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272話:(1879年8月/盛夏)盛夏の医学革命

明治十二年八月。

 東京の空は真っ白な陽射しに焼かれ、路地には陽炎が立ち昇っていた。

 湿気を含んだ風は肌にまとわりつき、蝉の声は耳をつんざくほどに響く。

 川を行き交う蒸気船からは黒煙が立ちのぼり、橋の上では学生服姿の若者や洋装の紳士が汗を拭きながら歩を急いでいた。

 彼らの目的地はただ一つ――東京医学大学の新講堂である。


 今日、ここで国際医学会議が開かれる。

 招かれたのは欧米列強の医学界を代表する権威たち、さらにはアジア各国からの医師団。

 人類の歴史に新たな章を刻むかもしれない一日だと噂され、新聞記者も大勢詰めかけていた。



 講堂は新築の白壁に覆われ、正面には各国の国旗が掲げられていた。

 内部はぎっしりと椅子が並び、白い麻のスーツを着た英米の代表、黒い礼服に勲章を下げたドイツの医務局員、赤い学士帽を被ったフランス学士、さらに清国の長衣をまとった医師団や、ロシアの軍医までもが席についた。

 夏の蒸し暑さで扇子やハンカチが絶えず動き、汗が光る額がそこかしこにあった。


 聴衆席には、日本の医学生や看護人が緊張した面持ちで並び、後方には新聞記者たちが鉛筆を走らせる準備をしていた。

 空気は期待と疑念が入り混じり、ざわめきが絶えなかった。



 やがて壇上に、一人の青年が歩み出た。

 白衣をまとい、背筋をまっすぐに伸ばしたその姿は堂々としていた。

 北里柴三郎、齢わずか二十六。

 その若さに、場内からは思わずざわめきが起こった。


 「若すぎる……」

 「経験が浅いのではないか」


 欧州から来た老練な医師たちは互いに目を交わし、口元に皮肉な笑みを浮かべる者もいた。

 しかし北里の瞳は揺るぎなく、壇上に立ったその姿は、場の熱気をも呑み込むほどの確信を漂わせていた。



 彼は深く一礼し、声を張った。


 「諸君、感染症に国境はありません!」


 その一言に、場のざわめきは途切れた。

 「ペストもコレラもマラリアも、山や海で立ち止まることはない。

  ゆえに、人類の健康を守るためには、国境を越えた連携こそが必要なのです」


 若々しい声だった。だが、その響きには年齢を超えた重みがあった。

 聴衆の視線は次第に笑いから真剣へと変わっていった。



 北里は続けた。

 「この十か月間、我々はアジア各地で驚異的な成果を挙げました。

  満州ではペストを根絶し、平均寿命を五年延ばしました。

  朝鮮ではコレラによる死者を九割減らし、台湾ではマラリアとデング熱を制圧しました。

  琉球では熱帯病による死者を八割減少させ、東南アジアでも感染症の犠牲者が急減しています」


 壇上のスクリーンには、各地域の罹患率と死亡率のグラフが映し出された。

 どの線も急角度で下降している。

 老練なドイツ代表は目を見開き、フランス学士は思わず隣席に身を寄せ、イギリスの医務総監は顎に手を当てた。

 「信じがたい……だが事実だ」

 誰もが心の中でそう呟いた。



 北里は熱を込めて語った。

 「これは偶然の産物ではありません。

  衛生管理、公衆教育、予防接種、地域に根ざした研究――それらの積み重ねがこの成果を生んだのです。

  そして最も重要なのは、人々が自ら協力してくれたことです。

  医学は権力の道具ではなく、人々と共に歩む道なのです」


 若さに似合わぬ落ち着きと、理路整然とした言葉。

 やがて会場の空気は完全に変わっていた。

 最初の冷笑は影を潜め、代わりに熱心な眼差しが壇上に注がれていた。



 そして北里は一呼吸置き、未来を見据える眼差しで宣言した。


 「しかし、これらは序章に過ぎません。

  感染症との戦いは、一国の努力だけでは勝てない。

  人類全体で挑まなければ、再び疫病は広がります。

  だからこそ、私はここで提案します――世界保健機構の設立を!」


 その言葉は、夏の熱気を切り裂く稲妻のように会場を貫いた。

 最初はどよめき、次に沈黙、そして嵐のような拍手。

 青年の声が、歴史を動かした瞬間であった。

場内の拍手が静まると、北里柴三郎は壇上の机に置かれた厚い報告書を開いた。

 青年の顔には汗が滲んでいたが、その瞳は燃えるように輝いていた。



アジア各地域での成果


 「まずは、この十か月間に我々がアジア各地で収めた医学的成果をご報告します」


 北里の背後に掲げられた大きな地図には、赤と青の印が各地域に点じられていた。

 赤は過去の感染症流行地域、青は現在の状況を示している。

•満州:

