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283話:(1880年7月/芒種)芒種の限定的協調

ロンドンの空は薄曇りで、テムズ川の水面が淡く光っていた。芒種の風は冷たさと湿気を含み、馬車の車輪が石畳を静かに軋ませて進む。沿道には市民や新聞記者、そして野次馬が立ち並び、誰もがこの「東洋の賓客」を一目見ようと背伸びしていた。


 「Look! That’s the Japanese Prime Minister’s carriage.(見ろ、日本の総理大臣の馬車だ)」

 「So young, yet they say he changed the whole of Asia in just two years.(あんな若いのに、わずか二年でアジア全体を変えたそうだ)」


 耳に入る英語のざわめきに、大久保利通は口ひげを整えながら低く呟いた。

 「歓迎半分、警戒半分といったところか……予想どおりだな」


 藤村は窓の外を見やり、ゆっくりと頷いた。

 「半分でも歓迎があるなら進める道はある。残りの半分は言葉と誠意で埋めるまでだ」


 馬車が外務省の前に到着すると、濡れた石畳を踏む音が止み、扉が開かれた。出迎えた英国外務次官が礼儀正しく帽子を取り、英語で告げた。

 「Prime Minister Fujimura, welcome to London. The Foreign Secretary is waiting for you inside.(藤村総理、ようこそロンドンへ。外務大臣がお待ちです)」


 会議室の扉が重々しく開かれた瞬間、楢の木の香りが漂い、十数名の議員たちが一斉に視線を向けた。保守党の老政治家が杖の銀頭を軽く叩き、静寂を促す。


 「Gentlemen, we are here to decide whether Britain shall truly cooperate with Japan or not.(諸君、我々は英国が本当に日本と協力すべきかどうかを決めるために集まった)」


 まず保守派議員が声を張り上げた。

 「日本との協力は大英帝国の威信を損なう! 植民地統治への干渉など許されるはずがない」


 会場がざわめく中、自由党の若手議員が立ち上がった。

 「Gentlemen, times are changing. Japan has shown the world that a different model of governance is possible. We must learn, not resist.

(諸君、時代は変わりつつある。日本は異なる統治モデルが可能だと世界に示した。我々は抵抗するのではなく、学ぶべきだ)」


 藤村は静かに立ち上がり、英国議員たちを見渡した。

 「We are not here to challenge Britain’s honor. We are here to build a future where power is not maintained by fear, but by trust.

(我々は英国の名誉に挑戦しに来たのではない。恐怖ではなく信頼で維持される未来を築くために来たのです)」


 彼の落ち着いた声は、冷たい空気をわずかに和らげた。保守党の一部議員が眉をひそめる一方、自由党の議員たちは静かにうなずいた。


 会談後、ロンドン・タイムズの記者が近づき、英語で尋ねた。

 「Prime Minister, do you believe Britain and Japan can be equals in diplomacy?

(総理、英国と日本は外交で対等になれるとお考えですか?)」


 藤村は微笑んで答えた。

 「Equality is not given. It is built — step by step, through understanding and respect.

(対等は与えられるものではない。理解と尊重を積み重ねることで築かれるものです)」


 その言葉は翌朝の新聞の見出しとなり、ロンドン市民の間で小さな議論を呼んだ。


 翌日、藤村はパリに向かった。エリゼ宮殿で待ち構えていたのは、文化人や政府高官たち。サロンでは日本美術に心酔する画家が興奮気味に声を上げた。

 「La composition japonaise est la poésie même!(日本の構図は詩そのものだ!)」

 一方、反日派の学者が鼻で笑う。

 「C’est une imitation. Ils copient l’Europe et prétendent être originaux.

(あれは模倣だ。ヨーロッパを真似しておいて、独創的だと主張している)」


 文化人たちの議論が続く中、藤村はフランス語でゆっくりと語りかけた。

 「Nous ne voulons pas copier. Nous voulons créer une nouvelle harmonie entre l’Orient et l’Occident.

(我々は模倣したいのではない。東洋と西洋の新しい調和を創りたいのです)」


 その一言で場が静まり、数名の若手詩人が目を輝かせた。

パリに到着した藤村一行を迎えたのは、雨上がりの石畳と、香水と新聞インクの混じった独特の匂いだった。馬車がエリゼ宮殿に入ると、ジャーナリストたちがペンとノートを握りしめて群がった。


 「Monsieur le Premier Ministre japonais! Que pensez-vous de l’avenir de l’Europe?

(日本の総理大臣!ヨーロッパの未来をどう見ますか?)」


 藤村は小さく一礼し、通訳を介さずにフランス語で答えた。

 「L’avenir de l’Europe dépendra de sa capacité à accepter la diversité, pas seulement en Europe mais dans le monde entier.

