表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

317/352

284話:(1880年8月/明治13年・小暑)小暑の内政課題

明治十三年八月、小暑。

 朝から空気は重たく、霞むような陽が丸の内の甍を白く照らしていた。首相官邸の玄関わき、槙の葉先が風もないのに微かに震えているのは、湿り気を含んだ熱が地面から湧き上がっているせいだろう。赤絨毯の奥、緊急閣議の札が掲げられた扉が静かに閉じられると、廊下の喧噪はすうと吸い込まれ、室内の静寂と、高く据えた氷柱がひとつ滴る音だけが残った。


 藤村は席に着くなり、卓上の議題綴りを指で二度叩いた。

 「諸君。各方面への進出は成果を挙げた。だが――この一両月、統治報告、会計報告、人事報告、すべてに『限界』の影が差している。今日は、理想の列を一旦崩し、現実の地図に引き直す」


 湿り気を帯びた空気が、言葉の輪郭を重くする。最初に口火を切ったのは、外務大臣の陸奥宗光だった。

 「欧州歴訪の余燼がまだ燻っております。協調は“限定的”、それが先方の腹。無理押しの拡張は、ただちに摩擦へ転じます。ここは、足を掛け違えぬよう」


 対して、若手官僚の一人が身を乗り出す。薄く汗の浮いた額に決意が光る。

 「いま手を緩めれば、二度と主導権は戻りません。アフリカ、南米――窓が開いたまま閉じてしまう前に、楔を」


 乾いた咳払い。大久保利通が扇子を一度だけ広げ、穏やかな声で遮った。

 「楔は材と角度を誤れば木目を割る。われらの躯はまだ成長期だ。骨を伸ばす栄養を内に注げ。外へ走れば、脛を痛めよう」


 財務大臣席から紙束が滑り出る。蝋燭の煤のように黒い数字が並び、夏の光に鈍く光った。

 「各地域統治、教育・医療、鉄路と港、そして広域防衛。今季の支出曲線は、予算線を確かに跨いでおります」


 藤村は目を閉じ、指先で机の縁を探るように撫でた。木目の年輪が脈のように伝わる。

 「数字は感情を持たぬが、未来を啓示する。――後藤」


 呼ばれた後藤新平が、手帳を開いた。簡潔に、しかし容赦なく。

 「各地の制度運用は回る。しかし“人”が足りません。行政官、教師、医師、技師、通訳。良材ほど薄く延ばして使っており、切れ目の兆しがある」


 「軍も同じだ」大村益次郎が短く続ける。

 「防衛線は維持可能。ただし“攻勢的な新規展開”は踏み越えれば靴底が剥がれる。補給と衛生、訓練の周期を削るわけにはいかん」


 室内の氷が、また一滴、透明な音を落とした。誰も口を開かぬ間隙に、庭の蝉が短く張り上げる。


 藤村は顔を上げた。視線は一人ずつを確かめるように巡り、最後に窓の向こうへ止まった。

 「理想は、われらの羅針。だが、推進力は帆ではなく船底の板目が支える。板が割れれば、海水は容赦ない」


 反対席から、なお食い下がる声。

 「しかし、この勢いを止めれば、国内の士気が――」


 藤村は掌を軽く上げて制した。

 「士気は熱で上がるが、熱は冷まさねばならぬ。冷ますのは敗北ではない。持続のための鍛治だ」


 机上に、新たな一枚が置かれた。人事局がまとめた配員表。空欄の白が夏の光を弾く。

 「――配る人がいない。これが現実だ」大久保が静かに告げる。

 「だからこそ、いま“選ぶ”のです」


 藤村は深く息を吸い、言葉を落とす場所を探すように小さく間を置いた。

 「本日、三つを決める。

  第一に、拡張政策の一時凍結。新規の海外展開は、調査と準備に限る。

  第二に、既存地域の充実を最優先。満州・朝鮮・台湾・琉球・北海道――制度の磨き、教育と医療の厚み、現地人材の育成に資源を振る。

