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295話:(1881年7月)小満の新世代

梅雨の晴れ間、庭の紫陽花が青く光を含むように咲き誇っていた。藤村家の書斎では、硝子窓から射す陽光が紙の上を淡く照らし、微かに埃が舞っている。父・藤村晴人は机に向かい、山のように積まれた覚え書きを整理していた。内閣総理大臣としての日々は、政務に追われるばかりだが、このひとときは家族のために割いた時間だった。


 障子の隙間から三人の息子たちの声が聞こえる。義信は穏やかに弟を導くように話し、久信は理屈っぽく指摘をし、末の義親はときおり拗ねた声をあげる。その調子はまだ幼いが、兄たちに比べて知識への執着が強く、机にかじりついては難解な言葉を覚えたがるのだった。


 晴人は小さく微笑み、筆を置いた。障子を静かに開けると、子どもたちが机を囲んで議論をしていた。義親は分厚い書籍を広げ、必死に兄たちに説明している。


 「でも兄さん、ここに書いてある通り、植物は光を浴びれば必ず成長するんだよ!」

 「それはそうだけど、雨が長く降ったらどうするんだ?」久信が腕を組む。

 義信が間に入り、柔らかい声でなだめる。

 「義親、お前の言うことは正しいよ。でも自然はもっと複雑なんだ。父さんなら、どう答えるだろうな」


 その言葉に、三人の視線が一斉に晴人に向いた。思いがけず注目を浴び、晴人は軽く咳払いをしてから口を開いた。


 「光があっても、雨があっても、すべてが成長に繋がるわけではない。だが大事なのは、どちらも“必要だ”ということだ。お前たちの議論も同じだ。互いの考えを否定するんじゃなく、どう組み合わせればいいかを考えるんだ」


 義親の瞳がきらりと光った。兄たちも納得したように頷く。


 「つまり、僕らの意見を“合わせる”ことが大事ってこと?」

 「そうだ」晴人は優しく笑った。「一人で答えを出すよりも、三人で探す答えのほうが遠くまで届く」


 息子たちの表情に安堵の色が広がっていく。その瞬間、晴人は胸の奥に鋭い痛みを覚えた。彼らの未来を導くために言葉を選ぶが、本当の出発点――自分が時を越えて来た存在であることは、決して打ち明けられない。


 (お前たちは知らなくていい。この秘密は父が抱え続ける。お前たちがただ前を向いて歩けるように)


 その時、庭から風鈴の音が涼やかに響いた。夏の兆しを孕んだ風が、書斎の中へと忍び込み、紙束の端を揺らす。息子たちはその音に気を取られ、いっせいに窓辺へ駆け寄った。


 「父さん、ほら、風が気持ちいい!」義親が振り返って笑う。

 「風があるから雨雲も流れるんだな」と久信が呟き、義信が頷いた。


 小さな気づきを重ねる子らの姿を眺めながら、晴人はふと、かつての自分の少年時代を思い出した。学ぶ機会が限られていた幕末の空気、書物ひとつ手に入れるのにも苦労した時代。その記憶と、今目の前で伸びやかに議論を交わす息子たちの姿が鮮やかに対比された。


 「お前たちは幸せ者だ。知を求める自由を、惜しみなく使えるのだから」


 晴人は胸の内でそう呟いた。だがその「自由」を保障しているのは、権力と財の裏付けであり、そして彼が時の流れを超えて持ち込んだ知識の影響でもある。真実を言えない後ろめたさが、時折彼を苛む。しかし同時に、それを語らないことで守れる未来があるとも確信していた。


 窓の外では、紫陽花の葉に残る雫がきらめき、鳥のさえずりが雨上がりの空気を彩っていた。藤村家に新しい世代の息吹が芽吹き始めている。その姿を眺めながら、晴人は「父としての役割」を静かに心に刻んだ。

夏が近づくにつれ、東京の街並みは湿気を含んだ重い空気に包まれ、舗道を走る馬車の蹄音さえ鈍く聞こえた。藤村家の庭先では、朝露を含んだ紫陽花が日に日に色を深め、やがて梅雨の幕を開けようとしていた。


 この日、書斎の奥では父・晴人と三兄弟が集まっていた。机の上には、政治書、洋書の辞典、そして父の手でまとめられた索引冊子が並べられている。家族にとって、それらは単なる学びの道具ではなく「未来への地図」そのものだった。


 「父さん、見てください」

 久信が取り出したのは、外務省から回ってきた外交文書の写しだった。十四歳にして語学に秀でた彼は、文中に含まれた比喩的な表現を分析し、英国とフランスの思惑の違いを指摘する。


