294話:(1881年・6月)立夏の家族
六月の空は、すでに夏の匂いを孕んでいた。庭に面した縁側には、若葉を揺らす風がそよぎ、燕が軒先をすばやく往復している。藤村邸の書斎では、三人の少年が机を囲み、静かにそれぞれの作業を進めていた。
長男・義信は十四歳。几帳面な性格で、机の端に帳簿を並べ、父から任された家計の整理をしている。まだ幼い顔立ちの中に、計算や記録の正確さに対する誇りがのぞいていた。
次男・久信は十二歳。世界を相手にするような冷静さを持ち、目の前の羊皮紙に英語と仏語の文を交互に書きつけていた。父が外務省から持ち帰った草稿を翻訳し、さらに自分なりの注を加えていく。指先の動きは滑らかで、言葉の境界を越えるのは呼吸のように自然だった。
三男・義親は八歳。まだ幼さを残すが、頭脳は兄たちを凌ぐ。試験管と小さな薬瓶を机に並べ、硝子の中に生まれる色の変化に目を輝かせていた。彼にとって、実験は遊びであり、同時に挑戦だった。
書斎に流れる空気は穏やかで、しかしそれぞれの集中が交差することで、見えぬ熱気が漂っていた。
「……父さん、今日は遅いね」
帳簿を閉じた義信が、少し気遣うように口を開く。
「外務省の会議が長引いているのだろう」
久信が、ペンを置かずに答える。その声は落ち着いていたが、彼自身も父の帰宅を待ち望んでいた。
義親は試験管を傾けながら、小さな声を漏らす。
「父さん、疲れていないといいけど……」
三人の視線が襖に向いた、その時。襖が静かに開き、藤村が姿を現した。袴の裾にはわずかに外の土がつき、額には薄い汗が光っていた。けれどもその眼差しは、いつものように穏やかで、三人を包み込む温かさがあった。
「待たせたな」
藤村はゆっくりと書斎に入り、机の前に腰を下ろした。
三兄弟は自然と背筋を伸ばす。父の言葉を聞くとき、彼らはまだ幼いが、一人の弟子のように緊張し、また誇らしさを抱いていた。
藤村は懐から一枚の紙を取り出し、机の上に広げる。そこには、簡単な図と文字が記されていた。三つの円が重なり合い、それぞれに「計算」「言語」「科学」と書かれている。その中央には、小さく「協力」と記されていた。
「今日はお前たちに、大切な話をしようと思う」
藤村の声は、低く、しかし確かに響いた。
義信、久信、義親――三人の瞳が父の口元に集まる。
「この家は、これから先、さらに多くの困難に直面するだろう。外では列強が押し寄せ、内では制度も揺らいでいる。父一人ではすべてを支えきれない。だからこそ――」
藤村は一呼吸置き、三人を見回した。
「お前たち三人が、それぞれの力を活かし、互いを支え合うことが必要だ。義信は数字を。久信は言葉を。義親は科学を。その力を合わせれば、一つの大きな柱になる」
静かな空気の中で、義信が口を開いた。
「僕が……家の数字を支えるのですか」
「そうだ。家計だけでなく、役所や交渉の場でも数字は力になる。お前の正確さは、その力を強くする」
義信の胸に、小さな誇らしさが芽生える。父に認められることは、何よりの報いだった。
続いて、久信が問いかける。
「僕は……言葉で」
「そうだ。異国の人々と渡り合うには、言葉の壁を越えねばならぬ。お前の耳と舌は、それを可能にする。父にはできぬ領域を、すでにお前は歩き始めている」
久信の瞳がわずかに光る。父の言葉は、静かな自信を胸に刻んだ。
最後に、義親が小さく手を挙げた。
「僕は……科学で?」
藤村は頷き、その小さな肩に手を置いた。
「科学は、この国の未来を変える。お前は幼いが、硝子の中に未来を見ている。父にはわからぬことも、お前には見える。だからこそ、その好奇心を大切にしなさい」
義親の胸に、温かい炎が灯る。失敗しても構わない。父が、自分の研究を未来につなげてくれる――そう思えるだけで、心が軽くなった。
藤村は紙を指で押さえ、三人に言葉を重ねる。
「互いの力を重ねれば、父の知らぬ景色にも届く。だが――」
その一瞬、藤村の声がわずかに沈む。胸の奥に、言えぬ秘密が疼いた。