  第三に、財政と人材の再編。無理な同時多発はやめ、隊列を組み直す」


 若手官僚の肩がわずかに落ちた。だが、否定ではない、覚悟の沈み方だった。

 陸奥が頷く。

 「外は私に。反発の波をやり過ごし、限定協力の糸を太くしてみせます」


 後藤は横書きのメモを差し出した。

 「人材は“現地で育つ”仕掛けに切り替えます。留学、師範学校、医学校、工手学校を各地の土壌で生やす」


 北里が眼鏡を押し上げる。

 「医療は拡張より“密度”を。一つの郡を完全に健康にするモデルを積み重ねます」


 大村は短く、しかし力強く。

 「訓練周期は崩さぬ。兵は休養と教育で強くなる」


 藤村は席を立ち、窓を半ば開けた。熱気が揺らと流れ込み、同時に海の塩の匂いがわずかに混じる。

 「小暑の熱は、秋の実りのための試練だ。焦げないように、しかし弱らぬように――今日の決定は、退却ではない。成熟への一歩だ」


 誰かが、深く息を吐いた。その吐息が合図のように、賛同の気配が室内を巡る。反対派の若手も、最後には小さく頭を垂れた。

 「では、配分の具体案を三日で」藤村が結ぶ。

 「数字は私が、言葉は陸奥が、人は後藤が、基礎は北里が、節度は大村が。――それぞれの役目で、この国を持たせる」


 扉が開くと、外の熱が一斉に押し寄せた。蝉の鳴きが濃くなり、空はなお白い。

 夏の最中に、国は速度を落とすことを選んだ。

 だが、その足取りは、いよいよ深く、確かになっていた。

財務省予算分析室。

 障子越しの光が、机上に広げられた決算書の白を、じわりと乳濁させる。壁際の氷柱は半ば溶け、金属盆に落ちる水音が細かく刻む拍子だけが、室内の緊張を計る振り子のように鳴っていた。


 主計局長は紙背を透かし、静かに口を開いた。

 「当初予算に対し、統治関連歳出は一二%超過見込み。内訳は――教育と医療が四割、インフラが三割、治安・防衛が二割、残りが外交・広報・通訳養成です」


 藤村は数字を追うだけでなく、欄外の朱書きに目を止めた。現場からのメモは、どれも同じ語で終わっている――“人手不足”。

 「資金はまだ工面できる。だが、人は積み増せぬな」


 人事局長が頷く。

 「今季だけで新規採用一五〇〇、うち行政官五〇〇、教師四〇〇、医師二〇〇、技師三〇〇。配属先は満州、朝鮮、台湾、琉球、北海道に万遍なく。しかし、各地の“要”に刺すと、他の穴が目立つ」


 後藤新平が地図を机いっぱいに広げた。墨で描かれた線路が、未乾きのように艶を持つ。

 「線を延ばすより、駅を濃くする。――一本の長い線より、節々の機能を増す方が『生きた距離』は縮むのです。学校・診療所・役所・倉庫・市場を半径五里に一つ“全集成”で置く。これで移動負担も行政負荷も、四分の一に落とせます」


 北里柴三郎が手帳をめくる。紙から立つ薬品の匂いが、夏の湿気を切り裂いた。

 「医療は、面積ではなく密度で測るべきです。仮に診療圏の人口密度を今の一・五倍に高めれば、乳幼児死亡は一挙に二割下がる。費用対効果は他の施策より高い。――ただし、看護と助産の層が薄い。育成校を各地に増やし、読み書きの達者な若い女性を重点登用するのが近道です」


 「師範学校も同様だ」福沢諭吉から預かった提言書を、藤村は指で弾いた。

 「大人の学び直しを系統化する。終身学習の仕組みを作れば、現地の人材は雪崩のように増える。東京から“派遣”する発想を改めよ、というわけだな」


 大村益次郎が、短く咳払いをした。

 「軍は“拡張”を止め、“維持”に徹する。駐屯地は学舎と病舎に隣接させる。兵は教え、医は癒やし、民は支える――三者が互いの不足を埋める配置に替える。訓練周期は四半期単位で厳守。融通すれば即座に効率が落ちる」


