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292話:(1881年4月)清明の外交修業

春の光が庭を包む藤村邸の食卓に、柔らかな陽が差し込んでいた。桜の花弁が遠くの空を舞い、清明の季節にふさわしい澄んだ空気が広がっている。藤村晴人は茶碗を置き、三人の息子の顔を順に見渡した。義信は軍務に打ち込み、義親は研究に没頭し、そして次男・久信は外交の才を伸ばし始めていた。父の胸に、わずかな誇りと深い孤独が同居する。


 久信が口を開いた。まだ十四歳の少年だが、目の奥には年齢を超えた落ち着きと鋭さが宿っている。

 「父さん、昨日の会議でイギリスとフランスの対立を確認しました。令和知識に書かれていた通りでした」


 藤村は頷いた。だが久信はさらに言葉を続けた。

 「ただ……表面的な対立の裏で、両国は経済協力を模索していました。誰も言葉には出さなかったけれど、数字や動きにそういう気配がありました」


 その一言に、藤村の心は静かに揺さぶられた。

 (……待て。それは、私が八年間の公務員生活で触れてきたどの資料にも、そしてタイムスリップ前にiPadへ蓄積した記録にも載っていないはずだ)


 藤村はかつて、八年間にわたって地方行政に従事し、その間に法律、経済、歴史、そして外交に関する膨大な情報をiPadに保存していた。仕事の合間に積み重ねた知識は、彼にとって「時代の外」から持ち込んだ最大の資産であり、タイムスリップ直後の二十年間で右筆たちに書写させ、書物として残してきた。


 だが――いま目の前にいる久信の言葉は、その整理された記録のどこにもない。

 (久信は、自分で掴み取った情報を、すでに私の記録を超えて分析している……)


 藤村は茶碗を握り直し、表情を崩さぬよう努めた。

 「そうか。よく見ているな」


 その声は落ち着いていたが、胸の奥には複雑な思いが渦を巻いていた。自分が秘密として抱え込んでいる「未来の知識」にも限界がある。そして息子は、その限界を自然に越えつつあるのだ――。

台所には湯気が立ちのぼり、白い障子にやわらかい影をつくっていた。味噌椀を並べながら、久信がふいに切り出す。

 「父さん、どうやって人の心を読んでいたんですか。会談で、相手が言わない本音まで先回りできるのは、言語だけじゃ説明がつきません」


 藤村は菜箸を止め、わずかに笑った。

 「経験だよ。場数を踏むと、視線や沈黙の重さで、だいたい見当がつく」


 言いながら、胸の奥で別の言葉が疼く。――経験だけではない。八年前、公務員として積み上げた実務の勘に、長年ストレージに蓄え、のちに右筆とともに書写・分類し直した心理学と交渉学の資料が重なっている。いまは革紐で綴じた「索引巻」がすべてで、端に「心−01:認知のゆがみ」「心−12:同調と分断」「交−07:最小譲歩の提示順」と墨書されている。画面の光はもうない。だが、紙の匂いと頁のざらつきは、むしろ身体に染みて役立つ。


 「令和知識には、人の心理まで書いてあるんですか?」

 久信は鍋の蓋を少し持ち上げ、湯気の向こうで父の目をまっすぐ見た。


 「すべてが載っているわけじゃない」藤村は慎重に言葉を置く。「数式みたいに一意に解ける心はない。ただ、傾向はある。たとえば、強い否定の直後に条件節を付け足す人は、実は交渉余地を探していることが多い。沈黙が三拍より長ければ、主張の組み替えに入っている合図――そういう“手がかり”を並べて、場の温度と合わせて読む」


 久信は頷き、箸を止めずに続けた。

 「昨日の仏大使、否定のあとで“もし”を三度使いました。僕はそこで、文化事業の枠組みなら譲歩が出ると踏んだ。……父さんの“手がかり”、少し分かってきた気がします」


 「よく見ている」藤村は笑みを深める。観察、反復、そして仮説の修正。心理学の本で読んだ枠組みを、彼は生きた言語に接いで使っている。――息子はもう、自分の方法を持ちはじめている。


