279話:(1880年3月/春分)春分の世界的警戒
春分の頃、ロンドンの石造りの街にまだ冷たい風が吹いていた。ガス灯が朝靄の中にぼんやりと揺れ、霧に濡れた石畳には馬車の車輪が深い跡を残している。その陰で、国際政治の命運を決する秘密会議が開かれていた。
場所は、外からは何の変哲もない煉瓦造りの邸宅。だが中に入れば、厚いカーテンが外界の光を遮り、燭台の炎に照らされた長机の周りに欧米列強の首脳が顔をそろえていた。イギリス首相は開口一番、低くも鋭い声で切り込んだ。
「諸君、日本がこの十数か月で成し遂げた成果は、我々の想像を遥かに超えている。彼らの統治手法が我々の植民地に伝われば、インドもアフリカも一斉に揺らぐだろう。支配体制そのものが崩壊する」
フランス大統領は拳を握り、机を叩いた。
「絶対に日本の影響を我が領土に及ぼしてはならぬ。住民に“別の道”を示してはならないのだ。彼らが日本式の平等と福祉を知れば、我々の同化政策は瞬時に破綻する」
ドイツ宰相ビスマルクも眼鏡越しに口を開いた。
「欧州の秩序を守るためには、日本の拡張を封じ込めねばならぬ。さもなくば、彼らの成功が“新しい標準”となり、我々が時代遅れと見なされる」
燭台の火が揺れ、部屋の空気が一層重くなる。列強の首脳たちは互いに目を見交わし、日本の成功が自らの利権と統治を脅かすことを深く共有した。
「問題は時間だ」イギリスの外相が呟いた。「この春が、日本を封じる最後の好機だ」
その言葉に、場にいた誰もが頷いた。秘密会議は、まさに“対日包囲網”の第一歩であった。
秘密会議から数日後、欧州各国の植民地省では矢継ぎ早に緊急対策会議が開かれた。日本の統治手法が「模範」として伝わることを何よりも恐れた彼らは、急場しのぎではなく、長期にわたる締め付け体制を本気で築き上げようとしていた。
ロンドン・ホワイトホールの植民地省。大理石の床に響く靴音の中、厚い帳簿と地図が机の上に散らばる。イギリス植民地大臣は額の汗を拭い、苛立ちを隠さず書類を机に叩きつけた。
「インドに日本の情報が流入することを絶対に阻止せよ!新聞は徹底的に検閲し、港湾の入港船を二重に検査しろ。日本から来る本や冊子は即時押収だ。留学を望む現地の若者はすべて拒否、日本人の入国も厳しく制限せよ。親日的な思想を持つインド人は“模範者”として取り立てず、監視下に置け」
その声は重く、列席する官僚たちは一斉に頷き、羽根ペンを走らせる。地図には赤い×印が刻まれ、日本とインドを結ぶ航路は「遮断」の印で覆われた。まるで見えない鉄の檻が海を跨いで広がっていくようであった。
パリでは、フランス植民地省が異様な緊張に包まれていた。机の上にはインドシナやアフリカ各地からの報告が山積みされている。農民たちが「日本のように自分たちの声を政治に届けたい」と囁いた、教師が「日本の教育制度を研究している」と報告した、そんな断片的な情報が官僚の顔を青ざめさせていた。大臣は机を拳で叩き、声を張り上げた。
「現地で日本に憧れる声が上がっている?馬鹿げている!その芽は即座に摘み取れ。権利要求は一切弾圧、日本式の統治を口にする者は処罰せよ。学校では“フランス文明こそ唯一の未来”と徹底して叩き込むのだ。演劇でも歌でも構わぬ、すべては我が国の威光を称えるために用いよ!」
現地総督たちは一斉に返答した。「従います」と。しかし、心の底では苛立ちと恐怖が入り交じっていた。強権的な同化政策をさらに推し進めることで、逆に住民の心が日本に向かうのではないか――その矛盾を承知しながら、命令には背けない。
ベルリンでは、ドイツ植民地軍司令部が冷たい緊張に包まれていた。壁一面に広がるアフリカの地図には赤いピンが無数に刺さり、司令官は軍靴の音を響かせながら歩み寄った。
