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288話:(1880年12月/小雪)小雪の内政試練

明治十三年十二月、小雪の舞う朝。内務省の緊急会議室は石炭ストーブの赤い口を開け、それでも指先が少し悴む。硝子窓の向こう、霞む銀灰の空を横切って電信配達の自転車が何台も滑り込み、玄関先で濡れたゴム輪が床に黒い輪を残した。


 後藤新平が分厚い綴じ紐の束を卓上に置く。紙の角が乾いた音を立てた。

 「各統治地域、同時多発です。対外のぎくしゃくが、内政の毛細血管まで冷やし始めました」

 藤村は短く頷き、椅子の背から上衣を外して腕を組む。「具体に入ろう」


 まずは満州。書記官が地図を繰り広げると、奉天から黒竜江に向けて赤鉛筆の印が点々と連なる。

 「三民族合議で軋みが出ています」後藤の声は低く、速い。「清朝筋が“日本は技術も情報も閉じている、真の友ではない”と囁き、漢人商会の一部が呼応。満州族向けには“誇りの回復”、モンゴル側には“遊牧の軽視”を刺す文句。会議は延び、役所の窓口に小さな怒号が増えました」


 藤村は鉛筆の尻で机をとん、と叩く。

 「河井継之助は?」

 「現場調整を続けています。融和の語彙を増やすより、利益配分の数字を見せろ、と。市場税の一部を三民族の共同基金に回す草案――“誰の財布がどう温かくなるか”を、毎週掲示するそうです」


 次は朝鮮。地図の漢城ソウルに青い印が灯る。

 「自立意識の伸びが、独立要求と絡まり始めました」慶篤が報告を引き取る。「朝鮮人官僚の一部が、通達なしに教科書から日本関連項目を削除。技術者受け入れの枠も独断で絞り、経済協力の条項見直しを求めています」

 藤村は息を浅く吸い、吐く。「能力が育てば、距離も生まれる。想定の範囲内だ。問題は速度だな」


 台湾。雨を含んだ海風の匂いまで紙から立ちのぼるような報告だ。

 「多民族の継ぎ目で、同時に熱を持ちました」と後藤。「原住民は土地保護の実感が薄いと言い、漢人は清朝系住民への配慮不足を指摘、客家は文化保護が“額縁だけ”だと不満。加えて、日本人移住者は摩擦に怯え、学校で子ども同士の小競り合いが増えています」


 琉球は、静かでこそあれ緊張は薄氷のようだ。王家の儀礼と地方自治の手続きが、どちらも正しく動くほど、ときに噛み合わない。

 「式典に“民意”を、議場に“伝統”を、と互いに求め過ぎる傾向があります」と書記官。

 藤村は頷き、短く指示する。「儀礼の暦と行政の暦を二重に持たせろ。重なる日は祝う、離れる日は尊重する。紙一枚でいい、やることを見える化だ」


 机の端で、北里柴三郎が静かに挙手する。

 「衛生面にも鈍い波が来ています。欧州の学会中断の余波で、薬品の入荷が鈍りました。代替は手当てしていますが、住民の不安は数字の遅れに敏感です。巡回診療を倍にし、“遅れの理由”も掲示板に書きます。説明は、薬より効くことがあります」


 藤村は窓へ目をやる。小雪が細い斜めの線になって落ちている。

 「外交と内政は別腹ではない、ということだな」彼は独り言のように言い、すぐ顔を戻した。「理想の骨組みはできた。だが、冬を越す筋肉が足りていない」


 大久保利通がパイプを指先で回し、火を入れずに咥え直す。乾いた瀬戸の音が微かに響く。

 「足りないのは“余白”でしょうな」くぐもった声に、室内の視線が集まる。「完璧に組んだ仕組みほど、揺れしろがない。揺れしろのない橋は、最初の強風で軋む。――各地の協議体に、敢えて対立を可視化する席を設ける。言い合いの出口を制度にしておくのです」


 陸奥宗光が続ける。「情報の流入は止まりません。ならば“先回りの透明化”を。技術を隠したと言われる前に、何を開き、何を閉じるかを公開してしまう。段階の表と、相談窓口の一本化。外よりも、内の納得を先に」


 後藤が即座に書き込みを始める。「掲示、窓口、相談日。数字と理由と日付。住民の“待ち時間”を短くする仕掛けも――」


 藤村は立ち上がり、壁の行程表に新しい列を白墨で引いた。

 〈短期:不安の見える化/中期:配分の再設計/長期:制度の揺れしろ〉

 「まずは今日中に、“今なぜ遅れるか”“次に何が来るか”を全地域で掲示しろ。満州は基金案の試行、朝鮮は教科書の協議体を仮設、台湾は民族ごとの相談日を曜日で分ける。琉球は二暦。――不安は闇で増える。灯を増やせ」


