286話:(1880年10月/寒露)寒露の技術攻防
寒露の朝、白い息が研究棟の回廊に薄く漂っていた。ガラス越しに差す光は冷たく、机上の製図紙だけがわずかに温もりを留める。東京大学の中庭で銀杏が色づき始めたその時、政府調査官が灰色の封筒を胸に抱え、足音を殺して藤村の執務室へ通された。
封を裂く音が小さく響く。中から現れたのは、見覚えのある線――義親が夜更けに引いた特許前段の曲線と寸法、軍用自転車の心臓部である静音駆動の断面図だった。右下の鉛筆サインまで、まぎれもなく本物である。
「設計詳細が、清側に流れています。出どころは……内側です」
調査官の声は低いが、冷水のように硬い。「文書台帳と入退室記録、写しの粒子配列、すべて突き合わせました。単独犯ではありません。省と研究室をまたぐ小さな連鎖です」
室内の空気がわずかに沈む。藤村は図面を光に透かし、罫紙の目まで確かめると、ゆっくりと目を閉じた。胸の奥で何かが軋む。怒りか、悔しさか、それとも少年の額の汗を思い出したせいか。
「時刻と名簿を」とだけ言って紙片を受け取り、卓上の鐘を鳴らす。隣室から慶篤、大久保、後藤、北里が続けて入る。大久保は例のパイプを咥えたまま、火も点けずにただ噛み、口元の筋肉で不機嫌を隠しもしない。
「内部からだ」
藤村が図面を指で押さえると、後藤の眉がわずかに動く。「帳合は私の線でも洗います。倉庫、写場、現像室――人の流れと物の流れを別々に」
北里はすぐに義親の顔を思い浮かべたように、躊躇いがちに口を開く。「義親様には、まず“安全”を伝えます。研究は止めません。ただ、話の相手と話す場所を選ぶ――それだけで守れるものが多い」
沈黙を割ったのは大久保だった。火の点いていないパイプ越しに、低く乾いた声がこぼれる。「裏切りは習癖になる。歯は一気に抜かんとまた噛みつくぞ」彼は紙片の名を射抜くように見て、噛んだパイプを指で回した。「だが、見せしめで家ごと壊しては骨まで折れる。筋道を立てて折る。そういうことだ」
「まず事実を固める」
藤村は短く応じ、調査官へ目だけで合図した。「入退室記録の写し、現像槽の硝酸銀の残渣、筆跡、電信の発信痕――全部、証拠の鎖に繋げろ。誰が、いつ、どこで、どうやって。推測を混ぜるな」
午後、研究棟。義親の机には半分描きかけのスプロケットの改良案が置かれ、鉛筆の先が丸くなっている。少年は扉口で立ち止まり、顔を上げた大人たちを見て、視線をすぐ図面に落とした。小さな肩が、ほんのわずか縮む。
「義親」
藤村はいつもの呼び方で名を呼び、机に手を触れないように少し離れて立つ。「君の図面が、外に出た。君のせいではない。君の線は、美しいから狙われた。それだけだ」
少年の喉がごくりと鳴る。「ぼく、しゃべりすぎた?」
北里が首を振る。「いいや。人が盗んだ。君は創った。それは別のことだ」
窓の外で、風が銀杏の枝を鳴らした。義親は唇を噛み、しばらく考えてから、机の引き出しを開けた。中から新しい紙を出し、折り目をつけて二つに切る。左に「基礎」、右に「応用」と、小さく書き分けた。
「じゃあ、基礎のほうは、誰にでも見せる。応用は、お父さんと、お兄ちゃんたちと、北里先生だけに」
かすかな声だが、芯があった。藤村は胸の奥で何かが解けるのを感じ、静かに頷いた。
夕刻、官邸の一室では、仮の対策本部が立ち上がる。地図ではなく、動線が描かれた白紙が壁いっぱいに貼られ、入退室の矢印が赤と青で交錯する。後藤が財務の箱を開き、監視と審査の費用をはじく。慶篤は省庁横断の連絡線を一本化し、指示は短く、記録は長く――新しい原則を箇条にしていく。
「開きすぎれば流れ、閉じすぎれば腐る」
藤村はペン先を整えながら言った。「我々は水路を引き直す。基礎研究は晒し、応用は分け、鍵は少なく、記録は多く。人は信じるが、仕組みは疑う。今夜から、それで行く」
その言葉に、大久保がようやく火を点けた。薄い煙が縦に昇り、天井でほどける。「筋が立ったな」と短く言い、火皿を軽く叩いて灰を落とす。その仕草に、部屋の緊張が目に見えぬほど和らいだ。
