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273話:(1879年9月/晩夏)『晩夏の次世代成長』

明治十二年九月。

 晩夏の風は、昼はなお熱を含みながらも、夕刻にはどこか秋の気配を連れてくる。

 江戸城内・特別訓練場。白砂を敷いた馬場の向こう、松の緑は深く、的台の前には新調の旗が静かに揺れていた。

 見渡せば、剣の間、兵棋へいき卓、地図室、そして学房へと通じる回廊――知・理・体を同じ場で鍛えるために造られた、藤村家の“学びの砦”である。


 藤村総理大臣は、五師匠――福沢諭吉・大村益次郎・北里柴三郎・後藤新平・千葉栄次郎――と並び、三兄弟の前に立った。

 「この一年、お前たちは驚異的に伸びた。今日は総仕上げの確認だ。各自の“いま”を、ここに刻め」

 短い言葉に、場の空気が引き締まる。


 最初は体。千葉が竹刀を置き、素足で白砂に立った。

 「義信、前へ」

 十二歳の義信は一呼吸で間合いを詰め、木太刀を抜くでもなく、ただ構えの“重心”だけを示した。千葉の口角がわずかに上がる。

 「剣は斬るためではない。折れぬ心身をつくるためだ。……合格」

 続いて久信、そして義親。十一歳の久信は踏み込みと退き際がしなやかで、五歳の義親は体躯こそ小さいが、視線の運びに曇りがない。

 「よし。三人とも、“身体で嘘をつかぬ”ことを学んだな」千葉は短く言い置き、剣の間をあとにした。


 理の刻。地図室へ移ると、壁いっぱいの地図に最新の鉄道・港湾・検疫線が朱と藍で描かれている。

 大村が黒棒で満州の稜線を叩く。「この稜線と補給線、匪賊の動き。――義信、住民被害ゼロで鎮圧せよ。三手、十五分」

 義信は兵棋卓のコマを置き、淡々と三本の線を引いた。

 「一、情報線で頭目の移動を先に止める。二、夜間の遮断で包囲を見せず、三、明け六ツに“食”を先に入れる――降る道を作る。戦後は郷勇編入と定給」

 「よろしい」大村の声は低く短い。「戦わずに勝ち、治めて終わる。それが“指揮”だ」


 次は言。外務式の卓で、陸奥から転送された想定照会が配られる――欧州二国の権益がぶつかった港湾問題、現地宗教祭祀と衛生規定の衝突、移民枠配分の調整……。

 後藤が問う。「久信、あなたなら何から着手する?」

 十一歳の久信は、最初に紙束ではなく人の列を見た。

 「祭祀は“心の水路”です。衛生規定は目的を共有すれば形を変えられる。祭の道筋を一尺広げ、煮沸所を“奉納湯”として設け、僧と医師の共同布告にします。港湾は両国が同額出資、帳簿は公開。移民枠は家族帯同を優先して、現地職の養成校と**つい**で出します」

 後藤は目を細めた。「制度は人の顔を見て動かす。――よく見えている」


 学房では、北里が硝子皿と簡易顕微鏡を並べた。

 「義親」

 五歳の少年は静かに手を洗い、琉球の井戸水、台湾の湿地水、満州の雪解け水を順に覗いた。

 「これは……煮沸でよくなります。これは石灰で沈めてから布で濾す。これは……銅鍍めっきの管を通すと“匂い”が減ります」

 北里は頷き、別の小瓶を示す。「この粉は?」

 「野菜の粉と豆の粉……“栄養の足りないご飯”に混ぜると、病気になりにくくなります」

 福沢が思わず笑う。「**数とことわり**で世界を見ているな」

 義親は首をかしげ、「お薬づくりは、お料理みたいで楽しいです」とあどけなく笑った。


 そして最後は、五師匠と藤村の“総見”だ。

 福沢が口火を切る。「この一年、机上の学問は“現場のことば”になった。三人とも、理念を行いに降ろす力を得た」

 大村は短くまとめる。「義信、多地域統合防衛の眼が育った。『勝って治めて終わる』指揮を忘れるな」

北里は柔らかに。「義親、科学は人の隣に置く。数字の裏に人の体温があると知ったね」

 後藤は帳簿を叩く。「久信、制度は透明と対話だ。数字で信を作り、言葉で心を束ねよ」

 千葉は竹刀を軽く打った。「三人とも、折れぬ芯が通った」


 藤村が一歩進む。晩夏の涼風が障子を揺らし、旗の影が畳の上を滑った。

 「この一年で、お前たちは“それぞれの道”を見つけた。

  ――義信。地図は紙ではない。命と暮らしの配置図だ。線を引くときは、人の息づかいを思え。

  ――久信。制度は形ではない。人の不安を減らし、誇りを傷つけない形を探し続けよ。

  ――義親。数字は冷たくない。誰かを守る道具だ。手を洗い、確かめ、遊ぶように工夫せよ」


 三兄弟は同時に一礼した。返す声は短く、しかし迷いがない。

 「はい」


 その瞬間、遠くで太鼓の合図が鳴り、演習場の旗が高く揺れた。

 この一年で身につけたもの――戦わずに勝つ知恵、人の心をほどく術、数と理で世界を温める工夫――が、三つ巴のように絡み合い、次代の形を描き始めている。

 晩夏の夕光は、白砂も、竹刀も、地図の朱線も同じ色に染め、訓練場の空をゆっくりと金色へ傾けていった。


 藤村は胸中で短く祈る。

 (この成長を、次の一年で**“国の力”**に換える)