 机上に、もう一枚の紙。三大財閥の収支見通し。

 「域内決済の清算網は機能し始めましたが、外貨流入は目減りしています」渋沢の書状を、陸奥が説明する。

 「欧州の“限定協力”は言葉どおり――限定的。そこで当面、輸出は自転車・紡績・紙・医療器具。輸入は必要最小限の機械部品と薬品に絞る。価値密度の高い品に転じ、量の海戦を避ける策です」


 藤村は一息置き、主計局長へ視線を返した。

 「歳出抑制は“横一線の削り”を禁ず。生かす部門は太く、止める部門は止める。骨と脂の仕分けを、各省の自傷に委ねず、こちらでやる」


 局長は身を正し、淡々と答える。

 「了解しました。まず、重複補助の整理から。各地の道路・港湾・通信工事の監督系統を一本化し、入札も“束ね”ます。これだけで来季の建設費は一割落とせます」


 「教育費は落とさないでください」北里が被せる。

 「医師と教師は、時間をかけてしか育たない。ここを痩せさせると、三年後に国家の筋肉が落ちる」


 「落とさぬ」藤村は静かに断じた。

 「むしろ増やす。ただし、施設より人を。石より師を買う」


 窓外で、雲が一枚厚みを増す。部屋の光がわずかに鈍り、紙の白さが沈む。誰もが、その翳りを“時間”の重みとして受け取った。


 やがて大久保が、議論に楔を打つ。

 「政策とは“選ばない勇気”でもある。いま選ばぬものを列挙し、記録に残そう。後世、なぜ延ばさなかったのかを説明できるように」


 陸奥は頷き、短冊のようなメモに走り書きする。

 「アフリカ進出――凍結。南米の官製拡大――見送り。欧州の軍事技術交渉――除外のまま。新規の海外植民――当面ゼロ。――代わりに、人材・研究・言論、この三つに資金と意志を集中」


