281話:(1880年5月/立夏)立夏の現実的制約
立夏。
皇居のお堀は新緑を濃く映し、柳の若葉は風に揺れていた。けれど首相官邸の戦略会議室には、季節の明るさとは別の色が漂っていた。桜の名残が消えた机上には地図と報告書が重なり、薄紙の電報は端が擦れて柔らかくなっている。戻ってきた藤村は、静養明けの落ち着いた眼で一枚一枚を見ていった。
「――大久保、アフリカだ。構想を出したい」
向かいに座る大久保利通は、細い顎髭に指をあて、珍しく言葉を選んだ。
「総理。慎重に、でございます。欧米の既得権益は、我々が想像する以上に強固です。地図の色だけでは分からぬ“見えない線”が、岸にも市場にも、教会にも、官庁にも張り巡らされている」
藤村は頷き、卓上のアフリカ大陸の地図に手を置いた。港、内陸の隊商路、宣教師の派遣拠点――鉛筆で引かれた細い線は、みな欧州の母国へとつながっている。
情報担当官が束ねた報告を読み上げる。
「既存の貿易は欧州商人が独占。港湾の許認可、関税、倉庫、運送まで一体運用です。各植民地には駐留軍が張り付き、“安定”の名で威嚇を行使。地方の有力者は利益で縛られ、日本名の情報は遮断され、我々に接触した相手には外交圧力が直ちにかかります」
別の綴りには、文化と宗教の報告が挟まっていた。
「宗教的対立線が太く、我々の価値観は“異質”として強い疑念で見られます。言語は数百、通訳の育成も不十分。伝統医療との齟齬、外国人一般への警戒、部族間の複雑な関係……医療支援でさえ門前払いの例が多いのが実情です」
北里柴三郎が小さくため息をついた。
「薬を担いで行けば喜ばれると思っていましたが、そう簡単ではない。病を治す前に、心の壁を解かねば受け入れられません」
藤村は手元の筆を置き、窓の外の光を一度だけ確かめた。
「理想は変えぬ。だが、現実を見誤って無謀に足を踏み入れれば、これまでの積み上げを危うくする」
扉が軋み、大久保が席を正した。
「今の我が国はアジアで手一杯。資源を分散すれば、どこかが痩せます。欧米との関係は険しいが、ここで正面衝突を招けば、東京宣言から積み上げた信頼が崩れる。失敗すれば“夢想家の帝国”と嘲られるでしょう。財政負担、人材不足――いずれも致命傷になり得ます」
一方で、若い官僚の数名が前に身を乗り出した。
「しかし今こそ世界的影響力を広げる好機でもあります。北里の医学は必ず評価されますし、長期的資源確保と市場拡大の意義は大きい。日本独自の技術で現地に貢献できる余地はあります。義親様の発明のように、平和的な技術で扉を叩くべきでは」
会議室の空気がわずかに揺れた。理想と現実の境界線が、机上の地図の上に淡く浮かび上がる。藤村はその線を指でなで、はっきりと言った。
「今は時期尚早。足を踏み入れるのではなく、地図を読む。――まずは情報だ。港の規則、関税表、駐留軍の配置、現地の商慣習、宗教儀礼の暦、地方の権力構造……紙の上で“現地に立つ”。そして人を育てる。アフリカに精通した語学・宗教・医療・農業の専門家を、十年先を見て養成する」
大久保が短く同意し、続けて針路を重ねた。
「接触は間接で。欧州経由での医療資料の交換、学術会議での顔つなぎ。技術は先に研究する。気候、風土病、資材――“行けるようになった時”に備えて、製図を整える。政治的アプローチは“機会待ち”だ。相手の内部から扉が開く時が必ず来る。焦らず、しかし目を離さず」
北里はその場で手帳に研究項目を走り書いた。
「アフリカ風土病の理論研究、乾燥地・熱帯で使える簡易医療装備の試作、多言語の医療マニュアルの原型――現場に入れないなら、せめて準備だけは進めます。文化に配慮した手技を磨いておきます」
陸奥宗光が外務省の文案を提示した。
「欧米には『進出の意図はない。人道的関心のみ』――明確に表明する。同時に既存秩序の尊重、協調の継続、将来的な共同の可能性を匂わせる。警戒心を下げ、窓を閉じさせぬことが肝要です」
そこへ、侍従が淡色の布を掛けた文箱を運び込んだ。イギリス大使の申し入れである。
「日本のアフリカへの関心につき、深い懸念を表明する――」
陸奥が読み上げると、室内に冷ややかな笑いがいくつか漏れた。
「アフリカは既に文明化が進行中」「日本の介入は現地の安定を乱す」「医療支援も伝統を破壊する」――一枚一枚が牽制と威圧の言葉で埋め尽くされている。
陸奥は返書の草稿を用意していた。