 片付けが終わると、藤村は居間の長机に「索引巻」を運んだ。背表紙の見出しが整然と並ぶ。

 〈心−02:確証バイアス/心−05:損失回避/心−09:威信・面子〉

 〈交−03:相互主義の設計/交−08:BATNA整理表/交−11:多拠点同時交渉〉

 〈史−英仏:協調と反目のパターン年代表〉

 〈詞−微表情:眼輪筋・口角・喉仏の遅延〉

 どれも、かつての電子の箇条を右筆が筆写し、藤村が注と事例を書き加え、明治の現場語に訳したものだ。


 「これ、見ていいですか」

 久信が手にとったのは〈心−05:損失回避〉。頁の余白には父の細い文字がある。

 〈人は“得”より“損”を強く恐れる。提案は“損の回避”として提示せよ。例:港湾税率改定は“負担増”でなく“入港遅延の損失回避”として語る〉


 「台所で話していた“沈黙の三拍”、ここに“の操作”として出てきますね」

 「うむ。三拍は日本語圏の平均。仏語話者は二拍寄り、露語話者は四拍寄り――言語ごとの呼吸も付けてある」


 久信は別の巻を開く。〈詞−微表情〉。眉間の寄りと口角の遅延、喉仏の上下……練習用の小さなスケッチが連なり、欄外には「怒りは上から、嫌悪は中から、軽蔑は片側から」とある。

 「父さん、ここまで細かいのは、誰の本です?」

 「原典の著者名はもういらない。使えるかどうかだけだ」藤村はやわらかく笑う。「ただし、書に書いてない“例外”は現場で拾え。たとえば宗教的所作や軍隊式礼は微表情を覆い隠すことがある。昨日お前が見抜いた“祈りの指先”――あれは、文面にない譲歩のサインだった」


 「台所で訊いたこと、もう一度言わせてください」久信は静かに問う。「父さんは、どうやってここまで組み合わせたんですか。心理学、交渉学、言語、歴史……」


 藤村は少しだけ目を伏せ、事実の輪郭だけを差し出した。

 「職場で鍛えられた。数字を読み、苦情を聞き、制度と言葉の間に橋を架ける仕事だった。そこで“人の心が動く順番”を覚えた。あとは、紙に落とし、現場で試し、外したら書き直す……それだけだ」


 ――そこに、時代の外から抱え込んだ知識が繋がっていることは言わない。画面が消えても残ったのは、索引と事例、そして失敗の赤鉛筆だ。


 久信は小さく息を吐き、頁を閉じて深く頭を下げた。

 「僕も“例外”を拾える外交官になります。言語は入口で、心は出口――父さんの索引巻、借りてもいいですか」


 「一巻ずつだ」藤村は笑って答える。「写して、お前の注を書き足せ。私より先に見える景色が必ずある」


 廊下の向こうで柱時計が一度だけ鳴った。湯気は消え、障子の白は冴え、机の上には四つの巻物が開かれている。経験で磨いた感覚と紙に固定した知とが、世代をまたいでひとつの方法に結び直されていく。

 「父さん」

 「なんだ」

 「いつか僕が“例外の索引”を作ります。明治の現場に合わせて」

 「それでいい」藤村は頷く。「索引は、更新されるためにある」

外務省の回廊は朝の光を長く引き伸ばし、磨き上げられた床板の木目に薄金の筋を走らせていた。正面玄関脇の楕円形の応接室では、陸奥宗光が書類を束ねながら、壁際の大地図に目をやっている。扉の向こう、控室では各国公使館からの連絡票が次々と差し込まれ、浅葱色の差紙が皿の上に高く積み上がっていた。


 その部屋へ、久信が一礼して入る。十四歳の少年に見えぬ落ち着きだが、足音は年相応に軽い。陸奥は手元の砂時計を逆さにし、砂が落ち始めるのを確かめてから振り向いた。

 「ちょうどよい。今日は“耳”の訓練を兼ねる。英国と仏国、双方の書記官が別々に用件を運んでくる。文面より声色と間合いを聴きなさい」


 応接室の中央には、黒い革張りのソファが二脚。陸奥は片方に腰かけ、向かいに久信を座らせる。机上には薄く綴じられた紙束が四冊。表紙の隅に、藤村家の索引と同じ筆致で小さな符牒が記されている。〈交−08/BATNA整理〉〈心−05/損失回避〉〈詞−微表情〉〈史−英仏相互依存略表〉。久信は“索引巻”の写しと見抜いて、ほんの瞬き一つで頷いた。