 「ペストを完全に撲滅しました。平均寿命は五年延び、死者数は半減。

  かつて恐怖に震えていた街は、今や工場と学校の活気に包まれています」

 観客席のドイツ代表が驚きの声を漏らした。

•朝鮮:

 「コレラによる死亡率は九割減。予防接種と煮沸指導の徹底が功を奏しました」

 フランス学士は隣の記者に「九割だと?信じられぬ」と小声で言った。

•台湾:

 「マラリア、デング熱の制圧に成功しました。湿地の排水と防蚊網の普及、さらに血清療法を導入した結果です」

 ロシアの軍医が目を細め、「熱帯病を…わずか一年で?」と呟いた。

•琉球:

 「熱帯病による死亡率を八割減少させました。

  港ごとに医療所を設け、食生活の改善も徹底しました」

 清国の代表は黙り込み、扇子で顔を覆った。

•東南アジア:

 「各地で感染症死亡率が大幅に減少。特にバタビアとシンガポールでは、国際貿易の安全が確保されました」

 イギリスの医務総監は大きく頷き、「我々の植民地でも応用すべきだ」と声をあげた。



革新的治療法の開発


 北里はさらに厚い報告書から、新しい治療法の項を開いた。


 「各地域の風土病研究の成果として、次の技術を開発しました」

1.熱帯性感染症に対する血清療法

 「抗毒素血清の応用により、マラリアやデング熱の症状を劇的に軽減。

  患者の生存率は三倍に跳ね上がりました」

 ドイツの学者たちは立ち上がり、食い入るように資料を見つめた。

2.栄養失調改善のための食事療法

 「米と魚に依存する食生活に野菜・豆類を加えることで、免疫力を向上。

  朝鮮と台湾での児童の体格改善は顕著でした」

 フランス代表は「食事が医療になるのか」と感嘆した。

3.気候に適応した公衆衛生システム

 「湿地帯では排水路を整備し、乾燥地域では水源衛生を重視。

  地域ごとに異なる対策を講じることで、流行の芽を摘むことができました」



聴衆の反応


 北里が一つ一つの成果を語るたびに、会場はどよめき、やがて拍手が湧き上がった。

 当初は「若すぎる」と侮っていた欧米の権威たちも、今では真剣な眼差しでメモを取り合っている。


 イギリス代表はつぶやいた。

 「日本は、帝国を軍ではなく医療で築こうとしているのか……」


 フランス学士は声を上げた。

 「これぞ人類の希望だ! 我らのアフリカでも応用できる!」


 ドイツの代表団はざわつきながらも拍手を送り、ロシアと清国の医師たちは無言で頷いた。



 北里は最後にこう締めくくった。

 「これらは人類が協力すれば可能だという証明にすぎません。

  次の段階は――世界規模の連携です」


 その言葉に、場内は再び熱気に包まれた。

 誰もが、この青年がただの研究者ではなく、新しい時代の扉を開ける先導者であることを悟っていた。

熱気に包まれた講堂。

 北里柴三郎は一呼吸置くと、ゆっくりと壇上を歩き、聴衆に視線を巡らせた。

 彼の額には汗が光っていたが、その眼差しは落ち着いていた。

 若さゆえの熱ではなく、未来を見据えた確信がそこにあった。



 「諸君、私はこの場で新たな提案をいたします」


 会場にざわめきが広がる。

 北里は言葉を切らさず続けた。


 「感染症との戦いは、一国だけの努力では足りない。

  満州が勝利しても、隣国でペストが再流行すれば、再び流れ込む。

  台湾がマラリアを克服しても、他の熱帯地帯が放置されれば意味がない。

  だからこそ、私は提案する――世界保健機構の設立を!」


 瞬間、会場はざわつき、記者たちは一斉にペンを走らせた。



構想の理念


 北里は黒板に「世界保健機構(仮称)」と大きく書き、チョークを握りしめて説明を始めた。


 「目的は四つです。


 一、感染症の国際監視体制を確立すること。

  流行が起きた時、すぐに世界中の医学者に警報を発し、対応を連携させる。


 二、医学知識と技術の共有。

  各国で開発された治療法や衛生手法を、壁なく交換し合う。


 三、発展途上地域への医療支援。

  薬も医師も足りぬ地に、先進国が責任を持って届ける。


 四、国際的医療人材の育成。

  世界中の若者が共に学び、研究し、現場に立てるようにする」


 若き声は高らかに響き、熱気で揺れる空気を貫いた。



参加国への利益


 北里は視線を欧州代表団へ移した。

 「この仕組みに参加する国々は、多くの利益を得ます。


  第一に、最新医学技術の共有。

  感染症対策の成果が即座に各国へ伝わる。


  第二に、感染症早期警報システム。

  流行が起こる前に警告が届き、被害を最小限に抑えられる。


  第三に、医療人材の国際交流。

  若い医師が国境を越えて学び、技術と理念を持ち帰る。


