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285話:(1880年9月/処暑)処暑の新たな挑戦

明治十三年九月、処暑の風が首相官邸の松をわずかに鳴らしていた。蝉は遠く、代わって打電機の乾いた音が情報分析室の空気を刻む。紙の匂い、インクの匂い、磨かれた真鍮の匂い――いずれも、この国の神経がいま全方位へ伸びていることを告げていた。


 電信係が細い紙帯を切り離し、黒漆の盆に載せて差し出す。書記官が一気に清書し、地図台の前に立つ藤村へ手渡した。赤鉛筆で満州国境に新たな点線、オホーツク海には楔形の記号が幾つも書き足される。清朝とロシア、二つの大きな波が、見えない潮のようにこちらへ押し寄せていた。


 「清国・露国、連携の気配が濃厚です」情報担当官が低く報告する。「北洋艦隊は旅順沖での実働訓練を増やし、遼東では“官設”名義の鉄道敷設願い。さらに黒竜江沿いの哨所増設。露国は樺太北岸で砲台改修、シベリア鉄道の資材搬入が前年同月比で二割増……以上が今朝の電報です」


 藤村は短く息を吐き、地図の上で指を止めた。「呼吸を乱すつもりか。だが、慌てる理由はない」


 慶篤が続ける。「満州側は河井総督からも緊急電。鉄道用地の名目で住民を取り込む清朝の工作が活発化。――それから北方では」


 黒田清隆が北方図を引き寄せた。「千島・樺太の漁場で、露国艦の“親善寄港”が増えています。いずれも測量班を同乗させている」


 そのとき、室内の隅で火打金が小さく鳴った。大久保利通が短い銀口のパイプに火を移し、ゆっくりとくゆらせる。刻み煙草の青い煙が細く立ちのぼり、地図の上でたなびいた。維新以来、政の荒波を泳ぎ抜いた男の重みが、ふっと室内の温度を下げる。


 「情報の線を太くしよう」大久保はパイプの火皿を指で軽く弾き、灰を皿に落とした。「国境の解釈は言葉の隙から崩れる。同時に、挑発には応じぬ。こちらの足場を固めるのが先決だ」


 藤村は頷き、壁際の黒板に粉を走らせる。〈対露=示威には礼節で応答、沿岸警備のみ強化。対清=通商と鉄道で既成事実、住民利益を第一に〉――白い粉が、この内閣の当面方針をはっきりと浮かび上がらせた。


 「医療と教育の線でもう一度、打ち込むべきです」北里柴三郎が一歩前へ出る。「満州の衛生局を拡張し、朝鮮・琉球・台湾での巡回医療の頻度を倍に。どれほど“文明”を謳っても、住民が体で覚えている便利さは我々の側にあります」


 後藤新平は書類束を置き、淡々と数字を示した。「物流は那覇・基隆・釜山・大連の環で回します。港湾倉庫の監査を厳格にし、関税の透明化で清朝の迂回ルートを潰す。住民の財布と時間をどれだけ節約できたか、毎週公表しましょう」


 「軍は?」と藤村。


 大村益次郎は少し間を置いて答えた。「戦って見せなくとも、抑止で十分に伝えられます。沿岸監視線は三層、電信は二重化。義信殿の案どおり、軍用自転車連隊の連絡網を満州と北海道に敷き、反応時間を三分の一に短縮する。砲口は上げず、靴音だけ速くする――それでいい」


 窓の外、淡い雲が陽を薄くした。ここで守るべきは西洋の模倣でも東洋の旧套でもない。己らの名で作った制度と日常――それを守り、育て、次の季へ渡す責任だった。


 「陸奥」藤村が呼ぶ。「欧州筋への根回しは?」


 陸奥宗光は懐中の手帳を開いた。「ベルリンには非軍事の技術交換を打診済み。ロンドンには『航路の安全確保は相互利益』の覚書草案。パリには文化・学術の常設交流。いずれも、我々が攻勢ではなく秩序立ての側に立つことを強調しています」