「アフリカ植民地の駐留軍を三割増強せよ。徴兵された兵士を現地に送り込み、監視の目を倍にするのだ。現地住民の武器は徹底的に没収し、狩猟用の槍すら許すな。集会や結社は厳禁、違反者は厳罰に処す。村ごとの戸籍を整理し、監視網を一人残らず張り巡らせよ」
その言葉に参謀たちは一斉に立ち上がり、敬礼した。軍靴の響きが石造りの廊下に反響し、会議室は圧迫感に満ちていた。
こうした政策はすべて異なる形を取っていたが、目的は一つだった――日本の影響を遮断し、植民地の人々の耳目から「別の未来」を遠ざけること。
しかし皮肉なことに、抑圧が強まれば強まるほど、住民たちの間で日本への憧れはかえって強まっていった。禁じられた本を求め、遠い海の向こうに想いを馳せる者たち。密かに「日本では貧者も学べる」「日本では官吏が腐敗を罰せられる」と語り合う者たち。地下に潜ったささやきは、鎖で締め付ければ締め付けるほど鋭く伸び、やがて見えぬ根となって広がっていった。
イギリスの官僚は冷たく笑った。「民の声など抑え込めばよい」と。しかしその声は震えていた。パリの大臣は「文明の光で日本を打ち消せる」と語ったが、その目には焦りが宿っていた。ベルリンの軍人は「力で黙らせる」と叫んだが、彼ら自身が力への依存に怯えていた。
ヨーロッパの会議室で描かれた鉄の網は、広大な植民地の空にかかろうとしていた。だがその網目は、思った以上に粗く、そして何よりも――人の心までは縛れないことを、彼ら自身がまだ気づいていなかった。
春分の日のベルリンは、まだ寒気の残る曇天に覆われていた。街路樹の枝は芽吹きの気配を見せず、灰色の石畳には車馬の轍が濡れた跡を残している。その中心、厳重な警備に囲まれた政府庁舎の奥で、列強の代表が再び集まっていた。表向きには「欧州協調の会合」と発表されたが、実際の議題はただ一つ――日本封じ込め作戦の策定であった。
高い天井に吊られたシャンデリアが淡い光を落とし、長机を囲んで並ぶのはイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカの代表。机上には世界地図が広げられ、太平洋からアジアにかけて赤と青の線が幾重にも引かれている。
ドイツ宰相ビスマルクが立ち上がり、低く重い声を響かせた。
「諸君、日本は一年余りで東アジアを束ね、植民地統治の新たなモデルを築いた。これはもはや偶然でも奇跡でもない。周到な政策と実行力による必然の結果だ。――だが、この成功は我々にとって脅威でしかない。今ここで手を打たねば、次の十年で彼らは太平洋の覇権を握り、我らの植民地を揺るがすだろう」
イギリス首相は顎を引き、短く言葉を継ぐ。
「植民地の民衆が日本に倣おうとすれば、インドの秩序は瓦解する。だからこそ、彼らを孤立させねばならぬ」
フランス大統領は机を叩き、声を張った。
「我らが求めるのは協調ではない。共同戦線だ。日本の影響力拡大を阻止するために、列強は手を携える必要がある」
その言葉を皮切りに、各国代表は封じ込めの具体策を次々に提案した。
⸻
第一に挙げられたのは経済封鎖である。イギリス財務大臣が羊皮紙の文書を広げ、細かい字でびっしりと書かれた条項を読み上げた。
「日本との貿易を制限する。まずは繊維や鉄鋼など基幹商品の輸入を妨害し、代替市場を確保する。加えて、日本製品の国際市場での販売を妨げ、価格競争に敗北させる」
次いでフランスの工業大臣が声を上げる。
「技術の流出を断つことも重要だ。電信、鉄道、製鉄、化学――いずれも日本が欲している分野だ。我々は特許供与を一切禁止し、欧米技術者の渡航も禁じる。日本に学ばせぬこと、それが彼らの未来を鈍らせる」
外交孤立策も俎上に上がった。ロシアの外相は口元に冷笑を浮かべながら語る。