 最初に入ってきたのは英国公使館の若い書記官だ。上衣の裾を払う仕草がわずかに早い。陸奥が立ち上がる気配をつくらず、ソファの背にもたれたまま右手だけ上げると、書記官はそれを合図に心得て、机の上へ封書を置いた。

 「A memorandum regarding coal tonnage and harbor dues.」

 (和訳:石炭積載量と港湾税に関する覚書です)


 抑揚は滑らかだが、語尾で極小さく息が引っかかった。久信は、父の索引で見た〈詞−微表情/喉仏の遅延=“言い置きたいことの未消化”〉を思い出す。


 「読み上げていただきましょうか」陸奥はあえて英語で促す。

 書記官は一礼し、文面を読み始めた。港湾税率の軽微な調整を「友好の証」と称しつつ、文中に三度 “if” が現れる――

 「If the schedule could be aligned…」

 (和訳:もし日程(運用手順)に“整合”を取っていただけるなら……)

 「If an interim measure is possible…」

(和訳:もし暫定措置が可能であるなら……)

 「If no public notice is made…」

(和訳:もし公的な告示がなされないのであれば……)

 そのたび眉根がわずかに寄る。

 (“損失回避”を枕に、内輪の事情を呑ませたい――)

 久信は索引〈心−05〉の余白に自分の注を足したときの感覚を、実地で噛みしめる。相手が守りたいのは威信ではなく議会の面子。では譲歩は“変更”でなく“調整”として提示すべきだ。


 読み終えると陸奥が穏やかに口を開いた。

 「Thank you. Japan understands the necessity to avoid unnecessary losses. We may consider an alignment—not a change—of the schedule, provided that both sides record it as a technical adjustment.」

 (和訳:ありがとうございます。我が国は“不要な損失の回避”の必要を理解しています。記録上“技術的調整”として双方が明記するのであれば、日程の“変更”ではなく“整合”を検討しましょう)


 書記官の頬の筋が一瞬だけほどける。彼は深く礼をして、退室した。扉が閉まるやいなや、陸奥は砂時計を見やり、静かに言う。

 「いまの “alignment” の一語、よく効いたろう?」

 「はい。あれで『政策変更ではない』という逃げ道ができます」

 「うむ。逃げ道をつくることは、時に相手を前へ進ませる。それを“恩”にせず、“技術的”と言い切るのが肝だ」


 次に現れたのは仏国の書記官。白手袋を外し、卓上に置く仕草が幾分儀礼的に過ぎる。フランス語の前置きは流麗だが、核心には触れない。

 「La France souhaite approfondir les échanges culturels…」

 (和訳:フランスは文化交流の深化を望んでおります……)


 文化交流の強化、学術会議の相互招へい――言葉は柔らかい。しかし陸奥が何も挟まずに微笑で受けると、書記官は一拍、二拍……二拍半で口を開いた。

 「…à condition que l’annonce ne mentionne pas les aspects techniques.」

 (和訳:……ただし発表文に“技術的側面”へは触れないことを条件に)


 久信は息を呑む。〈間合い〉、仏語話者は二拍寄り――父の注が頭の中で灯る。ここでも相手は面子と内政の板挟みだ。


 陸奥は、仏語で短く応じた。

 「La culture avance mieux quand la technique marche en silence.」

 (和訳:技術が静かに働くとき、文化はよりよく進む)


 書記官はわずかに口角を上げた。言葉そのものが合意文言ではない。だが、合意文言を作れる空間が生まれた。そのまま礼を交わすと、彼も退室する。


 扉が閉まる。砂時計の砂は底に半分ほど溜まっていた。陸奥は腕を組み、しばし黙ってから口を開く。

 「――きみは、いま二つの“沈黙”を聴いたはずだ」

 「英国の三つの “if” の間に置いた浅い沈黙。フランスの二拍半の“条件”。いずれも、譲歩の入口です」

 「正解だ。文面は運河、沈黙は閘門だ。水位差を測らずに船は通せない」


 陸奥は机上の四冊の写しをとり上げた。

 「……正直に言う。ここまで“耳”の利く者は、わたしの下にも多くない。言語の鋭さは知っていたが、呼吸を掴むのは別の才能だ」

 その言い方には、ただの称賛ではなく、評価の更新の響きがあった。


 そこへ控室から右筆が顔を出し、国内の連絡票を差し出した。琉球の港湾収入の落ち込みに関する速報だ。陸奥は走り読みし、久信に渡す。

 「机の上だけでは外交は完結しない。数字が“裏付け”、現場が“証拠”だ。これを素材に、さきほどの英国の希望を技術的調整で受ける代わりに、琉球の定期寄港の枠を増やす設計にしてみなさい。損失回避の語法で、相互主義を組む」


