30.5話:一輪の力、百の運び
まだ朝靄の残る城下町を、晴人はゆっくりと歩いていた。
川沿いの通りでは、農民たちが荷を担ぎ、田畑へと向かっている。腰を曲げ、肩に縄をくくりつけ、薪や肥料、収穫物を背負って歩く男たち。その横で、幼い少年が、重たそうな籠を両手で持ち上げ、ふらつきながら足を進めていた。
「……無駄が多すぎる」
晴人は思わず呟いた。
かつて現代で暮らしていた頃、彼が学んできたのは、暮らしを変えるのは“力”ではなく“工夫”だということ。今のままでは、体力だけに頼った生活は、限界を迎えるのも時間の問題だった。
晴人の脳裏に、ふとひとつの映像が浮かんだ。
(……猫車)
一輪の車で荷を運ぶ、単純で原始的な構造の道具。だが、あれほど汎用性のあるものは他にない。晴人の記憶にあるiPadの資料には、各地で猫車が急速に普及し、人々の生活に革命をもたらしたことが記されていた。
(これだ。馬や牛を使わず、女でも子どもでも使える。しかも製作は簡単。コストも安い)
決意を固めた晴人は、すぐに鍛冶場へと足を向けた。鋤や鍬を作る鍛冶職人たちが、煤にまみれた顔で炉の前に立ち、鉄を叩いている。
「佐平さん、少し時間をもらえますか」
声をかけると、棟梁の佐平が鉄槌を止め、顔を上げた。
「おう、晴人さまか。今度は何を思いついた?」
「“車”です。といっても、二輪でも馬車でもない。荷を乗せて、一人で押して運ぶ――“一輪の伝車”です」
佐平は眉をひそめた。
「一輪じゃ安定しねえんじゃないか?」
「重心さえ下にあれば倒れません。しかも、荷の重さを車輪に預けられるから、体の負担が一気に減るんです」
晴人はその場で紙を広げ、手早くスケッチを描いていった。中央に大きな車輪。左右に支え脚。そして後方に長い取っ手。荷台は浅く湾曲させ、荷が滑らないようにする。取っ手は十分な長さを確保し、腰をかがめず押せるように。
「なるほどな……これは、面白ぇ」
佐平が腕を組むと、木工職人の鶴造も呼ばれた。
「荷台は杉の板。軽くて丈夫だ。補強は竹でもいけそうだな」
設計図を元に、職人たちはその日のうちに動き始めた。
最初の試作機は、重すぎた。車輪の芯がずれていて、走行中にふらつく。取っ手の位置も低すぎ、腰に負担がかかった。
「だめだな……押してると腰が痛くなる」
晴人は実際に荷を積み、自ら泥道を押して歩いた。畑の坂道や石畳、ぬかるみの中を進んでは、何が駄目か、どこが改善点かを一つひとつ記録していく。
次の試作機では、車輪を大きく、取っ手を長く調整した。荷台の幅も広げて、積載量を増やすと同時に重心を低く保つ構造に変更。滑り止めには、桐の皮を編み込んだ編み目板を採用した。
「今度のは……いいぞ」
佐平の言葉に、晴人も頷いた。
試しに町の女性たちに使ってもらった。最初は不安そうだったが、荷を積むと、押し始めた手が自然に軽くなる。
「……え? これ、そんなに重くないのかい?」
「薪が三束も載ってるのに……背負うよりずっと楽!」
城下町の奥様方が驚きの声を上げた。
「女でも使えるってのは、大事だぞ」
「子どもに持たせても、けっこう運べる。これ、農家に置いておけば便利だ」
「いや、道場でも使える。木刀の運搬や、胴着の洗濯物運びに……」
口々に絶賛する声が上がる。
晴人は職人たちに向き直った。
「これを藩内に広げたいんです。貸し出し制度を作って、農村や町人に使ってもらう。そして、使用料を少しずつ藩の収入にする」
鶴造が目を丸くした。
「売るんじゃなくて、貸すのか?」
「そう。貸せば壊れたときの整備もこちらで管理できるし、長期的な収益にもなる。誰でも使えて、誰もが恩恵を受けられる――そういう仕組みにしたい」
佐平が大きく頷いた。
「なるほど。ならこいつは、“ただの道具”じゃねぇ。“暮らしを動かす車”だ」
晴人は笑った。
「“民の武器”です。これで誰かが少しでも楽になってくれれば、それが一番の報酬ですよ」
その頃には、鍛冶場の職人たちも、木工職の弟子たちも、この一輪の車に心を奪われていた。
――鉄は熱され、車輪の芯が滑らかに削られる。