 電信係が新しい紙帯を差し入れる。北海道からの短い符牒――港湾の荷捌きは遅れたが、学校の灯は定刻に点いた、という報。

 藤村は小さく笑みを洩らし、会議を締めた。「完璧は要らない。止まらないことだ。小雪は積もらせず、掃き続ける」


 椅子が引かれ、印が押され、扉が次々と開く。濡れた靴底が石の廊下に点々と黒い印を残し、やがて外気の白さに溶けていった。電鍵の音がまた高まり、各地域へ向けて“灯を増やす”ための指示が、雪の糸を縫うように走り出した。

薄曇りの奉天、役所前の掲示板に人垣ができた。赤い印の押された紙には、来月からの市場税配分と三民族共同基金の内訳が、米の量に換算して大書されている。

 「漢人商会にはこれだけ戻る。満州旗人の診療所にはこれだけ。蒙古の牧地水利は……」若い書記が指で辿ると、年配の商人が眉を寄せた。

 「数字は見えた。だが“誰が決めた”が見えぬとな」

 通りの向こうから、河井継之助が黒い外套の裾を払って進み出た。

 「決めた顔を、今日から見せる。――商会、旗人、部族長、三者の名で押印した。文句があれば、今日この場で言い合えばよい」

 人波に微かな笑いが走る。対立を隠さず、壇を設けて表に出す。河井は椅子を三脚置き、自らは立ったまま司る。「争いは壇上で。路上での怒号は、翻訳を誤る」

 午後、最初の合意――基金から冬期の燃料購入を共同入札で行う――に拍手が起き、寒空に小さな温度が戻った。


 漢城の教育庁では、木の長机に教科書が積まれていた。表紙の角がすこし擦り切れて、墨の匂いが濃い。

 「日本関連章の削除、いったん保留を」若い官僚が低く告げると、周囲の視線が刺す。

 「我々は自立した。子らに“依存”を教える気はない」硬い声が返る。

 久信が静かに立ち上がった。「では――“依存”という語を使わない形で、経験を並べましょう。良かった点、悪かった点、両方です。章題は『外部と歩いた十年の記録』。筆者は朝鮮の先生方。監修欄に、日本人の名は出しません」

 沈黙ののち、年配の教諭が咳払いをした。「記録は、未来の燃料だ。燃やすのも、温めるのも我ら次第」

 夕刻、暫定の編集委員会が発足し、庁舎の廊下に貼られた告知には、執筆者募集の欄にすでに三つの名が並んだ。


 台北の区役所は曜日ごとに入口の札が掛け替えられる。「月・原住民」「火・漢」「水・客家」「木・日本人移住者」「金・混合窓口」。

 “混ぜない日”を敢えて作ると、受付の列の表情が和らいだ。

 「土地境界の杭、今季は動かしません。衛星――はまだありませんが、測量図を全部、壁に貼ります。赤線は提案、青線は異議」係官が地図を広げると、年若い客家の女が手を挙げた。

 「祭りの道を塞がないで。それだけ」

 「なら、青で書いて。来週、祭礼委と工程班を同じ机につける」

 横で見ていた義親が、そっと小さな手帳に描き写した。「祭りの道=優先経路」。技術は線の引き方でも折れる、と彼は覚える。


 那覇では、王家の年中行事と議会の会期が重なった。

 「式典を動かせば“伝統軽視”と叱られ、会期を動かせば“職務放棄”と責められる」若い議員が嘆息する。

 黒田清隆は笑って、二枚の日程表を重ね合わせた。「重なる日は祝う。離れる日は尊重する。二暦を市中に配る。子どもにも読める絵入りでな」

 翌朝、色刷りの「二つの暦」が市場に貼られた。王家の紋と、市章が並んで印刷されている。魚を捌く包丁の音に混じって、「次の木曜は二つの旗が上がる日だってよ」と声が弾んだ。