 静かな頷きが室内に伝播する。ここでは、意思決定は熱ではなく温度で進む――誰もがそう学んでいる。


 最後の電報束が配られた。アイヌの青年が北海道から送った短い報告に、藤村の目が留まる。〈漁場に見慣れぬ旗、しかし村の診療所は満ち、学校の灯は消えず〉――紙をそっと畳み、机上に置いた。


 「よし。処暑のうちに“待つための備え”を徹底する。挑発には乗らず、しかし一歩先回りして道を敷け。数字と生活、医療と教育、そして礼節――それが我らの矛であり盾だ」


 短く号令が掛かる。書記官が走り、印章が乾く。北へ、南へ、海へ、陸へ――電信が糸のように国土と統治地域を結び直していく。外はもう秋の気配だが、室内の時は研ぎ澄まされ、ひとつの季節を越える準備に満ちていた。


 大久保は火の落ちたパイプを布で拭い、胸ポケットに収めると、わずかに口角を上げた。「足場を固めれば、風は味方をする」。煙の名残だけが細く漂い、地図の赤鉛筆の線に重なっていった。

北京の空は白く濁り、秋の乾いた風が紫禁城の甍を鈍く撫でていた。南書房では、李鴻章が新設の地図掛けの前に立ち、色分けされた大図を扇で示す。遼東から黒竜江へ、さらに山海関を越えて朝鮮に至る線が太く塗られ、各所に「機器局」「新式学堂」「北洋水師補給港」と朱の印が散っている。


 「日本は“秩序”を謳うが、実は鈍く広がる墨だ」李は低く言い、側近へ視線をやった。「わが方は筆を太くし、先に紙を埋める。洋務の歩を二倍に。工部衙門には機械の注文を急がせよ。遼東一帯の鉄道敷設願いは“官設”で出す。地方官へ通達、民心は学堂と糧で掴むのだ」


 同じころ、旅順沖。北洋艦隊の練習艦が白い波頭を蹴立て、錨地を回頭していた。新造砲の火蓋が切られるたび、湾の空気が震える。観閲台の幕僚が帳面へ連続射の時間を書き込み、青い軍服の少年兵が耳を押さえながら敬礼する。湾外へ出ればうすく霞む大海――その先に、彼らが想像する新しい強国がある。


 満州の国境帯では、煙の薄い集落に見慣れぬ役人が現れた。官帽の庶務官が地図を広げ、「鉄道用地調査」の木札を立てる。畑の端に赤い杭が打ち込まれ、戸籍簿の写しを求める声が鋭い。通辞が笑顔で「利がある」と説く一方、裏手では土地台帳の墨が勝手に増える。店先に貼られた新しい瓦版は、「日本は朝貢を忘れた小国、商い巧みにして心は狼」と、墨痕も新たに煽っていた。


 奉天府(瀋陽)・総督府。河井継之助は、窓外の鈍い空を一度見てから、机上の書類を静かに押し分けた。清朝官吏からの往復文、鉄道用地の重複申請、鉱区境界の照会、それに住民からの嘆願。彼は筆を取り、まず嘆願の束に印を置く。


 「順番を違えるな」河井は側に控える文案担当へ言った。「地図は最後でよい。先に人の暮らしを整える。学校、井戸、医師。翌月の米価と塩の配給を確約してから、鉄道の線を町へ通す。杭は打たず、灯を先にともせ」


 「しかし、国境の解釈について清側は強硬です」随員が口をはさむ。「巡検の報告では、黒竜江沿いの哨所が増え、私設の通行証まで押し売りを」


 河井は頷いた。「礼は尽くす。ただし、数字はごまかさない。交易路で日銭を得ているのは誰か、宿場で酒と布を売っているのは誰か、月々の帳面を村ごとに掲げよ。清の札に利があるなら人はそちらへ向く。そうでないなら、地図の線は人の足でこちらに寄る」


