296話:(1881年7月・小暑)州議会の試練
常陸州・羽鳥。七月の空は、盛夏を前にして厚く重く、議場の白壁を照り返していた。
道州制が敷かれて五か月。旧来の幕府体制を引き継ぎつつ再編した藤村政権は、中央集権と地方自治の均衡を模索していた。その試金石となるのが、この常陸州議会である。
藤村晴人は内閣総理大臣でありながら、この州議会には直接的な権限を持たない。だが常陸は彼の本拠であり、全国の目はここに注がれていた。
開会式の壇上に立った藤村は、ゆっくりと議場を見渡し、声を張り上げた。
「この議会は、日本の地方自治の礎となる。しかし、容易な道ではない。五か月前、我々は技術流出と外交孤立、そして経済危機に直面した。その危機を克服した今こそ、教訓を胸に刻み、歩みを重ねねばならぬ」
議場の片隅には新たな布告が掲げられていた。
〈本年より貨幣単位を円とする。旧来の一両は一円として換算する〉
藤村は、両から円への改定を国家の一歩として導入した。国際交易の便を図ると同時に、計算を明快にし、商工業者や農民が扱いやすい制度としたのである。
さらに週制の導入も告げられていた。
〈行政および州議会の会期は七日を一区切りとする〉
これは欧米に倣った七日週であり、従来の十日ごとの「旬」とは異なる。農民代表の一部は困惑を示したが、商工業者や若手議員は歓迎した。交易や契約の節目が国際標準に合わせられることで、貿易や会計に利便が生まれるからである。
藤村は、その導入理由を静かに語った。
「我らが交易する英吉利、独逸、清国の商人はいずれも七日を単位とする。彼らに合わせることは、我らの負担を軽くし、誤解を減らすことにつながる。貨幣を円としたのも同じだ。両の計算は複雑で、為替に不便が多い。円であれば、世界に胸を張って商談ができる」
議場のあちこちでざわめきが広がった。
「両のままでは駄目なのか」
「いや、輸出の帳簿に便利だ」
「州税の計算もやりやすくなる」
改革の方向は示された。しかし、州議会の内部は決して一枚岩ではない。
旧水戸藩の士族は六十余名を擁し、「伝統を守れ」と声を張り上げる。若手改革派は「近代的議会を」と叫び、商工業者は「実利を急げ」と席を打ち、農民代表は「生活の声を聞け」と迫る。
その日の午後から、議長を誰に据えるかで三日間が費やされた。
旧藩士は長老格を、若手は新進気鋭の改革派を、商工業者は帳簿に明るい人物を推し、それぞれ譲らぬ。
投票は繰り返され、過半数は得られぬまま時間だけが過ぎていった。
藤村はあえて沈黙を守った。介入すれば「総理の圧力」と批判されることを知っていたからである。
彼は窓際の椅子に腰を掛け、議場にうねる声をただ受け止めていた。
――この国の未来は、理論ではなく実際の議場で試される。
藤村は、深く息を吐いた。
その横顔を見ていたのは、まだ十五歳の義信であった。彼は父の背中を見つめながら、胸の奥で思った。
――僕もいつか、父のように人々を導けるだろうか。
だがその思いが、この後の波乱を呼ぶことになるとは、まだ誰も知らなかった。
四日目の議事に入る朝、議場の空気は初日ほどの緊張感を欠いていた。三日を費やしてようやく議長が選出され、ようやく本格的な審議に入れるという安堵が漂っていたからである。
その日の午後、ひときわ小柄な少年が壇上に立った。藤村晴人の長子、義信十五歳である。
議員席からはざわめきが漏れた。
「まだ十五歳ではないか」
「子どもの遊び場ではないぞ」
「いや、あの子は藤村総理の長男だ」
「お飾りだろう」
ざわめきを気にせず、義信は用意した分厚い資料の束を机に置いた。五十ページを超える計算式と図表。端正な字で書き込まれたその紙束は、少年が幾夜も机に向かい、筆を走らせた努力の証であった。
「本日は、州兵配置の最適化についてご説明いたします」
張りのある声が議場に響いた。彼の小さな体から放たれる言葉は、意外なほど落ち着いていた。
「まず、ゲーム理論の基礎からご説明します。二人のプレイヤーがある資源を奪い合うとき、最適な戦略は――」
議場の後列で、老議員が首をかしげた。
「げ、げえむ……とは何のことだ?」
「博打の理屈か?」
別の者が鼻で笑った。
「子どもの遊戯を議場に持ち込むとはな」
義信は一切表情を崩さず、黒板に数式を書き連ねた。