――木は整えられ、荷台にやさしい曲線を描く。
――油は注がれ、木と鉄の摩擦を和らげる。
炎の熱気のなか、ひとつ、またひとつと「一輪伝車」が組み上がっていく。
鍛冶場の奥にある作業台で、再び木と鉄が唸り声を上げていた。
「ここの角度を少し寝かせてみる。重心が後ろに逃げれば、坂道でも安定するはずだ」
職人の佐平が鉄枠を叩く音が、早朝の静けさに響いた。すぐそばでは木工の鶴造が、荷台の板材を削っている。彼らの視線はすでに、一輪の車を“単なる道具”ではなく、“新しい力”として見つめていた。
「おい、こっちの取っ手、もう少し短くできねぇか? 女や子どもが使うには、今の長さじゃ踏ん張れねぇ」
「だったら、持ち手の角を丸めて、手袋をしても滑らねぇようにすりゃいい」
ふたりの言葉に、見習いの陣太郎が頷きながら走った。道具棚からノミを取ると、すぐに取っ手の仕上げに取りかかる。昨日の試作品を押していた農民の娘が、腕をぷるぷると震わせていたのを見ていた彼にとって、その記憶は何よりの設計図だった。
晴人はその様子を、少し離れたところから見つめていた。彼の手には、図面ではなく、藩の帳簿が握られている。製造コスト、修理費、貸し出し価格――すべては、民にとって“続けられる便利”でなければ意味がない。
「材料は地元の杉と鉄鉱から賄える。町内の鍛冶三組で、月に十台は製造可能。……問題は、最初の導入数と、配布対象か」
晴人は紙の上で筆を止めた。
その時、表から声が聞こえた。
「藩の旦那、ちょっとええかい! あの車、借りれんかね?」
顔を出したのは、近隣の農家の男。背中を丸め、顔には深い皺が刻まれていたが、その目には確かな光が宿っていた。
「昨日の試し引きでな、麦束を三つ分も一度に運べたんだ。うちの婆さんが、“腰が楽だ”っちゅうてなぁ」
「もちろんです。まだ改良中ですが、どうぞ使ってください」
晴人が笑って手を差し出すと、男は深々と頭を下げた。
「こんなもんがあるなら、十年前に欲しかった。……もっと早く作ってくれりゃ、あの山の畑も今頃は……」
ふと目を伏せたその言葉に、晴人は胸を打たれた。これは“便利な道具”ではない。人生を変える力なのだ。
午後、町役場の集会所では、晴人と数名の藩士が集まっていた。
「――これを、藩の備品として取り扱い、農家や商家へ貸し出す。最初は百台。利用者は一刻(約2時間)単位で借りられるようにし、使用料を藩の収入とする。加えて、修理や点検の制度も整備する」
その提案に、一部の年配の藩士は眉をひそめた。
「たかが荷車ではないか。藩の予算を使ってまで……」
「それが“たかが”ではなくなるんです」
晴人の言葉は静かだったが、その眼差しは鋭く光った。
「手押しの重労働を減らせば、女衆や子どもたちも労働の手を緩められます。病や怪我も減る。運搬力が上がれば、物資はより多く、より速く届く。……つまり、藩全体の生産力が底上げされるんです」
若い藩士たちがざわついた。
「道具一つで、そこまで――?」
「道具ではなく、“運ぶ力”そのものの革新です」
その言葉に、一人の役人が手を挙げた。
「……よろしいでしょう。藩主さまにも、既に江戸からの報告でこの“伝車”の話は届いております。前向きに進めるべきかと」
その言葉で場が和んだ。晴人は静かに息を吐き、座布団の上で背筋を正した。
――夜。
職人たちは再び工房に集まり、今度は大量生産に向けた“作りやすさ”の検証を始めていた。
「この車輪、鉄で作るより、中央だけ鉄にして周囲は木で巻けば軽くなるんじゃねぇか?」
「おお、それなら素人でも交換しやすいしな。摩耗した部分だけ替えりゃいい」
知恵と技術が火花のように交わっていく。見習いたちの動きも、昨日までとはまるで違っていた。彼らの表情には、未来を作っているという“確信”があった。
「これで、春までには百台……いや、百五十台いけるかもしれん」
「その分、修理屋も必要だな。工具と部品を預けて、村ごとに担当を立てて――」
晴人は、道具に託された民の想いを知っていた。