「我が国に侵略の意図はなく、当面の進出計画もない。人道と学術の交流に留め、既存の秩序を尊重し、協調を続ける」
文面はどこまでも柔らかいが、内側には鋼が通っている。扉を無理にこじ開けず、閉ざされないように留めるための言葉だ。
会議は夕刻まで続き、最後に藤村は静かに総括した。
「理想は高く持つ。だが現実を受け入れねばならない。世界進出には想像以上の困難が伴い、欧米の権益は盤石だ。無謀な拡張はこれまでの成果を危険に晒す。今日学んだのは、段階と機会の重みだ」
大久保が短く言葉を添えた。
「当面はアジアの充実に全力を。アフリカは研究と人を蓄えつつ、招かれる日を待つ」
窓外では、若葉が夕陽に透けていた。立夏の光は柔らかく、しかし確かに次の季節を告げている。藤村は深く頷き、三兄弟に視線を移した。義信は地図の余白に小さな印を付け、久信は返書の言い回しを心の中で反芻し、義親は端の紙に見慣れぬ草の図を描いていた。
「焦らず、着実に」
藤村の言葉は、会議室の空気に静かに沈み、やがて参加者の胸の内で灯となった。立夏の風が障子を揺らし、紙の端をかすかに鳴らした。ここからの歩みは遅く、長い。だが、それが確かな道であることを誰もが理解していた。
情報収集室には、南の海の匂いがしない代わりに、紙とインクと古地図の匂いが満ちていた。壁一面に貼られたアフリカ大陸の地図には、港の名と関税率、隊商路と河川の浅瀬、伝道所と軍営の所在が色鉛筆で塗り分けられている。机の上に並ぶのは、在外商人の書簡、宣教師の報告抄、航海日誌の抜粋、そして欧州紙の切り抜き。情報担当官が一本の指で要点を辿るように読み上げた。
「沿岸の主要港は、入港許可から倉庫の鍵、運賃の相場まで、欧州商会が一体で押さえています。内陸の隊商路は現地の有力者と結び付き、税と護衛で利益を吸い上げる仕組みが出来ている。……どこを触っても、誰かの懐につながる仕掛けです」
紙の端に書き添えられた一文が目にとまる。「港で“日本”の二字を出しただけで、相場が三手分引き上げられた」。別の束には「我々の印刷物は岸で没収、教育書と称しても拒否」とある。陸奥宗光は眉を寄せ、静かに言った。
「情報の遮断が徹底している。我々に関する話は、現地に届かぬ。届くとすれば“歪められた形”だ」
地図の北側、砂漠の縁には小さな赤い点が連なっていた。イスラムの学舎と巡礼路を示す印だ。脇に細い字で「ウラマーの許可なく医療行為を行えば、信仰への侵犯とみなされる恐れ」とある。南の海沿いには十字の印。「教会の保護なしに学校は立てられぬ」。北里柴三郎は報告の束を閉じ、小さく首を振った。
「薬箱だけ持って行っても入り口に立てません。信の入口が別にある。……医は徳に従う、とここでも言い換えねばならない」
言語地図はさらに厄介だった。色とりどりの斑点が大陸一面に散っている。海沿いの数語を押さえても、内陸へ十里進めば別の音が支配する。通訳は誰を通して誰に届くのか――紙の上の矢印だけでは頼りない。大久保利通が、肩で息をするように短く言った。
「人が足りぬ。語学も、宗教も、慣習も。今、無理に進めば、こちらの言葉は“命令”にしか聞こえん。命令は、慣れた主のもののほうがまだ柔らかい」
さらに、部族間の関係図が広げられた。点と点が線で結ばれ、線はところどころで鋭角に折れ、別の線と絡み、矢印が派閥の方向を示す。情報担当官は指を置きながら続けた。
「我々が“善意”で手を差し伸べても、その善意がある部族の利になると、別の部族は敵意を抱く。医療も学校も、配り方を誤れば火種となります」
会議室の空気がわずかに冷えた。理想の光が、現実の凹凸で複雑な影を落とすのが誰の目にも見えたからだ。藤村はしばらく黙したあと、用箋に三つの語を書いた――「販路」「入口」「身の丈」。
「販路は欧州が握っている。正面から争えば資本で潰される。“入口”は宗教や伝統にある。我らが正しいと信じる方法でも、“心の門”が別にあるなら叩く場所から学ばねばならぬ。“身の丈”は我が国の現在だ。アジアで育てたものを痩せさせてまで足を伸ばすのは、愚かだ」
窓の外を、立夏の風が渡っていった。黙っていた渋沢栄一が、帳簿の指で机をトントンと叩いた。
「貿易は、海の上だけでなく信用の上に成り立ちます。今、欧州は我々の信用に泥を投げている。新しい市場を急いで求めるのではなく、我々の圏内の信用をこれまで以上に磨くべき時です」