(ヨーロッパの未来は、多様性を受け入れる力にかかっています。それはヨーロッパ内だけでなく、世界全体においてです)」


 その落ち着いた声に記者たちがざわめき、メモを取る手が一斉に走った。


 夜、宮殿のサロンでは文化人や政治家が集まり、ワインを片手に議論が始まった。


 「La gravure japonaise a révolutionné notre art.(日本の版画は我々の美術を革命した)」と、親日派の画家が熱弁する。


 だが反日派の哲学者が眉をひそめて言い返した。

 「C’est un mirage oriental. Derrière cette beauté, il n’y a pas de véritable philosophie.

(あれは東洋の蜃気楼にすぎない。その美の背後に本物の哲学はない)」


 空気が張りつめた中、藤村は一歩前に出て静かに口を開いた。

 「La philosophie n’est pas seulement dans les livres. Elle est dans la manière dont un peuple vit.

(哲学は書物の中だけにあるものではない。民がどう生きるか、その在り方そのものにあるのです)」


 沈黙のあと、若い詩人が感嘆の声を漏らした。

 「C’est… une pensée nouvelle.(それは……新しい考え方だ)」


 場の空気が少し和らぎ、数人の知識人が藤村の周囲に集まり、より具体的な質問を投げかけた。


 「日本ではどうやって多民族を統治しているのですか?」

 「Vous partagez vraiment le pouvoir avec les locaux?(本当に現地住民と権力を分け合っているのですか?)」


 藤村は丁寧に答えた。

 「Yes. And we measure our success not by the taxes we collect, but by the happiness of the people.

(ええ。私たちは徴税額ではなく、人々の幸福度で統治の成果を測ります)」


 その一言が会場の雰囲気を決定的に変えた。芸術家たちは拍手を送り、政治家たちも顔を見合わせて頷きあった。


 しかし、植民地省の代表だけは冷ややかな視線を送り、低く呟いた。

 「If we follow Japan, our colonies will demand the same. That would be chaos.

(日本を見習えば、我々の植民地も同じ要求をするだろう。それは混乱を招く)」


 その言葉が示す通り、理解は進んでも、抵抗は消えていなかった。

ベルリンの空は、重厚な雲に覆われていた。帝国宮殿の中庭には整然と兵士が並び、武骨な軍靴の音が石畳に響いている。藤村と義信は、緊張を隠さぬ面持ちで宮殿に足を踏み入れた。


 玉座の間は荘厳で、天井からは巨大なシャンデリアが輝き、赤と金の絨毯が敷かれている。ドイツ皇帝が姿を現すと、場の空気がさらに張り詰めた。


 藤村は一歩前へ進み、静かに深い礼をした。

 「Eure Majestät, es ist mir eine große Ehre, Sie zu treffen.

(陛下、お目にかかれて光栄です)」


 その場にいた将官たちがざわめいた。日本の政治家が、これほど流暢なドイツ語を話すとは予想していなかったのだろう。皇帝はわずかに驚いたような表情を見せ、次の瞬間、愉快そうに笑みを浮かべた。


 「Ah, Sie sprechen Deutsch? Das macht die Verhandlung einfacher.

(おや、ドイツ語を? 交渉が楽になるな)」


 その一言で、場の緊張がわずかにほぐれた。以降の会話はドイツ語で進められ、通訳を介することなく、藤村は堂々と自らの言葉で理念を語りはじめた。


 「Wir streben nicht nach Expansion, sondern nach einer friedlichen Zusammenarbeit.

(我々は拡張を望むのではなく、平和的協力を望んでいます)」


 皇帝は頷き、軍部の将軍たちも真剣に耳を傾ける。


 義信が前に出て、ヨーロッパ地図を広げ、満州から朝鮮、台湾までの統治状況を説明する。軍事行動の記録、治安維持の仕組み、住民の支持率データを冷静に示すその姿に、軍部の将校たちは驚嘆の表情を浮かべた。


 藤村はそれに合わせ、ドイツ語で丁寧に補足する。

 「Unsere Politik zielt darauf ab, die Stabilität zu sichern, nicht, Konflikte zu provozieren.

(我々の政策は、安定を確保することを目的としており、対立を引き起こすものではありません)」


 軍部のひとりが挑発的に尋ねた。

 「Aber was, wenn Russland euch erneut bedroht?

(だが、もしロシアが再び脅威となったらどうするのだ?)」


 藤村は一瞬も躊躇せず答えた。

 「Dann werden wir unsere Verteidigung stärken, ohne unnötige Aggression zu zeigen.

(そのときは防衛を強化するが、無用な侵略は行わない)」


 その毅然とした態度に、場にいたドイツ軍部の一部は表情を引き締めた。


 皇帝は深くため息をつき、静かに言葉を発した。

 「Ihr Japaner habt einen bemerkenswerten Weg eingeschlagen. Vielleicht ist es an der Zeit, dass auch Europa von euch lernt.