軽く、丈夫で、誰にでも使えるもの。
だがそれ以上に、“持つ者を選ばない誇り”こそが、一輪伝車に込められた真の意味だった。
それは、いつか来る“水戸型”の名を冠する未来を、静かに、確かに、押し出していた。
鍛冶場に続く裏庭では、改良を終えたばかりの新型一輪車――「一輪伝車」の試運転が始まっていた。
朝の光が斜めに差し込む中、職人たちが見守る前で、町の女衆が荷を載せて押し始める。荷台には薪束と米俵、それに畑から収穫されたばかりの野菜が並ぶ。
「おお……っ、軽い!」
一人の女が感嘆の声を上げた。背丈ほどある薪束を載せているにもかかわらず、腕に伝わる重みは少ない。大きな車輪が地面の凹凸を柔らかく受け流し、傾いた力を自然に前進力へと変えていた。
「少し坂になってても進む……。これなら、腰を痛めなくて済みそうだね」
「おっかさん、すごいよこれ! あたしにも押せた!」
そう言ったのは、まだ背の届かぬほどの少女だった。後ろから支えていた職人が思わず笑いながらうなずいた。
「うん、子どもでも押せるように、重心と取っ手の位置を調整したんだ。輪が大きいだろ? あれがミソさ」
「前の猫車は、車輪が小さくて、ちょっとした石ころでも止まっちまってなあ……」
「こいつは違うぜ。枠組みにヒノキを使って軽くして、しかも底を浅く広げて荷が安定するようになってる」
職人たちは胸を張る。晴人は一歩後ろからその様子を見守っていた。
「町の女衆が日々の暮らしで使えるもの。それが、俺たちの“武器”になる」
そう呟く声に、近くにいた弥太郎がうなずく。
「晴人さま、この伝車を町内に配備していきましょう。最初は十台、各町に一台ずつ貸し出して、評判を見て増やせばいい」
「いや、商いも一緒に動かそう」
晴人の目が輝いた。
「物流が変わる。伝車で荷を素早く運べるなら、商人たちの動きも変わる。彼らと協力して、藩営の“伝車組”を作るんだ」
「伝車組……!」
「藩が伝車を貸し出し、使った分だけ使用料を取る。修理や点検も藩で請け負う。民は助かり、藩にも銭が入る。まさに一挙両得」
その案に、周囲の職人や町役人たちも顔を見合わせ、うなずき合った。
「晴人さま、何台作りますか?」
木工職の鶴造が身を乗り出して訊ねた。
「まずは三十台。いや、五十台だ。そのかわり、仕上げは丁寧に頼む。あくまで“使いやすさ”が命だからな」
「おうよ、任せとけ!」
佐平が力強く答え、職人たちが鍛冶場へと戻っていく。
その日の夕刻、城下の広場で“試しの会”が開かれた。
集まったのは町人、農民、女衆、そして近隣の旅籠や職人たち。藩が配備を進めると聞きつけ、早くも自前で欲しいという声があがっていた。
「おらんとこでも使わせてくれや!」
「嫁が腰を痛めててな……これなら助かる」
「旅籠の布団運びにも便利そうだ。階段でも使えるようにできんか?」
「農道はぬかるむから、もう少し幅広の車輪が欲しいなあ」
次々と飛び交う声に、弥太郎はメモを走らせる。晴人もすぐさま頷きながら応じた。
「ご意見ありがたい。改良は惜しまない。この道具は、皆の手で育てていくんだ」
「育てる……道具を、か」
誰かがその言葉を噛みしめるように繰り返した。
夜になり、鍛冶場では職人たちが遅くまで作業を続けていた。
鉄を打ち、木を削り、油を差しながら、手は休まない。
「これで本当に……変わるのかね、世の中が」
ふと、陣太郎がぽつりと呟いた。
「変わるさ」
佐平が即座に答える。
「おめえも見ただろ。あの女衆の目を。あんなに目ぇ輝かせてたじゃねえか。あれが本物の“変化”ってやつだ」
「……はい」
陣太郎は黙ってうなずき、再びノミを握った。
――ひとつの車輪が、暮らしを押し進める。
――ひとつの工夫が、藩を支え、未来を拓く。
そしてその全てが、静かに、だが確かに、動き出していたのだった。
日が沈んだあとも、町の一角では人々の声が絶えなかった。
灯籠の灯りがともる頃、城下広場には数十人の町人や農民、子どもたちが集まっていた。一輪伝車の「使い方講習会」が始まったのだ。
晴人は人垣の中央で、一台の伝車の前に立った。