(令和から持ち込んだ知識も、いつか限界に達する。私一人の秘密は、決して語れぬ……だが、息子たちが支え合えば、この家は揺るがない)
顔には出さず、藤村は笑みを浮かべた。
「今日からは、家の机を“協力の机”と呼ぼう。それぞれが力を持ち寄る場所だ」
三兄弟は同時に頷いた。書斎に差し込む夏の光が、四人の姿を照らしていた。
初夏の風が庭木の若葉を揺らしていた。藤村邸の縁側に、義信と久信、そして末子の義親が並んで座り、麦茶の入った涼やかな硝子コップを手にしている。その奥の書斎では、藤村晴人が一枚の公文書を読み終え、ゆっくりと机の上に置いた。
紙には「内閣総理大臣」の肩書を持つ自らの名が記されている。重みを持つ署名を終えたあとでさえ、父として家族の前に立つとき、彼はできるだけ柔らかな表情を作ろうと努めた。
「父さん、おかえりなさい!」
真っ先に駆け寄ったのは八歳の義親だった。手には木工で拵えた小さな模型――軍用自転車の試作品の縮小版が握られている。
「今日はこれを完成させたんだ。車輪の歯車を組み合わせると、もっと速く回るんだよ」
誇らしげに差し出す小さな手。藤村はしゃがみ込み、その目線まで降りて模型を受け取った。
「なるほど……力の伝達を工夫したのか。よく考えたな」
「えへへ」
義親は照れ笑いを浮かべる。その背後で義信と久信が視線を交わし、微笑んだ。
藤村は模型を机に置き、子どもたちを順に見渡した。総理大臣としては幾千の国務に囲まれているが、家族の前では「父」としての表情を崩さないことを心に決めていた。だが、その穏やかな顔の裏には、国の命運と、自らが抱える“秘密”の影が常にちらついている。
義信が、少し真面目な顔で口を開いた。
「父さん……今日、陸軍士官学校で僕の理論をまた“空論”と笑われました。『総理の息子だから注目されているだけだ』と」
言葉の端々に悔しさがにじむ。十五歳にして既に大学を卒業した天才児であっても、周囲からの嫉妬と反発は避けられない。
藤村はしばし黙り、静かに答えた。
「義信……真理を語る者は、往々にして孤独になる。だが孤独の中で研ぎ澄まされるものもあるんだ。私も総理として決断を下すとき、しばしば孤独を覚える」
義信は眉を寄せた。
「でも父さんは、いつも迷いなく決めているように見える」
「それは……迷いを隠しているだけだよ。国の舵をとる立場の者が迷いを表に出せば、民は不安になる。だから私は平然を装う。だが、心の奥では常に揺れている」
義信の瞳に驚きが浮かんだ。父の言葉が、彼の心の鎧を少し溶かした。
そこへ、久信が口を挟んだ。
「父さん、今日、外務省での模擬交渉を任されました。英国と仏国の若手を相手にしたんですが……僕の言葉が通じたとき、相手がほんの少し肩の力を抜いたんです。その瞬間、ああ、これが父さんの言っていた“沈黙の力”なんだと分かりました」
藤村は頷き、穏やかな笑みを見せた。
「よく気づいたな。沈黙は時に言葉より雄弁だ。私は総理として、無言の間に漂う相手の本音を掴まねばならない。だが、それは机上の知識では学べない。久信、お前が自らの耳で感じ取ったその経験こそ、かけがえのないものだ」
久信は誇らしげに微笑み、胸を張った。義親も兄たちのやり取りを食い入るように見ていた。
やがて、義親が遠慮がちに口を開いた。
「……父さんは、なんでも知ってるんでしょう? 科学のことも、戦争のことも、全部」
幼い声に込められた憧れ。だが藤村の胸は、その言葉に締めつけられる。
(本当は、私は“全てを理解している天才”ではない……令和から持ち込んだ知識を写し残しただけの、不完全な人間だ)
彼は小さな頭に手を置き、ゆっくりと答えた。
「義親、父さんはすべてを網羅しているわけじゃない。お前の研究や工夫の方が、私の知識より詳しい部分もあるんだ」
「ほんとうに?」
「本当だ。父さんも分からないことは多い。ただ、お前たちに伝えたいのは――分からなくても、考え続ければ必ず道は拓けるということだ」
義親の顔に安堵が広がった。兄たちもまた、その言葉に救われるように視線を落とした。
