291話:(1881年3月・春分)春分の軍事理論
明治十四年三月、春分の朝。東京の空にはまだ冬の冷気が名残を留めつつも、柔らかな陽光が街路樹を照らし、新芽が小さな影を落としていた。人々は春の訪れを喜び、穏やかな活気に包まれていた。だが、その空気から切り離されたように、陸軍士官学校の講堂には緊張と重苦しい沈黙が満ちていた。
壇上に立つのは十五歳の少年、藤村義信。わずか数年で東大を飛び級卒業し、軍事理論においても天才の名を冠される存在である。だが今、彼の胸を占めているのは誇りではなく、冷ややかな視線にさらされる恐怖だった。
彼の手には分厚い原稿。そこに記されているのは「多次元戦場分析システム」と題された理論書だった。義信は深呼吸し、壇上の聴衆を見渡した。前列には期待を込めて耳を傾ける若い士官候補生、後方には眉間に皺を寄せ腕を組む保守派の将校たち。彼らの表情は、すでに「拒絶」を予感させていた。
義信は勇気を振り絞り、声を張った。
「従来の戦略は一元的な配置や兵力比に偏っています。しかし、戦場とは時間・空間・情報、そして人の心理が交錯する多次元の場です。私はゲーム理論を基礎とし、確率統計と線形計画法を応用し、勝率を数値化する方法を提示します」
黒板にチョークで描かれる数式と図。兵の移動を示す矢印が重なり、数字が絡み合い、戦場全体が数理モデルとして浮かび上がる。若い候補生たちは目を輝かせ、「これまで見たことがない」と囁き合った。彼らにとってそれは未来を切り開く光に見えたのだ。
だが、老将校の一人が唸るように声を上げた。
「小僧……お前の言う戦場は、算盤の上で成り立つ夢物語にすぎん。兵士は数字ではなく、血と汗で動くものだ」
その言葉に続くように別の将校が吐き捨てる。
「所詮は机上の空論だ。実戦を知らぬ若造の遊びにすぎん。――藤村晴人の息子だから、こうして注目されているだけだろう」
講堂の空気がざわめきに変わる。前列の候補生の中には悔しそうに拳を握る者もいたが、多くは保守派の重圧に押されて黙り込んだ。
義信は必死に反論する。
「違います! 私は兵士の心を軽んじているわけではありません。むしろ統計に組み込むことで、その揺らぎさえ計算に含めようと――戦場の“運”すら数値化できるはずです!」
声は震え、喉の奥が焼けるように痛んだ。だがその叫びは、壁に吸い込まれるように掻き消えた。後方から小さな笑い声が漏れ、義信の胸に突き刺さる。
発表を終えたとき、講堂には形式的な拍手がわずかに響いただけだった。若い士官候補生の中には立ち上がって声を掛けたそうな者もいたが、老将校たちの目がそれを封じた。
外に出ると、春分の陽光が義信の頬を照らした。周囲の街路は穏やかな笑顔で満ちている。だが彼の心は凍り付いたままだった。
――父さんなら、こんな苦労はしなかっただろう……。
唇を噛み締め、拳を固く握る。春風が頬を撫でても、その冷たさは消えなかった。彼の孤独は、誰にも届かぬ影のように心の奥深くへ沈んでいった。
その夜、藤村邸の書斎。煤けたランプの明かりが壁に影を揺らし、静けさの中に紙をめくる音が響いていた。藤村が政務の資料を整理していると、障子の向こうからそっと足音が近づき、ためらいがちに戸が開いた。
「……父さん」
姿を見せたのは義信だった。昼間の挫折を引きずった顔には疲れが色濃く残り、しかし目だけは不思議な光を宿している。彼は分厚い原稿束を胸に抱え、まるで宝物を差し出すように机の上へ置いた。
「これ……僕の理論書です。『多次元戦場分析システム』。父さんなら、すぐに正しさが分かるはずですよね」
その言葉には、純粋な信頼が込められていた。藤村は瞬間、胸を刺されるような思いに駆られた。――息子は私を、令和知識を完全に理解している天才だと思っている。だが実際はどうだ。私は専門外の分野ではiPadに頼らなければ分からない。ただの“知識の持ち主”にすぎない。
義信は机の端に腰を下ろし、期待に満ちた眼差しで父を見つめた。