「国際会議の場から彼らを外せばよい。日本がいかに正義を語ろうとも、場を与えなければ声は響かぬ。条約の署名も、討議の参加も認めぬことだ」
アメリカ代表は「情報戦」を提案した。
「日本の統治実態を歪めて宣伝する。彼らの改革は表面的なもので、裏では民衆を苦しめていると喧伝すればよい。新聞記事、パンフレット、宣教師の口から偽情報を流布し、世論を誘導するのだ」
最後にドイツ参謀総長が重々しく結論を下した。
「軍事圧力も不可欠だ。太平洋で大規模な合同演習を行い、彼らに“いずれ戦火を浴びる”と認識させる。恐怖こそ最大の抑止力だ」
こうして列強は、経済・技術・外交・情報・軍事の五本柱から成る「日本封じ込め作戦」を密約として結んだ。
⸻
しかし彼らはそれだけでは満足しなかった。各国の植民地で展開する「反日プロパガンダ」が次なる議題となった。
イギリスの植民地次官が口を開いた。
「まずインドにおいては、『日本も結局は侵略者にすぎない』という印象を徹底させる。彼らが平等を謳おうと、我々が“真実”として語れば民衆は惑う」
フランスの宣伝担当官は続ける。
「アフリカやインドシナでは、『日本の統治は表面的な見せかけにすぎない』という偽情報を流布する。表向きの繁栄の裏で、民衆は苦しんでいる――そう語らせればよい」
ドイツの将校は冷ややかに提案した。
「親日感情を持つ住民は、見せしめに処罰せよ。処刑や投獄をもって“日本に憧れることは死を意味する”と教えるのだ」
さらにアメリカ代表は締めくくった。
「欧米統治の方が安定している、という刷り込みを強化せよ。日本のような“新参者”に未来はないと信じ込ませるのだ」
こうして、反日プロパガンダは各地で展開されることとなった。新聞、教会、学校、軍営、すべてが利用され、住民の心に「日本への憧れ」を芽生えさせまいと必死の工作が仕掛けられた。
⸻
会議が終わる頃、窓の外では冷たい雨が降り始めていた。雨脚は強まり、石畳に黒い模様を描いていく。ビスマルクは地図を見下ろし、重い言葉を吐いた。
「日本は新たな時代を作ろうとしている。だが、我々はそれを許さぬ。世界の秩序は我らが作ったものだ。彼らには“模範”ではなく、“反逆者”の烙印を押す」
列強の代表たちは静かに頷き、椅子を引いた。密約は固まり、世界は見えない戦いに突入していった。
だが、彼らがどれほど封じ込めを画策しても、アジアの大地で芽吹き始めた希望の芽を完全に摘み取ることはできなかった。その小さな芽は、やがて鎖を破って大きな森へと育つことを、誰も知らぬふりをしていたのである。
ベルリンの密約が動き出してから、海はまず音で変わった。三月の潮がまだ冷たい横須賀沖に、遠雷のような汽笛と規則正しい号令が重なり、霧の向こうに黒と白と鋼の艦影が重なってはほどけた。漁師は櫂を止め、子どもは波止場の影に隠れ、港の役人は帳簿に汗を落とした。だが鎌倉の別邸では、海鳴りを背に、薄い電報紙が藤村の前に静かに重ねられていく。
「横須賀沖に連合艦隊。長崎沖にも示威行動。台湾灯台付近、測量名目の航行」――慶篤の送る電報は短く、余白に大久保の筆で「挑発に応ぜず」と朱が入る。北里が時刻を見計らい、一日に二度だけ封を解く。脈拍と眠りの深さが保てる範囲で、必要なものだけを目に入れるためだ。
藤村は起き上がり、南の縁に地図を広げた。義信が持ち込んだ小さな木針で、港と砲台と避難所を結ぶ。少年の声は静かだった。「兵の配置は変えますが、砲口は動かしません。見せるのは規律と生活です」。彼の案で、沿岸の兵舎では朝の点呼と整列を港から見える位置に移し、補給路の荷駄は滞りなく通るよう道幅が清められた。避難経路の札は浜で風に鳴り、村の老人がそれを見て「こういう音は、心に効く」と呟いた。