その瞬間、藤村はふと、己の肩にのしかかる二つの重圧を思った。
ひとつは国政。内閣総理大臣としての責務。
もうひとつは、誰にも明かせぬ“タイムスリップの秘密”。
――もし秘密が露見すれば、家族も、国家も、信頼を失うだろう。
彼は改めて胸に誓った。父として、そして総理大臣として、最後まで守り抜くのだと。
夕暮れが迫る頃、藤村家の居間には灯火がともされ、障子の向こうに初夏の風が柔らかく流れ込んでいた。蒸した草の匂いに混じって、炭火で炊かれる夕餉の匂いが漂う。三兄弟は卓を囲み、父の帰りを待ちながら、それぞれの話題を口にしていた。
義信は軍学校での演習の様子を、模型の駒を動かすように説明している。久信は外務省で耳にした最新の交渉の空気を、抑揚豊かな口調で再現していた。そして義親は、まだ八歳らしい好奇心の塊で、兄たちの会話に割り込みながら、時折自分の考えを無邪気に披露する。
「兄さん、でも戦い方って、算数みたいに答えが一つじゃないんだね?」
義親の問いに、義信は苦笑しつつも肯定する。
「そうだ。正しい答えなんて、状況によって変わる。大事なのは、計算通りにいかなくても歩を進められることだ」
そのやり取りを黙って聞いていた久信が、微笑を浮かべて加わった。
「外交も同じさ。誰もが満足する答えなんてない。ただ、相手が退くときに自分も一歩引ける柔らかさがいるんだ」
義親は目を丸くして兄たちの言葉を呑み込み、やがて小さくつぶやいた。
「じゃあ…僕も、間違えてもいいんだね」
その瞬間、障子が開き、藤村が帰宅した。三兄弟は一斉に立ち上がる。父の姿は相変わらず背筋が伸び、首相という重責を背負いながらも、どこか家庭の空気に溶け込む温かさがあった。
「ただいま」
落ち着いた声が居間を満たすと、三兄弟はほっとしたように座り直した。藤村は彼らの顔を順に見渡し、卓に腰を下ろす。
「今日はそれぞれに、何か得たものがあったようだな」
義信が真っ先に口を開いた。
「父上、僕は軍学校での討論で、自分の理論がまだ半分しか受け入れられないことを知りました」
藤村は頷き、眼差しを柔らかくした。
「半分通れば、それで十分だ。残り半分は次のために残しておける」
続いて久信が言う。
「父上、私は交渉の席で、沈黙の間にこそ本音が隠れていることを学びました」
藤村はその言葉に微笑を深めた。
「よく見ているな。言葉は表札にすぎない。家の中を知るには、黙るときの息遣いに耳を澄ませることだ」
最後に義親が小さな声で言った。
「父さん、僕は…兄さんたちみたいに立派じゃない。学会でも笑われたし、間違えてばかりで…」
言葉が詰まった瞬間、藤村は静かに身を乗り出し、息子の肩に手を置いた。
「義親。人は皆、間違える。だがそれは傷ではなく、成長の証なんだ。真っ白な紙には何も描けないが、消し跡のある紙には物語が刻まれる」
義親は目を潤ませながら、父の手に自分の小さな手を重ねた。
「じゃあ、僕の消し跡も…大事なんだね」
「そうだ。お前の歩みを示す道標になる」
三兄弟は顔を見合わせ、互いに笑った。その笑いは幼さを残しつつも、確かな絆を帯びていた。
夜が更け、食卓が片付けられると、藤村は書斎へと移り、窓辺に立った。外には立夏の月が白く光り、庭の木々を淡く照らしている。静寂の中で彼は胸の奥に沈めている秘密を思い出した。
――自分は未来からの知識を抱えてここに立っている。
しかし、すでに息子たちは自らの眼で、耳で、心で、未来を形作り始めていた。
「私は導いているようで、実は守られているのかもしれないな」
独り言のように呟き、窓を閉じた。
部屋に戻ると、机の上に義親が残した小さなノートがあった。震える文字でこう書かれていた。
〈父さんも兄さんたちも、間違えることがある。だから僕も、安心して挑戦できる〉
藤村はその一文に目を落とし、深く息を吐いた。
「……そうだ、それでいい」
父としての強さと、人としての脆さ。その両方を抱えながら、藤村は灯を落とした。夜気の中で、三兄弟の寝息が遠くに響く。