夜更け、最初の電報が走る。各研究施設へ、新しい入室許可の方式、文書の分冊保管、現像室の二重鍵、そして“基礎公開・応用限定”の方針。紙の白が青い光の下で次々と黒く染まり、通信員の手を経て街の闇に溶けてゆく。
寒露の冷気は、骨に沁みる。だが、芯まで冷える前に火は起こされた。盗まれた線は戻らない。ならば、盗まれても折れない描き方に改めるまでだ――藤村は窓の外の闇を見据え、ゆっくりとペンを置いた。いい返事が来るかどうかではない。こちらが、明日も同じ線を引けるかどうかだ。今日は、そのための一歩を刻んだ。
翌朝、薄曇りの光が廊下の敷板に白く広がる頃、内部聴取は静かに始まった。部屋は小さく、机は一つ。壁には時計と、紙ばさみに綴じた入退室記録だけ。威圧の道具は置かない――事実だけを積む場にするためだ。
最初に通されたのは、歳を重ねた高級書記官だった。眼鏡のブリッジに指をかけたまま、視線を机の木目に落とす。
「家の借財が――」
しぼむ声を、大久保が遮らぬまま聞いた。火を落としたパイプを唇に挟み、相手の言葉が尽きるのを待つ。記録係は震えない字で、日時と金額、渡しの場所を写す。買収は単発ではない。小口の“相談料”が月に一度、季節の変わり目にだけ額が跳ねる。金の流れは、言い訳より雄弁だった。
つづいて研究補助の若者。指先に現像液の染みが残る。
「データのバックアップだと言われて……」
後藤が領収書の写しを静かに突き出す。「その外付けの保管先は、大学の倉庫ではない」
若者は、肩の力を落として項垂れた。罪を声にしなくとも、紙が告げている。
警備の隊長は、扉の前で直立したまま深く頭を下げた。
「脅されました。家内の名を出され、子の通学路まで言い当てられました」
藤村はしばし沈黙し、短く言う。「あなたは今、ここに来ている。それが分岐点だ。脅しの手口を余すところなく供述してくれ。守るのは、そのためにこそある」
午後、外国人研究者の聴取。学位も経歴も申し分ないが、旅券の出入国記録に妙な欠けがあった。陸奥が淡々と紙束を差し替え、渡航先の時差と講演日の矛盾を指でなぞる。沈黙ののち、相手は肩を竦めた。長い旅は、ここで終わった。
通訳官の帳簿には、複数の通貨が混ざっていた。ポンドとルーブル、そしてわずかな銀貨。
「仕事の評価が国ごとに違うのでしょう」
彼は笑ってみせたが、笑いは目に届かない。大久保はパイプの先で机を軽く叩き、低く言った。
「多方面から褒められる人間は、どの方面も本気で信じていない」
記録係の筆先が止まらない。証拠の鎖は、一本の縄になりつつあった。
厳罰派と慎重派の議論は、夕刻の会議室で火花を散らした。
「切るところは、今切る。示さねば、次の歯が伸びる」と大久保。火のつかないパイプが、言葉の代わりに硬く噛まれる。
「だが、根を掘り返して土まで捨てれば、作物は枯れる」と陸奥。「すべてを締めれば、友も去る。門は狭く、道は開く――その加減を失ってはならない」
室内の空気は熱を帯びるが、声は最後まで荒れない。怒りを燃料にしながら、舵は冷たく握る。それがこの内閣の癖になっていた。
藤村は双方の言を聞き切ると、机上の短冊に二行だけ書き付けた。
〈処分は法に拠る。制度は人に頼らぬ〉
それを正面の壁に留め、具体の配分を指示する。刑は裁判所へ、異動と契約破棄は行政の線で淡々と。研究室は分冊化、監視は二重化、報告は即日。誰も「分かった」とは言わないが、小さな頷きがいくつも重なった。
夜になると、思わぬ波紋が外から押し寄せた。欧州の大学から、相次いで電報が届く。
〈研究交流の停止は遺憾〉
〈貴国は我らを疑うのか〉
言葉は礼儀を守っているが、失望は隠さない。新聞の外電欄には、早くも「閉じる日本」の見出しが踊る。陸奥は外務の若手に短い返電文例を渡した。
「基礎の門は開いている、と繰り返せ。応用は段階だ。相互でやる、とも」
屋敷では、別の戦いがあった。義親は夜半にふと目を覚まし、枕元の紙を握りしめていた。手描きの小さなチェーンリンク。擦れて、真ん中が薄い。廊下の灯の向こう、義信が起きている気配がする。