 最後に藤村が口を開く。

 「数字は乾いているが、背後に息づくのは人の暮らしだ。――この小暑、我々は“伸ばす”より“持たせる”を選ぶ。持たせた上で、秋にまた伸ばす。季節に倣って、国を運ぶ」


 その言葉に、室内の誰もが小さく頷いた。氷盆の水位は、目に見えぬほどだが確かに上がっている。

 夏は長い。だが、長い夏を越えた年の実りが豊かなことを、彼らは知っていた。

江戸城内の教育評価会議。

 蝉の声が障子越しに響き、夏の重い空気が室内にたまっている。義信は軍服の襟元を正し、姿勢を崩さずに座っていたが、その頬には疲労の影が見えていた。


 大村益次郎が報告書を机に置き、低く告げた。

 「義信殿への負担は、十三歳の少年としては過大です。各地の防衛線の報告書は、ほとんど義信殿の承認印が押されている。これは異例です」


 藤村は黙って頷いた。父として、総理として、二重の重みを抱えているのが見て取れる。

 義信は口を開いた。「父上、私はやれます。ですが……時々、決断が胸を押し潰すように重いのです。どの兵を動かせば、どの村が守られ、どの村が犠牲になるか……」


 部屋の空気が一瞬止まった。若い声にしては重すぎる告白だった。大村は静かに頷く。

 「だからこそ、参謀たちにもっと任せなさい。戦場は一人で背負うものではない」


 久信も同席していた。外交の象徴として、ヨーロッパ歴訪から戻ったばかりだ。

 「兄上、僕も同じです。各国で大人たちと話すたびに、僕の言葉がどれだけ軽く見られているか痛感しました。子供だからという理由で、門前払いされたこともありました」


 陸奥宗光が穏やかに補足する。

 「久信殿の才能は確かに非凡です。しかし、外交とは言葉だけではなく、時間と経験で築かれる信頼が必要です。君が十二歳である事実を、我々は忘れてはならない」


 義親は黙って兄たちを見つめていた。まだ六歳の彼は、研究室での発明に没頭する日々を送っているが、最近は視線が少し遠くなったと北里柴三郎が報告している。

 「義親様は、遊ぶ時間を削って研究に没頭されています。このままでは、子供らしい感性を失いかねません。科学者として育てる前に、人としての成長を大切にすべきです」


 藤村は深く息を吐き、三人の息子を見回した。

 「お前たちはまだ若い。だが、この国はお前たちを必要としている。だからこそ、今は“背負い方”を学ぶ時期だ」


 義信が立ち上がり、力強く答える。

 「はい、父上。私はもっと人を信じ、分担します」


 久信も続いた。

 「僕は、時間をかけて友を作ります。急がず、しかし諦めずに」


 義親は小さな声で言った。

 「僕、もっと外で遊ぶ。海も見たい。そしたら、もっといい発明できるかも」


 その言葉に室内の大人たちは微笑んだ。重い会議の空気が、少しだけ和らいだ。


 この日、三兄弟の背中からは、少しずつ過剰な荷が下ろされ、代わりに未来への柔らかな責任感が芽生えていった。藤村は心の中で誓った。――この子たちが潰れてしまわぬよう、国の舵を取るのはまだ自分の役目だと。

政策優先順位決定会議は、重苦しい沈黙から始まった。障子の外では真夏の蝉が一斉に鳴いているが、室内は冷えた空気に満ちていた。藤村はゆっくりと腰を上げ、閣僚たちの視線を一身に受ける。


 「……皆の意見は分かった。だが、我々はもう夢だけで国を動かすことはできない」


 会議室がさらに静まる。藤村は一枚の分厚い資料を机に広げ、そこに記された数字を指で押さえた。

 「財政は限界に近い。人材も、これ以上分散させれば質を維持できなくなる。今こそ、優先順位を定めねばならぬ」


 慶篤が頷き、補足する。「拡張は夢だ。しかし、夢は現実に基盤を置かなければならない。既存地域を守り、充実させることが先だ」


 反論が飛ぶ。軍人の一人が声を上げた。「しかし、今こそ好機です!欧米が手一杯の今、アフリカ・南米への進出を加速すれば……」


 藤村は手を挙げて制した。

 「進出は凍結する。当面は研究と情報収集のみ。満州、朝鮮、台湾、琉球、北海道――我々が既に築いたものを守り、完成させることが先だ」


 室内に重い息が漏れた。だが、誰も異議を唱えなかった。藤村の声には迷いがなかったからだ。


 義信は父の横顔を見つめ、胸の内で何かがほどけるのを感じていた。無理に前線を押し広げるのではなく、守りを固める――それは彼自身が望んでいた判断でもあった。

 久信は小さく息を吐いた。「これなら僕の外交も、無理のない範囲で続けられる……」


 国民への政策説明会は、江戸城大広間で行われた。藤村は壇上に立ち、集まった官僚や記者、各地域代表を前に深く一礼した。

 「諸君。日本は今、大きな岐路に立っている。これまでの拡張は成功した。だが、これ以上は無理だ。今は充実の時である」


 会場がざわめいたが、藤村は言葉を続けた。

 「我々はまず、今ある土地を、今いる人々を幸せにする。それが国力を強め、次の一歩を踏み出す土台となる。焦る必要はない。未来は我々の手の中にある」


 拍手が湧き上がる。最初は控えめだったが、次第に大きくなり、会場全体に広がった。


 その夜、藤村は執務室に戻り、窓から夏の夜空を見上げた。蝉の声は遠ざかり、代わりに虫の音が聞こえる。

 「理想を追い続けるためには、現実を受け入れねばならぬ……」


 小さく呟くと、肩の力が抜けた。明治十三年の小暑、日本政府はついに“無限の拡張”という夢から覚め、持続可能な発展への道を選んだ。閣僚たちの心は一つとなり、国の舵は安定へと切られたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