 彼は一息つき、机の端に置いた小箱を開ける。中は学校と診療所の開設予定表、井戸掘りの器具貸出し名簿、そして軍用自転車隊の巡回日程だった。「北里先生の巡回は一週早める。疫が出た村の前では理屈は通らぬ。先に熱を下げ、腹を満たせ。――それから、後藤の倉庫監査の結果を毎週、掲示板に貼れ。関税も日雇い賃金も、その場で読める字で書くのだ」


 日が傾くころ、国境小邑の広場では、行商の老婆が新しい張り紙に目を細めていた。〈明日より塩一斤、銭三文下げ〉〈来週、医師巡回〉〈井戸掘り人手募集〉――簡素な板の上に、暮らしに関わることだけが大きな字で並ぶ。その下で子どもたちが竹の輪を転がし、遠く、軽いチェーンの囁きが聞こえる。軍用自転車隊の先遣が、砂塵を抑えながら村へ入ってきた。


 隊長は馬丁の男に帽子をあげ、穏やかに言う。「通行証の確認は短く済ませます。道の穴だけ教えてください。明日、工夫を連れて埋めに来ます」


 南へ。旅順の洋場では、瓦版売りが声を張り上げる。「日本、満州の民心を買収!」。その横を、地元の青年が素通りして魚籠びくを担ぎ直す。「買収なら、腹がふくれりゃいいさ」と彼はつぶやいた。「去年より病で死ぬ者が減った。あんた、それも書いとけ」


 夜、奉天の応接間。河井は清側の地方官を迎えた。燈火は低く、卓上に湯気の立つ茶だけがある。


 「あなた方の“官設”の鉄道案を拝見しました」河井は穏やかに始めた。「我々の案と重なる区間が多い。――ここは妥協しよう。貨物駅は共同利用、関税は双方が明朗に。だが、宿場の市場は村の裁量に任せたい。商いの流れは命の流れだ。そこに官の印を押しすぎると、むしろ淀む」


 清側の役人は、肩をいからせつつも、卓上の茶に口をつけた。「あなた方は“文明”を口にする。しかしそれは我が朝の言葉でもあったはず」


 「ええ」河井は微笑した。「だからこそ、民の腹と熱から始めたいのです。地図は後からついて来る」


 この応接の記録は、翌日の電信で東京へ送られた。官邸では、大久保がパイプに火を入れ、紫煙を細く立てながら黙読する。灰を落とす音が小さく響き、卓を囲む面々の視線が一つの紙片に集まった。


 「悪くない」大久保は短く言った。「先に灯と数字を置いて、線で囲う。敵は砲と瓦版で来る。こちらは診療と帳面で返す」


 黒田清隆も頷く。「北では露艦の“親善寄港”が続いていますが、港の測量は測量で受けて立つ。灯台を増やし、彼らの海図にも載る形で我々の存在を刻む。測らせて、写させる。だが、心臓部には触れさせぬ」


 その夜更け、北海道の小さな岬に新しい光がともった。灯台守の老人が硝子を磨き、若い助手が日誌に風向と来航船の帆影を書き留める。遠く北の暗がりに、低く唸る艦の影が一瞬見え、すぐ闇へ溶けた。灯の下では、子どもが帳面を読み上げる練習をしている。〈塩 一斤 銭 三文下げ〉――読み終えた声に、灯台守が「上手くなった」と笑う。


 北京の夜も更け、李鴻章は帳面を閉じた。窓外で風鈴が鳴り、遠くに銅鑼の音が響く。彼は独り言のように呟く。「民心は、誰のものでもない。先に手を触れた者が勝つ」。そして筆を取り、もう一本、遼東の線を太くした。


 同じ時刻、奉天の広場では、張り紙の前に人の輪ができていた。誰かが声に出して読み、誰かが指で文字をなぞる。そこに、また自転車の軽い囁きが近づく。砂塵を上げぬよう速度を落とし、隊員が籠から包みを取り出す。乾いた薬包、清潔な包帯、そして小さな黒板。隊員は笑って、黒板に白墨で大きく一行を書いた。


