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280話:(1880年4月/春)春の技術革新

春の陽光が東京を包み、桜の花が霞のように大路を覆っていた。鎌倉での静養を終えた藤村は、ようやく完全に政務へ復帰した。その朝、首相官邸の門には人々が集まり、出仕する藤村の姿を見て口々に「おかえりなさいませ」「よくぞご快復を」と声をかけた。藤村は深く頭を下げ、静かに答えた。「皆のおかげでここに戻れた」。


 その日の午後、官邸奥の戦略会議室には主要閣僚と三兄弟が顔を揃えていた。磨かれた床に映る桜色の光が、会議室全体に柔らかな明るさをもたらしていた。しかし、机上に広げられた欧州からの報告電報は厳しい現実を突きつけていた。


 「欧米列強は依然として我らの成功を脅威と見なし、経済封鎖、外交孤立、軍事威嚇を強めています」慶篤が低く報告した。「鎌倉におられる間も、挑発はむしろ増すばかりでした」


 藤村は頷き、目を細めて地図を見渡した。そこには赤い線で描かれた包囲網が東アジア全体を覆っていた。

 「外交だけでは限界がある。彼らが本気で我らを封じ込めようとするなら、我らは根本的な戦略転換を図らねばならぬ」


 室内に緊張が走った。外圧に正面から立ち向かうためには、ただ防ぐだけでは足りない。自らの力を示し、内から強くならなければならないのだ。


 「内政を世界最高水準にまで引き上げることです」後藤新平が進み出て言った。「外の圧力に揺るがない強固な基盤を築けば、どれほどのプロパガンダも無意味になります」


 河井継之助も静かに賛同した。「住民が満足していれば、外の声は届かぬ。むしろ“日本と共にある方が未来を得られる”と証明できるでしょう」


 藤村は二人を見て大きく頷き、筆を取り机上の紙に五つの地域名を書き出した。



満州


 「重工業を徹底的に強化しよう」藤村の言葉に河井が補足する。「既に製鉄と石炭採掘は欧州並みに進んでいます。ここを東洋最大の重工業地帯に仕立てれば、兵器も機械も内で賄え、外からの供給に頼る必要はなくなる」


朝鮮


 後藤が地図に印をつけた。「教育と文化を欧米本国以上に高めましょう。識字率九割はすでに達成しましたが、今後は高等教育を拡充し、学者や芸術家を次々と輩出します。欧州人が“自国よりも進んでいる”と認めざるを得ない水準に引き上げるのです」


台湾


 「多民族共存の理想郷として世界に示しましょう」と後藤が続ける。「原住民、漢民族、客家が対立せず協力し合う姿を示せば、欧米の“民族を分断し支配する”手法は時代遅れと化すはずです」


琉球


 「東アジア文化の融合地として発展させます」慶篤が口を開いた。「日本と中国、東南アジアの文化が交わり、新しい芸術や学問を生み出す。武力ではなく文化で中心となるのです」


北海道


 黒田清隆と清水昭武が声を揃えた。「ここを寒冷地技術の世界的拠点に。寒冷農法、氷雪を利用した保存技術、極寒に耐える建築――これらを磨けば、北米や北欧すら我らに学びに来るでしょう」



 さらに三大財閥の代表も提案した。「欧米に一切依存しない経済自立圏を築きましょう。アジア域内で完結する貿易網を拡充し、資源も製品もこの圏内で回すのです」


 渋沢栄一が続ける。「金融も独立させます。国際市場に依存せず、自前の通貨と銀行網を拡張する。そして南米やアフリカと直接取引を開拓すれば、欧米の仲介は不要となる」


 会議室には熱気が満ちていた。誰もが「外に頼らぬ力」を明確に描き始めていた。


 その時、藤村は深く息を吸い、窓外に舞う桜の花びらを見つめながら言った。

 「我らの武器は剣ではなく、智慧と技術だ。外交と忍耐はこれまで通り続ける。しかし、それに加えて――世界を変える“創造”を我らが手で成し遂げねばならぬ」


 義信と久信は黙って父を見つめ、義親は瞳を輝かせて小さな手を挙げた。

 「お父さん、僕にもできることがあるよ!だって、馬より速くて、音が静かで、燃料のいらない乗り物を作れると思うんだ!」


 その幼い声に、大人たちは一瞬驚き、そして微笑んだ。だが藤村は真剣にうなずいた。

 「義親……それが君の使命なのかもしれない。次の世代の力を、今こそ形にする時だ」


 桜吹雪の中で、新たな戦略――内政の徹底強化と技術革新による世界変革が正式に決定された瞬間だった。

会議が終わったその夜、藤村邸の一角にある学習室では、義親が机いっぱいに紙を広げていた。まだ六歳の手には大きすぎる羽根ペンを握りしめ、熱心に線を走らせる。そこに描かれているのは、馬でもなく、人力車でもなく、見たこともない形の乗り物だった。