「この取っ手を軽く握って、背筋を伸ばして。押すときは足の重心を前に……」
老女が試すように手を伸ばし、慎重に押し始める。
「おお……!」
その足取りが安定すると、周囲から驚きの声が漏れた。
「婆さまでも押せるぞ!」
「こりゃあ腰も痛めねえわい!」
女衆たちが目を見合わせ、嬉しそうに頷いた。
続いて、晴人は小さな木箱を伝車に載せ、段差のある石畳の上へと移動した。
「ここを見てください。段差に乗るとき……」
ぐらりと荷台が揺れるが、大きな車輪が段差を乗り越え、重心を保ちながら進んでいく。
「てこの原理と重力配分を活かしている。荷が重くても、腕力だけではない“バランス”で押せるんです」
佐平が補足するように言った。
「言ってみりゃ、“運ぶ力のてこ”ってやつだな。あっしら鍛冶屋も、こいつには感服ですぜ」
「うちのかかにも教えてやりたい……」
「これ、売ってくれねえのか?」
ざわつく声が増していく。だが、晴人は首を横に振った。
「売りません。これは“貸し出し”です。藩が責任を持って管理し、使いたい人が、必要なときに、必要なだけ使えるようにする」
それはあえての選択だった。広く普及させるためには、誰でも気軽に手が届く仕組みが必要だった。高額で販売してしまえば、結局は裕福な者しか使えない。そうなれば、格差を助長するだけになってしまう。
「道具は力です。でも、独占すれば、争いの火種になる。だからこそ、“道具は皆のもの”とするんです」
その言葉に、広場の人々は静まり返った。そして、ひとり、またひとりと深くうなずいた。
その夜、晴人は弥太郎と共に藩邸に戻り、帳面を広げながら今後の方針を練っていた。
「まずは五十台を年内に仕上げて、村々の中心へ一台ずつ貸与。農繁期には追加を回せるよう、予備を十台作っておきましょう」
「わかりました。使用料はどうします?」
「月三十文。貧しい家には免除枠を設ける。ただし、乱暴に扱ったら弁償の仕組みは入れる。それも“信頼”だ」
弥太郎は頷きながら、帳面に細かく書き込んでいく。
「……いずれ、これを“藩の標準装備”にしたいんです」
「標準装備……?」
「はい。米や薪、塩、布地――生活に欠かせない物資を運ぶすべての現場で、一輪伝車が当たり前のように使われる。その未来を、僕は見たい」
弥太郎が筆を止め、しばし黙ったあと、微笑んで言った。
「晴人さま、あんた、たまに未来を見てるような目をするな」
「未来を見てるわけじゃありません。ただ、知ってるだけです」
晴人の目は、過去の歴史の彼方を見つめるようだった。
“便利な道具”が人々の時間を変え、生活を変え、ひいては文化すら変えていくことを、彼は知っていた。それは本で読んだ未来の姿であり、同時に、自分が実現したい過去の夢でもあった。
翌朝――。
早くも、伝車を借りたいと町人たちが藩営倉庫に列をなしていた。中には、昨夜話を聞いた農村の者が、夜を越えて歩いて来た者までいた。
「これはうちの村でも使える。山の斜面でも大丈夫か?」
「急な下り坂なら、車止めの木をつけましょう。追加改良もすぐできます」
「わしの孫が背が低くてな。取っ手がもう少し下にできるかの?」
「もちろんです。子ども用のサイズも作りましょう」
晴人は次々に返しながら、何かが変わり始めていることを肌で感じていた。
町と村、職人と役人、男と女、老いも若きも――皆が“同じ道具”を囲んで笑い合っている。
その風景は、晴人にとって、何よりも希望だった。
「これが、始まりなんだな」
小さく、そう呟いたとき、背後から佐平が声をかけてきた。
「晴人さま。こいつを“伝車”って名にしたのは、ただの車じゃないって意味があるんですよな?」
「ええ。“運ぶのは荷だけじゃない”。生活と、人と、未来を伝える道具です」
佐平はうんうんとうなずき、どこか誇らしげに伝車の車輪を撫でた。
「……いい名だ」
その声が、朝焼けの中に、力強く響いた。
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