「父さんなら、僕のどこが足りないのか、すぐに指摘できると思うんです。昼間、陸軍の保守派は『机上の空論だ』って笑いました。でも、父さんは違うでしょう? 父さんは未来を知っている。だから……」
藤村は言葉を飲み込んだ。息子の声は純粋で、そこに疑いは一片もない。そのまっすぐな信頼が、かえって重くのしかかる。
(内心)「義信……私は天才なんかじゃない。お前の理論を一目で理解する力も持っていない。ただ未来の知識を“知っている”だけの、借り物の人間だ。だが、その真実は絶対に言えない。言えば、この世界に自分が異物であることをさらけ出すことになる……」
藤村は深く息を吸い、机上の原稿を撫でるように手で押さえた。
「……少し、時間をくれ」
その一言は、誠実さと同時に苦しい回避でもあった。
義信は驚いた表情を浮かべ、それから小さく笑った。
「父さんでも時間がかかるなんて……やっぱり僕の理論はまだ未熟なんだな」
彼は素直にそう受け取り、失望ではなく、むしろ新しい挑戦の合図だと考えたらしい。
藤村は心の奥で叫んだ。――違う、義信。未熟なのは私の方だ。お前はすでに、十五歳にして私の理解を超えている。だが、私はそのことを決して口にできない。
書斎に沈黙が流れた。ランプの炎がかすかに揺れ、父と子の間に横たわる秘密の影を、より濃く浮かび上がらせていた。
書斎の灯は夜更けになっても消えなかった。右筆も奥へ下がり、屋敷は静まり返っているのに、藤村だけは机に向かい続けていた。机の上には分厚い和綴じの冊子が何十冊も積まれている。それはすべて、かつて藤村がタイムスリップ直後に手にした新型のiPadから、二十年の歳月をかけて右筆たちに書き写させた膨大な知識の写本であった。
ページをめくると、そこにはびっしりと細字で記された「未来の影」が並んでいる。近代兵器の発達史、外交交渉の記録、疫病対策の細目、化学工業の基礎理論、さらに幕末や明治初期には到底知りえない外国語辞典や国際法の条文まで――まるで一つの大図書館が紙に置き換わったかのようだった。
藤村は指でなぞりながら、胸の奥に重苦しい感覚を抱いていた。
(この膨大な知識を残せたのは幸運だった。だが、iPadそのものはもう二度と起動しない。二十年は持たせたが、ついに電池も基盤も尽きた。今手元にあるのは、写本だけだ)
かつてiPadを手にした頃の鮮やかな光はもう無い。だが、和紙に写し取られた文字列は確かに残り、後世に伝わる。もっとも、その写本もまた完全ではなかった。写す人間が誤写することもあれば、藤村自身が理解できぬまま「ただ記録するだけ」で右筆に指示した部分も多い。彼の知識は、万能の宝庫であると同時に、あやうい断片の集合体でもあった。
義信が手にしている軍事理論のノートを思い出す。
(あの子は、この断片から自ら体系を組み立ててしまった。私が追いつけぬほどに……)
机に置かれた義信の原稿を開く。そこには「多次元戦場分析システム」という題が大書され、その下に膨大な数式と図表が並んでいた。ゲーム理論の樹形図、確率統計の数列、線形計画法の行列――すべてが整然と並び、実戦の混乱を抽象化して扱おうとする試みだった。十五歳の少年が描いたとは信じ難い精緻さだ。
藤村は思わず息を呑む。
(これは……第二次世界大戦で用いられる“電撃戦”の思考に酷似している。だが、それを数学的に説明しようとした者はいなかったはずだ。義信はそこまで踏み込んでいる)
目の前の写本の束と、義信の手書き原稿。その二つを見比べると、不思議な感慨が胸を突いた。未来から持ち込んだ知識を守り抜いた父と、それを自らの力で超えていく息子――。
しかし同時に、苦い思いも込み上げる。
(義信は私を“令和知識を完全に理解する天才”だと信じている。だが真実は違う。私はiPadに保存されていた膨大な資料を、ただ右筆に書き写させただけだ。全てを理解しているわけではない。……この矛盾は、どう説明すればいい?)