 「馬より速く、音が静かで、燃料はいらない……」

 義親は独り言をつぶやきながら、描いた図を指でなぞった。輪を二つ並べ、細い線でつなぎ、中央には座る場所を描く。大人が見れば単純な自転車の図にすぎない。しかし義親の頭の中では、ただの乗り物ではなく、軍事・通信・救護までも支える万能の道具として形を取り始めていた。



 義信がその背後に立ち、驚きの声を上げた。

 「これが……義親、お前が考えた“馬に代わる兵の足”なのか」


 義親は嬉しそうに振り向き、勢いよく説明を始めた。

 「そうだよ! 馬は餌も水もいるし、音も大きい。でもこの車なら、兵士が自分でこげばいい。音は出ないし、夜でも気づかれない。それに、山道でも壊れないように頑丈にするんだ!」


 義信はしばらく黙って図を見つめた。やがて笑みを浮かべ、肩に手を置いた。

 「……義親、これは軍事史を変えるかもしれない」



 翌日、東京大学の化学・工学研究室を借りて、小さな実験が始まった。北里柴三郎と工学教授たちは、最初は「子どもの遊び」と軽んじていた。しかし義親が特殊合金の配合を説明すると、教授たちは顔を見合わせた。


 「従来の鉄では重すぎる。けれど、ここに少量のクロムを混ぜれば、軽くて強いフレームになるはずだよ」


 六歳の少年の口から出た言葉に、誰もが耳を疑った。教授の一人が試しに計算をすると、確かに強度は増し、重量は半分以下になる。研究室に驚きのざわめきが広がった。


 「……まさか、これほど具体的に理解しているとは」


 北里は微笑み、義親の図面を手で撫でるように見つめた。

 「君の発想は突飛に見えるが、根拠がある。これなら本当に“音もなく走る兵の足”になるだろう」



 試作は夜を徹して行われた。工匠たちが火花を散らし、金槌を振るい、義親はそのそばで何度も小さな声で修正を指示する。「ここをもっと細く」「この歯車は静かに動くように油を混ぜて」。幼い声を誰も笑わなかった。彼の目が真剣であり、的確だからだ。


 数日後、試作機が完成した。艶のある金属のフレーム、太い車輪、特殊加工されたチェーン。義親は小さな手でハンドルを握り、義信に向かって笑った。

 「兄上、行くよ!」


 ペダルを踏むと、試作機は音もなく滑り出した。義親の体は軽やかに前へ進み、工房の中を一周すると、誰もが息をのんだ。


 「五メートル離れれば完全に無音……」教授の一人が呟いた。


 義信も試しに跨がり、走らせた。速度は馬並み、いや平地ではそれ以上。山道を模した斜面でも軽々と登る。

 「義親の自転車は偵察や連絡に最適だ!補給も燃料もいらない。これなら部隊の行動効率が十倍になる!」



 その夜、研究室では臨時の報告会が開かれた。大村益次郎が試作品を見つめ、深く頷いた。

 「これは軍事の革命だ。鉄砲や大砲とは異なる、戦場を根底から変える力を持つ。音を立てず、兵を自在に運ぶ……欧米ですら未発想の兵装だ」


 北里は隣で静かに言葉を添えた。

 「しかも、この構造は単純だ。だからこそ敵に奪われても応用が難しい。だが我らが改良を続ければ、常に一歩先に立てる」


 報告を受けた藤村は、会議室で試作車を見てしばらく黙していた。やがてゆっくりと口を開いた。

 「六歳の子が示した道が、日本の未来を開いた。――義親、お前の発明は軍事だけでなく、民の生活も変えるだろう」


 義親は目を輝かせ、小さな声で言った。

 「僕の自転車は、戦うためだけじゃないよ。みんなが自由に遠くまで行けるようにするためなんだ!」


 その言葉に、大人たちは互いに顔を見合わせ、胸の奥に温かなものを感じた。武力のための道具に留まらず、平和のための乗り物にもなる。六歳の少年が描いた未来は、誰よりも広く、優しかった。