(日本は驚くべき道を歩んでいる。もしかすると、ヨーロッパも学ぶべき時が来ているのかもしれない)」


 その瞬間、会議室の空気が決定的に変わった。軍部の強硬派も完全な拒絶姿勢を崩し、議論は協力の条件へと移った。


 義信は、13歳とは思えぬ冷静さで軍事技術の提供範囲や情報共有のルールを整理し、提案を行った。ドイツ軍部はその的確さに舌を巻き、次第に警戒よりも興味の色を濃くしていった。


 会談の最後、皇帝は藤村に手を差し伸べた。

 「Möge dies der Anfang einer neuen Ära der Zusammenarbeit sein.

(これが新しい協力の時代の始まりとなることを願う)」


 藤村はその手をしっかりと握り返し、深く一礼した。

 「Ja, Eure Majestät. Für den Frieden und für die Zukunft.

(はい、陛下。平和と未来のために)」


 こうしてベルリンでの協議は、緊張の中にも確かな前進を刻んで幕を閉じた。

ベルリンでの皇帝との会談を終えた翌日、藤村はイギリス・フランス・ドイツ三国の外相を招いた特別協議に臨んだ。場所は帝国宮殿の奥にある白亜の会議室。大理石の床が冷たく光り、壁にはドイツの名将たちの肖像画が並んでいる。


 テーブルの中央には、まだ何も記されていない協定草案が置かれていた。イギリス外相が開口一番、冷ややかに切り出した。

 「We will cooperate, but our colonies are off-limits.

(協力はするが、我々の植民地には手を出さないことだ)」


 藤村は微動だにせず、その言葉を受け止めた。

 「Verstanden. Japan respektiert Ihre kolonialen Interessen.

(承知しました。我が国は貴国の植民地利益を尊重します)」


 フランス外相が椅子に深く腰かけ、少し挑発的な笑みを浮かべる。

 「Mais, Monsieur Fujimura, vos progrès en Asie inquiètent Paris.

(しかし藤村閣下、貴国のアジアでの進展はパリを不安にさせます)」


 藤村は落ち着いた声で答えた。

 「Nos progrès ne sont pas une menace, mais une nouvelle voie pour la paix.

(我々の進展は脅威ではなく、平和への新しい道なのです)」


 静寂が流れる。通訳は不要だった。フランス語もドイツ語も自在に操る藤村の語り口が、場の空気を次第に変えていった。


 義信が横から地図と統計資料を広げ、満州・朝鮮・台湾での生活水準の上昇を説明する。

 「これは占領ではありません。全ての地域で住民の支持率は90%以上を維持しています。暴動も飢饉もなく、教育と医療は欧州諸国に匹敵、あるいは上回ります」


 ドイツ外相は眉をひそめたが、その眼差しには好奇心も混じっていた。

 「Das ist bemerkenswert… Wenn das stimmt, könnte man wirklich etwas von Japan lernen.

(これは驚くべきことだ…もし事実なら、日本から学べることがあるかもしれない)」


 協議は数時間に及んだ。ときに激しい応酬となり、ときに沈黙の中で条件を詰めていく。


 夕暮れ、ついに妥協点が見えた。

 技術協力は軍事分野を除外し、医療・通信・交通など非軍事分野に限定。文化交流は積極的に進め、学術使節の相互派遣を認める。経済協力は関税の段階的引き下げに留め、アフリカ・インドシナでの日本活動は制限付きで承認。


 「では、この条件で署名しよう」イギリス外相がペンを取った。フランス外相も肩をすくめながら同意し、ドイツ外相が最後に署名した。


 藤村は立ち上がり、静かに一礼した。

 「本日、我々は敵対関係から一歩前進しました。これは完全な協力ではありません。しかし、未来に向けた橋を築く第一歩です」


 その場にいた誰もが、歴史の転換点に立ち会っていることを悟った。


 協定署名後、藤村は宮殿のバルコニーに出て、夜のベルリンを見下ろした。街灯が石畳を照らし、遠くから馬車の車輪の音が響く。隣に立った陸奥宗光が、安堵の息をついた。

 「藤村様、完璧ではありませんが、これ以上は望めない成果です」


 藤村は静かに頷いた。

 「外交とは、魔法ではない。小さな一歩の積み重ねが、やがて道となる。今日の一歩が、未来の道を開くのだ」


 義信がバルコニーの手すりにもたれかかり、少し大人びた表情で夜空を見上げた。

 「僕たちは戦争せずに勝ったんですね」


 藤村は微笑んだ。

 「そうだ、義信。真の勝利は、血を流さずに得るものだ」


 ベルリンの夜風が、三人の頬を優しく撫でた。

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