ペンを取り、義信の理論の余白に小さくメモを書き入れる。
「理論は方向として正しい。歴史的に複数の戦争で類似の戦術が確認できる」
……あえて曖昧に留める言葉だった。
蝋燭の炎が揺れる中、藤村はさらに写本の目次をめくる。
そこには「軍事理論」「外交史」「経済学」「医学」「疫学」「化学工業」「言語・辞典」「公務員制度比較」「国際条約」と章分けがなされ、細かな索引まで整えられていた。八間の書庫を埋め尽くすほどの分量――この二十年間、藤村が積み重ねてきた人生の重みそのものだった。
(息子よ……お前が頼っている“父の知識”とは、この紙の山にすぎないのだ。本当は、父が万能であるわけではない)
静かな書斎に、紙を繰る音と藤村のため息だけが響いた。
春分を迎えた東京は、冬の名残を引きずりつつも、どこか柔らかな空気を帯びていた。藤村邸の食卓には、湯気を立てる味噌汁と麦飯が並ぶ。普段なら静かな朝食だが、その日は義信が箸を止めたまま、険しい顔で父を見据えていた。
「父さん。陸軍が……父さんから説明を求めています」
藤村の胸に、冷たい刃が差し込むような感覚が走った。軍の保守派は義信の理論を“藤村晴人の息子だから持ち上げられている”と嘲笑している。その彼らが、今度は父自身を引きずり出そうとしている――権威を借りた理論であると決めつけるために。
藤村は湯気を仰ぐふりをして顔を伏せた。
(軍の専門家の前で問われれば、私は一言で化けの皮が剥がれる。私は万能の軍事学者ではない。iPadに残された断片と写本、そして夜な夜な積み重ねた知識を継ぎはぎしてきただけだ……)
「義信」藤村は言葉を選びながら低く告げた。「お前が説明した方がいい」
義信は驚きと不安を混ぜた声を返す。「父さんが避けるなんて……なぜですか?」
藤村の胸に重圧がのしかかる。真実を言えば楽になる。だが同時に、すべてを失う。タイムスリップの秘密――それを明かすことは、絶対に許されない。
夜、書斎。蝋燭の炎に照らされた机の上で、二人きりの対話が始まった。義信の目は揺るぎなく、父を射抜いていた。
「父さん……まさか僕の理論が間違っているから、軍の前で話せないのですか?」
藤村は長い沈黙ののち、ついに言葉を絞り出した。
「義信……私にも、限界がある」
その一言に、義信の表情が崩れた。
「父さんが……限界を……?」
「令和の知識は膨大だ。だがな、それを“全て理解している”わけではない。知っていることと、説明できることは違う。……お前の理論の方が、私より深く理解している部分もある」
義信は驚きののち、やがて静かに笑った。
「父さんも……完璧じゃないんですね」
藤村の胸に痛みが走った。しかし同時に、わずかな救いもあった。息子がようやく、“万能ではない父”を受け入れてくれたからだ。
翌日。陸軍士官学校の講堂。壇上には藤村と義信が並んで立った。藤村は前夜に必死で写本を読み返し、戦史の事例を頭に叩き込んでいた。
「歴史の中で戦争は繰り返されます。だが、同じ戦術でも時代によって勝敗が分かれる。重要なのは、状況を数理的に分析することです」
父が大枠を語り、息子が数式で裏付けを示す。二人の声は交互に重なり、やがて講堂に響く一つの旋律となった。
講堂を出るとき、義信は満面の笑みを父に向けた。
「父さん、ありがとうございます! 一緒に証明できましたね」
藤村も微笑んだ。だが心の奥では、深い孤独が消えなかった。
(息子よ、私はお前に嘘をつき続けている。お前が信じる“知の巨人”は実在しない。本当の私は、タイムスリップという偶然に縋り、iPadで調べ、右筆に写させてきたただの人間だ。この秘密は……墓場まで持っていかねばならぬ)
春分の陽は優しく降り注ぎ、父と息子の影を長く伸ばしていた。
しかし、その影の濃さを知るのは、藤村ただ一人だった。