282話:(1880年6月/小満)小満の南米挫折
小満の雨が過ぎ、外務省の庭の梧桐に水の玉が残っていた。湿りを含んだ風が廊下を通り抜け、紙とインクの匂いに土の香りを少し混ぜる。南米担当部の会議室では、地図と海図と新聞の切り抜きが机を覆い、薄紙の電報が束になって重しに挟まれていた。
陸奥宗光は椅子の背にもたれず、前のめりに紙の端を指で押さえた。読み上げる声は低いが、ところどころに硬い節が混じる。
「サンパウロ、移民第一陣より。――“約した賃金は支払われず、住居は家畜小屋同然”。“黄色い猿”と呼ばれ、子供が道で石を投げられた。契約の文言は弁解で上塗りされ、仲介人は『慣例だ』と言う。……リオの総領事は“新聞に反日記事が続き、入国制限の議論が始まった”と」
紙の束をもう一つめくる。
「ブエノスアイレス。政権交代。親日派は失脚し、欧州と組む政権が成立。英仏から“対日協力の中止を”と要請。既存の契約は欧州企業を優先、軍事的協力も欧州と。――そして、『アジア人は劣等』という見出しが外電で踊る」
部屋の隅で、地図に押しピンを打っていた若い書記官が手を止めた。ピンの頭が指に食い込む。陸奥は指先の力を少し抜き、紙の端を撫でた。
「南米は“遠い海の後背地”ではない。欧州の利権が血管のように通い、新聞が呼吸を整え、港が脈を打っている。そこへ我々が足を入れれば、すぐに熱が上がる」
扉が小さく鳴り、藤村が入ってきた。静養を終えてしばらくの藤村は、以前より痩せたが、目の奥の光はむしろ澄んでいる。陸奥は立ち上がり、短く礼をした。
「総理。――南米も、容易ではありません」
藤村は黙って椅子に腰を下ろし、卓上の地図に目を落とした。ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ。港の名を結ぶ線の間に、新聞の切り抜きがいくつも挟まっている。『労働市場の攪乱』『東方人の流入は不安定を招く』『欧州の秩序を守れ』。活字の棘が紙面から立ち上がるようだ。
「……彼らは、我々の歩みを“手段”ではなく“脅威”として読む」
陸奥は頷き、別の束を差し出した。移民からの手紙が綴じられている。震える字で、しかし整っている。
『こんなはずではありませんでした。けれど、祖国の名を傷つけたくありません。日曜日に集まって勉強を始めました。言葉が分かれば、きっと――』
『教会の裏庭で、葡萄の剪定を教えました。家主が驚いて、明日も来いと言いました。少しずつですが、分かってくれる人もいます』
藤村はその一枚一枚を指でなぞり、息を吐いた。窓の外で、雨に濡れた葉が光る。
「南米は、刀で切り込む場所ではない。――人の間に入るには、時間が要る」
そこへ、大久保利通が歩み寄り、地図の空白に指を置いた。
「欧州は南で網を張り、我々の名を閉め出そうとしている。正面から槍を構えれば、槍の穂先は我々に向きを変える。慎重に、です。足を出すより先に、目と耳と舌を育てねばならん」
陸奥は頷き、方針の覚え書きを読み上げた。
「まずは情報の層を厚くする。在外商人、宣教師、港湾の労務者、新聞社――誰がどう見ているか、線ではなく面で取る。現地の法律、契約書の書式、港の慣習、賃金の相場、教会の暦。紙の上で現地に立つ」
藤村は窓の方を一度見て、言葉を継いだ。
「政府の旗は、今は掲げない。――掲げるのは人の旗だ。移民が“約束以上”の仕事をし、言葉を学び、技術を惜しまず教え、病に薬を差し出す。政府はその背を支え、傷を負えば手当てをし、子どもに学校を開く」
陸奥がうなずいて、紙をひらりとめくる。
「領事館の機能を強めます。法的相談、労働契約の仲裁、緊急時の避難、物資と資金の定期支援。日本語学校の設立支援、夜学の教員派遣。医療班の巡回。――撤退はしない。拡張も急がない。居続ける」
机の端に置かれた小さな手紙に、藤村の視線が止まった。封筒の差出人はサンパウロの教会の神父だ。『日本人は礼儀正しく、誠実です。彼らを“邪魔者”と呼ぶ声もありますが、彼らの子が読み書きを覚えるのを見れば、偏見は薄れます』。短い文の中に、現地で芽吹き始めた小さな理解が確かにあった。
「――久信を行かせたいが、今は子を政治の盾にしてはならぬな」
藤村は自らに言い聞かせるように呟いた。陸奥は静かに頷く。
「彼の笑顔は大人を和らげます。だが、南米の空気はまだ固い。今は紙と人で、少しずつ温めましょう」