やがて、沖の艦に鎌倉発の使者が小舟で向かった。礼装の将校ではない。水と食料、そして礼状。「貴国の航海の安全を祈る。岸の民に不安なきよう、互いに規律を保とう」。返礼の旗と短い礼の砲声が返る。撃たずに交わすやりとりに、海風の味が少し変わった。
経済の圧力は、港の影で音もなく忍び込んだ。欧州市場での日本製品の拒否、国債の評価引き下げ、資源の供給制限。だが鎌倉からの布告は簡潔だった。「外からの川が細れば、内の水路を太くすればよい」。三大財閥は各地の共同基金を拡張し、満州の穀、朝鮮の繊、台湾の糖、琉球の中継、南洋の香辛と鉱を結ぶ“内の輪”を強めた。慶篤の電報に「横浜市場、鎮静。『アジアの船は入る』の言が広まる」と記される。鎌倉の座敷で藤村は一度だけ頷き、返電は二文字だけだった。「継続」。
外交の矢は、同時に五本放たれた。清朝は満州に宗主の過去を持ち出し、ロシアは北方の線を指でなぞり、欧州は東南アジアに口を入れ、朝鮮の独立は議題に乗せられ、琉球の地位にはにわか仕立ての論者が群がった。久信は鎌倉の座敷で円卓を描き、五つの紙片を順に重ねた。「清には互恵。ロシアには海の分け合い。欧州には共同開発。朝鮮には後ろ盾。琉球は二つの署名」。彼の言葉を陸奥が電信の文語に変え、各地に飛ばす。返ってきたのは、対立ではなく“場を持とう”という色の文面だった。議席を用意すれば、怒声は次第に人の声に戻る。鎌倉の柱の影で、久信はそっと安堵の息をついた。
義親は小さな机で瓶を並べ、ラベルに「血清」「通信」と稚い字で書いた。彼の提案で、最新の血清療法の配合や、改良した電信機の回路図が各国の学会に一斉に公開された。敵であろうと味方であろうと、病と無知に境はない。欧州の科学者からの礼電に、藤村は「科学は共有の財」とだけ返す。その紙片を持って走り出す六歳の足音に、座敷の空気が温む。
圧力は収まらぬ。琉球の沖を白い船腹が塞ぎ、台湾の灯台の光が測量の物差しにされ、朝鮮の沿岸に空砲の響きが繰り返される。だが各地からの報が伝えるのは、不安ばかりではなかった。満州の市場では掲示板に仕入原価と手数料の上限が毎朝貼り出され、名と理由が並ぶと苛立ちが薄れた。朝鮮の講堂では老人と若者が向かい合い、まず三十分、相手の話だけを聞く座が定着しはじめた。台湾の聖域には維持基金の札が立ち、三つの言葉で同じ意味が刻まれた。琉球の掲示板には、王の印と若者議会の署名が並び、港務員が袖章を指でなぞって誇らしげに笑った。
そんな報告を一つずつ読み、藤村は短く朱を入れる。「承認」「継続」「試行」。決裁と呼ぶにはあまりに軽い。だが枠と呼吸を揃えるには十分な重さだ。北里が脈を取り、「今日は少し歩幅を伸ばしましょう」と言うと、南の縁から浜へ出る。砂の上に残る足跡は昨日より半寸広い。義信がそれに気づき、看護表の余白に小さな丸をつける。久信は浜の小屋で漁師と挨拶を交わし、その短いやりとりが町の背骨になることを肌で知る。義親は貝殻の断面を紙に写し、ページの隅に「今日の海のにおい」を描く。
圧迫の手は、南へも伸びた。バタビアやマニラでは、親日派の商人が突然連行され、店は板で打ち付けられた。そこへ届いたのは、巨大な抗議文ではなく、小さな薬箱だった。日本からの「熱と咳に効く配合」、防虫布、簡易濾過の道具。敵意の濁流に対して、静かな清水をひと匙ずつ落とす。これが効くのに時間はかかる。だが、効かないものはもっと多い。
鎌倉の夜、別邸の障子に雨が走る。藤村は灯を落とし、耳だけで海を聞いた。会議室の重苦しさ、港のざわめき、学会のざわめきが、それぞれ波の層になって届く。脈は整っている。明日はもう少し長く歩けるだろう。北里が「よく眠れています」と囁くと、廊下の向こうで三兄弟の寝息が揃った。