 久信は立ったまま、差紙の余白に下書きを走らせた。

 「『入港遅延に伴う損失回避のため、石炭搭載枠を一時拡充』……“変更”の語は使わず、“回避”“一時”で縁取り――」

 「いい。だが日本側の最小譲歩も最初に自分で指定しておけ。索引〈交−08〉の“最小譲歩の提示順”を忘れるな。先に言っておけば、あとで削られない」


 言い終えると陸奥は歩み寄り、少年の書きつけを覗き込んだ。小さく頷き、赤鉛筆で二箇所だけ印をつける。

 「この “technical alignment” と “interim” は、生きた橋になる。……藤村殿(と、父)に伝えなさい。きみは、すでに師の背を追い越しはじめていると」


 久信は肩をすくめ、うれしさを隠し切れず笑った。

 「父は“索引は更新されるためにある”と言います。僕の注を、外務省版に書き足してよいでしょうか」

「もちろんだ。名は要らない。使えることが名だ」


 昼過ぎ、臨時の実地演習が組まれた。場所は外務省の小会議室。英国・仏国の若手と、日本側の交渉官候補を混ぜた模擬折衝だ。議題は「港湾の技術的調整と文化交流スケジュール」。陸奥は観察役に回り、久信には議事進行と合意文案の起草を任せた。


 会議が始まる。冒頭の定型挨拶を省略し、久信はいきなり論点の分解に入った。

 「まず“時間”と“面子”を混ぜないでください。技術の話は時計で、文化の話は鏡で進めます」

 通訳が一瞬迷い、clock / face の訳語を言い分ける。場がわずかに和み、笑いが小さく走る。そこで久信は、索引〈交−03/相互主義〉から引いた手法で、相手の最小利益を先に言語化させた。

 「英国側の“赤線”は?」「仏側の“越えられない線”は?」

 「それを先に共有すれば、交渉は消耗戦でなく設計になります」


 英国側は「議会での説明可能性」を、仏側は「文化事業の面目保持」を赤線として掲げた。久信はそれを黒板の左右に書き、中央に白い円を描いた。

 「この円が“損失回避の言い換え”の領域です。英国の“技術的調整”は“事故回避のための暫定措置”。仏国の“文化事業面目”は“技術が静かに動くことで得られる成果の増幅”。ここで重なる表現を、合意文の骨にします」


 仏側の若手が冗談めかして「La technique doit être comme un fantôme.」と言い、場が笑う。

 (和訳:技術は幽霊のようであるべきだ)

 直後――喉仏が一段、下がった。

 (いま、合意域に入った)

 久信は黒板の“白い円”を太くし、文案を口にする。

 「双方は、文化事業の円滑な実施を目的として、港湾の運用に関する“技術上の整合”を暫定的に講じる」

 “変更”も“譲歩”も使わない。整合と暫定――索引の語彙表から選んだ“温度の低い”語だ。英国側が頷き、仏側が肩を落とすのではなく力を抜く。陸奥は椅子の背にもたれ、腕を組んだ。


 十分後、模擬折衝は合意に達した。陸奥は立ち上がり、参加者を労ったのち、最後に久信へ視線を向ける。

 「……観れば観るほど、観ないという技術を身につけている」

 「観ない?」

 「相手の体面や怒りを、観察はするが凝視はしない。“怒り”を“材料”にしないから、相手が自分で降りる場所を見つけられる。――これは、教えにくい。だが、きみはもう体得しつつある」


 控室に戻る廊下で、陸奥は足を緩めた。窓の外、皇居の林に薄緑が芽吹き始めている。

 「藤村殿の“索引”は、紙として秀逸だ。だが、きみの強みは紙ではない。反応時間と言い換えの設計、そして沈黙の処理。それは紙の外でしか育たない。……だから、きみは紙を離れても強い」