夕刻、会議が解散すると、陸奥は自室に戻って電報文の草稿を整えた。ブエノスアイレスへ――『政権交代を承知。友誼を重んじ、既存秩序を尊重。医療・教育・小規模経済協力に限り、共同の可能性を探る』。サンパウロへ――『移民の安全確保と契約遵守の要請。物資支援の定期便を手配。夜学教員派遣の準備中』。調子は柔らかく、芯はぶれない。
その夜遅く、藤村は官邸の廊下を一人歩いた。窓に映る夜の庭は黒々として、どこか南の海を思わせる深さがあった。彼は足を止め、月を仰いだ。
「外交に魔法はない。――地道な手当てと、長い呼吸だ」
小満の雨はいつの間にか止み、濡れた石畳に月の輪が落ちていた。遠い大陸へ今すぐ橋は架からない。だが、橋脚の一本目を打つ手は、確かに動き始めている。明日も電報は往復し、教員は船に乗り、薬箱は港を出る。結果を焦らぬと決めた国だけが見える景色が、ゆっくりと広がりつつあった。
六月、サンパウロの空は白い陽で焼け、道路の赤土は靴底に張りついた。移民第一陣が降り立った駅の構内には、ポルトガル語の叫び声と汽笛と汗の匂いが渦を巻き、案内板の矢印だけが冷ややかに南へ北へと人波を裁いていた。約束の「広い家」と「正当賃金」を思い描いていた男が、荷を肩に担いだまま茫然と立ち尽くす。雇い主の使いは早口で紙を差し出した。「契約の変更だ。賃金は収穫後、住まいは旧牛小屋、家族は別棟」。思わず抗議の声を上げると、周囲の視線が集まり、誰かが吐き捨てる。「マカコ・アマレロ(黄色い猿)」。子どもが真似をして石を投げ、女は鼻で笑った。
リオの日本総領事は、汗に滲む報告書に震えない字で記した。〈移民への偏見は想像以上に深刻。労働条件は詐欺に近く、賃金未払いも常態。住居は家畜小屋同然、衛生設備なし。言語の壁は厚く、雇い主は通訳を拒み、“理解不足は当人の責。”と〉。届いた一通の手紙には、声がそのまま乗っていた。「こんなはずではなかった。けれど祖国の名を傷つけたくない。日曜ごとに集まり、言葉を学び、互いに助け合っている。いつか“ようこそ”と言われるまで」
サンパウロ郊外の大農場。朝焼けの畝に人影が列を作る。日本から来た若者は、約束された賃金の半分も手渡されず、畑の端の小屋に妻子を押し込まれた。壁には穴が空き、床には藁。雨の夜、藁は湿り、藁の下で虫が動いた。夜更け、同じ小屋にいる老人が、懐から折り畳んだ紙を取り出して見せる。「ここに書いた字を読みたい。お前は読めるのか」。少年はゆっくり頷き、指で文字をなぞる。「日本の学校で習ったのだ」と誇らしげに言うと、老人の目に光が宿った。翌週、彼は畑の合間に読み書きを教え始めた。最初は二人、次の週には四人、やがて十人。農場主は眉をひそめ、「仕事の邪魔だ」と怒鳴ったが、老人は口の端で笑った。「字は畝を曲げない」。
別の農場では、葡萄棚の前で言い争いが起きていた。蔓の剪定をめぐって「切るな」「切れ」と両者譲らず、日本人の男が「この角度で切れば実が甘くなる」と身振りで示す。翌月、房は約束通り甘くなり、家主は驚いて言った。「明日も来い」。新聞は別紙で「東方人、葡萄を盗む」と書きたてたが、村の教会は彼らを裏庭に招き、子どもたちに読み書きを教える時間を与えた。そこに貼られた一枚の掲示に、小さな変化が忍び込む。「日本人の集い、毎週日曜午後。参加自由」。
妨害は露骨だった。既存の農場主たちは議会に働きかけ、差別的な条例案を準備した――東方人の雇用制限、居住区の指定、夜間外出禁止。新聞は煽る。「安い労働力が治安を乱す」。夜道で暴力的な追い出しが起き、破られた戸の前で、女が泣きながら、散らばった本をかき集めた。男は黙って針金で蝶番を仮留めし、翌朝も畑へ出た。「負けて見せると、二度と上がれない」と、彼は誰にも聞こえない声で言った。
陸奥には、血の跡の付いた電報が届いた。〈暴行被害。取り調べは遅く、犯人は釈放。新聞は沈黙〉。彼は机に広げた地図の上、サンパウロの横に赤い点を小さく打つ。怒りを文字に変えることは容易い。だが、外交の言葉は、怒りの熱を一滴ずつ冷ましてから書かねばならない。
言葉の壁は予想以上だった。ポルトガル語の語尾の曲がり方、耳に残る鼻母音、早口の命令。現地語の教本は少なく、教える者は偏見に怯え、教わる者は疲労にまぶたを重くした。それでも、日曜の午後、教会の裏庭で黒板にチョークが走る。「a…e…i…。ありがとう」「おはよう」。声が重なり、笑いが生まれる。手に棘を刺したまま、子どもが母の膝の上で眠り、母は黒板の字を目に焼き付ける。