「まだ寝てないの?」
兄は振り向き、笑ってみせた。「見回りの順番を少し入れ替えているだけさ。ほら、ここをこう動けば、音だけで相手の人数が分かる」
義親は紙を抱え直し、小さな声で言った。「ぼくの線、盗られた」
義信は頷く。「盗む手が悪い。線は悪くない。だから、もっと良い線を引こう。盗んでも、真似できないぐらいの」
廊下の先で、久信が湯気の立つ砂糖湯を持って現れた。「あたたかいもの、飲もう。明日も描くなら、今夜は眠ること。ね?」
その頃、対策本部では、後藤が数表を広げていた。新しい監視網は金を食う。だが、流出の損失はもっと大きい。
「見えない費用ほど帳に乗せる。そうして初めて、削る場所が見える」
彼の鉛筆がすばやく動き、無駄な重複と穴の場所に印がつく。監視は広く、権限は狭く、責任は明確に。人を疑うのではなく、仕組みが人を迷わせないように――設計の仕事は、制度でも同じだ。
深夜、最後の聴取が終わった。廊下に人の気配が消え、窓ガラスに自分たちの顔だけが映る。藤村は机の引き出しから、義親が幼い頃に描いた最初の車輪の絵を取り出し、しばらく見つめた。丸い輪の中に、ぎざぎざの歯が無邪気に並んでいる。そこには利害も思惑もない。ただ回りたいという意思だけが、紙に染みていた。
「守るというのは、止めることじゃない」
独り言のように呟き、紙をしまう。「回れるように、道を整えることだ」
窓の外で夜風が欄干を鳴らす。パイプの火を落とした大久保が、無言で立ち上がる。陸奥は返電の束を整え、北里は朝いちばんの診療巡回の地図を畳む。誰も大声は出さない。長い戦いになると、全員が知っているからだ。
やがて灯が落とされ、薄闇のなかで時計の針だけが進む。裏切りの糸は摘まれた。だが、外からの指はこれからも伸びてくる。ならばこちらは、糸を縄に、縄を綱にしておく。握り方を間違えなければ、渡れない谷はない。そう信じるほかに、前へ進む術はなかった。
明治十三年九月の夕暮れ、満州国境は薄紫に沈み、冷えた風が草原を撫でていった。義信は監視所の高台に立ち、双眼鏡を握る指先に力をこめる。遠くで清朝の兵が杭を打つ音が、木霊のように何度も響いてきた。
「……挑発ではない。示威だな」
彼は副官に向かって短く命じる。「陣形は動かすな。旗も挙げるな。ただ巡回は倍、灯りは二割増し。『見ている』と知らせれば十分だ」
副官は頷き、命令を伝えるため駆け下りた。草原を渡る風が義信の外套を揺らし、少年らしからぬ横顔を浮かび上がらせた。
夜になると、詰所の机にランプが並び、義信は赤鉛筆で地図に細い線を引いていった。老兵たちは黙ってその手元を見つめる。
「十三歳で背負う荷ではないな」
副官が小声で漏らすと、義信は手を止めずに答えた。
「ここで感情を出せば、部下が揺らぐ。剣を抜かずに守る方が、よほど難しいんだ」
一方、東京。外務省の応接室では久信がロシア公使と対座していた。椅子に深く腰かけた公使は、まだ声変わり途中の少年を試すような視線を向ける。
久信は胸を張り、フランス語で言葉を紡いだ。
「Nous respectons la position de la Russie. Mais nous devons aussi protéger notre peuple. Gardons les canaux de communication ouverts.」
(我々はロシアの立場を尊重します。しかし、我々も国民を守らねばなりません。対話の窓口は開いたままにしましょう)
室内に一瞬の静寂が走る。公使は意外そうに目を細め、口元に微笑を浮かべた。
「Votre français est excellent, jeune homme.」(見事なフランス語ですな、若者よ)
久信は静かに頭を下げ、さらに言葉を重ねる。
「L’avenir de l’Asie doit être décidé sans effusion de sang.」(アジアの未来は無益な流血なしに決めるべきです)