 〈明日、玄関先の穴を埋めます〉


 瓦版売りが遠くで叫ぶ声を、誰も気に留めなかった。人々は自分の家の前を思い浮かべ、穴を数えた。清朝の砲声が海霧の向こうで反響し、ロシアの艦影が北の闇に沈む。だがこの夜、村々に残ったのは、黒板の白い一行と、低く続く自転車の鎖の音だった。

明治十三年九月の夕暮れ、満州国境の空は一面に鉛色の雲を垂らしていた。義信は前線監視所の高台に立ち、胸の前で双眼鏡を構える。遠く、清朝の兵が鉄杭を地面に打ち込み、新しい哨所の骨組みを組んでいる。杭が入るたび、鈍い音が乾いた草原に響き、胸の底へ重く沈んだ。


 「……挑発か。いや、示威だ。」

 義信は唇を結び、横の副官へ短く告げる。「陣形は変えるな。旗も挙げるな。巡回だけ倍増。夜はランプを二割明るくして、こちらが“見ている”と知らせろ。」


 夜、詰所。義信は地図に赤線を引き、日誌に細い字を刻む。年齢に似合わぬ静けさに、老練の兵も言葉を失う。

 「十三の肩には重いな……」と副官。

 「ここで感情を見せれば全員が揺らぐ。」義信は手を止めない。「軍はまず民を守る。なら、剣より冷静さだ。」


 同じ時刻、久信は東京・外務省の応接室でロシア公使と向き合っていた。背筋を伸ばし、通訳に目をやらず、自らフランス語で切り出す。

 「Nous respectons la position de la Russie, mais nous devons protéger notre peuple. Gardons la voie du dialogue ouverte.」

 (ロシアの立場は尊重します。ですが、我々も国民を守らねばなりません。対話の窓口は開けておきましょう。)


 公使がわずかに眉を上げる。「Vous êtes bien jeune… mais remarquablement posé.」

 久信は間髪入れず続けた。「L’avenir de l’Asie doit se décider sans effusion de sang. Si nous partageons des informations rapidement, les malentendus se dissipent.」

 (アジアの未来は流血なく決めるべきです。情報を迅速に共有すれば、誤解は薄れます。)

 応接室の空気が一段落ち着く。記録官のペン先が紙を走る音だけが残った。


 一方の研究室では、義親が小さな手で工具を握り、鎖の微かな擦過音に耳を澄ましている。油と金属の匂いのなか、設計図の鉛筆線を一本引き直す。

 「もっと静かに、もっと速く……」

 北里がそっと肩に手を置く。「少し休もう、義親様。」

 「もう少し。これが出来れば、満州の巡回が夜でも早く回れる。早く知らせれば、争いは止められるから。」

 その真っ直ぐな声に、周りの大人たちの表情が和らいだ。


 深夜、官邸の机上灯の下で藤村は各地からの束を読み、最小限の朱を入れて返す。清の新哨所、露の測量船、欧州三都の応答。それらを一枚の地図の上で結び替え、電鍵の前に指を置く。

 「挑発には乗らず、だが遅れず。」

 短い電文が打たれ、線になって飛ぶ。満州の監視所へ、北海道の灯台へ、那覇の埠頭へ。紙の白とインクの黒が、遠い現場で働く者たちに同じ合図を届けた――こちらは落ち着いて見ている、そして話す用意がある、と。

夜半、首相官邸の中庭に風が落ちた。松影が敷石に長く伸び、灯に照らされた電信室だけが白く醒めている。藤村は最後の指示電を認め、封蝋の乾きを待つ間、静かに目を閉じた。机上には三通の短い手紙――義信、久信、義親への直筆。どれも簡潔で、余白が広い。余白は信頼の大きさであり、指揮官が子へ託す静かな余温だった。


 その頃、満州国境。義信は巡回から戻ると、暖かい鉄瓶で喉を潤し、全隊に向けて一言だけ告げた。

 「今夜は、音で勝つな。姿勢で勝て。」

 見張り台のランプは程よく明るく、廊下の靴音は揃って軽い。銃は磨かれ、しかし銃口は土へ向く。草原の向こうで清の哨兵がこちらを覗う。互いに何も撃たず、ただ整い方の差だけが風に乗った。


