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293話:(1881年5月・穀雨)科学的挑戦

五月、穀雨の名の通り、空は朝からしとしとと濡れていた。東京・本郷の学士会館は、雨粒を弾いた傘と外套であふれ、玄関先には湿った靴の匂いが立ち込めていた。その中で、ひときわ小柄な姿が壇上に立つ。藤村家三男、八歳の義親――まだ幼児の影を残す体つきだが、視線は澄みきり、細い指で原稿を押さえる姿は驚くほど堂々としていた。


 「本日の発表は、肥料効率に関する新しい実験結果です」


 声はやや高いが、言葉は一つひとつ明瞭だった。黒板に走らせる白いチョークの線は、子供らしからぬ正確さで化学式を描いていく。窒素、リン、カリ――農業に欠かせぬ三大要素に、彼は独自の触媒を組み合わせる方法を提示したのだ。


 最前列の若い研究者たちは、思わず身を乗り出した。ノートに急ぎメモを取る者もいた。だが、後列に並ぶ年配の学者たちは腕を組み、眉を寄せ、冷ややかな沈黙で見下ろしている。


 「金属イオンの種類によって吸収効率は異なります。特に――」


 義親が黒板にグラフを描き加えた瞬間、重々しい声が会場を切った。

 「待ちたまえ」


 一人の教授が立ち上がった。白髪交じりの口髭を撫でながら、冷ややかな目を向ける。

 「君、その数値はどのような施設で計測した?」


 義親は小さな背筋を伸ばし、震える声で答えた。

 「自宅の実験室で、何度も繰り返して…五回、同じ結果が出ました」


 「自宅?」教授の声に皮肉が混じる。「学術は遊びではない。家庭の机の上で得た数値を“成果”と呼ぶのか?」


 場内にざわめきが走った。別の学者が低く笑いを漏らす。

 「藤村晴人の息子だと聞いていたが、やはり注目に値するのは“血筋”だけらしい」

 「八歳の子供に科学を任せようとは、世も末だな」


 言葉の棘が次々と飛ぶ。義親は唇を噛みしめ、視界がぼやけていくのを止められなかった。黒板に書いたはずの数式が滲み、白と黒が混ざる。胸の奥に熱い塊がこみ上げ、声が喉に引っかかる。


 「……で、ですが、データは確かに…」


 最後まで言い切る前に、議長が木槌を打った。

 「本日の発表はここまでとする」


 冷たい決断が響いた瞬間、会場は重苦しい沈黙に包まれ、やがて散発的な拍手が起こった。それは称賛ではなく、早く終わらせたいという合図に過ぎなかった。


 義親は小さな拳を握りしめ、頭を深く下げて壇を降りた。背中に突き刺さる視線と、ひそひそ声が耳を刺す。

 「やはり子供には無理だ」

 「父親の威光も、ここまでは及ばぬ」


 廊下に出ると、窓硝子を打つ雨音が一層強く感じられた。石畳に落ちる雨粒が跳ね、黒靴の表面を濡らす。義親は声を出さずに涙を流し、袖で拭った。


 夕刻、藤村邸に戻ると、玄関に並んだ下駄がいつもより重たく見えた。母や兄たちの声が居間から聞こえたが、耳に入らない。彼はまっすぐ自室へ駆け込み、机の上に広げた実験ノートを抱え込んだ。震える指でページを押さえ、声を詰まらせながらつぶやく。


 「父さん…僕は、失敗したんだ」


 襖の外で立ち止まる藤村の耳に、そのか細い声が届く。雨脚が強まり、庭の若葉を打つ音がひときわ激しくなる。父は黙って拳を握り、やがて静かに襖へと手をかけた。

義親はノートを強く抱きしめたまま、声を震わせて続けた。

 「でも……父さん。僕、怖いんだ。学会で言われたことが、本当に正しかったらどうしようって。僕の研究は間違ってて、ただの“子供の空想”だったら……」


 その言葉には、八歳の子供らしい不安と、天才ゆえの重荷が絡み合っていた。藤村はその姿に、自分が公務員として役所の机に向かっていた頃を思い出す。書類一つの不備で責められ、夜眠れなかったこともあった。だが、自分には「子供だから」と逃げ道がなかった。


 「義親」

 藤村は声を落とし、息子の目を真っ直ぐに見つめた。

 「研究は、人に批判されるものだ。もし誰も批判しなかったら、それは誰も関心を持っていない証拠だ。今日、あれだけの反応があったということは、お前の研究が“本物”だからこそだ」


