があればいいんだけど、この時代じゃまだ無理か……」
「なら、手回しの“ねじ切り機”を作りましょうか?」
そう提案したのは年配の職人だった。
「木台に金属棒を固定して、ギアで回す仕組みです。旋盤ほどじゃないですが、鍛冶屋でも作れます」
晴人は思わず笑った。
「みんな、頭が良すぎる。俺の出番がなくなるな」
その瞬間、工房内に小さな笑い声が広がった。
――空気が変わってきている。
恐れではなく、創造への意志。
それは、ものづくりに携わる者だけが知る、特別な“熱”だった。
「よし、次は“引き金”の機構を改良しよう。落としても誤作動しないよう、“セーフティピン”を加えたい」
「なるほど……じゃあ、横にレバー式の安全装置を追加する形で……」
設計図が走る。言葉が交わる。知恵と経験がひとつに重なる。
もう誰も、昨日の爆発事故のことを口にしなかった。
“恐怖”は、確かに“信念”へと変わりつつあった。
夕刻――。
晴人は再び、藩庁に呼ばれた。
居並ぶ藩士たちの前で、膝をつく晴人に、老中が問いを投げかける。
「……して、その銃というのは、いかほどの性能か?」
「まだ試作段階ですが、暴発を防ぐ安全機構、町人でも扱える設計、そして量産に耐える仕様を考えています」
「戦場での威力は?」
「重要なのは、“誰が使うか”です。武器とは、武士だけのものではない。町人でも、農民でも――その手に届くものでなければならない」
晴人はゆっくりと顔を上げ、集まった者たちを見回した。
「この藩は今、深い借金と混乱の中にあります。しかし、自らの手で“銃”を作れる藩など、日本中探しても数えるほどです。これは、私たちにしかできない“未来への武器”なのです」
場に静けさが満ちる。
誰も言葉を返さなかった。
だが、それは否定ではなかった。むしろ、座にある者たちの瞳には、確かな光が宿っていた。
この日――水戸藩は、ひとつの“武器”を得た。
まだ形を持たぬ試作の銃。だが、それが灯したのは、“変化”という名の火だった。
その火が、のちにどれほどの熱となるかを、今の晴人はまだ知らない。
射場に集まった面々の顔は、緊張と期待に満ちていた。
晴人は手にした試作品の銃――水戸式小銃第一号を見つめながら、静かに息を整える。
「……風向き、東南」
伊三次が小声で告げる。
「的まで、三十間。弾は鉛玉、火薬量は規定通り二匁八分。撃鉄と安全機構は正常作動確認済みです」
「よし」
晴人は銃を肩に構えた。銃床は榧の木。滑らかで軽く、しっかりと肩に収まる。銃身は鍛え抜かれた鋼鉄。火薬室には斉藤源吉が作った測りで量られた火薬が詰められている。
――全ては、皆の手で作ったものだ。
静寂のなか、引き金に指をかける。
「……発射!」
――パンッ!
乾いた爆音が轟いた。
銃口から噴き出す煙。後方にわずかに跳ねる反動。だが、暴発はない。手の中の銃は、無事に火を吐き終えていた。
「的中央、命中!」
的役の町人が叫ぶと、どよめきが起きた。
「やった! やったぞ!」
「暴発しなかった……!」
「……当たったんだな、本当に」
歓声の中、晴人は肩から銃を降ろし、伊三次と目を合わせた。
「よく、ここまで来たな」
「ええ……でも、ここが始まりです」
晴人は試作品を見つめながら呟く。
その夜、工房ではささやかな祝宴が開かれた。
火の周りに集まった職人たち。鍋には町人たちが差し入れた根菜と干し肉の雑煮。徳利が回り、笑い声が夜の空気に溶け込んでゆく。
「晴人様! これからは“銃職人”って呼ばせてもらいやす!」
「ちょっとやめろ。まだ、撃てる銃が一丁できただけだ」
そう言いながらも、晴人の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「だが、これを百丁、千丁と作れるようにしなければ意味がない」
「千丁だって!? 旦那、それは……」
「簡単ではない。だが、必要なんだ」
晴人は、炎の揺らめきを見つめながら続けた。
「銃を作るのは、戦のためだけじゃない。外から買わなければ手に入らない道具を、俺たちの手で作る。技術を、知恵を、自分たちの中に残す。それが……水戸の未来だ」
伊三次がうなずき、源吉が目を潤ませた。
「俺……もう銃づくりしかできません」
「それでいい。誇っていいことだ」
晴人の声には、微かな震えがあった。
――この時代に来て、ようやく“仲間”を得た。
夜が更けても、工房の灯りは消えなかった。
翌朝、晴人は藩庁に再び呼び出された。
「晴人。小銃の件、聞き及んでおる」
重々しい声。藩主から直接の言葉だった。
「よくぞやった」
「ありがとうございます」
「だが――この銃、他藩に知られてはならぬ。水戸の財として、慎重に扱うのだ」
「はい」
晴人は深く頭を下げた。
それは、「藩の命令」としてだけではなく、自身が背負う未来の重さを噛みしめる動作でもあった。
――銃は完成した。
けれど、それは終わりではなく、水戸という藩が“自分たちの力で歩む”という覚悟の第一歩だった。
その日、水戸式小銃は正式に「藩営武器工房」の開発兵器として登録される。
そして晴人は、次なる改革へと向かう。
武器を作り、農を育て、民を守り――幕末という嵐の中で、水戸を生かす道を、探し続ける覚悟と共に。