  第四に、研究費用の分担。

  一国では到底賄えぬ大規模研究も、分担によって可能になる」


 聴衆席のドイツ代表は腕を組んだままもはや反論せず、フランス代表は椅子から前のめりに身を乗り出した。

 イギリスの医務総監は、書記に素早く指示を出している。



会場の反応


 最初に声を上げたのは、年配のアメリカ人教授だった。

 「青年よ、夢物語ではないか? 各国の政治的利害が絡めば、理想は潰される」


 北里は即座に答えた。

 「だからこそ、医学者が旗を振るべきなのです。

  政治の思惑を越えて、人類の命を守る共同体を作らねばなりません」


 会場は静まり返った。

 年齢に似合わぬ胆力に、老練な学者たちですら口を閉ざした。


 やがて、フランス医学アカデミーの学士が立ち上がった。

 「私は賛同する。人類の健康は国境を越える――この青年の言葉に、我らの未来を見た」


 続いてドイツ帝国医務局の代表が頷いた。

 「理想主義ではない、実績がある。満州のペスト撲滅は誰も否定できぬ」



 場内は一気に熱気を帯びた。

 「我が国も協力を」

 「研究費を分担する用意がある」

 「学生を派遣したい」


 声が次々と上がり、議場の熱気は夏の蝉声をもかき消すほどだった。



 北里は最後に静かに言葉を結んだ。

 「今日、この東京で、我らは人類共通の敵に立ち向かう誓いを交わしました。

  この構想は夢ではなく、今始めなければならぬ現実です。

  どうか共に歩んでください」


 その瞬間、会場は嵐のような拍手に包まれた。

 若き二十六歳の声が、世界を変える新しい秩序を呼び覚ましたのである。

嵐のような拍手がしばし続き、やがて会場は次の段階に移った。

 世界保健機構構想を前にして、各国がどう応じるか――その瞬間である。



欧米列強の参加表明


 最初に立ち上がったのはイギリス医務総監だった。

 白髪混じりの長身の紳士は、杖を軽く鳴らしながら壇上に歩み出た。

 「我が国の広大な植民地では、疫病が人々を蝕み続けている。

  日本の医学技術は、住民の健康を守るために不可欠だ。

  イギリスは、この世界保健機構に積極的に参加する」


 続いてフランス医学アカデミーの代表が立ち上がった。

 「本日、この場で正式に表明いたします。フランスは世界保健機構に加盟し、研究資金も人材も惜しみなく提供する。

  この理念こそ、我らが探し求めていたものだ」


 ドイツ帝国医務局の代表も椅子を蹴るように立ち上がった。

 「我が国は効率と制度を重んじる。

  日本の実績と我らの研究を融合させれば、世界に比類なき成果を挙げられる。

  ドイツもまた、この国際機構に加わる!」


 拍手と歓声が湧き上がった。

 欧米列強が次々に賛同を示した瞬間、医学の場が国際政治を凌駕したのである。



意外な参加者


 しかし驚きはそれだけではなかった。

 ざわめきの中から、重い声が響いた。


 「ロシア帝国も、参加を希望する」


 会場に緊張が走った。

 軍服を着たロシアの軍医が一歩前に出る。

 「我らは極東で日本に苦杯をなめた。

  だが医学においては、敵も味方もない。

  シベリア開発には、疫病克服が不可欠だ。日本の成功を学びたい」


 清国の代表団も、沈痛な面持ちで立ち上がった。

 「我が国は日本に領土を奪われた。だが、民の命に国境はない。

  清朝政府は、この機構に協力する。民衆の健康のために」


 会場がざわめき、やがて静まり返った。

 敵対国までもが参加を表明したのだ。

 誰もが「医学の力が政治を越えた」と感じていた。



国際医学ネットワークの始動


 壇上に立つ北里は、震える手を押さえながら、深く礼をした。

 「ありがとうございます。

  本日、人類史上初めて――病と戦うための国際機構が誕生しました」


 拍手が再び巻き起こる。

 その音は、蝉声のように途切れず、講堂全体を揺らした。


 北里は最後に、若い声で締めくくった。


 「今日ここに集った我々は、国や言葉を越えて、一つの誓いを立てました。

  病気と貧困のない世界を築くこと。

  この世界保健機構の旗の下、共に歩みましょう。

  人類の健康のために!」


 その言葉に、全員が立ち上がり、嵐のような拍手が送られた。

 若き二十六歳の声が、歴史を動かした瞬間だった。



 東京の夜は蒸し暑く、街路のガス灯がゆらめいていた。

 だが、国際医学会議を終えた人々の顔には、不思議な清涼感が宿っていた。

 「未来は変えられる」

 そう信じさせる力が、確かにこの盛夏の東京から世界へと広がっていた。

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