翌朝、電報が一束届く。連合艦隊の示威は期日を過ぎて次第に間延びし、経済封鎖の輪は内の流通の太さに押し返され、各地の“円卓”には新たな顔が増えた、と。孝明天皇への奏上は鎌倉から送られた。「陛下、欧州は包囲網を組みました。だが我らは挑発に乗らず、住民の生活を守り、長期戦に備えます」。返ってきた御言葉は短い。「正しい道を歩め」。それは海より静かで、海より深い響きだった。
春分の光が、ようやく庭の梅の輪郭を柔らかくした。圧力は続く。だが、撃たない強さ、見せる規律、積む実績、広げる円卓、分け合う科学――五つの細い糸が、見えない綱に変わりつつあった。綱はまだたわみ、時にきしむ。けれど、ほどけそうには見えなかった。藤村は立ち上がり、縁から一歩、砂へ踏み出した。歩幅はまた半寸、広がっていた。
鎌倉の別邸。春分の日の朝は、潮風に梅の花の香りが混じり、庭先には淡い光が差し込んでいた。藤村は北里の許しを得て、短時間だけ政務用の座敷に姿を見せた。そこには慶篤、大久保、陸奥ら主要閣僚が集まり、緊急の報告を携えていた。机上には各地から届いた電報が束となり、赤と黒の文字が混じり合って危機の色を示している。
「陛下への奏上を整える時が参りました」慶篤が低く告げた。藤村はゆっくりと頷き、墨を含ませた筆を取る。まだ手に残る疲労を押し隠すように、一文字一文字を刻んでいった。
⸻
奏上文(抜粋)
「臣、藤村。欧米列強は我が国の成功を警戒し、経済・軍事・外交あらゆる方面で包囲網を形成しております。挑発は激しさを増しておりますが、我らは挑発に応ぜず、民の幸福を第一とし、忍耐をもって応じております。これよりは長き戦いとなりましょう。然れども正義の道を歩む限り、必ずや理解者は現れましょう」
墨の乾く音だけが部屋に満ちた。奏上はすぐに東下する使者の手に託され、翌日には皇居に届いた。
⸻
皇居・紫宸殿。孝明天皇は奏上を受け取り、沈黙ののち、重々しい声で言葉を紡がれた。
「藤村よ、よくぞ病を押して奏上した。列強の圧は強かろう。だが案ずるな。正しい道を歩んでいれば、必ず理解者は現れる。焦るな。着実に歩みを進めよ」
その御言葉は電報で鎌倉に届き、座敷に並ぶ閣僚と三兄弟の胸に深く染み入った。藤村は静かに目を閉じ、深い呼吸を整える。
⸻
その頃、各統治地域からも支持の声が次々と届いていた。
満州:奉天の市場に集まった商人と農民が、横断幕に大書した。「どんな圧力があっても藤村様を支持する」。民族の違いを超えた署名がその下に並んでいた。
朝鮮:漢城の新設校舎で、子どもたちが歌を合唱した。「学べることは幸せ、父のような国に感謝」。教師は電報にその光景を記し、東京へ送った。
台湾:山岳地帯の集会所で、原住民と漢民族、客家が共同声明を発表。「我らの土地と文化を尊重し、平和をもたらした恩を忘れない。困難を共に乗り越えよう」。
琉球:那覇の港で王室と民衆が共に祈祷を行い、海に花を流した。「伝統を守りながら発展できるのは藤村様のおかげ」と若者代表が涙ながらに演説した。
どの報告にも共通していたのは、「外の脅威が迫るからこそ、日本と共に在りたい」という民衆の意思だった。
⸻
鎌倉の夜、藤村は縁側に出て月を仰いだ。潮騒の音が遠くから寄せ、背後では三兄弟が灯火の下で学習帳を広げていた。義信は地図に細かい注釈を入れ、久信は外交文例を練習し、義親は顕微鏡に覗き込んで紙片に絵を描いていた。
藤村は静かに呟いた。
「困難な時代が続くかもしれない。だが、我らは正しい道を歩んでいる。必ずや世界は変わる。その日まで共に進もう」
庭の梅は夜気に香りを放ち、春の兆しを告げていた。
⸻
春分の決意
1880年春分、日本は欧米列強の包囲網に直面した。しかし、藤村と仲間たちは恐れず、住民の信頼を背に、長期戦への覚悟を固めた。正義と愛情に基づく信念は揺らがない。長い道のりの先に、必ず世界が変わる日が来ると信じて――。