 「この“調整”という言葉は、向こうにとって『時間稼ぎ』の意味を含んでいます。けれど、国内向けには『妥協』と解釈させないようにしているんです」


 義信が感心したように頷き、義親は小首を傾げた。

 「難しいな……。でも兄さん、そんなに違いがあるのか?」

 「あるさ」久信は即答した。「相手が一言で何を隠しているか、読み解くのが外交だ」


 その言葉に、義親は少し唇を尖らせた。

 「じゃあ、僕の考えていることは全部読まれちゃうのかな」

 晴人は思わず笑みをこぼした。

 「義親、お前の考えはまだ“未来志向”だ。今の大人には読めないものも多いだろう」


 幼い弟を気遣う兄たちの視線に、晴人は確かに“新世代の形”を見た。互いを補い合い、支えながら伸びていく。その姿は、自らが若き日に夢見ながらも果たせなかった「家族の協力の形」そのものだった。


 ――だが、心の奥底では静かな葛藤が広がる。

 (息子たちよ、お前たちは知らない。父がなぜ未来の資料を正確に示せるのかを。もし知ってしまえば、その純粋な眼差しは揺らいでしまうだろう)


 沈黙の一瞬を破ったのは義信だった。

 「父さん、僕たち三人はそれぞれ違うけど、きっと一緒なら何でもできると思います」

 「そうだね」久信が続ける。「兄さんは人をまとめるのが上手い。僕は分析が得意だ。義親は新しいことを思いつく。……三人で一つの答えを作れる」


 義親が嬉しそうに顔を上げた。

 「僕も役に立てるんだね」

 晴人はゆっくりと頷いた。

 「もちろんだ。家族は互いを照らす灯火のようなものだ。一つが欠ければ、暗闇が残る。だが三つあれば、より遠くを明るくできる」


 その言葉に三人は誇らしげな表情を浮かべた。だが晴人の胸中では、別の声が響いていた。

 (本当は……お前たちが灯す光を、私は陰で導いている。未来の知識という異物で。だが、それを口にすることは決してできない。お前たちが“自分の力”だと信じて育っていくために)


 昼下がり、庭で休憩を取ることになった。蝉の声が先走り、青い空を突き抜けるように響く。縁側に腰を下ろした義親が、突然つぶやいた。

 「父さんは、どうしてそんなに何でも知っているの?」


 一瞬、空気が張りつめた。久信と義信が弟を制するように視線を向ける。しかし晴人は柔らかく笑った。

 「私が知っているのは“全部”じゃない。世の中には、まだまだ分からないことがある。だが――それを探す方法を知っているだけだ」


 義親は目を丸くしてから、ほっとしたように笑った。

 「そっか。じゃあ僕も探してみる!」

 義信と久信が微笑み、三兄弟の間に温かな空気が流れる。


 晴人はその光景を目に焼き付けながら、静かに決意を固めた。

 (秘密は、この胸に沈めておこう。息子たちが自らの力で未来を切り拓くために。父はただ、その背を守る存在であればいい)


 やがて夕暮れが近づくと、庭に赤紫の光が差し込み、三人の影を長く伸ばした。晴人は障子越しに灯された家族の姿を見つめ、胸の奥で呟いた。

 「新しい時代は、すでに始まっている……」

東京の空に、湿り気を帯びた雲が低く垂れ込めていた。梅雨入りを知らせる重たい風が、議事堂の瓦屋根を撫で、玄関前に並ぶ馬車の帷子をぱたぱたと揺らした。

 内閣総理大臣・藤村晴人は、その日の閣議を終えたあと、書類を抱えたまま官邸裏口から静かに自邸へ戻ってきた。夜半を待たずに家へ戻ることなど滅多にない。だが今日は違った。息子たちに課した「協力の試練」の結果を、この目で確かめるためである。


 応接間に入ると、義信と久信、そして義親が机を囲んでいた。卓上には古い地図、外務省から借り受けた統計資料、そして義親が書き散らした奇抜なメモの山が積み重ねられている。

 「父さん!」

 三人の声が重なった。晴人は思わず笑みを浮かべ、上着を脱いで椅子に腰を下ろした。


 「さて、今日はどんな成果を見せてくれる?」


 義信が最初に口を開いた。

 「父さん、兄弟三人で“仮想閣議”をしてみました。議題は――『琉球経済の立て直しと、外国貿易への影響』です」

 晴人は眉を上げた。自らも日々頭を悩ませている難題を、子どもたちが自ら選び、議論の題材にしている。


 久信が続けた。

 「僕は外交的な視点から、イギリスとフランスの態度を比較しました。二国とも琉球を小さな市場と見ているけれど、“海路の補給拠点”としては軽んじていません。つまり、もし日本がここを強化すれば、双方とも協力を装いながら牽制してくるはずです」