通訳官が驚きの顔をし、書記が慌てて速記を続けた。少年の放った一言は、大人たちの胸に楔のように残った。
同じ夜、義親は大学の研究室にこもり、軍用自転車の鎖に耳を澄ませていた。油の匂いと金属の冷たさの中、幼い指が器用にレンチを回す。
「もっと静かに……もっと速く……」
設計図の線を消しては引き直し、やっと満足げに息をつく。北里柴三郎が背後から声をかけた。
「義親様、そろそろお休みを」
少年は首を横に振り、目を輝かせる。
「これが完成すれば、巡回兵がもっと早く動ける。争いを止めるには、早く知らせることが大事だから」
研究室の大人たちはその言葉に胸を打たれた。七歳の小さな背中に、未来の重さが確かに乗っている。
東京の首相官邸では、藤村が各地からの報告を前に独り腰を下ろしていた。清朝の動き、ロシアの圧力、欧州筋からの情報が一斉に机上へ積み重なる。
「恐れるな。彼らもまた必死なのだ。ならば、こちらは理で勝つ」
彼の声は低く、しかし揺るぎなかった。
夜半、官邸から発せられた電報は全国へ飛び、満州の監視所にも、北海道の灯台にも届いた。紙の白とインクの黒が、遠い現場で夜を守る人々に、一筋の安心を届けていた。
十月の冷たい雨が、東京大学の煉瓦壁を濡らしていた。研究室の窓を打つ雨音の中、義親は机にうずくまり、手にしたコンパスを握りしめていた。
「僕のせいで……?」
設計図の一部が清朝に渡ったと聞かされた夜から、少年は研究室に足を運ぶのを渋るようになった。かつては遊び場のように駆け回った実験室が、今は重苦しい牢獄のように感じられた。
藤村は官邸の書斎で一人、灯火の前に座っていた。机には調査報告書が積まれ、その一番上には裏切り者の名が記されている。
(裏切りを許せば、国が崩れる。だが、怒りに任せて裁けば、国際社会から孤立する……)
彼は深く息を吐き、決意を固めると呼び鈴を鳴らした。
「裏切り者は法に則り処罰する。見せしめではなく、法治の証としてだ。義親の研究は止めない。だが防諜体制は根本から作り直す」
翌朝、緊急閣議が開かれた。
大久保利通はパイプを咥えたまま、低く言い放つ。
「ここで甘い顔をすれば、再び裏切りを呼び込む。徹底的に洗い出せ」
陸奥宗光は冷静に反論する。
「過度の粛清は国際的信用を損ないます。外交の窓は閉じず、むしろ強化すべきです」
会議室には重苦しい沈黙が流れた。藤村は椅子から立ち上がり、全員を見渡した。
「我々は恐怖ではなく、理と信頼で国を保つ。防諜は強化するが、門は閉じない。開いた門の前に立つ兵士を増やすのだ」
その夜、藤村家では三兄弟が囲炉裏を囲んでいた。義信が義親の肩を抱きしめる。
「お前の発明は誰かを傷つけるためじゃない。守るためだ。僕が守るから、また研究室に戻ってほしい」
久信も笑みを浮かべて言う。
「義親、世界中の人が君の発明を欲しがるんだ。すごいことだよ。だったら、僕たちが世界一安全な場所を作る。だから安心していい」
義親はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……じゃあ、もっとすごいの作る。誰も戦いたくなくなるくらい、すごいやつ」
東京では、新たな防諜機関が正式に発足した。研究施設には新しい監視網が張り巡らされ、情報は細かく分割され、外部への流出は徹底して防がれることとなった。同時に、欧米の友好国には藤村自ら親書を送り、「日本は孤立するつもりはない」と伝えた。
十月の雨が上がった翌日、東京の空は澄み渡り、街路樹の葉は光を受けて黄金色に輝いた。藤村は官邸の庭に立ち、空を見上げる。
「これは始まりに過ぎない。だが、我々は耐えられる」
電信が再び走る。満州の監視所、北海道の灯台、琉球の港町、台湾の山間の学校まで、同じ一文が届けられた。
〈守りは固めた。道は続く。恐れず進め〉
その電文は、前線に立つ兵士にも、遠い農村の移民にも、そして研究室に戻った小さな発明家にも、確かな光となって届いた。