新聞は反日を続けながらも、片隅に小さな記事を載せるようになった。「日本人、村の井戸を清掃」「日本人、無料で傷の手当て」「日本人の童謡、子どもらに人気」。そこに寄せられた短い手紙。「彼らは礼儀正しく、親切だ。うちの畑は昨年よりよく育った」。議会では、すべてが敵ではなかった。若い議員が一人、議場で立って言った。「怠惰な者が外国人を罵るのは、我が国の恥だ」。翌日、彼は新聞で嘲笑された。けれど、その記事の切り抜きは移民の掲示板に貼られ、破られるたびに誰かがまた貼った。
リオの総領事館には、人々が列を作った。賃金未払いの仲裁、契約の読み合わせ、怪我の手当て、故郷への手紙の書き方。領事は椅子から立ち上がり、ひとりひとりの手を握る。「我々はここにいる。あなた方を見捨てない」。倉庫からは粉と油、薬箱が運び出され、夜学の教員が船で着いた。教員は「明日から」と笑い、翌朝声が枯れた。教えたい子どもが多すぎたのだ。
ブラジルの既得利権層は苛立ち、アルゼンチンの政権は距離を置いた。欧州の新聞は「日本の夢は南米の現実に砕かれる」と嘲った。陸奥はその見出しを静かに切り取り、裏に「焦らず、居続ける」と書いて綴じた。電報には、政府の支援策が次々と打たれた。領事館機能の増強、定期便による物資と資金の送付、日本語学校の設立支援、医療チームの巡回、移民子弟の本国留学制度。大きな旗ではなく、小さな灯火をいくつもともすやり方だった。
夕暮れ、サンパウロの郊外で、畑の端に人が集まった。日本の歌を現地語に訳した歌を、現地の子どもと移民の子どもが一緒に歌う。農場主が遠くからそれを見ていた。腕組みは解けない。だが、彼の家の食卓に今夜並ぶ葡萄の甘さを思えば、唇の端にほんの僅かな線が刻まれるかもしれない。
「こんなはずではなかった」と書いた男が、夜の机に向かってペンを取った。二枚目の手紙の最後は、違う言葉で終わっている。「祖国の名誉のために、耐えます」ではなく、「子どもたちの明日のために、耕します」。小満の雨は上がり、土は重い。それでも鋤の先は確かに進む。遠い外務省の机で陸奥がその紙に触れると、指先にわずかな温度が移った。
六月の陽射しが強まるころ、南米各地の日本人コミュニティは、政府が期待した以上に苦しい現実に直面していた。サンパウロでは、労働契約を反故にされた移民たちが、それでも日曜ごとに広場に集まって読み書きの勉強を続けていた。畑仕事でひび割れた手で鉛筆を握り、薄い紙に拙いポルトガル語の文字をなぞる。子どもたちがその横で「おはよう」「ボン・ジーア」と互いに声を掛け合い、笑い合う光景は、周囲の冷たい視線の中でも小さな灯火のように輝いていた。
「政府が助けてくれなくても、我々はここで生き抜く」――移民の一人がそう口にした。その言葉は仲間たちの胸に深く響き、互いを支える誓いとなった。中には、農場主に隠れて現地の貧しい家族に食べ物を分け与える者もいた。差別と搾取に晒されても、彼らは「誠実に働くことで理解を得る」という道を選んだのである。
アルゼンチンでも事情は似ていた。ブエノスアイレスの街角で、日本人の若者が現地の子供に折り鶴を折って見せると、人々は不思議そうに集まってきた。最初は冷ややかだった視線も、やがて子供たちが紙を真似て折り始めると柔らかな笑みに変わった。文化の壁を越えるのは外交の演説ではなく、日常の些細な交流だった。
だがその一方で、新聞は依然として「アジア人は劣等」という見出しを掲げ、農場主たちは議会に働きかけて入国制限を強化しようとした。移民たちはその記事を破っては掲示板に「我らは諦めない」と墨で大書した。紙が破かれれば、翌日には別の誰かがまた貼った。
久信が南米を訪れた時、彼は外交の場でほとんど相手にされなかった。十二歳の少年を「子供の遊び」と見なす政治家たちに失望しつつも、彼は街中で移民と共に汗を流し、現地の人々と直接語り合った。年齢ゆえに軽視されたが、その誠実な態度は移民たちに勇気を与え、「政府も私たちを見ている」との実感につながった。
夜、移民リーダーたちはランプの明かりの下で話し合った。
「政府の外交が通じぬなら、我々が地道に信頼を積み上げよう」