四月半ば、霞がかった春の陽気の中で、試作された軍用自転車はついに実戦を想定した大規模テストを迎えた。場所は多摩川沿いに整備された演習場。そこには義信を筆頭とする若い兵士たちが並び、特別に編成された「自転車部隊」として初めて姿を現した。


 兵士たちが跨がるのは、義親が設計した特殊合金のフレームを持つ銀色の機体。春の日差しを受けて光り、まるで未来からやってきたかのような異様な存在感を放っていた。兵士たちは半信半疑の表情でハンドルを握っていたが、最初の号令が響くと一斉にペダルを踏み込み、風を切る音もなく滑るように走り出した。


 ――その瞬間、見守っていた者たちからどよめきが起こった。


 自転車部隊は馬の部隊に比べて明らかに速く、しかも音がほとんど聞こえない。砂煙も少なく、遠目からは動きが掴みにくい。義信は先頭に立ち、風を切るように川沿いを疾走した。彼の声は風に乗り、後方まで鮮明に届いた。

 「偵察隊、展開!」


 十数名の兵が瞬時に散開し、丘を駆け上がる。馬であれば苦労する急坂も、軽量フレームと強力な歯車が支え、兵士たちは息を切らすことなく頂に到達した。上から見下ろすと、平原を横切る馬部隊よりもはるかに早く配置を完了しているのが分かる。



 観閲台に立つ大村益次郎は双眼鏡を下ろし、深く頷いた。

 「速度、静粛性、機動力……どれも予想以上だ。これほどの戦術的優位は、世界のどの軍隊も持っていない」


 隣で後藤新平が記録帳に走り書きをしながら答える。

 「補給線の効率も飛躍的に高まります。燃料不要、維持費はほぼゼロ。兵站の革命と言ってよいでしょう」


 さらに河井継之助が口を挟んだ。

 「満州の荒野でも使える。鉄道のない地域で、兵の移動や情報伝達を十倍に速められるのは計り知れぬ利点です」



 実験は続いた。


 次は夜間偵察の模擬演習。自転車部隊は灯りを消し、満月に照らされた道を滑るように進む。わずか数メートル先まで近づいても音は聞こえず、見張り役の兵士は全く気づかないまま背後を取られた。演習が終わると、兵士たちは口々に「幽霊のようだ」と震えた声を漏らした。


 最後に行われたのは折り畳み試験だった。義信が号令をかけると、兵士たちは一斉に三秒で機体を折り畳み、背に背負った。整然とした動作は美しく、観覧していた将官たちの目を見開かせた。


 「この機動性なら、森林や山岳でも一瞬で展開できる……」大村が呟いた。



 演習が終わった後、兵舎に戻った兵士たちは口々に感想を述べ合った。

 「馬より疲れない」

 「整備が簡単で、誰でも扱える」

 「音がしないから敵に悟られない」


 中でも義信は、弟の発明を実際に操った実感を込めて語った。

 「義親の自転車は兵士の命を守る。音がしないことで、無駄な戦闘を避けられる。これはただの兵器ではない。戦いそのものを変える道具だ」



 その報告はすぐさま東京に伝えられ、藤村や閣僚たちの前で詳細が発表された。藤村は深く息をつき、静かに言葉を紡いだ。

 「六歳の子の発想が、軍事と民生の両方を変える。これは日本の未来を象徴する出来事だ。――我らの道は剣ではなく智慧であることを、改めて示してくれた」


 北里は横で頷きながら提案した。

 「この技術は軍用にとどめるべきではありません。農村の交通手段、商人の移動、救急用の搬送具……あらゆる場面で民を助けます」


 義親は小さな胸を張って答えた。

 「そうだよ!僕はみんなが自由に遠くへ行けるようにしたい。戦うためだけじゃなくて、楽しくて便利にするためのものなんだ!」


 その言葉に会議室が和やかに笑いに包まれた。閣僚たちは顔を見合わせ、未来に向けての希望を確かに感じていた。



 こうして軍用自転車の革新は、単なる兵器ではなく「平和と発展の象徴」として受け入れられ始めた。民間への応用計画がすぐさま立案され、満州と朝鮮に製造工場を設置する計画が進められる。