 義信はうなずき、用意した紙を広げた。

 「だから僕は、国内的な観点から整理しました。琉球に直轄の港湾局を置き、税収の一部を内地に還元する仕組みを作れば、中央政府の財政も潤います。これを兄の外交戦略と組み合わせれば、外圧を利用して国内改革を進められる」


 義親は待ちきれないとばかりに割り込んだ。

 「僕は科学の観点から考えたんだ! 琉球のサトウキビの副産物を“燃料”に使えないかって。蒸気船に全部使うのは無理だけど、一部を補助燃料にすれば、コストを減らせるんじゃないかな」


 三人の声が交錯する。晴人は机に両肘を置き、じっと耳を傾けた。

 (外交・内政・科学――三人の発想が交わっている……。これは単なる遊びではない。未来を担う小さな閣僚会議だ)


 やがて義信が紙束を差し出した。

 「父さん、これが僕たちの結論です。“琉球を国際協力の舞台にする”という提案。外には協調を示し、中では改革を進め、同時に新しい産業の実験場にする。僕ら三人の役割を合わせたら、こうなりました」


 晴人は書面を手に取り、しばし黙読した。子どもたちの文字は稚拙ながらも力強く、ところどころに索引から引いた語句がちりばめられていた。

 (この発想――私は知識を未来から借りてきただけだ。だが、この子らは自分の頭で考え、結び合わせている……。本当の“創造”がここにある)


 「……よくやった」

 静かな声で告げると、三兄弟は一斉に笑みを弾けさせた。


 しかし内心では、晴人の胸を冷たい影がよぎっていた。

 (だが、この議論の背景にある“データ”や“未来の知識”は、私が持ち込んだiPadから始まっている。二十年の歳月で紙に書き写し、整理し尽くしたが――その根は秘密にすべきものだ)

 (子どもたちは、純粋に自分の才能で歩んでいると思っている。その幻想を壊してはならない……)


 沈黙を悟った義親が、ふいに尋ねた。

 「父さん……僕たちの考えって、令和の知識と比べてどうなんだろう?」

 久信も重ねる。

 「僕らが見ている“今”と、父さんの知っている“未来”は、どれくらい重なるんですか?」


 晴人は一瞬だけ視線を落とし、呼吸を整えた。

 「……未来と現在を、同じ秤にかけることはできない。未来は地図だ。だが地図は、歩いた足跡で初めて意味を持つ」

 「だから、お前たちが描いたこの議論は――未来に答え合わせをする価値がある」


 三兄弟はその言葉に深くうなずいた。


 その夜更け、三人が寝静まったあと、晴人は書斎にこもり、机上の索引帳をめくった。ページの隅には“琉球・糖業・副産燃料”の文字が走り書きされている。そこに赤鉛筆で小さく追記した。

 〈新世代の仮想閣議、初の合意案。自立の芽生え、記録すべし〉


 窓の外では、細い月が雲間に滲んでいた。晴人はその光を見つめながら、胸の奥でそっと呟いた。

 (お前たちが立派に育つならば、それでいい。真実は……墓場まで持っていく)

その夜、藤村は書斎の灯を落とさずに、机に肘をついていた。

 子らの寝息が家中に満ちるとき、彼だけは眠れない。机上には幾冊もの索引と、びっしりと書き込まれた注釈の束。どれも息子たちが成長するたび更新されてきた「未来の断片」だ。


 窓の外には小満の月が浮かび、静かな光が障子を透かしている。

 藤村はその光に目を細めながら、心の奥で言葉を紡いだ。


(義信、久信、義親――。お前たちはすでに私の想像を越えるほどに育っている。だが、その背を押してきたものが、ただ一つの“外から持ち込んだ知識”だと知ったら、どう思うだろうか)


 彼は索引帳を閉じ、掌を重ねて深く息を吐いた。


「真実を口にすることはできない。いま語れば、未来を乱す楔になるだけだ。だから私は黙していよう」


 胸の奥にあるものは“隠す秘密”ではなく、“背負う責務”へと変わっていた。


(子らが自らの道を歩き切るその日まで、この重さは私が担えばいい。決して軽くはならないが、それでいい。父とは、そういうものだから)


 筆を置き、天井を仰ぐ。灯芯が短くなり、油の匂いが濃く漂う中、藤村の瞳には孤独と誇りが同居していた。


 1881年・小満。藤村家の新世代は動き始めた。父は沈黙を選び、真実を明かさぬまま子らを導く。秘密はもはや“墓場へ運ぶ誓い”ではなく、“未来を守るための重荷”となり、彼一人の胸に静かに刻まれていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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