 義親は瞬きを繰り返し、信じたい気持ちと不安が交錯する表情を見せる。

 「本物……?でも、父さんはどうしてそう言えるの?」


 藤村は一度だけ息を整え、言葉を選んだ。

 「令和の知識にも、批判を受けた研究が後に正しいと証明された例は山ほどある。科学は“間違いから正しさを掘り出す”ものだ。だから今日の失敗は、未来の正しさの前ぶれかもしれない」


 (内心)

 (本当は、私は専門的な数式も触媒反応も理解できていない。息子が示す理論の行間を、ただ“未来の科学ではありそうだ”と推測しているだけだ。だが――息子の心を折らないことが、今の私にできる唯一の役割だ)


 義親は父の言葉を聞きながら、涙の跡を袖で拭った。小さな手が、まだ不安で震えている。藤村はその手を自分の掌で包み込み、続けた。

 「お前が八歳で作った実験は、ほとんどの大人が一生かかっても思いつかない。父さんは、その勇気と努力を誇りに思う。失敗は研究の証明であって、お前の否定じゃない」


 義親は少し黙り込み、やがてぽつりと呟いた。

 「……父さんも、分からないことがあるんだよね」


 藤村の胸が再び締め付けられる。

 (そうだ、義親。私は分からないことばかりだ。本当は“未来の書庫”から必死にかき集めた知識を、右筆に書き写させただけの人間だ。だが、君にそれを明かすわけにはいかない。君の瞳の中の“父への信頼”を壊すわけにはいかないんだ)


 「その通りだ」藤村は静かに答えた。「父さんも分からないことはある。だから一緒に考える。親だからといって、すべてを知っているわけじゃない。むしろ、子供に学ばせてもらうことの方が多い」


 義親は目を潤ませながらも、口元に小さな笑みを浮かべた。

 「……じゃあ、僕も完璧じゃなくていいんだね」


 藤村は頷き、息子の肩を抱いた。

 「完璧な人間なんていない。科学も、政治も、外交も――全部、不完全だから進歩するんだ。だから、お前も“失敗した自分”を大事にしなさい」


 その言葉に、義親の頬から緊張が少し抜け、布団に顔を埋めるようにして小さな安堵の吐息を漏らした。

その夜遅く、藤村邸の廊下には、まだ義親のすすり泣きの余韻が漂っていた。雨戸の外では、しとしとと降り続く穀雨が庭の青葉を濡らし、時折、軒下から滴り落ちる水が静かに石畳を叩いた。


 襖の向こうから聞こえていた小さな嗚咽は、やがて弱まり、代わりに布団を握る義親の息遣いが静かに重なった。藤村はその様子を見守りながら、そっと部屋を出ようとした。だが、廊下の角にはすでに二つの影が立っていた。義信と久信――兄たちである。


 義信は十五歳、すでに陸軍士官学校で苛烈な日々を過ごしている。久信は十四歳、外務省の実務訓練で各国の公使館と渡り合っている。その二人が、まだ八歳の弟の部屋を心配して駆けつけてきていたのだ。


 「父さん、義親は?」と義信が低く問う。

 「少し落ち着いた。だが、胸の奥はまだ苦しいはずだ」


 藤村がそう答えると、久信が静かに襖に手をかけた。

 「今夜は、兄の役目だと思います」


 襖が静かに開かれる。中で布団をかぶっていた義親が驚いた顔を上げ、兄たちの姿を見て目を瞬いた。


 「兄さんたち……」


 義信が先に近づき、畳の上に腰を下ろした。大柄な体つきはもう少年というより若者に近いが、表情には弟を思いやる優しさが滲んでいた。

 「義親、今日のことは父さんから聞いたよ。辛かったな」


 義親は唇を噛んだ。

 「みんなの前で、僕の研究が笑われたんだ。『子供の空想』って。僕は……僕は何も分かってないのかな」


 その言葉に、久信が静かに口を開いた。

 「違うよ、義親。父さんも言っていただろう? 父さんだって、全部が分かるわけじゃないって」


 義親は驚いた顔で久信を見つめた。

 「父さんが……? でも、父さんは令和知識を全部知ってるんじゃ……」


 義信は弟の肩に手を置き、しっかりとした声で言った。

 「父さんは確かに未来の知識を持っている。でも、それは“万能”じゃない。父さんだって、時に悩み、分からないことにぶつかっているんだ」


 「……兄さんも、そう思う?」


 「思うさ」義信は即答した。「俺だって、軍で理論を発表した時、保守派の連中から散々“机上の空論”だと叩かれた。父さんは『間違っていない』って背中を押してくれたけど、その時気づいたんだ。父さんは万能じゃなくて、俺と同じように試行錯誤してるんだって」