「確率統計を応用すれば、敵軍の行動を予測し、州兵の配置を最小の損失で最適化できます」
数式は次第に複雑さを増し、指数や積分記号が並ぶ。議員たちの目が泳ぎ始めた。
「わからん」
「眠くなるだけだ」
「資料が多すぎる!」
前列の老議員の一人は、ついに机に肘をつき、目を閉じてしまった。周囲もそれに倣うように、資料を机に伏せたまま動かさなくなる。
それでも義信は、必死に説明を続けた。
「たとえば、ここに三千名の州兵がいるとします。その配置を乱数で繰り返し検証すれば――」
だがその瞬間、商工業者代表が手を挙げ、苛立ちを隠さずに言い放った。
「小僧、結論は何だ。何をどうすれば、この州にとって益となるのだ?」
義信は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……ですから、理論的には――」
「理論、理論とうるさい! 我らが欲しいのは数字ではなく答えだ!」
議場にどよめきが走る。
義信の声はかき消され、老議員の一人が大声で叫んだ。
「議長! この小僧は何を言いたいのか。まるで呪文の羅列だ!」
義信はなおも数式を指し示しながら訴えた。
「確率統計を用いれば、兵力の損耗を二割削減できます!」
しかし、もはや耳を傾ける者はいなかった。
議長が木槌を打った。
「これ以上の説明は不要とする。採決に入る」
結果は無惨であった。
賛成五票。反対七十票。棄権十五票。
圧倒的多数による否決。
議場の一角で、若手議員の一人が小声で呟いた。
「惜しいが、あれでは理解を得られん」
義信は壇上で立ち尽くした。
紙束を抱えた手が震え、唇がわなないた。
「僕の理論は……正しいのに……」
その顔には、まだ十五歳の少年らしい無力感が滲んでいた。
傍聴席でその姿を見ていた藤村晴人は、胸の奥で痛みを覚えていた。
――息子よ、正しさだけでは、人は動かせぬのだ。
義信の部屋には、まだ昼の熱気が残っていた。机の上には、使い込まれた数式のノートや図表が散らかり、鉛筆の芯は折れたまま放り出されている。窓の障子から射す光に、紙片の山が淡く照らされていた。
義信はその中心で膝を抱え込み、目を赤くしてうつむいていた。
「僕の理論は正しいのに……なぜ、誰も理解してくれないんだ」
その声は震え、喉の奥で詰まりながらも絞り出すようだった。
障子が静かに開く音がした。入ってきたのは次男の久信。手には、分厚い外国語の書物を抱えていた。まだ十四歳ながら、外務省での会議を経験してきた彼の表情には、兄に対する遠慮と同時に、確かな自信が宿っていた。
「兄さん」
久信は机の端に本を置き、椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「僕も最初の外交会議で同じだったよ。正しいことを言っているつもりだったのに、誰にも伝わらなかった。……正しさだけじゃ駄目なんだ」
義信は顔を上げ、涙に濡れた瞳を揺らした。
「久信、お前までそんなことを……」
「違うんだ、兄さん」久信は少し身を乗り出した。
「僕が学んだのは、正しいことを『分かりやすくする力』が必要だってこと。数式や理論が正しくても、聞く人が理解できなければ存在しないのと同じなんだ」
義信の胸に、苦い言葉が突き刺さる。しかし、弟の瞳は真剣で、嘘や慰めの色はなかった。
久信は机に散らばるノートを手に取り、そこに書かれた複雑な数式に目を走らせた。
「これはすごい理論だよ。僕には全部は理解できないけど、兄さんが考えた最適化の仕組みは正しいんだと思う。でもね――」
久信は、ノートを軽く叩いた。
「この数式の海を見せられても、議員たちは船を出す前に溺れてしまう」
義信の頬が赤くなり、怒りとも悔しさともつかぬ声を出した。
「僕は……僕は、真剣に考えたんだ! 遊び半分で作ったんじゃない!」
「分かってる」久信は遮らず、静かに頷いた。
「兄さんが寝る間も惜しんで、この数式を書いていたのを僕は知ってる。だからこそ惜しいんだよ。せっかくの理論が、伝わらなければ存在しないのと同じだから」
義信は口を開きかけ、何も言えずに視線を落とした。
その時、襖が勢いよく開いて、三男の義親が駆け込んできた。まだ幼い八歳の声は高く、部屋の張り詰めた空気を少し和らげた。