紙束の末尾には、現地からの小さな声も挟まっていた。無記名の短い手紙が震える字で言う。「あなた方の話を聞きたいが、今は危ない。夜、祈りのあとならば、家の裏のバオバブの下で話せる」。もう一通は宣教師の裏書き。「日本の学校の話をしたら、村長は興味を示した。ただし、教会の同意が必要と言われ、話は止まった」。北里はその二通を丁寧に並べ直し、言った。
「門は閉じられている。けれど、節はある。そこに合わせて木目をなでれば、割らずに開くかもしれない」
部屋の隅で、義信と久信も息を詰めていた。義信は地図の余白に小さな丸を書き、そこへ「待」とだけ記した。久信は返書の文言を心の中で組み立てる。「侵略の意図はない」「人道の関心のみ」「秩序尊重」「協調継続」「将来の共同」。陸奥がそれを実際の文にしていく。
やや遅れて、在京の英国公使からの申し入れが届いた。丁寧な言葉で包んではあるが、「アフリカは既に文明化が進行中」「日本の介入は現地の安定を乱す」「医療支援も伝統の破壊につながる」「既存秩序への挑戦と受け取る」「今後の接触自粛を要請」と、各行に棘が仕込まれている。読み終えた大久保が短く鼻を鳴らした。
「“文明”の名で縄を掛けるのが彼らのやり方だ。今はその縄を引っ張るな。縄が自ら緩むまで、こちらは磨く。足元を」
藤村はうなずき、返書の最後に一行を加えた。「必要が生じた時、貴国と共同で行う道を探りたい」。正面衝突を避け、相手の言葉で宥め、扉を閉ざさせないための言い回しだ。
窓を開けると、庭の楓が若い葉を揺らした。藤村は立ち上がり、椅子の背に手を置いた。
「我々が今日学んだのは、地図には描かれぬ線が世界に満ちているということだ。そこを見ずに足を出せば、足首をひねる。だから今日は、踏みとどまる。踏みとどまって、研ぐ。人と技と作法を」
会議が散じたあと、残った紙束の上に、日差しが一枚一枚を温めていった。理想は消えない。だが理想は、現実の凹凸に合わせて削り、磨き、合わせていくものだ。立夏の光は柔らかく、けれど確かに次の季節への準備を促していた。
初夏の光が差し込む閣議室は、熱を帯びた議論で満ちていた。扇子を仰ぐ者、汗を拭う者、それぞれが現実と理想の狭間で言葉を投げ合う。議題はただ一つ――「アフリカ進出をどうするか」。
大久保利通は、机に肘をつき、低く太い声で切り出した。
「現状の我が国は、満州、朝鮮、台湾、琉球、北海道……アジアだけで両手がふさがっている。さらに欧州列強の警戒を正面から受けている。これでアフリカに手を伸ばすのは、刀を二本差した上で槍を背負うようなものだ。力を分散させれば、どれもが中途半端に終わる」
その言葉に何人かが頷いたが、若い官僚の一人が立ち上がった。目には熱が宿り、声は張り詰めていた。
「しかし閣下。世界は今、再編の途上にあります。欧州の植民地支配は確かに強固ですが、その網の目の外にこぼれ落ちる土地や人々が必ずいる。そこに日本が希望をもたらせば、我らの存在はさらに大きくなるのではありませんか」
彼は手元の資料を掲げた。そこにはアフリカ内陸で流行している病の記録があり、現地の人々が医療に飢えている様子が描かれていた。
「北里博士の技術があれば、これらの病を制圧できます。日本は侵略ではなく、救済の旗を掲げられる。軍艦ではなく薬箱を持って現れる国として、世界に新しい姿を示せるのです!」
会議室にざわめきが広がった。積極派の官僚はさらに言葉を重ねた。
「長期的に見れば資源確保、市場拡大の意義もあります。欧州の独占を黙って見過ごせば、やがてアジアでさえ我らの立場は狭まるでしょう。今の優位を外へ広げなければ、次世代に禍根を残すことになります!」
対する大久保は鋭く切り返した。
「夢を見るのは結構だ。しかし失敗すればどうする。欧州列強は“日本が無謀に手を出した”と嘲り、国際的信用は地に落ちる。財政も人材も底を突き、せっかく築いたアジアの基盤すら揺らぐ。進出は容易に始められても、退くときの傷は深い。……この道は一度踏み出せば戻れぬのだ」
その言葉に沈黙が落ちた。
だが、また別の声が上がる。
「閣下、確かに危険は大きい。しかし“危険だからこそ挑むべき”という考えもあります。義親様の発明のように、誰も信じなかったものが未来を切り開くこともある。我らが独自の技術を携えれば、欧州の真似ではなく、全く新しい統治と交流の形を示せるのでは」