 久信も続ける。

 「僕も同じだよ。外交の現場で父さんが助言してくれるけど、それは“全部の答え”じゃない。むしろ僕の分析に頼っている時もある。父さんは“過去の知識”を持っているけど、僕たちは“今”を見ている。だから一緒に補い合っているんだ」


 義親の目が揺れた。八歳の子供にとって「父は万能」という幻想は支えでもあった。その幻想が崩れつつある不安の中で、兄たちの言葉は新しい支柱となり始めていた。


 「父さんも……完璧じゃない……?」


 「そうだ」義信が力強く言った。「だから、お前も完璧じゃなくていい」


 久信がさらに言葉を重ねる。

 「大事なのは、失敗しても歩き続けることだよ。外交だってそうだ。相手に拒まれても、次の扉を探す。義親の研究も同じさ。批判されたからこそ、その先に新しい道がある」


 義親の瞳に、少しずつ光が戻っていく。布団から身を起こし、小さな声で呟いた。

 「……父さんも兄さんたちも、完璧じゃないんだ。じゃあ僕も……完璧じゃなくてもいいんだね」


 三人の間に、静かな沈黙が流れた。だが、その沈黙は先ほどまでの重苦しいものではなく、温かい余韻を含んでいた。


 藤村は襖の外からその様子を見守り、胸の奥で深く息を吐いた。

 (……息子たちよ。お前たちの言葉に、私自身が救われている。私は“完璧じゃない”どころか、未来の断片的な知識を必死に継ぎ合わせているに過ぎない。だが、お前たちはその不完全さを受け入れ、さらに前へ進んでいる)


 久信が笑みを浮かべ、弟の頭を撫でた。

 「義親、お前はすでに僕らより先を歩いている部分もある。だから胸を張れ」


 義信も力強く頷いた。

 「そうだ。お前は俺たちの誇りだ」


 義親は涙の跡を残したまま、初めて笑顔を見せた。


 その笑顔を見届けた藤村は、静かに襖を閉め、廊下の暗がりに身を隠した。外では穀雨が降り続いていたが、心の中にはかすかな晴れ間が広がっていた。

翌朝、雨はなお止む気配を見せず、庭の若葉には無数の雫が揺れていた。穀雨は田畑を潤し、次の季節への備えを促す――人の心にも同じように、試練を越えた芽を静かに育てるように。


 義親は縁側に腰掛け、小さな手でノートを抱えていた。昨夜の涙はすでに乾き、その瞳には新しい決意の光が宿っている。紙面には「失敗」と太い字が記され、その下に「次はここを直す」と走り書きが並んでいた。


 藤村が傘を片手に近づくと、義親は振り向き、小さく笑った。

 「父さんも完璧じゃないんだって分かったら、なんだか楽になったよ。僕も、完璧じゃなくていいんだね」


 藤村はその言葉に頷き、そっと息子の肩に手を置いた。

 「そうだ、義親。大事なのは進み続けることだ。昨日の涙も、今日の力になる」


 だがその言葉の奥で、藤村の胸には別の声が鳴っていた。

 (……息子よ、私は『完璧じゃない』どころか、本当はお前の理論を理解しきれてもいない。ただ、未来の断片を紙に移し、必死に繋ぎ合わせているだけだ。その真実は、決して明かすことはできない。だが、秘密の重荷を背負うのは私一人でいい)


 そのとき、縁側の奥から義信と久信も顔を出した。義信は弟のノートを覗き込み、にやりと笑う。

 「ずいぶん修正点が多いな」

 「でも、全部“次につながる”って書いてあるよ」久信が指差した。

 「それが研究者の証だな」義信は胸を張って言った。


 三人のやりとりを見て、藤村の心に静かな安堵が広がった。兄たちの支えと弟の立ち直り――家族の絆があれば、どんな秘密も、どんな孤独も、背負う力に変えられる。


 庭先に小鳥の声が響き、雨脚が次第に細くなる。雲の切れ間から薄い光が差し込み、濡れた葉を透かしてきらめいた。


 ナレーション:

 「1881年穀雨、義親は失敗を抱えながらも、一歩先へ進む勇気を取り戻した。『父も完璧ではない』――その気づきが、重圧を和らげたのだ。しかし、父・藤村の本当の秘密は、なお深い影の中に隠されたままだった。穀雨の雫は大地を潤し、次の芽吹きを待つ。家族の絆もまた、未来への種を静かに育てていた」

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