「兄さん、僕も学会で無視されたことがあるよ!」
その小さな胸を張った言葉に、義信は目を丸くした。
「お前までか……」
義親は小さな拳を握りしめ、続けた。
「僕はすごい実験をしたつもりだったのに、大人たちは笑って別の話を始めちゃった。あのとき、すごく悔しくて泣いたんだ。でも父さんは『悔しいなら次に生かせ』って言った。だから兄さんも次に使えばいいんだよ」
義信は思わず苦笑し、頭をかきむしった。
「お前まで励ますのか……僕は長男なのに、情けないな」
久信が肩に手を置いた。
「兄さんは長男だから失敗しちゃいけない、なんてことはないよ。僕たちは同じ立場じゃない。兄さんが転んだら、僕たちが支える。それで家族なんだ」
三兄弟はそのまま黙り込み、ただ同じ時間を共有した。長男の挫折を、次男と三男が支えようと必死に寄り添う姿は、まだぎこちなくも温かい。
やがて、襖が静かに開いた。そこに立っていたのは父、藤村晴人。内閣総理大臣として国を背負う男でありながら、その顔には厳しさよりも、息子を思う父親の眼差しがあった。
「義信……話がある」
その声は低く落ち着き、しかし揺るぎない力を秘めていた。三兄弟は同時に振り向いた。長男の頬にはまだ涙の跡が残っていたが、その瞳には、先ほどよりもわずかな光が差していた。
書斎は夜気に沈み、机の上のランプだけが黄色い光を放っていた。背の高い書棚には国内外の書物が整然と並び、古い藩政記録の傍らに、藤村が密かに書き写させてきた「索引巻」の一部が置かれている。
藤村晴人は椅子に腰を下ろし、義信に向かい合った。
「義信。お前の理論は正しい」
低く落ち着いた声が、部屋の空気を一瞬にして変える。
「私が持つ知識で照らし合わせても、その筋道に誤りはない。だからこそ、なぜ受け入れられなかったのか、考えねばならない」
義信は悔しげに唇を噛んだ。
「じゃあ、どうして……なぜ、あんなに簡単に否定されたんだ。僕は真剣に考えたんだ!」
父はしばらく黙り、机上の地図に視線を落とした。指先で常陸州の境界をなぞりながら、静かに言葉を継いだ。
「義信、お前は『正しさ』を示した。だが、議員たちが求めていたのは『正しいかどうか』ではない。彼らは、自分たちの現実にとって『必要かどうか』を知りたかったのだ」
義信は目を見開いた。
「……必要、か」
「そうだ」藤村は頷く。
「数式で未来を語るのは素晴らしい。しかし彼らは数学者ではない。彼らの関心は、生活がどう変わるか、財政がどう動くか、州兵がどう動きやすくなるか――そういう具体にある。正しい理論を理解させるには、まず『それがなぜ必要なのか』を、彼らの言葉で説明しなければならない」
義信の胸に、冷たい水が流れ込むような感覚が広がった。自分が語ったのはあくまで「理論の正しさ」であって、それを「どう役立てるか」ではなかった。
「……僕は、正しいだけで満足していたのかもしれない」
藤村の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「私も同じ過ちを犯したことがある」
義信は顔を上げた。
「父さんも?」
「そうだ」父はゆっくりと背を伸ばし、机の上の索引巻を一冊開いた。そこにはびっしりと細かな書き込みがある。
「私は時代を超えた知識を持っている。それを振りかざせば、皆が耳を傾けると思ったことがある。だが現実は違った。人は、自分が納得できる言葉で語られなければ動かない。知識だけでは人は導けない」
その声には、長年政治の荒波を泳いできた男の重みがあった。
義信は息を呑み、拳を膝に握り締めた。
「正しさと……伝わりやすさは別なんだな」
「その通りだ」藤村は頷いた。
「天才は時に、普通の人の視点を忘れる。だが本当の力は、普通の人の視点を取り戻し、彼らの言葉で語ることだ」
義信は父の言葉を深く刻み込み、ゆっくりと頷いた。
「分かった……。次は、僕の理論を『必要性』として伝える。数字ではなく、みんなの暮らしにどう影響するかを」
藤村は立ち上がり、息子の肩に手を置いた。
「それでいい。理論はお前の強みだ。だが、それを人に伝える力を磨けば――必ずや、誰も届かぬ高みに行ける」
その瞬間、義信の瞳に小さな光が宿った。失敗の痛みは消えない。しかし、その痛みを抱えて歩き出す勇気が芽生えていた。