 満州、朝鮮、台湾、琉球――四つの現場で共通して増え始めたのは、“納得するまで話せる場所”だった。

 掲示板には「今月の遅延の理由」「来月の入荷予定」「苦情窓口の曜日」が並ぶ。数字ばかりではない。理由が、顔が、日付が、出入り自由の戸口の高さで示される。

 後藤が夜の報告に書き添えた一行は簡潔だった。

 〈完璧の約束より、到着日を言え〉


 雪は細く、静かに降り続く。だが、人々の足は止まらない。誰かが紙を貼り、誰かが線を引き、誰かが言い争い、そして誰かが合意に印を押す。

 藤村は各地の写真付き報告をめくり、微かに笑った。完璧ではないが、灯は増えている――その事実だけが、冬の入口で確かな温度になっていた。

十二月の冷たい風が吹き抜ける満州の野営地で、義信は毛皮の襟を立てながら監視塔に立っていた。

 遠くの村で、漢人と満州旗人の若者が声を張り上げて言い争っている。

 「鉄道の通る場所を変えろ!」

 「村を迂回したら冬の物資が届かなくなる!」

 怒声が交わるたび、義信は双眼鏡を下ろし、深呼吸した。

 「剣ではなく、言葉で解く」

 彼は副官に命じ、村の広場に臨時の集会所を設置させた。そこで彼自身が壇上に立ち、三民族の代表を前に地図を広げる。

 「この線を東にずらせば、牧地が守れる。だが、積雪期は輸送が三日遅れる。選ぶのは君たちだ」

 沈黙ののち、年配の満州旗人が頷いた。「ならば三日の遅れを受け入れよう。その間、備蓄を倍にする」

 義信は静かに記録簿に署名する。「武力で押し切らず、合意で道を作る」――十四歳の少年の顔に、少しだけ大人の影が差した。


 同じころ、久信は朝鮮の地方官庁で、地元の役人と対話を続けていた。

 「日本の干渉はもう不要だ!」若い官吏が机を叩く。

 久信は息を整え、落ち着いた声で答えた。「では、我々が抜けたあとに混乱が起きたら、その責任は誰が取りますか?」

 沈黙。彼はさらに続ける。「僕たちは支配ではなく、協力がしたい。完全に離れるかどうかは、もっと段階を踏んで考えましょう」

 会議室の空気が少し和らぎ、年長の儒生が頷いた。「若いが、言葉に誠がある。暫定案を検討しよう」

 久信は胸の奥で小さく拳を握った。――理想は遠い。だが歩み寄る道はある。


 台湾では、義親が現場の技術導入に立ち会っていた。彼の小さな手で設計した水車が初めて回り、用水路に水が流れ込む。

 しかし原住民の長老は腕を組んでいた。「水車は良い。だが、祭りの日は止めてほしい」

 義親は一瞬きょとんとしたが、やがて頷いた。「止められるように作り直す。祭りも水車も大事だから」

 現場の職人が驚いたように笑い、「では切替弁を追加しよう」と提案する。

 義親は鉛筆で新しい図面を描きながら、呟いた。「技術は便利にするだけじゃない。人の心を楽にしなきゃ」


 夕方、三兄弟からの報告が東京に届く。藤村はそれを机に並べ、ひとつひとつ目を通した。

 「完全な調和は幻想だ。だが、合意と対話があれば崩壊は防げる」

 彼は深く頷き、翌日の会議の議題に〈対話機構の恒常化〉を追加した。

 小雪の夜は冷たいが、各地で灯る小さな合意の炎が、確かに国全体を温めつつあった。

東京・内務省の会議室は、雪解け水のように張り詰めた空気に満ちていた。

 長机の中央に置かれた地図には、満州・朝鮮・台湾・琉球・北海道の各地域の現状報告が赤い印で記されている。

 藤村はゆっくりと席を立ち、壁際の黒板に白墨を走らせた。


 「――完璧な統一は不要だ。求めるべきは管理可能な多様性だ」


 彼の声が、会議室の隅々にまで響いた。

 後藤新平が眼鏡を外し、深く頷く。「対立はゼロにはできません。むしろ、表に出して制度の中で処理する方が安定します」

 陸奥宗光も賛意を示した。「外交も同じです。沈黙は不信を生む。話し合いの場を絶やさぬことが肝要」


 新しい統治方針は次々と黒板に書き込まれた。

 〈多元主義の受容〉――地域ごとに異なる価値観を認める。

 〈対立の制度化〉――民族・宗派の意見対立を公開の討論場で解決する仕組み。

 〈段階的合意形成〉――全会一致ではなく、多数派による現実的合意を重視。

 〈継続的調整〉――政策は固定せず、状況に応じて微調整を繰り返す。

 〈現実的期待値〉――理想ではなく、暴動や分裂を防ぐ安定を目標にする。


 各地域別の個別対応も決定された。

 満州では、三民族の完全統合を目指さず、調停評議会を常設化し平和共存を確保。

 朝鮮では、急進的独立派と協力派双方の意見を調整し、段階的自立スケジュールを改定。

 台湾では、各民族代表の声を反映させる多民族協議会を設置。

 琉球では、伝統祭祀を尊重しつつ近代行政を浸透させる緩やかな改革路線へ。

 北海道では、アイヌ文化の保護と開発計画を併存させる新制度を施行。


 「我々は、完全な調和ではなく、持続可能な均衡を選ぶ」

 藤村の言葉に、会議室の重苦しい空気が少しだけ和らいだ。

 書記官が新方針を記した紙を束ね、各省庁へ急ぎ届ける。外は雪が舞い始めていたが、会議室には確かな熱が残っていた。


 その夜、藤村は日記に一行だけ記した。

 〈理想は遠い。しかし、歩き続けるための道は今日つくられた〉


 ――小雪の夜、政府は理想から一歩離れ、現実に足をつけた統治の哲学を手に入れたのだった。

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