 涼風が過ぎ、松の梢がさやいだ。江戸城の晩夏は、静かに、しかし確かに次世代の鼓動で満たされていた。

外務省の窓に晩夏の朱が差し込んでいた。長机の上には、港湾権益の衝突、祭祀と衛生の対立、移民枠の配分といった三件の照会文が積まれている。陸奥宗光は眼鏡を持ち上げ、机の端に立つ少年を見やった。


 「久信君、これら三件を一つの解にまとめてみなさい」


 十一歳の久信は、机の上の紙よりも、まず人の顔を見た。互いに譲らぬ二国の公使、祭礼を司る長老と衛生官、子を抱いた移民志願者の妻。しばし考え、口を開いた。


 「港は共同出資と共同運営、そして帳簿の公開です。争いは第三者監査で解決します。祭りは心の水路。衛生は目的を同じくできる。行列の道を一尺広げ、煮沸所を奉納湯として置きます。僧と医師の共同布告で意味を整えれば、誰も反発しません。移民は家族帯同を優先し、到着地に夜学と託児所を設けます。雇用主の負担は税の控除で返し、負担が誇りに変わる仕組みにします」


 陸奥は小さく笑った。

 「制度は書式ではなく順番だ。まず敵を作らず、次に数で納得させ、最後に言葉で心を整える。よく見えている」


 ―――


 数日後、久信は漢城の民政局にいた。机の上には「不満票」が並んでいる。「煮沸で味が変わる」「巡査が威圧的」「祭の道が狭い」。久信は票を地図に刺した。同じ路地に三つの不満が重なるのを見て、すぐに判断した。


 「道幅が狭く、井戸は一つ、巡査の詰所は行列の曲がり角……配置が人を苛立たせています」


 彼は路地に白墨を走らせ、祭の行列が膨らむ地点の壁を一尺削り、詰所を半町ずらす案を示した。


 長老が眉をひそめる。「祭礼の威は下がらぬか」

 「下がりません。奉納湯を行列の先頭に置けば、清めは厚くなります。広がった道は屋台に充て、祭の賑わいを増します」


 三日後、行列は滞りなく進み、煮沸所には列ができた。巡査の苦情は消え、代わりに落とし物の届け出が増えた。西郷総督は太い声で笑った。

 「人の誇りを傷つけず、不安を減らす。統治はそこからだ」


 ―――


 台北の多民族協議所。円卓には原住民の首長、漢の郷紳、客家の商人、そして衛生・教育・税務の官が集い、空気は重かった。議題は森林利用、寄付の偏り、学校の教授言語。


 久信は優先順位を逆にした。

 「まず学校です。初等は二言語併用、高等は目的別。母語で深く学び、共通語で広く学びます。寄付は可視化です。奉加帳を掲示し、中央が等額を上乗せする。出した人が誇れる形にします。森林は禁じるのではなく順番をつける。聖域は縄で囲い、祭祀の紐を増やします。商用は季節ごとに割当を抽選し、苗床を設けて伐採と植林を対にします」


 原の首長が呟いた。「折らず、流す……川の作法だ」

 後藤は帳簿を叩いた。「数字と作法が同じ頁に並んだ。よくやった」


 ―――


 那覇の新港。琉球の使節は王室への敬意と住民の所得増という二兎を求めていた。

 久信は、王の印を押した港務規定を掲示板の最上段に貼り、その横に王妃の刺繍図案を制服の袖章として採用した。


 「権威は見える場所に、文化は触れる場所に。働くことが王国を飾ることに繋がります」


 漁師が袖章を撫でて笑った。

 「王様の印の下で、俺たちの稼ぎが増えるんだな」


 ―――


 東京に戻ると、陸奥が新たな外交照会を手にしていた。

 「二国の公使が印紙税を巡って譲らん。同額出資・同票決でも膠着だ」


 久信は迷わず答えた。

 「第三の利益を用意します。印紙税の一部を港湾労働者の夜学基金に。争う二者以外に利益が落ちれば、双方が譲った顔を立てられます」


 陸奥は机を指で叩き、笑った。

 「相手の体面が落ちずに済む道――これが外交の核心だ」

東京大学の化学研究室。窓から差す晩夏の光が、薬品棚の硝子瓶を赤や金に輝かせていた。

 まだ五歳の義親は、小さな背で高い机に向かい、顕微鏡を覗いている。指導に当たる教授や助手たちは最初、子どもの遊びと半信半疑で見守っていた。だが、義親が口にした言葉は、誰の予想をも超えていた。