 久信は胸の内で、父の言葉と陸奥の言葉を並べて噛みしめた。索引は更新されるためにある。紙の外で育てるためにある。

 「大臣、今夜、その“紙の外”を父に報告します。僕の注を増やして、外務省版に移してよいですか」

 「さっきも言った。名は要らない。ただ、伝わる形にして残せ。十年後、二十年後、きみの“沈黙の処理”を言語化できる者が出てくる。それが国の財産だ」


 夕刻、赤坂方面へ沈む陽が廊下を橙に染め始めたころ、陸奥は手元の覚え書きに短く書き付けた。

 〈久信、言語・心理・歴史の複合運用卓越。合意文言の温度調整に非凡。父の索引の“実地更新者”として指定。今後、独自案件の少額試験を許可〉

 筆を置くと、遠くで鐘が鳴った。春の空気はまだ冷たく、しかし午前中よりも柔らかい。陸奥は窓を少しだけ開け、外気を吸い込んでから独り言のように呟いた。

 「――父を超えた、と言うには早い。だが、父が歩かなかった小径を、もう歩き始めている」


 その夜、藤村邸の書斎では、久信が“索引巻”の複写に新しい筆注を加えていた。〈沈黙=閘門〉〈時間(時計)と言語(鏡)の分離〉〈整合/暫定の温度〉。欄外に小さく、外務省演習・四月と日付を記し、最後に一行。

 〈紙は入口。呼吸は出口。〉

 灯芯が短くなり、部屋の隅の影が濃くなった。頁のざらつきを指先で確かめ、息をひとつ吐く。索引は更新されるためにある――その言葉が、静かな春夜の空気に溶けていった。

夜の藤村邸は、昼のざわめきが嘘のように静まり返っていた。書斎の机の上には、外務省から持ち帰った索引の複写と久信が今日加えた筆注が広げられている。灯火が揺れ、壁際の本棚に並ぶ分厚い洋書や地図がぼんやりと浮かび上がっていた。


 久信は椅子に腰かけ、真剣な眼差しで父を見つめる。

 「父さん、僕はまだまだです。今日の模擬演習で気づいたんです。僕には経験が足りない。父さんみたいに、大局を見通す眼がない」


 藤村は手を止め、しばし黙った。心の奥では激しく揺れていた。――久信よ、お前はもう私を超えている。だがそれを言ってしまえば、なぜ父を越えられたのかという問いに行き着く。そこに、タイムスリップという秘密が待っている。


 「久信、お前は……既に立派な外交官だ。私も、お前から学ぶことがある」


 「父さんが僕から?」久信は驚き、目を見開いた。


 「ああ。令和知識は“過去”だ。だが、お前は“今”を見ている。知識の裏にある人間の呼吸や沈黙、その温度を読み取れるのはお前の強みだ」


 久信はゆっくりと頷き、嬉しさを隠せず微笑んだ。だが、その笑顔に込められた純粋な信頼が、藤村の胸に鋭く突き刺さる。



 翌朝、外務省から一通の報せが届いた。タイとの小規模な貿易協定が、久信の主導で正式に締結されたというのだ。石炭と米の交換という実務的な協定だったが、日本にとっては国際的な存在感を示す小さな成功だった。


 報せを聞いた久信は、父の前で深々と頭を下げた。

 「父さんの令和知識があったから、僕は成功できました」


 藤村は微笑んだ。しかし、その笑みの裏で、心は静かに沈んでいた。

 ――息子よ、その成功はお前自身の才覚だ。私の知識ではない。だが、それを言ってしまえば、秘密に近づく。私はただの「知識の器」に過ぎないのに……。



 夜。藤村は独り、書斎の灯を落とす前に窓の外を見やった。春の風が庭木を揺らし、遠くで犬の声が聞こえる。机の上には、久信の筆で増え続ける索引の注釈が積まれていた。


 「――この子たちは、もう私を超えて歩き始めている。だが私は、永遠に秘密を抱えたまま導き続けるしかない」


 心の奥底に沈めた孤独を誰にも明かすことなく、藤村は静かに灯を消した。


 ナレーション:

 「1881年清明、久信は小さな外交的成功を収めた。だが父・藤村は、その背後に隠された“秘密”を語ることなく、ただ笑顔で支え続けるしかなかった。――その孤独は、息子にも国にも、永遠に知られることはない」

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