 演習を見届けた大村益次郎は、最後にこう結んだ。

 「義親様の発明は、銃や大砲のように命を奪うものではない。むしろ命を守り、無駄な戦を避ける力を持っている。この理念こそ、日本の軍事が世界に示すべき未来なのだ」

自転車部隊の成果が報告されてから数日後、首相官邸では「技術開発戦略会議」が開かれた。桜の花びらが窓から吹き込み、机上の図面の上に散っては消えていく。藤村は静かに口を開いた。


 「我らは欧米の包囲を外交でしのぎ、内政で支えた。しかし、それだけでは足りぬ。世界を動かすのは“技術”だ。義親の発明がそれを証明した」


 会議室に重苦しい空気はなく、むしろ未来を見つめる熱気があった。北里柴三郎が立ち上がり、若き弟子の発想を称えながら提案する。

 「義親様のような天才的直感を活かし、軍事だけでなく医療、農業、通信、あらゆる分野で技術革新を推し進めるべきです。科学の力で民の幸福を保障すれば、欧米のプロパガンダなど霞のように消え去るでしょう」


 後藤新平も強い調子で続けた。

 「軍用自転車の構造は単純です。大量生産が可能であり、農村の交通や都市の物流に革命をもたらします。馬車に頼らず、誰もが自由に動ける社会を築けるのです」


 渋沢栄一は帳簿を叩き、冷静な声で言った。

 「これは経済そのものを変える。燃料を必要とせず、維持費もほぼゼロ。これを広めれば、欧米の石炭封鎖など恐れるに足らぬ。我らは完全自立経済を築ける」



 義親は父の隣で小さな体を揺らしながら、無邪気に言った。

 「僕は軍事用だけじゃなく、女の人や子どもでも使える自転車を作りたい。買い物に行ったり、学校に通ったり、誰でも自由に乗れるやつ!」


 会議室は一瞬静まり、次いで大人たちの笑みが広がった。その純粋な願いこそ、武力や経済よりも強い力を持つと誰もが感じたからだ。


 福沢諭吉が扇子で机を叩き、厳かに言った。

 「教育こそ未来の基盤だ。義親様のような才を一人に終わらせてはならぬ。全国に技術者を育成する学校を設け、次の世代の義親を百人、千人と育てるべきだ」


 西郷隆盛は腕を組み、深い声で付け加えた。

 「技術は刀や銃と違い、民の生活を直接変える。人々が“日本と共にいる方が豊かになれる”と実感すれば、欧米が何を言おうと心は揺らがん」



 その後、各省から具体策が次々と提示された。

•軍事:義親の自転車を基盤に、軽量装備や静音機械の開発を進める。

•医療:北里が率いる研究所で血清療法を発展させ、各地に予防接種制度を広める。

•農業:台湾・琉球の気候を活かした新農法を試験し、飢饉のない社会を目指す。

•工業:北海道で寒冷地用の新素材開発を進め、極地技術で世界を先導する。

•通信:電信線を改良し、将来的には“無線”の可能性も模索する。


 「欧米の包囲網に屈せず、むしろ先へ進む」――その方針は誰もが疑わなかった。



 会議の最後、藤村はゆっくりと立ち上がり、桜吹雪の舞い込む窓辺に立った。

 「義信、君は平和を守る軍事の才を。久信、君は人々を繋ぐ外交の才を。そして義親……君は科学で人を幸せにする道を歩みなさい。三人の力が揃えば、日本は必ず世界を変えられる」


 三兄弟は一斉に頷いた。義信の瞳には決意が、久信の顔には柔らかな笑みが、義親の小さな拳には純粋な希望が宿っていた。


 「僕の自転車は最初の一歩だよ!」義親は力強く言った。「もっとすごい発明をして、みんなを幸せにするからね!」


 その声は春の空に溶け、会議室にいた全員の心を熱くした。



 やがて藤村は振り返り、静かに宣言した。

 「本日をもって、日本は技術立国への道を歩み始める。外交も軍事も重要だ。だが世界を真に動かすのは智慧と技術だ。――我らはそれを武器とし、平和を築く」


 窓外では桜が舞い、春風が未来を祝福するかのように吹き抜けた。欧米の包囲網は依然として厳しい。だが、この日を境に、日本は新たな武器――技術という無限の力を手にしたのであった。

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