 「この土は鉄が少なくて、野菜が育ちにくい。石灰を混ぜるとよくなります」


 顕微鏡を覗きながら淡々と言う姿に、教授は思わず眉を上げた。実際、分析器で測定すると彼の指摘通りであった。


 義親は次々と試料を扱った。満州から送られてきた土壌、台湾の湿地の水、琉球の薬草。彼は直感的に「何が足りず、どう補えばよいか」を言い当てる。まるで数字や反応式ではなく、目に見えぬ色や匂いを感じ取るかのようだった。



 北里柴三郎もその場に立ち会っていた。彼は小瓶を掲げ、義親に示す。

 「これは熱帯病の患者から採った血清だ。どうすれば役立つと思う?」


 義親は一瞬考え、笑顔で答えた。

 「これを少しだけ弱めて、人に入れたら……病気にならずにすみます。薬と同じで、“少しずつ慣れる”のがいいんです」


 場内はどよめいた。これはまさしく血清療法の発想であり、専門家ですら議論を重ねている最先端の理論だった。

 北里は深く頷き、「発想の柔らかさが未来を開く」とつぶやいた。



 義親が実際に小さな成果も示した。

 ・米ぬかと豆粉を混ぜた栄養補給剤――子どもの体格改善に効果。

 ・灰と植物の汁で作った簡易的な水質改善剤――村落の井戸を清浄化。

 ・香草を煎じて得た液を布に塗り、防虫効果を持たせる試作品――農村で好評を得る。


 義親はそれを「お料理みたいで楽しいです!」と屈託なく言う。大人たちが驚嘆する中、彼にとっては遊びの延長にすぎなかった。



 教授陣は顔を見合わせた。

 「五歳児の直感でここまで……」

 「理論の裏付けはまだだが、感覚が研究者を凌ぐ」


 北里は静かに言った。

 「義親殿は“数式を超えて物質を感じ取る”稀有の才をお持ちだ。私たちはそれを磨くだけでよい」



 江戸城に戻ると、福沢が義親に問いかけた。

 「科学とは何だと思う?」


 義親は迷いなく答えた。

 「みんなを元気にする工夫です。ご飯をおいしくしたり、水をきれいにしたり、病気を治したり……楽しいことが増えるのが科学です」


 その言葉に、大人たちは思わず笑みをこぼした。

 幼き天才の直感は、難解な理論よりもはるかに純粋で力強かった。

晩夏の夕刻。江戸城内の大書院には、三兄弟と五師匠、そして藤村総理が一堂に会していた。

 障子越しに入る光は柔らかく、長い影が畳の上に伸びている。


 最初に口を開いたのは福沢諭吉だった。

 「義信、久信、義親――三人とも、それぞれの分野で芽を出し、花を咲かせ始めている。理念を学び、現場で形にした。これは理想的な育ち方だ」


 大村益次郎は腕を組み、義信に視線を向けた。

 「義信殿はすでに軍事指導者の器を備えた。戦って勝つだけでなく、治めて終わる。その眼を失わなければ、国防を安心して託せる」


 勝海舟は久信を見て、にやりと笑った。

 「おぬしの外交センスは天性のものだ。相手の立場を瞬時に読み、誰も傷つけぬ道を見せる。国際社会において、日本の顔となる日も遠くあるまい」


 西郷隆盛は義親の頭に大きな手を置き、穏やかに言った。

 「義親殿の探求心は純粋だ。薬も水も食も、人を笑顔にするための工夫と捉えておる。そうした心が、やがて科学技術を大きく育てる」


 北里柴三郎はうなずき、「すでに片鱗を見せている。未来の研究は彼の直感が導くだろう」と付け加えた。



 最後に藤村が立ち上がった。

 「お前たちの成長が、日本の未来を照らしている。それぞれの道で世界に貢献し、民を守れ。父としてではなく、一国の長として、それを望む」


 三兄弟は一斉に頭を下げ、それぞれの声で答えた。


 義信は真っ直ぐな目で。

 「日本とアジアの平和を守ります」


 久信は穏やかに微笑み。

 「世界中の人々が仲良くできるよう、力を尽くします」


 義親は無邪気に両手を握りしめ。

 「みんなが元気になる薬をたくさん作ります!」



 大書院に笑い声が広がり、晩夏の涼風が障子を揺らした。

 三人の声はまだ幼い。しかしその言葉には、確かに未来を切り拓く力が宿っていた。

 藤村は胸中で静かに誓う――この成長を国の力に変え、日本をさらに遠くへ導こう、と。

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