その決意は静かだが強く、翌朝からの行動に変わった。葡萄棚を整え、現地の病人を無料で手当てし、子供たちに読み書きを教える。やがて教会の神父が「日本人は誠実だ」と説教に挙げ、新聞の片隅に小さな肯定的記事が載るようになった。
南米での道は、決して平坦ではなかった。だが、政府の大使館や領事館よりも、畑で汗を流す一人ひとりの日本人の姿こそが、本当の外交官だった。彼らの草の根の努力が、ゆっくりと、しかし確かに南米の人々の心に刻まれ始めていた。
東京の外務省。厚いカーテンを透かして夏の光が差し込み、机の上に積み重なった電報用紙を淡く照らしていた。陸奥宗光は眉間に深い皺を刻み、南米から届いた最新の報告に目を走らせていた。
〈サンパウロ、農場主による雇用妨害続く。新聞は反日記事を連日掲載。入国制限を求める声が議会で強まる〉
〈リオ、移民が暴行を受け、領事館へ避難。警察の動き鈍く、犯人は釈放〉
〈ブエノスアイレス、政権交代により親日派失脚。英仏の圧力強し〉
陸奥は紙を机に置き、深いため息を吐いた。室内の空気が重く、誰もが言葉を失っていた。
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ようやく、長老格の官僚が口を開いた。
「……南米政策は見直すべきではありませんか。アジアでさえ多くの課題を抱えている今、遠く離れた大陸に資源を割く余裕はない。移民を守ることは大切ですが、撤退こそ現実的でしょう」
すぐに別の若手官僚が立ち上がった。
「いいえ! ここで撤退すれば、南米に送られた移民たちの努力を踏みにじることになります。彼らは日本の名誉を背負い、差別や搾取に耐えて必死に働いているのです。政府が見放せば、彼らは孤立し、絶望するでしょう」
会議室がざわめき、撤退論と継続論が激しくぶつかった。誰もが机を叩き、声を荒げた。
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陸奥はしばらく沈黙していたが、やがて静かに口を開いた。
「……撤退も拡張も、どちらも極端だ。必要なのは“支え続ける”ことだ」
皆が彼を見つめる。陸奥は言葉を選びながら続けた。
「短期的に成果を求めても無駄だ。欧州の利権は強固で、政治は常に揺れ動く。だが、地道な努力を続ければ、十年後、二十年後には必ず変化が訪れる。……我々は南米を征服するのではない。寄り添うのだ」
会議室は静まり返り、紙をめくる音さえ止んだ。
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陸奥は机の端に積まれた封筒を取り上げ、中身を広げた。そこにはサンパウロの移民代表からの手紙があった。
『政府の支援に感謝します。粉や薬が届き、子どもたちが救われました。必ず日本の名誉を守ります。』
手紙を読み上げると、沈黙していた官僚たちの表情が次第に和らいでいった。
「撤退すれば、この声を裏切ることになる」
陸奥はそう断じた。
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その後、藤村の元へ報告が届いた。首相官邸の執務室で、藤村は陸奥の覚え書きを受け取り、黙って目を通した。長い静寂の後、彼は深く頷き、周囲の閣僚たちに向かって言った。
「南米でも、一朝一夕には成果は出ない。だが、移民たちが汗と誇りで築いている道を、我々が途切れさせてはならぬ。……大規模投資ではなく、小規模で確実な支援を。外交の場で大声を張るのではなく、民間交流と教育を中心に。短期の結果ではなく、長期の信頼を育てる。これが我らの南米戦略だ」
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その場にいた閣僚たちは黙って頷いた。誰もが理解していた――これは「挫折」ではあるが、同時に「成熟」でもある。世界に向けた拡張は現実の壁に阻まれる。しかし、地道な努力を続ければ必ず道は開ける。
窓の外では、六月の雨に濡れた庭の緑が、しっとりと輝いていた。小満の名にふさわしく、まだ不十分だが確かに芽吹き始めた未来。その未来を守るのは、大言壮語ではなく、地道な支援と忍耐なのだと、藤村も陸奥も深く理解していた。
こうして、日本は南米においても「拡張」から「持続」への転換を決定づけたのである。