立夏の月は静かに高く昇り、藤村家の上に、ひときわ明るい光を投げかけていた。
翌朝、庭の若葉が朝露を抱き、光を受けてきらめいていた。藤村家の縁側には、三兄弟が並んで腰掛け、母屋の台所から漂う味噌汁の香りに包まれていた。風にそよぐ竹の葉の音が、心地よい拍子を刻んでいる。
義信は膝に分厚い軍学書を広げ、指先で線をなぞりながら考え込んでいた。久信は手帳に短い仏語の文例を書きつけ、その裏に小さな注釈を加えている。義親は木の棒を片手に、庭の土に図形を描き、兄たちの言葉を真似して議論を始めていた。
「兄上、この図は攻める道? それとも守る道?」
「両方になり得る。線の引き方一つで意味が変わるんだ」義信は穏やかに答える。
「外交もそうだよ」久信が笑いながら横槍を入れる。「一つの言葉を“譲歩”と訳すか、“協力”と訳すかで、結果が全然違う」
義親は大きく目を開き、地面に「協」と「譲」の字を並べて書いた。
「同じ口の形なのに、重さが違うんだね」
三人のやりとりは、まるで一つの小さな学び舎だった。藤村はその様子を廊下の影から眺め、しばらく足を止めていた。彼の胸には重い公務の山がある。それでも、この光景こそが自らの支えであることを、深く理解していた。
「お前たち、朝から熱心だな」
声を掛けると、三人は振り向き、少し照れくさそうに笑った。藤村は縁側に腰を下ろし、庭に描かれた義親の図を見やった。
「面白い線だな。これはまだ未完成か?」
義親は頬を赤くし、うつむいた。
「うん……僕はまだ、答えを描けない」
藤村は小さく首を振り、静かに告げた。
「未完成だからこそ、続きが描ける。完成してしまえば、それ以上は学べない。今の形のままで十分に価値がある」
義信と久信は、父の言葉にわずかに目を見張った。義親はしばらく土の線を見つめ、やがて顔を上げて微笑んだ。
「じゃあ、この線は…僕の未来の入口なんだね」
「ああ。入口であり、出口でもある。行き止まりは、自分で道に変えられる」
その日の昼下がり、藤村は官邸に呼び出され、閣議の合間に外務・大蔵・陸軍の大臣らと向き合っていた。国の財政は依然として綱渡り、外交も油断できない綱の上を歩んでいる。それでも藤村の心には、朝に見た縁側の光景が鮮やかに残っていた。
「我々が残すべきは、決して完成品の国ではない」藤村は会議の最後に言った。「道半ばであっても、歩き続けられる仕組みだ。息子たちに教えられた」
その言葉に、居並ぶ重臣たちは一瞬沈黙し、やがて小さく頷いた。
夜。帰宅した藤村は書斎で机に向かい、三兄弟がそれぞれ残した紙片を整理していた。義信の戦術の図、久信の翻訳練習、義親の拙い字で書かれた「未来の入口」という言葉。どれも粗削りで、未完成で、しかし眩しい。
彼は深く息を吸い、心の奥に沈めている秘密に触れた。
――自分は未来の知識を抱え、この時代を渡っている。
だが、その知識もやがて限界を迎える。息子たちの柔らかい発想や視線は、すでに自分の背を追い越し始めている。
「私は、彼らにとって守る壁であると同時に、隠された影でもある……」
呟きながら、机の引き出しを開けると、そこには古びた革表紙のノートがあった。右筆に書き写させた膨大な索引。八年前に手にしたiPadの記録を土台に、年月をかけて築き上げた知の倉庫。そこに書き込まれた字は、父としての彼の嘘を守る盾であり、未来への橋でもあった。
義親の書き残した「未来の入口」という幼い言葉を、そっと索引の余白に貼り付ける。大人の記録の中に子どもの字が紛れると、不思議な温もりが宿る。
――秘密は墓場まで持っていく。
そう決意を改めながらも、藤村は知っていた。
いつか息子たちは、この索引を超え、自分の知らぬ地平を歩き出すだろうと。
灯火が揺れ、紙の上に影を落とす。
藤村は深く腰を下ろし、静かに目を閉じた。
家族を支えるための嘘は、重い。だがその重みこそが、彼を立ち続けさせる支柱でもあった。
外には、立夏の夜風が庭を渡り、竹の葉を鳴らしていた。
それはまるで、父の秘密を優しく包み込み、家族をつなぐ見えない絆の音のようであった。