議論は平行線をたどった。慎重派は「今は時期尚早」と唱え、積極派は「好機を逃すな」と迫る。室内の空気は重く、夏の日差しさえ冷たく感じられるほどだった。
その時、藤村が静かに扇を閉じ、全員を見渡した。
「……いずれも正しい。だが、正しさだけでは国は動かせぬ。必要なのは、時と段階を読むことだ」
彼の声は落ち着いていたが、深い響きを持っていた。閣僚たちは口を閉ざし、耳を傾けた。
「我らが学んだのは、理想を掲げるだけでは壁にぶつかり、現実だけを追えば夢を失うということだ。だからこそ、段階を踏む。まずは情報を集め、人材を育て、技術を準備する。今は芽を植えるときであり、果実を急ぐときではない」
藤村の言葉に、大久保も積極派の官僚たちも黙って頷いた。議論は収束し、「慎重な第一歩」という方針が固まりつつあった。
窓の外では、初夏の風が木々を揺らしていた。進むか退くかではなく、耐え、備え、時を待つ――その決断こそ、立夏の現実を受け入れた日本の答えだった。
日が傾き、首相官邸の大広間に再び人々が集った。昼間の閣議で積み残された「結論」を固めるためである。窓から射す夕陽が畳を朱に染め、緊張した顔に影を落としていた。
報告役の陸奥宗光が立ち上がり、一通の文書を掲げた。イギリス大使館からの正式な申し入れである。
「日本がアフリカに関心を寄せていることについて、深い懸念を表明する、とのことです。――“アフリカは既に文明化が進行しており、日本の介入は現地の安定を乱す恐れがある”“医療支援でさえ伝統文化を破壊する危険がある”……と」
読み上げる声は冷静だったが、内容はあからさまな牽制だった。室内にざわめきが広がる。大久保利通は腕を組み、低く唸った。
「つまり、“近づくな”ということだな。言葉を飾ってはいるが、意味は一つだ」
藤村は目を閉じ、深く息を吸った。そして穏やかな口調で言った。
「陸奥、返書を用意してほしい。我らに侵略の意図はなく、当面の進出計画もない。人道的関心のみであり、既存秩序を尊重し、協調を続ける。……ただし、将来の共同研究や協力の可能性を残す文言も添えよ」
その場にいた者たちは頷いた。強気に出れば衝突を招き、弱気に過ぎれば信念を疑われる。言葉は柔らかく、だが芯は揺るがせない――それが藤村の選んだ道だった。
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同じ頃、北里柴三郎は官邸の別室で、研究計画書を机に並べていた。
「現地に入れなくとも、理論研究はできる。アフリカ風土病の文献を集め、気候に適した医療器具を試作し、簡易医療装備の設計を進める。……十年先に備えれば、いつか必ず役立つ」
若い研究員たちは目を輝かせながら頷いた。多言語の医療マニュアル、文化的慣習を尊重する治療法の研究――そのすべては「未来の扉」を叩く準備だった。
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夜の会議に戻り、藤村は閣僚たちに視線を巡らせた。
「今日、我々が学んだのは、理想を掲げるだけでは通じないということだ。欧州の既得権益は盤石であり、そこに無謀に踏み込めば、これまでの成果を危険に晒す。だが理想を諦める必要はない。段階と機会を読むことこそが要だ」
義信は机の余白に「忍耐」と一文字を書き込み、久信は返書に使える柔らかな言い回しを練り、義親は紙片にバオバブの木を描いていた。父の言葉を子らはそれぞれの方法で心に刻んでいた。
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やがて藤村は立ち上がり、ゆっくりと結んだ。
「当面の方針はこうだ。アジアの統治をさらに充実させ、民の満足を高めることを最優先とする。アフリカ進出は長期的課題として研究を続け、人材を育てる。欧州との関係改善を重んじ、適切な機会を待つ。――無限の拡張は不可能だ。だが、慎重な歩みこそが真の成功へとつながる」
静まり返った室内に、誰も異を唱える声はなかった。
その夜、官邸を出ると、立夏の空には大きな月が昇っていた。涼やかな風が頬を撫で、若葉の香りが漂う。藤村は立ち止まり、月を仰ぎながら心の中で誓った。
「焦らず、着実に。民の幸福を守り、未来の扉を開くその時まで――」
その決意を胸に、藤村は歩を進めた。月光に照らされた道は、長く遠く続いていたが、確かに前へ伸びていた。