 東京・外務省の一室では、久信が会談記録の清書を終え、フランス語で作った覚書の文言に最後の手直しを入れていた。語尾の一つを柔らげ、主語を共同形に変える。

 「責めず、誘う。」

 少年の指が走り、紙は丁寧に糊綴じされる。廊下の向こう、ロシア公使館への連絡員が帽子を胸に抱えて待っていた。


 大学の工房では、義親が工具を拭き上げ、改良型の試作車に白い布を掛けた。小さな掌にグリースの匂いが残る。北里が差し出した温い牛乳を飲み干すと、彼は胸のポケットから父の手紙をそっと出して、ひとつ頷いた。

 「僕、急がない。急がないように早くする。」

 幼い言葉だが、工房の誰もが意味を理解した。準備が速ければ、銃声は遠ざかる。


 子の刻、官邸の広間に閣僚が揃う。大久保利通は例のパイプを歯に軽く当て、火を入れずに咥えたまま、短く言う。

 「向こうが声を荒げるほど、こちらは歯切れよく、静かに。」

 黒田は北の潮況図を示し、灯台の点滅周期を揃える提案を出す。後藤は港湾倉庫の監査日程を一斉前倒しにし、通関時間をさらに縮める稼働計画を読み上げる。陸奥は欧州三都向けの同報電に「非軍事の協働」を明文化し、返書の窓を三つ用意した。誰も声を荒げない。紙と時間と約束で、国の呼吸を整えていく。


 やがて、藤村が立つ。

 「今宵から三週間、合図は一つだ。――遅れず、昂らず、途切れず。」

 その三語が、電鍵、汽笛、教室の鐘、病院の回診表にまで浸み込んでいく。


 翌朝。大連の埠頭では荷役の導線が一本増え、那覇の岸壁では検疫所の動線が転回された。釜山の学校では朝礼で安全講話が読み上げられ、基隆の診療所では予防接種の枠が拡張される。数字は小刻みに、しかし確実に良くなる。清も露もそれを知覚できる速度で――つまり、挑発の熱が冷める速度で。


 国境線の草原では、夜明けの靄が薄れるにつれて互いの旗がくっきり現れた。義信は望遠鏡を下ろし、部下に頷く。

 「よし、今日も同じだ。こちらは『準備ができている』を示すだけでいい。」

 哨戒の隊列が滑るように動く。馬は歩調を崩さず、車輪は鳴かない。清の若い兵が思わず姿勢を正す。その一瞬、国境の空気が柔らいだ。


 夕刻、官邸の中庭。藤村は短い演説を録音筒に吹き込み、各地の広報室へ送る。

 「国境に立つ人へ、港で働く人へ、学校で学ぶ子へ。私たちは慌てず、怖れず、しかし遅れません。あなたの日常を守るために、静かに全力を尽くします。」

 文面はそのまま新聞の一面にも載り、余白は広く取られた。余白は、国が大声で叫ばずに済んでいる証でもあった。


 夜。電信線が微かな唸りを上げ、各地の返信が戻り始める。満州からは「本日異常なし」、北海道からは「測量船、外洋へ離脱」、琉球からは「検疫強化、通関時間短縮も達成」、台湾からは「接種率、前月比一二%増」。どの報も地味だが、危機の夜にはこれほど心強い文面もない。


 藤村は束ねた報告の上に、ゆっくりと掌を置いた。窓の外では秋蟬がひと声、間を置いてまたひと声。

 「いい。今はこれでいい。」

 勝つために戦わない、煽られても高鳴らない、しかし途切れない――その難しさを、国全体で体得しつつあると感じた。


 最後に彼は机の引き出しから未封の手紙を一通取り出し、封をせずに戻した。宛名はない。必要が生じれば誰にでも届く言葉を、まだ書かない。書かないことで、今夜を守る。そう決めて、灯を落とした。

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